??のはなし 1
――あれは、朱色の鳥居に雪が降り積もる季節だった。
「桐人、お前は天狐候補の護衛人に就くことが決定した」
「……」
生まれてからずっと、天狐になるために修行を重ねてきた。
だからそう言われた時、自分は絶望と怒りで暴れまわるのではと思っていたが、実際は違っていた。
心は思っていた以上に静謐だった。
何の波紋も生じない水面のようで、濁ったその下は何を飼っているか分からない、と親族からよく揶揄された。
自分はいつからか、大切なものを無くしてしまったのだろうか。
それすらも、桐人には分からなかった。
「……あにさま」
「何て顔をしている、鼎」
「だって、護衛人って……」
泣きそうな顔の弟を見る。
だがそんな様子を見ても、桐人の心は何一つ震えることはなかった。弟はなにをそんなに悲しんでいるのだろうか。――ああ、天狐に選ばれなかったことを悲しんでいるのか。
護衛人に選ばれた時点で、候補としては完全なる二番手。
自分は、選ばれなかったのだ。
あれは、境内の桜が少しずつ緑の葉を伸ばし始めた季節だった。
天狐候補の家に着いた時も、桐人は何も感じなかった。
事前に聞いていた情報によると、オサキモチの人間らしい。並みいる天狐候補を差し置いて選ばれた人間の天狐候補。相当に力が強いのだろう。
過去に天狐候補の機嫌を損ね、魂魄ごと消された護衛人もいたと聞く。
自身もそうなる可能性があると認識しつつ、その恐怖を感じることもなかった。ただ使命を果たす。それだけが、扇森から桐人に課せられた命令だ。
指定された時間。
出迎えを期待していたわけではなかったので、誰もいないのを当たり前に受け止め、失礼しますと呟くと桐人は玄関の扉を開いた。
「本日より、護衛人を仰せつかりました。扇森桐人と――」
四角四面な名乗りを挙げる。
だがその途中で何やら奇妙な匂いに気づいた。なんだこれは。邸で使用人がしていた焚火のような、来客が燻らせていた煙管のような。
桐人は鼻をひく、と鳴らすと思わず顔をしかめる。
するとようやく桐人の来訪に気づいたのか、奥からぱたぱたと足音が近づいてきた。
「あっやだ、あなたー! 桐人君きちゃったわよー」
「えっほ、ほんまに!」
しかめ面のまま、出迎えに来た女性を見上げる。長い髪を一つに結んで、深緑のエプロンをしたその女性は、桐人を見るとにっこりと笑った。焦げ臭さの中、何故か柔らかい良い匂いが鼻を掠めた。彼女の匂いだろうか。
導かれるままに家に入る。通された先は台所で、護衛対象である天狐候補はそこにいた。
その手には雪平鍋が握られており、困ったようにこちらを振り返る。
「あちゃ~間に合わんかったかあ」
「ていうかお鍋! 焦げてるから!」
「え? え、あ、あああー!」
反対側のコンロにかけていた鍋を見て絶叫する。慌てて女性が駆け寄ったものの、二人でぎゃいぎゃいと騒いでいた。
桐人はいままで体験したことのない喧騒に、どう対応したらいいのか分からず、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。扇森の家では、料理をすることもなかったし、家族が声を荒げて騒ぐこともなかったからだ。
「あーごめん、桐人! そこの棚から皿だしてん!」
「え、あ、はい」
突然呼ばれ、隣にあった食器棚を開ける。すると詰め込まれ過ぎていた食器たちが、雪崩のように崩れ落ちてきた。その様子に振り返った二人が再度絶叫する。
「桐人君ー!」
「あかんー! 掘り起こせー!」
数分後、騒動紀食器層から発掘された桐人は、ようやくダイニングテーブルで向かい合う二人に挨拶をした。
「改めまして、扇森から来ました。桐人と申します。今後は護衛人としての責務を……」
「うん、聞いとうよ。これからよろしゅうね」
「……」
なんだか思っていた天狐候補と違って肩透かしを食らった気分だ。
確かに纏う神威は澄み渡っており、御先の狐たちの多くの加護があるのは分かる。
だが目の前にいるのはへにゃと笑う、なんだかもさもさした髪の男だ。隣に座る奥方も、困ったような笑顔を桐人に向ける。
「ごめんなさいね。この人ちょっと抜けてるとこあるから、護衛も大変かもしれないけれど」
「いえ、それが私の務めですので」
「桐人はえらいなあ、僕が子どもの時はそんな言葉よう言えへんかったわあ」
「……自分は狐ですので、おそらく貴方よりは長い年月を生きているかと」
「あ、そやったね」
あはは、と笑う姿を見て、これが本当に天狐候補なのかと桐人はわずかに眉を寄せていた。だがきらきらと輝く黄金のお寿司が並んだ途端、思わず目を見開く。
たくさんの稲荷ずし。漬物。お味噌汁。それらが慣れた様子で広げられていく。
「とりあえず、今日からよろしくということで」
「本当は厚揚げもあったんだけど、このひとが焦がしちゃったから」
「あ~ほんともったないことした……」
落ち込む天狐候補に、優しく笑いかける奥方。
これが天狐候補・尾崎恭一と、その妻である若葉との出会いだった。
黴の匂い。
冷たい土が頬に触れる。
上手く力が出ない。
もう少しだけ、眠る。




