??のはなし 4
「……桐人、三咲を連れて、逃げて」
千切れちぎれの若葉の言葉に、血が染みる。聞き取りにくいそれを確かに聞き取ると、桐人は瞬時に意識を戻した。神経を研ぎ澄まし、三咲を腕に抱え上げる。
あまりに多くの悪鬼や野狐の匂いがする。それも酷く濁った臭気だ。その発生源はゆっくりとこちらへ近づいて、何かを呟いていた。
周囲を探る。玄関は塞がれている。
出るなら窓か、他に仲間がいたら。だめだ、悩んでいる暇はない。
「……きり、ひと」
若葉を襲ったそれが、言葉を漏らした。
その声は高い音と低い音が混じったような、不快な音だったが、桐人には誰のものかすぐに分かった。
「……さき」
「――恭一さん?」
「み、さき……きり、ひと、……」
その言葉を認識した瞬間、桐人の思考が止まる。
世界中の音がなくなってしまったかのような空白に、桐人は絶望した。
繰り出された二撃目が、桐人の左腕を掠める。何か只ならぬ事態を察したのか、三咲がぐすぐずと涙をこぼし始めた。まずい。はやくしないと。
だが三撃目、まっすぐに二人を捉えたその神威は、桐人と三咲に直撃した。
桐人は自身の大部分の神威が失われたことを、壮絶な痛みと共に理解した。一方で腕に掴んだ三咲だけは離すまいと、腕が千切れそうなのも構わず抱きしめる。
近くの窓を蹴破り、ボロボロの状態で逃げ出す。
血が目に入ってうまく視界がとれない。
三咲は泣き声一つ上げないが大丈夫か、無事なのか。
「……」
振り返ると、恭一であったなにかは自身の神威に押しつぶされそうになっていた。そこら中の悪意や妬みが彼を襲い、うめき声をあげている。
桐人はすぐに視線を戻し、冷たい三咲の体を抱きかかえたまま高く跳躍する。
足が外れそうだ。頬が剥がれそうだ。徐々に失われていく自分の体に叱咤しながら、以前一度だけ訪れた、三咲の祖母の家へと向かう。
さく、と一人分の足跡が続く。
雪の積もる中、祖母邸の玄関に三咲の体を横たえると、桐人はその血まみれの手を彼女の体に添えた。ぶわ、と小さな光源がいくつも浮かび上がり、傷口の周りを覆う。
だが光の粒はすぐに収束した。元になる生命が無ければ、この術は意味をなさない。
それを理解した桐人は、動かない三咲を再度抱きかかえ、きつく抱きしめた。
(……どうしたらいい? どうしたら、三咲を――)
その時、桐人の脳裏に一つの映像が浮かび上がった。
扇森の最奥に飾られている日本刀――御霊。あの神威があれば。
桐人はしばらく逡巡していたが、やがて扇森の家へと転移を開始した。
桐人が再び尾崎の家に戻ってきた時、既に恭一は息絶えていた。
神威を喰われ、体は砂のように崩れ落ちていた。介錯のつもりで、桐人はその首筋にそっと刃を落とす。繋がれていた赤い組紐が遅れてぽさりと落ちた。
そんな桐人自身も神威の大部分を失い、消滅寸前の状態だった。
意識が朦朧とするなか、目を瞑る。
(――結界が切れた)
あの時、恭一に張っていた結界が切れたのを感じた。
絶対に切れないように毎日重ねていたはずだったのに。彼自身が野狐の誘いを受けたか、いや、彼は天狐候補だ。並みのことでは結界を解かないだろう。
であれば、結論は一つだ。
(――僕の、力不足で――)
桐人の結んだ結界が不十分だった。それ以外の結論は無い。
ガラスの破片が散らばるリビングに膝をつく。
雪が絶え間なく吹き込み、恭一の亡骸を攫って行く。
僕のせいだ。
僕のせいで、恭一も、若葉も。
全て殺してしまった。
僕が。
やがて桐人の痕跡をたどったのか、御先の面々がぞろぞろと狐火と共に姿を見せ始めた。
「これは」
「これはこれは」
「どうしたことよ、扇森桐人」
「守護すべき天狐候補はおろか、その家人まで殺めるとは」
「しかるべき処置を」
「しかるべき処置を」
「まて、扇森より、嫡男桐人とは廃絶したとの触れがあるぞ」
「なんと、見捨てられたか。難儀な」
扇森の家は、失態を犯した桐人を捨てた。
このままでは桐人は天狐候補と家人殺害の罪にとらわれてしまう。それはだめだ。まだ、それだけは。せめて――彼女が十八になるまでは。
桐人を捕らえようと近づいた神使達を一蹴する。
痛みで全身が剥がれ落ちそうだ。すでに神威はほとんど残っていない。
「多少傷つけてもかまわん、やれ」
襲ってくる神使をかわし、噛みつく。だがすぐに殴られ、床に血反吐を吐きながら、桐人は彼らの隙を探る。
以前の自分が見たら、なんて無様なと言いそうな有様だったが、桐人は運よく彼らの手から逃れた。這う這うの体で逃げ出し、必死に追っ手を撒く。
雪の中を走る。肺が、心臓が、砕ける。
血管を針が流れているかのようだ。もうだめだ。
でも扇森からは絶縁され、尾崎の家には戻れない。
逃げる場所がない――つう、と桐人の頬に涙が落ちる。
ついに人型が維持できなくなり、獣の形に戻される。
使い晒した雑巾のようになった桐人は、ひとところの石段にたどり着き、気絶するようにそのまま意識を失った。
「……おや、こんなとこに狐が」
その声にうすらと目を開く。優しそうな御仁がそっと桐人の体を抱え上げ、石段をよたよたと上がっていくのが分かった。僅かな上下が心地よい。温かい。いい匂いだ。
「ほら、元気出しなさい。もう少しだから」
御仁は高齢なのか、ゆっくりゆっくりと休みながら登っていく。そうしてたどり着いた先は、以前恭一と共に訪れた古びた神社であった。
あの時はあれだけ酷いことを言ってしまったのに、どうして、と桐人は思う。
だが神威の消耗が激しすぎたのか、桐人は再び意識を手放し、そのまま昏々と眠り続けたのだった。




