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夏の話 16



 夏休みに入り、石段の上り下りの回数は更に増した。

 炎天下の中、木々の影の合間を縫って登っていく。最近になると崩れやすい足場や、逆に登りやすい段も分かってきて、今までより早く行き来が出来るようになってきた。


「遅い、きばりや」

「ぐうう……!」


 まもなく頂上という石段の先に、桐人がその長い足を投げ出して腰かけていた。この暑さの中、汗一つかかずに白いシャツとベストを着こなしているのはもはや流石というか。

 最後の一段を踏みしめ、三咲はばたりと倒れこむ。

 今日はこれで八往復半だ。

 時刻も四時を過ぎており、徐々に夜に向かう風が吹いてくる。


「ちっとは、ましになったか」

「う、うーん、昔よりは、……」


 石段上りもかれこれ一カ月半を過ぎた。

 最初は心臓が破裂して先に死ぬと思っていたが、続けてみると意外と死なない。

筋肉痛も最初はひどいものだったが、最近では全然だ。


 よいしょ、と仰向けに転がりなおす。トルコ石のような綺麗な水色の空が広がっており、視界の端には濃い影を落とした入道雲の気配も見える。ジャワジャワと騒ぎ立てる蝉の声に三咲は目を閉じた。ざあ、と地面を風が撫でる。


(ちょっと、気持ちいい)


 こんなに夏を感じたのはいつ以来だろうか。小学生の頃は祖母とすいかを食べたり、蛍を見に行ったりと、夏は楽しいものの象徴だった。

 叔母一家と同居を始めてから、夏休みは出来るだけ図書館に行くものに変わり、夏祭りや花火大会も、賑わいの噂を聞くだけで行くことはなかった。

三咲は目を閉じたまま、すう、と静かに胸を上下させる。


 その時、つ、と前髪に触れる何かを感じた。目を開くと、隣に座る桐人が三咲の額に指を伸ばしている。


(――?)


 黒く艶やかな手袋に覆われた指で、彼女の額についた前髪をぴ、と払う。

 表情は見えないが、無意識でしているのか。そうすることが当たり前のような、慣れた仕草で三咲の前髪に触れている。

 一方、されている三咲は大混乱だ。

 どうした。どうしました桐人さん。


(どど、どうしたらいいのこれ)


 何もしゃべらない桐人とその行動に、キャパシティを超えた三咲は、何故かもう一度目を閉じた。とっくに石段は上り終えたのに、心臓が破裂しそうだ。

 この仕草の理由を考えるが、思いつかない。

 どうしよう。逃げていいものか。八つ裂きの準備中なのか。


 悶々とする三咲の心配をよそに、桐人がす、と体を近づけてくる気配を感じた。顔の上に桐人の影が落ちるのを感じる。なんだ、なんだこれ! と三咲が思うのも束の間、ジャリと石を噛む音が遠くで鳴った。


「三咲ちゃん、おつかれさま」

「ふ、ふじた……さん……」


 呼ばれた声に反応して、三咲はゆっくりと起き上がる。当然、そこには桐人の姿はなかった。代わりにおじいちゃんが麦茶を持ってにこにこと立っている。


「今日もトレーニングかい、がんばるねえ」

「え、ええと、はい……えへへ」


 おじいちゃん、こと藤田さんとはもう随分親しくなった。相変わらず夕飯をごちそうになったり、最近は一緒に料理をしたりもする。しかし相変わらず、藤田さんが来ると桐人は姿を消してしまう。理由は分からないが、よほど会いたくないのだろう。


「そういえば今日は花火大会だねえ」

「そうなんですか?」


 もらった麦茶が喉に、体に染み入る。

 冷たさを味わいつつ、久々に聞く単語に三咲は首を傾げた。


「そうだよ、ここの近くの川でね。良かったら行ってみるといいよ」

「あ、そ、そうですね……」


 興味はあるが、花火大会に一人で行く勇気はない。おそらく叔母や蓮も、職場や友達の人と見に行くだろうから、今日は一人で留守番だろう。

 そうとなれば早く帰らなければ、家に入れなくなるかもしれない。三咲は鍵を預けられてはいないため、家に入るには叔母か蓮が帰宅していることが条件なのだ。

「ごちそうさまでした」とグラスを返し、急いで石段を駆け下りては帰路を急ぐ。




「……」


 だが、時すでに遅し。

 まだ夕方に差し掛かろうという時刻なのだが、既に家の中に人の気配はなかった。どうやら二人とも早めに外出してしまったらしく、叔父は出張に行ったままだから帰ってくるはずもない。

 三咲は途方に暮れ、玄関の取っ手を握りしめるほかなかった。


(どうしよう……何時に帰るか分からないし、それまでどこに行ったら……)


 図書館は丁度閉まった頃合いだし、遊びに誘える友人もいない。

 公園で時間をつぶすかとも考えたが、以前出会った不審者を思い出して、いやいやとかぶりを振る。事件に巻き込まれるのは困る。

 ここに座っておくしかないか、と諦めて玄関を背に座り込む。そこに穏やかな声が塀の向こうから届けられた。


「三咲ちゃん、どうしたのそんなとこで」

「亘理……?」


 そこそこ高い塀の上から、ひょいと亘理の顔がのぞく。三咲の姿を見つけると、嬉しいそうににこりと笑った。大型犬を彷彿とさせる。


「実は、みんな出かけてて、家に入れなくなっちゃって……」

「えっそうなの、それは困ったね。なんならおれの家に来て休……いや、いま誰もいないしさすがにそれは、……ええと、でもどうしたら……」


 亘理はしばらくうんうんと逡巡していたが、やがて「そうだ」と笑顔になって、三咲に提案した。



「良かったら、一緒に花火大会行かない?」



 

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