冬の話 8
「……目、覚めた?」
その声に桐人はうすらと面の下の目を押し開けた。
体は未だ力が入らず、起き上がることは出来ない。ここに入る時、両腕を後ろにくくられ、付けられた錠が継続的に神威を奪っている。
ひどい風邪と熱の状態で、延々と長距離走させられている感じだ。
「……鼎か」
「うん。よく戻ってこれたね、兄さん」
何とか身を起こそうと体をよじる。ガリと白狐の面のふちが床を削った。やや乱暴に反動をつけて上体を起こすと、壁にもたれ胡座をかく。
荒い息を吐く桐人に、鼎はにこりと微笑みかけた。
「扇森から絶縁されて、力も根こそぎ奪われて……実体すら保てず仮狐の面を着けるなんて、……序列二位だった兄さまとは思えないね」
「そやな……僕自身、信じられへんわ」
「そりゃ護衛すべき天狐候補を殺しちゃえば、そうなるよね」
「……僕は殺ってへん」
三咲には、どうしても言えなかった。
真実を語れば、恭一が三咲を殺そうとした事実も言わなければならなくなる。
父親から殺されかけたなんて、彼女に伝えたくなかった。元を正せば桐人が全ての原因なのだ。恨まれるのは自分だけでいい。悲しい事実は、知らなくていい。
それに、下手に三咲の存在を上に知られたくない。何故なら――
「確かに、兄さまはやってないってぼくは信じてる。でも上は完全に兄さまがしたことだと思ってるし」
「……」
「本当に……残念だよね。――単に、結界が破られただけだっていうのに」
「……?」
顔をあげ、鼎を見る。
力の弱かった彼は、どこかの小さい子どもが【シタ】となり、共存していると風の噂で聞いた。とは言え、かなり幼い時点での契約だったので、ほぼ鼎としての性質しか残っていないようだ。
人に限りなく近い狐、といったところだろうか。
鼎の目――狐特有の、複雑な光彩が揺れる。
「兄さまの結界が破れて、たまたまそこに集まっていた悪鬼に食われる……こんな悲劇ってないよ」
「……どうして、それを」
誰も知らないはずだ。
それを知っている人間は、あの時全て死んだのだ。
後から来た狐たちは、現場の状況を見て桐人の罪ととらえた。
だから誰も、桐人以外は、真実を知るはずがないのに。
「さあ……どうしてかな。ぼくもその日偶然、近くにいたからかも」
ぞわり、と全身の毛が逆立つ。
鼎は何を言っている。何を言おうとしている。
「でも、天狐候補って言っても所詮は人間体だよね。妻とか娘とか、挙句関係のないよそ者すら、気にしちゃって」
「……鼎、お前、なにを」
「別に? ぼくはただ言っただけ。"結界を自分で破れば、何もしない"ってさ」
ガシャン、と二人の間を隔てる格子が揺れた。
自由のない両腕に構わず、立ち上がった桐人が鼎に向かい突進したのだ。わずかにずれた狐面の下から、桐人の威嚇にも似た荒い息が漏れる。
そんな桐人をどこか楽し気に見つめながら、鼎は寸前まで顔を寄せた。白金に見まがう金の髪が揺れる。
「言ったんか! それを!」
あの日、たまたま悪鬼や異形が集まっていた。その最中に結界が解けてしまったから、恭一は犠牲になったのだと思っていた。
だが、それがたまたまではなかったとしたら。
とある狙いで集められ、さらに恭一を陥れるため、結界を外させた者がいたのだとしたら?
天狐候補の恭一が、並みの狐に負けるとは思わない。
だが、天秤の反対側に彼の家族がいたとしたら?
彼はきっと自ら結界を外すだろう。
「兄さまの為でもあったんだよ? 尾崎恭一がいなくなれば、天狐候補は序列二位の兄さまになる。それなのに、どうして罪をかぶって、逃げ続けたの?」
「お前……許さへんよ」
「……残念だよ。昔の高潔で他者を何とも思わない、圧倒的な兄さまが好きだったのに」
鼎はちえ、とすねたように笑って見せる。
その仕草にすら動じることなく、桐人は牢越しに鼎を睨みつけた。
「まあいいや、それより聞きたいことがあってさ」
「……」
「御霊を、どこにやった?」
チャリ、と桐人を拘束する鎖が音を立てた。
「あの日、兄さまは一度扇森に戻った。その時に御霊を持ち出したよね」
「……」
「外身はさっき見てきたけど、中に御霊はなかった。どこにやったの?」
「……誰が言うと」
今度は桐人がくく、と笑う。その声が気に入らなかったのか、鼎は強く右足で牢を蹴った。強い衝撃が伝い、桐人は体勢を崩してしまう。
床に這うようにして身を丸める桐人を一瞥し、鼎は楽しそうに笑った。
「まあいいや。どうせもうすぐ兄さまの審判が始まるし。それが終わってから、ゆっくり探すね」
「……どうしてや、鼎」
その問いに、鼎は少しだけ考えると、寂しそうに笑った。
「ぼくは力がなかったから、人に寄生して生きるしかなかった。それでも兄さまに気づいてほしかったのに。……あなたは気づいてくれなかった」
「……?」
「ぼくは傍にいました。貴方が尾崎三咲を大切にしている間も、ぼくは……」
やがて、審判の始まりを告げる鐘が鳴った。
鼎は身を返しその場を離れる。
残された桐人は体を横たえたまま、祈るように面の下の瞼を閉じた。




