冬の話 9
時は零時。
ずらりと並んだ伏見の千本鳥居は、夜に世界を変える。数多の狐火が浮かび上がり、照らされた箇所が紫色へと滲む。これよりは、人が入れぬ時間。狐の宴場だ。
冥界に繋がっているのでは、と疑いたくなる参道を桐人は歩く。
腕の楔は外されたが、代わりに足が拘束された。相変わらずじくじくと神威は抜かれており、その影響かひどく眠たい。だが歩みを止めようとすると、後ろから下位の御先が無言の圧を発した。
やがてたどり着く、裁きの間。
重厚な金細工の施された部屋に、立ち込める白檀の香り。部屋の正面には、御先稲荷の中でも上位の社に勤める狐たちがいるのだろう、三つに区切られた御簾があった。それぞれ隠されているが、奥には微妙に色合いの違う狐火が浮かんでいる。
傍には傍聴席があり、そこに鼎の姿もあった。
誂えられた下座の席に、桐人は正座する。
裁きなどと言っているが、有罪無罪の争いではない。桐人にいかなる罰を与えるか決めるための――いわば処刑台だ。
「まずは、名を」
右奥の御簾から、静かな声が響く。これから一方的な弾圧をするというのにしきたりは守るのか、とおかしく思いながら桐人は口を開いた。
「桐人と申します。家名はありません故、ご容赦を」
「……桐人、罪状を読み上げる。汝は天狐候補であった尾崎恭一の護衛についていたが、候補とその家人を殺害、その場を数名の御先が確認している。以上に相違はないか」
「……」
一瞬、鼎の方を見る。
彼は相変わらず端正な横顔を見せたまま、ただ静かに目を伏せていた。ここで奴の名を出すのは容易い。先ほど聞いたことを洗いざらい暴露しようか、とも考えた。
(……)
いま、この絶対的に劣勢の場で、誰が桐人の言葉を信じるというのか。
それにもう一つ、真実を明らかに出来ない理由もある。
まもなく時は満ちる。
その時まで、ここにいる誰にも、それを知られる訳にはいかない。その秘密を守り抜くためには、真実を封じたまま、桐人が堕ちるしかなかった。
桐人は言葉を口に含み、静かに目を瞑った。その脳裏に三咲の最後の顔が浮かぶ。
悲しそうな、苦しそうな。
最後にあんな顔をさせてしまったのは申し訳ないと思ったが、一縷の望みもあった。
彼女を苦しめていたクラスメイトも、叔母も、ようやく原因を探り当てて排除することが出来た。今彼女の傍にはあのいけすかない黒狐と、そのシタもいる。
非常に不満だが、『人間としての三咲』を守らせるなら、彼らは適任だろう。
彼女はこれでもう、この世界に関わりを持つことはなくなる。
それが良い。それが正解だ。
「――一切に、相違ございません」
どうか、どうか。
君よ、幸せに。
そんな桐人の願いは、スパァンと勢いよく開かれた障子の音によって、粉々に砕け散った。振動の余韻を感じながら、桐人は伏せていた頭を上げて振り返る。
「――ちょ、っと、待って、ください!」
そこに現れたのは幻ではなく――三咲本人だった。
三咲は吐き出した息を整えながら、一歩一歩畳の間に足を踏み入れた。
正面には御簾がかった間があり、奥にとんでもない威圧感が鎮座しているのが分かる。だがここで怯んではいられない、と臆せず前を見た。
久しぶりに見た桐人は少し痩せており、仕立てのよいスーツは土と擦り傷だらけになっている。白狐の面も汚れており、酷い環境に置かれていたのだろうと三咲は心を痛めた。
彼が面の下で、いかなる顔を浮かべているのかは分からない。
三咲もまた、どんな表情をすればよいか迷っていた。
「……」
無言のまま、三咲は桐人の隣に膝をつく。そのまま正座すると、背筋を伸ばして正面を見据えた。内臓が、心音と共に張り裂けそうだ。
そんな三咲の肩に、桐人の小さな囁きが落ちた。
「なんで、来た」
「えっと、氷坂にお願いして転移? っていうのを何回かしてもらって……」
「あほ、方法ちゃうわ、言うたやろ」
僕はあんたの親の仇なんやで、と桐人が消えそうな声で紡ぐ。その声に三咲はしばらく黙っていたが、そっと目を伏せた。
一方、突然の訪問者に驚いたのは狐たちだ。
ざわざわとした騒めきの中、強い声がぴしりと場を制す。
「静粛に! 人の身よ、ここに立ち入ることは許されぬ。早急に立ち去れ」
「私はこの桐人の【シタ】。そして件の尾崎恭一の娘です」
その言葉に更に雑言は増す。無理もない。全員殺害されたと言われたはずの、尾崎の生き残りがその場に現われたのだから。
「静粛に! 静粛に! ……人の身よ、それは真か」
「どういうことだ? 尾崎の一族は、そこにいる桐人に殺されたのではないのか」
「生き残りがいるとは聞いていないぞ!」
人の者ではない声が飛び交う。複雑な周波数を孕んだそれは、三咲の耳では明確に言葉として認識できない。だが含んでいる意味だけは何となく分かる、そんな不思議な感覚だった。
完全なる異世界に来てしまった、という恐怖に怯えながら、三咲は静かに嵐が過ぎるのを待つ。
怖い。
でも、まだ逃げられない。
「皆静かに。我らの声は人の子にはつらかろう。――これならば良いかな?」
突如中央の御簾からよく通る声が広がった。その言葉通り、先ほどまでの不快音ではなく、きちんとした人間の声色が聞こえる。耳鳴りのような違和もない。
「はい。ありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ悪かったね。それで、君は何をしにここに来たのかな?」
三咲はこくと息を飲む。ここからが本題だ。
「私の父――尾崎恭一の事件について、真実を知りたいと思って参りました」
「ほう、真実かい?」
「はい。私は事件当時とても幼く、事件の詳細を知りません。尾崎の一族であれば、その真実を知る権利はあるはずです」
「……それが君にとって、聞くに堪えないことであってもかな?」
「……覚悟はしています」
その返事に桐人が深く俯いた。一方で御簾越しの誰かは、ふむ、と少し躊躇いながらも言葉を続ける。
恭一が天狐候補であったこと。その護衛をしていた桐人が、恭一の首に刃を突き立てていたところを、複数の狐が目撃したこと。本来であればすぐに罪を償うべきであったが、桐人は逃げ続けそれを拒否し続けてきたこと。
妻である若葉も同じ場所で殺害されており、三咲に至っては遺体すら見つけられなかった。代わりに大量の血痕が残されており、その量から死亡が確実視されていたことが包み隠さず伝えられた。
「以上がことのあらましだ。君にとって辛い話だと思うが……」
「……いえ、きちんと聞くことが出来てよかったです。ありがとうございます」
三咲は静かに息を吐き、心を静める。
天狐候補だった父。その父を妬んで桐人が殺した。邪魔になったであろう妻とその子どもにも手をかけた。
それだけを聞けば、なんて非道な話だろうと誰もが思う。
だが、それよりも先に三咲は――桐人という神使を知ってしまった。




