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夏の話 15



 触らぬ神にたたりはないが、触らぬ人からはたたりが来る。


 麻中の勉強会も終わり、また冬木たちの遊びが始まるのか、とびくびくしていた三咲であったが、何故か何事もない日が続いた。

 帰る時に呼び止められるでもなく、机に落書きをされていることもない。

 ようやく彼女たちも飽きたのか、とわずかな希望を見出したのも束の間。


 もうすぐ夏休みを迎えるその日に事件は起きた。



「せんせー、あたしの財布、なくなったみたいなんですけどー」


 ざわつくクラスメイト達の声。夏休みの注意事項を説明するさなか、冬木が突然手を挙げて、こう叫んだ。教師は急なことに慌てるが、冬木は更に言葉を続ける。


「昨日学校に忘れて帰って、今日来たらなかったんですー」

「えっじゃあ誰かに盗まれたってことじゃなーい?」

「えーうっそー! 誰がそんなことすんのよー」


 取り巻きたちがそれに乗じ、クラス中が今までにないほど動揺する。三咲も何だか嫌な予感がした。


「分かった分かった。まだ盗まれたと決まったわけじゃないだろう。財布ってどんなんだ?」

「赤い長財布でーFのイニシャルが付いてるやつです~」

「赤、ね。おい、だれか冬木の財布見たやつはいないか?」


 知らないよ、うそ、ほんとに、誰か盗ったんじゃねーの、と好き勝手な言葉が飛び交う。

 騒然とする最中、嫌な予感が一層大きくなり、三咲は自分の机を探った。


 ノートに筆箱、タオル、とその下。奇妙な質感のものに指が触れた。

 つるつるとしたそれを引き寄せ、こっそりと確認する。そこには、真っ赤なエナメルの赤色とFのイニシャルを下げた財布があった。


(……! なんで……私の机に……)


 神に誓って、盗ったりはしていない。だが件の財布が三咲の机にある以上、疑われるのは火を見るより明らかだ。ぶわりと嫌な汗が背中を走る。


 昨日帰る時には何もなかったはずだ。

 冬木たちが残っていて、逃げるように教室を出たから、三咲に盗る隙は無い。とすれば今日全員が教室から離れていた、終了式の時間に入れられたとしか考えられない。


 だが、それを証明できるものは何もない。

 三咲自身も終了式に参加していたし、教室に人はいなかったはずだ。冬木も式に参加していた気がするが、正直誰がちゃんといたかまで覚えていない。


「せんせー、あれなら、手荷物検査すればいいんじゃないですかぁ? 犯人がいたらすぐわかるだろうしー」

「……!」


 冬木の目とぶつかった。

 これは、罠だ。

 最近ちょっかいをかけてこないと思ったら、こんな方法をとってくるとは思わなかった。


 みんなの前で財布が見つかれば、一気にクラスでの不信感が高まる。直接手をかけるのに飽きたのか、今度は三咲の心を潰しに来たらしい。

 どうしよう、どうしたらいい、と肩と心が震える。


「あー分かった分かった、じゃあ一人ずつ荷物を持って……」

「えーっ! 早く帰りたいのにー! いまここですればいいじゃないですかー!」

「お前らが言い出したんだろうが。大体デリケートな問題なんだから、あんまり大っぴらにするのも……」

「そういえばぁ、昨日尾崎さんが放課後残ってるの見ましたぁー」


 雑音がす、と波紋が消えるように収まる。視線の全てが三咲に注がれていた。


「あ、あたしも見たー。部活にも入ってないのにおかしいよねえ」


 違う、昨日帰る時には冬木たちが残っていた。

 だが、彼女たち以外に残っている生徒はおらず、教室を出た時間や順番について、証明するすべはない。


 疑われている。これで机を見られて、財布が出てくれば逃げ場はない。斬首台に向かわされているかのような息苦しさに、目の前が明滅する。


「そうなのか? 尾崎」

「……ち、ちがい、ま……」

「えー? 聞こえませんー!」


 あははは、と冬木たちが声を上げる。早くホームルームを終えたいクラスメイト達の苛立ちも伝わってきて、いよいよいたたまれない。

 だめだ、もう、濡れ衣でもいいから。

 この場から逃れられるなら、認めてしまった方が。





――ややったら、ちゃんと言い


 よく通る、綺麗な声。

 あの美しい神使は、そう告げた。


 あの時は受け取るだけの度胸が無かったが、きっと、今のことを言っていたのだろう。

 正直怖い。


 言っても信じてもらえないかも。長引くホームルームに、クラスメイトは一層嫌な気持ちを三咲に募らせるかも。

 夏休み明け、今よりもっとひどいことになるかも。


 だが今言わなければ。

 三咲の口から、嫌だと、違うと言わなければだめだ。

 勇気とか、覚悟とか、そんなものは後から付いてくる。石段上りとは違う、死ぬわけじゃない! 一度死のうとした私が何を怖がる必要がある!



「……違い、ます! 私は何もしていません!」


 教室内の時が止まった。

 いや、物音一つしなくなったというのが正しいだろうか。


 普段暗くて目立たない、自己主張をしない三咲が、大きな声を上げたこと、自分ではないと主張したことに、担任も冬木たちも驚いているようだった。

 まさか反論されると思っていなかったのだろう。クラスメイト達も同様で、一瞬空白が生まれる。

 その静寂に気づき、どうしよう、と三咲は自分のした行動に蒼白になった。だが次の瞬間、間延びした声が飛び込んでくる。


「せんせー、尾崎さんは何もしてないとおもいまぁす」


 え、と声のした方を振り返る。そこには暑いのか、長い髪をきれいな編み込みにした麻中さんが、その長い睫をしばたたかせながら続けた。


「あたし、今日上手く髪がまとまんなくてぇ、遅刻したんですけど」

「それはそれでどうかと思うぞ麻中」

「あは、ごめんなさい~。で、もう終了式始まってたんだけど、流石に混ざるのないわーって思って、先に教室来たのね」


 そしたら、とその大きな黒目を冬木の取り巻きの一人に向けた。


「なんか秋武さんが先に居てぇ、尾崎さんのとこでなんかしてましたぁ」

「な、そんなことするわけないじゃん!」

「それに、昨日最後までいたのも、尾崎さんじゃなくて、あんたたちだよね。あたし、昨日は追試で残ってたから遅かったんだけど、教室にカバン取りに行った時、まだあんたたちいたし」

「は、はあ⁉ 適当なこと言わないでよね!」

「てかさーあたし早く帰りたいの! こんなどうでもいいこと、あんたたちだけで勝手にやってくんない?」

「……ちょ、なによ……」


 冬木たちを睨みつける麻中の迫力はものすごかった。美人が怒るとこうも怖いものなのか、と傍観していた三咲は思う。

 麻中の言葉に、男子生徒たちも「そーだそーだ」「早く夏休みにはいりてーんだよ」と続き、再び教室内は騒然とした。だが先ほどまでと違い、冬木たちの方が立場が悪そうだ。

 伺うように麻中を見ると、三咲の視線に気づいたのか、ばちんと音の出そうなウィンクを返された。可愛い。


「あーもーはいはい、静かに! とりあえず冬木と秋武、尾崎と麻中は後で生徒指導室に来い。はい、続き説明すんぞー」


 担任が手をたたき、その場を収める。

 あれほど震えていたはずの三咲の手は、すっかり落ち着いていた。


 大丈夫。言った。言ってやった。

 実際にこの場を収めたのは麻中の言葉だけど、ちゃんと自分で「していない」と言えた。



 

「おつかれ」と笑う桐人の声を聴いた気がした。


 

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