夏の話 2
ぜはー。
ぜはー。
「体力ないなぁ。そんなでたどり着くんか」
「ちょ……っと、無理、かも」
「はあ、僕先行くわあ」
ザッ、と木の枝が大きくしなり、葉が擦れる音が続いた。
右に左に、目には見えない何かが木々の合間を抜けて登っていく。あっという間にいなくなったその気配に呆然としながら、今なお眼前に続く石段を見上げた。
年季の入った石造りで、角の部分はどこも欠けて丸くなっている。ひび割れからは苔が溢れ出しており、平らな部分を見つける方が難しい。そんな石の階段がずらりと頂上まで続いている。一体何段あるのだろうか。結構な角度と段数が備えられている。
「えっ、ま、待って、……」
季節はまもなく夏を迎えるであろう、六月初旬。
ただし気温だけは既に夏日を迎えているらしく、湿度と相まって十分すぎる不快指数をたたき出していた。
額から滑る汗が目に入って痛い。首から流れる汗は襟口に吸われていく。重い体をぎしぎし言わせながらなんとか右足をあげる。膝が痛くて悲鳴を上げているかのようだ。あと十段、五段、と這うようにして階段を上る。
かれこれ一時間近くかかっただろうか。最後の一段を踏みしめ、そのまま倒れこむ。
かいた汗は既に冷え切っており、背中が冷たい。土まみれになりそうだったが、それを気にする余裕すらなかった。
しばらくすると呼吸が落ち着きを取り戻し、ごろんと仰向けになってみる。
既に遠くの山の端は夕日の残り香に染まっていたし、反対側にはちらと輝く星も見えた。さあと地面に吹く風も心地よい、目をつむると夏の匂いがする。
ざわざわと新緑の揺れる音、心地の良い疲れ、成し遂げた達成感、そして――
「――おっそいわ」
「うわあ!」
ちっという舌打ち。目を開くと、そこにはいつもの狐面が彼女を覗き込むようにして立っていた。夕暮れ時に眺めるには、実に不気味なお面である。
「たかが五百段上るのになに一時間近くかけとんね」
「ごひゃくだん⁉」
「明日からはこれ往復三回や」
「おうふくさんかい!」
我ながらあほな返事だなあと思いつつ、そう言わずにはいられない。一回上るだけで死にかけているのに、これを往復三回しろと。無理だ。死んでしまう。
「せなら都合ええやん。死にたかったんやろ、あんた」
「……」
そう言われるとぐうの音も出ない。
口を塞いでしまった彼女をよそに、狐面は見下ろしていた顔をあげ、踵を返した。離れていく彼の姿を目で追い、ゆっくりと体を起こす。
藍、朱、紅、さまざまな色が匂いたつ夕刻の空の下、彼が足を進める先には小さな鳥居があった。ただし色は褪せ、しめ縄もほつれている。
(……神社?)
ここは神社へ続く石段だったのか、とようやく気付く。立地の悪さと石段の多さが災いしてか、あまり参拝客はいないようだ。
痺れる足を曲げ、なんとか立ち上がる。一瞬くらっとしたが、何度か瞬きをし、体勢を整えた。
狐面の後を追い、参道を歩く。
なんだろう。すごく古くて、懐かしいような、不思議な感覚がする。
いつだっただろう。小さい時父親に連れられてきた場所とよく似ている。
あれは、何の時だったのだろうか。
「あんた、神社行くことある?」
「……初詣とか、七五三で行ったことは、あるような……」
「神社って、客商売なんや」
そういうと狐面は賽銭箱にそっと指を伸ばし、こちらを振り返った。大切そうに撫でているそれは、かなりの年代物で、あちこち酷く汚れている。荒らされた傷なども痛々しい。その奥にある拝殿に飾られた五色の布も色落ちし、うすらと面影が分かる程度だ。
「たくさんの人が来ぃはれば、神としての格も上がる。でも、うちはこんなや」
「うちって……」
「僕はここの神様に仕えとう、神使や」
「……はあ」
人間じゃないと思っていたけど、本当に人間じゃないっぽい。どうしよう。帰りたい。またあの石段降りるのか。うわーい。
「まだ帰れへんよ」
「……」
心の声を読まれ、静かに閉目する。
もしかしたら私、やっぱりあの時瀕死になったのかもしれない。今はきっと病院のベッドで点滴に繋がれていて、その痛みがこの全身の疲労に置き換わっているのだと。いまここで見て聞いていることは全て夢なのだと。リアルな夢だ。匂いや三六〇度視界が楽しめるなんて。VRすごい。
「何ほうけとんの」
「いたいいたいいたいいたい」
肉厚の頬をつねられる痛みで目が覚めた。手触りのいい黒の革手袋が、器用に彼女の頬をつねりあげている。その力はまさに一点集中しており、生理的な涙がぼろぼろと横に落ちた。
ぱ、と放された後も、ひりひりとした痛みが残る。おかしいな、夢ならこのあたりで覚めているはずなのに、と頬を撫で摺りながら狐面に視線を戻す。
怒っているのか笑っているのか、無機質なそれからは何も読み取ることは出来ない。
「僕は、ここを昔みたいにしたいんよ」
「昔みたいに……ですか?」
「そ」
拝殿を支える立派な柱に手を添え、こつんと額を寄せる。その姿は先ほどからの厳しい言動からは信じられないくらい、弱気で、寂しそうに見えた。
「僕に力があればええんやけどね。あいにく、まだ下っ端で。でも僕ら神使は霊力のある人間と共でなければ、位が上がらんようなっとるんよ」
「……は、はあ……」
「要は、神社に来はる人に僕も付いて上がるんが、僕らの修行になるんや」
つまり、神社に参拝する人の警護や付き添いをすることで、彼ら神使のレベルが上がるということだろうか。そしてレベルが上がれば、神使としての位も上がり、神社が栄える。なるほど、客ありきの商売と言えなくもない。
それならば誰か他に来る人に付いて上がればいいのでは、と考えたが、なるほどこの寂れよう。加えて辺鄙な立地、急激な石段。ノットバリアフリー。アングッドデザイン賞。何でもない日に来る人間は相当少なかろう。
「えーと、つまり、お客さんが来ないから、私がここに毎日来いと。で、私について石段を上ると、貴方もなんかこう、力が上がると」
それって俗にいうサクラじゃない? 信仰心全然ないよ? 大丈夫?
という言葉を飲み込み聞き返すと、狐面は是と言葉を返した。
「そゆことや、よろしゅうな」
「……辞退という方法は……」
「あんたは、僕の【シタ】になっとう。もしこの契約を守れんかったら……」
「かったら……」
「そん体、八つくらいに裂いて、どこかにあげるわ」
グロっ! グロすぎるわ!
思わず自分の体を抱きしめる。が、太くて腕の途中までしか回らなかった。
冷静に考えてみよう。
この狐面の身体能力はそもそも人間のそれではない。彼女を運ぶ時の力も、この石段を登ってくる速度も。あの奇妙な狐面も、正直普通の人間であればつけ続けられるものではない。でも彼は頑なにそれを外そうとはしない。そして先ほどの話。
正直なところ話が抽象的過ぎて、何一つ信じる要素がない。ただ、こうして狐面の男は眼前におり、自分の痛覚も、意識も機能している。それならば、これは現実ということだ。信じがたい。信じがたいが……。
「……努力いたします……」
あまたの『腑に落ちない』を胸に抱えながら、彼女は言葉を返した。
非現実を信じたわけでも、狐面を助けたいわけでも、神社を復興させたいと思ったわけでもない。この時彼女の頭を占めていたのは「呪いかなんかでうっかり本当に八つ裂きになったらヤバイ」ということだけであった。
「お利口や。また明日の夕方――、ん」
ガタ、と古い木戸を傾ける音がしたかと思うと、次の瞬間狐面は姿を消していた。
代わりに手水場らしき宮の奥から、かなり高齢の男性が姿を現したかと思うと、こちらの姿を見つけて微笑んだ。足が悪いのだろうか、動きが少しぎこちない。
「おやめずらしい、参拝の方ですか」
「あ、は、はい」
「すみません石段が古くて、帰りも気をつけてくださいねえ」
「あ、ありがとうございます……」
急に一人になった心細さに負け、慌てて頭を下げてから石段に向かう。あっお賽銭入れてなかったけど良かったかな。
よたよたと石段を下っていく。登りよりダイレクトに衝撃が来て、かなり膝が痛い。
そもそもの体重が多いのもあるのだが。気づけば空はすっかり暗くなっており、ひいひいと駆け下りていく。門限を過ぎたりしたら、また怒られてしまうかもしれない。早く家に帰らないと。
だが半分に差し掛かったあたりで限界が来て、一度足を止めた。はあーと疲労を含んだため息をこぼす。ザザ、と上空の葉っぱが不自然に揺れた気がして、見上げてみる。
が、やはり何もいない。
「他所見いへんよ」
「ひい!」
「はよ行き」
狐面の声が降ってきて、慌てて足を進めた。やはり先ほどの話の通りであるとすれば、彼は石段を上り下りするうちは、一緒について行動しているようだ。
人では無いというのだから、彼は狐なのだろうか。確かお稲荷様とか言って、狐が神様の使いだというのを聞いたことがある。それならばあまり無下に扱うのも悪いのだろうか。祟りとか。祟りとか。
「えーと、お狐様? 稲荷様?」
「僕は下っ端やから、様とかいらん」
「と、言われても、なんと呼んだらいいのか……」
石段を駆け下り、息を切らせながらなんとか話を続ける。ようやく地上と入り口の小さい鳥居が見えてきた。
「好きに言い」
「えっ、えーと、えーとー」
突然のことに脳内名づけ辞書を手繰る。とはいえ、せいぜいクラスメイトや読んでいた漫画、親戚の名前くらいしか思いつかない。
そういえば昔読んだ絵本にきつねの物語があったような、あれはどこで読んだ物語だったか。きつねと、不器用な神様のおはなしで――なんだか、悲しい終わり方をする物語だった気がする。
「……はあ、もう桐人でええ」
「キリヒト?」
「……周りはそう言う。ややったら好きに言い」
そういう狐の言葉はなんだか小さく、それ以上尋ねることをためらってしまった。
なんとか最後の段まで降りきり、ぜいと息を吐きだす。振り返り、今しがた自分の降りてきた階段を見上げるが、あまりに山奥深く、まったく頂上は見えない。
ふと視線を落とすと、地上から何段か上、鳥居の傍に桐人が腰かけている。
「で、あんたは」
「え?」
「名前や。人のだけ聞いて終いは失礼やろ」
「あ、そ、そっか、私は三咲。……数字の三に咲くって書いてみさき、です」
「……そか」
刹那、目の下の皮膚に熱が宿った。目頭の方から眼尻にかけて、じゅ、と音を立てる勢いで熱源が移動し、思わず顔を手で拭う。
「あつッ」
熱はすぐに収まったが、変な感覚だけが目の下に僅かに残った。
「契約成立や」
「……は?」
「これであんたは僕の【シタ】。明日から、よう働き」
「……!」
もしかして、名前がなければ契約が出来なかったのか。
ということは、私は今まで契約されていなかったというのか。教えなければ、八つ裂きの契約は不履行だったというわけか。
(なんてことをー!)
頭を抱える三咲の前で、狐面の男はまるで笑っているかのように、口元に手袋をした手を添えていた。




