夏の話 19
突然のことに、亘理はきょとんとし、しばらくしてくくく、と笑いを零した。
その変貌に三咲は先ほどより強まる寒気を感じる。無邪気な顔が、今は恐ろしい。
すると亘理の綺麗な唇が、うすらと開いた。
「――驚いた、どうしてわかったんです?」
「私が石段を上り始めた時、下には誰もいなかった。ここから私の家まではそう遠くないから、普通ならそちらに戻ったと思うはず。……匂いで追いかけでもしない限り、ここにたどり着くとは思えない」
「すごく勘がいいのかもしれませんよ?」
「それだけじゃない、その……亘理は私を、三咲『ちゃん』って呼ぶ、から」
「……あー、そういえばそうでしたね」
失敗、とばかりに亘理は首をかしげた。亘理の顔でやると可愛らしいが、その中にいるものの正体が分からない以上、恐怖でしかない。
どうしよう、と三咲が睨みつけていると、突如亘理が一人芝居のように声を上げた。
「こら! もう十分だろ。戻れよ!」
「……?」
「やれやれ、たまにくらい良いじゃないですか」
「良くない!」
突然の亘理の行動に、三咲が目を白黒させていると、彼の目の下にある傷が、じわりと深紅に滲んだ。
刹那、ぶわりと亘理の体から何かが分離する。黒い霧のような、煙のようなそれは、散り散りになるでもなく、人の形を保ったまま地面にとどまった。
次第に質量が増し、人間の姿に変貌する。
「……あなた、は」
さらりと流れる髪は白く、月明かりを浴びて薄青に輝いている。
背丈は亘理よりだいぶ低い。蓮とはまた違う華奢な感じで、一見小学生か中学生にも見えるが、綺麗な立ち姿は堂々たるものだ。その背や腕を包むのはどこか見慣れた黒色のベストと白いシャツ。
手にはこれもまた揃いの色の革手袋がはめられていた。
既視感のありすぎる格好だ。
「もしかして、あなたも……狐?」
だが一点だけ違うところがあった。
彼の顔には、桐人の面とは異なった仮面が着いていた。
全体は黒で塗られており、目の下の隈取は金色。後頭部で結われた金の組紐が夜空に鞭を打つ。
彼もまた桐人と同じように、素顔を面で覆い隠した狐であった。
その子どものような姿からは想像できない、大人びた口調で手を差し出す。
「氷坂といいます。以後お見知りおきを」
「ど、どうも……」
差し出された手を握り返す。桐人と同じく人の体温がそこにはあった。
だが先ほどの霧のような姿も見ているので、実体としてあるのかないのか、三咲にはよく分からない。そして何よりも。
「あの、亘理とあなたはどういう関係なんでしょうか……」
三咲の見間違えでなければ、亘理の体から氷坂が「出た」ように見えた。混乱している三咲を前に、亘理はどうしたものかという表情を浮かべながら、少しずつ言葉を紡ぎ始める。
「黙っていてごめんね。実はおれ、氷坂の【シタ】なんだ」
「亘理が……【シタ】?」
桐人も言っていた【シタ】という単語。
改めて問い直したことはなかったが、狐たちの下僕や遣い走りのような意味合いだと思っていた。
その疑問に氷坂と名乗った狐が答える。
「【シタ】とは、俺たち善狐と専属契約を結んだ人間の呼び名です。俺と亘理は『保養』を得るために契約しています」
「保養……?」
聞きなれない単語が続いて頭が追い付かない。善狐、保養?
「古来より善狐が憑依した時、その人間に何らかの欠陥がある場合、それを癒す効果があると言われ、これを人々は『保養』と呼んでいます」
「欠陥がある場合、ということは……」
「おれの体のことだよ、三咲ちゃん」
そう言うと亘理は自身の胸の辺りに手を当てた。
「おれは免疫力が人よりすごく低くて、将来大きな病気になる確率が高かったんだ。何度も入院したし、熱もよく出てた」
三咲の記憶にも、それは残っている。
冬になると亘理は必ず毎月風邪をひいていたし、夏でもよく体調を壊して、病院に通っていた。三咲と別れる直前まで、それは続いていたはずだ。
「ある日、突然倒れて、いよいよ体がもたないってなった時に、氷坂に出会ったんだ」
病室の隅に突然現れた、白い髪の男の子。
「俺はちょうどその時、一人の【シタ】の保養を終えたところでした。次の【シタ】を探そうとする間もなく、同じ病室に運ばれてきた亘理がいた」
――きみ、誰?
氷坂と言います。貴方はこのままでは助からない。
「本来であれば、契約の意味を理解できるまで待つべきだった。でも亘理にはそれを待つ時間がなかった」
助けてあげましょうか。
「だからすぐに契約し、亘理は俺の【シタ】になった」
お願い、助けて。
――ぼく、約束を守らないといけないから。
「それからおれは氷坂に憑依してもらって、体の悪い部分を保養してもらったんだ。少しずつ体も丈夫になって、今ではむしろ普通の人より頑丈になったくらい」
なるほど、昔の亘理と印象が違いすぎるのは、氷坂の憑依による『保養』があったからか、と三咲は一人納得する。
「えーと、じゃあその、氷坂の『保養』は、憑依を解くと無くなってしまうもの?」
「すぐに効果がなくなる訳じゃないんだけど、そこはちょっと事情があって……」
「俺の神格は、磨かれた体と共にあることで高まります。亘理と契約する時に出した条件はひとつ、『強くあり続けること』」
「強く……」
「強い体と心の人間に憑依する。そうすることで、氷坂の力が強くなるらしいんだ」
そう言われてみれば三咲の石段上りも、どことなく体を磨くという行為に近い気がする。
人と共にあると狐の神格が高まる、というのは間違いではないようだ。
「強くってのが良く分からなくて親に言ったら、空手の教室に連れていかれてさ。意外とおれに合っててよかったんだけど」
そう言って亘理はえへへ、と笑った。
簡単そうに思えるが、亘理が契約をしたのはわずか五歳のこと。それから十二年、「強くあり続ける」のに、どれだけの努力を重ねたというのだろう。しかも亘理はこれからもずっと、氷坂に憑依され続けたままということになる。
「じゃあ、これからもずっと憑依は続くの?」
「憑依されてるって言っても、基本的にはおれだけの意識なんだよ。さっきはその、……氷坂が、自分なら三咲を探せるって言ってて、それで、つい……」
「亘理の許可があれば、俺の意識を主体にすることが出来ます。とはいえ、出てきて何かすることもあまりないですが」
「でも! さっきは、三咲ちゃんを、その……」
耳が真っ赤になっている亘理を一瞥し、氷坂は何かを考えたかと思うと、するりと三咲の眼前に移動した。いつ動いたのか分からないほど、静かで滑らかな動きだ。
「それは失礼。……でも、貴方は、とてもいいにおいがする」
すん、と首元に顔が寄せられた。ひやりとした冷気が追随し、三咲は思わず背筋を凍らせる。
神威、というのか。人ではあらざる者の威圧。
「あっこら、氷坂!」
「……何でしょう、俺たちがとても、恋い慕うような、……」
「え、と、あの……」
氷坂に顎を掴まれ、正対させられる。氷坂はまだくんくんと三咲の匂いを嗅いでおり、その距離が異常に近かった。下手をすれば首筋にがぶりと噛みつかれそうな――
「でも、――ほかの狐の匂いがする」




