夏の話 13
翌朝、叔母が起きていないことを確認し、普段より少し早めに家を出る。こっそり叔父の靴を探すが見当たらない。
(……また出張かな……)
叔父は最近、長期間の出張が増えた。仕事だと言っているが、叔母はその言葉を疑っているようだ。
おそらくまた叔父が出張に出たために、昨日のようなヒステリーが発生したのだろう。
叔父が戻るまで、この家に安寧はない。戻ったところで、三咲を守ってくれるわけでもないのだが。
きい、と細く鳴る門戸の開け閉めに苦慮していると、隣から声をかけられた。
「あ、おはよ……早いね」
「お、おはよう……」
北高のブレザーに身を包んだ亘理が、困ったように眉を下げ笑っていた。あ、と昔の顔を思い出す。まん丸な体で、おっとりしていた亘理。
いじめられても怒らず、ただ穏やかに笑っていることが多かった。眉尻を下げ、困ったように。その癖はどうやら、大きくなっても変わっていないようだ。
「三咲ちゃんも学校? 朝練かなにかかな」
「え、いや、私は……」
言葉に詰まってしまった三咲を見、あ、と亘理が言葉を続ける。
「この前はごめん。ちゃんと三咲ちゃんの予定を聞いてから行けばよかったのに、迷惑かけちゃって……」
「いや別に亘理が悪いわけではないと……」
確かに風当たりが強くなったのは事実だが、それは冬木たちと三咲の問題だ。知らずに来た亘理が申し訳なく思う必要はない。
だがそれをうまく説明することが出来ず、ついそっけない返事になってしまった。
「これからはうかつに近づかないようにするよ。だから、それ以外だったら、時々こうして話しててもいいかな」
「家のそばでなければ、別に……」
叔母に見つかるとまた面倒になるかもしれない、と思っての提案だったが、それでも亘理には僥倖だったようだ。目を細めて嬉しそうに笑う。
「良かった。じゃあ、またね」
「うん、また……」
軽く手をあげて走り去っていく幼馴染。その整った体つきと爽やかさを見、改めて自分の体を見る。小さい頃から随分変わってしまったはずなのに、どうして亘理は変わらない態度で接してくれるのだろうか。
自分の見た目や態度を色々と言う人がいる一方で、亘理のようにまったく気にしない人がいるのはなんだか少し、嬉しい。
考えれば桐人も、三咲の外見に何か批判することはなかった気がする。
三咲は少しだけ、足が軽くなったような気がした。
授業が終わり、いつもの三咲であれば恐怖の時間の始まりであったが、この日からは少し違っていた。
「だからこの式に当てはめると……」
「あーなるほどね、でもそうするとさー」
机の向かいには、相変わらず音を立てそうな睫の麻中さんが、数学の問題集と戦っていた。ゆっくりではあるが、式を書き進めている。
放課後、いつものように三咲を取り囲もうとした冬木たちであったが、それを遮るように麻中が飛び込んで来たのだ。早く教えてくれないとやばいんだけどーと言いながら連れ去られる三咲の背中を、冬木たちは悔しそうに睨みつけるだけだ。
麻中は化粧を抜きにしてもかなりの美貌を持っており、男子生徒からの人気が高い。一方で教師をも恐れぬ破天荒な言動が、要注意人物感を高めており、そんな彼女を敵に回してまで対抗する気は起きないのだろう。
三咲自身も、昨日のことがなければ、麻中に話しかけることすら出来なかったと思う。
「みさきちの教え方分かりやすい~もうほんと助かる~」
「あ、ありがとう……」
「よし、これで補習クリアして、バイト三昧だ!」
小さくガッツポーズする姿も可愛らしい。ミスティピンクに塗られた爪、どこのゆるキャラか分からないシャーペン。勝手に怖い印象を抱いていたが、こうして話しているとすごくいい子なのが分かる。
「よもぎさん、ええと、よもちゃんは、なんでそんなにバイト入れてるの?」
「だって遊びたいじゃん! 夏休みだよー! 海に、花火大会に、バーベキュー!」
「な、なるほど……」
意外なことに、麻中もまた三咲の容姿について、何も言わない人間の一人だった。
彼女自身、見た目で判断されることの辛さを知っているからかもしれない。もしくは生来の爛漫さか。
麻中から飛び出す楽しげな言葉。自分はもう何年も行っていないものばかりだ。だが、本気で楽しそうにしている麻中の姿に顔がほころぶ。
「みさきちともどっか行きたいなー! 映画とか、買い物とか」
「あ、う、うん、そうだね……」
なんだか、こういうの、楽しいな。
しばらく忘れていた「友だち」の感覚。三咲はまた自分にこんな穏やかな時間が訪れることに感謝した。
「よし、今日はしまいや」
「…… きつ……い……」
七月に入り、石段の往復回数は更に増えた。
徐々に慣れてきたあたりで増やされるので、結局終わる頃には生まれたての小鹿のような姿勢になる。いや、生まれたての子豚か。
ようやくの終了宣言に、ほっとしたのもつかの間、三咲は何かを思い出し、終わったはずの石段を再度上り始めた。
「なにしとう」
「え、いえ、ちょっと忘れ物を……」
えっちらおっちらと石段をあがり、神社の傍までたどり着く。なんとか息を整えると、おじいさんの家のインターフォンを鳴らした。
出てきたおじいさんに、そっと借りていたタッパーを返す。
「あの、これ、ありがとうございました……」
「ああ、ありがとねえ、ご家族の方にも喜んでもらえたかな、ちょっと多かったか」
「ええと、……その……」
さらりと「おいしかったです」と返してしまえば良いのだが、あの光景がフラッシュバックして、その一言を言うことがどうしても出来なかった。
おじいさんに嘘をついてしまうことになる。
でも、捨てられたなんて言えるわけがない。どうしよう。どうしよう。
複雑な表情を浮かべる三咲を見、おじいさんは何かを察したのか、おいでと中へと手招きをする。誘われるままについていくと、食卓に山と積まれたさやえんどうがあった。
「良かったらちょっと手伝ってくれないかな。たくさん出来たんだけど、目が悪くて筋取りが難でねえ」
「え、あ、はい……」
ちらと時計を見る。まだ帰るまでには余裕がある。……何より叔母の様子からすると、帰って食事の準備をすることも許されないだろう。あまり、帰りたくもない。
言われるまま食卓の椅子の一つに座り、きぬさやの筋を取る。端に爪を立て、するすると剥くが、終わり間際に細くなって途切れてしまった。
その間おじいさんは今日の夕飯なのか、魚をくつくつと煮込んでいた。醤油とみりんの匂いに、思わずくうとお腹が鳴る。
「……す、すみません……」
「いやいやこちらこそありがとうね。良かったら少し食べていくかい?」
筋取りが終わった頃合いで、おじいさんはラップに包まれたおにぎりとぶりと大根の煮物を出してくれた。「味見だから遠慮しないで」と言われ、しばらく悩んだが、箸でつまんで口に運ぶ。
ほわり、と温かさが広がり、急激に食欲が刺激された。おにぎりは男性の手によるせいか思ったよりも大きく、塩気が多いのもまた好きな味だった。
(……なんか懐かしいなあ)
昔祖母と住んでいた頃は、よくこうした煮物や佃煮ばかりを食べていた。味付けもなんだか祖母のものに似ていて、ついつい箸を進めてしまう。
おじいさんはただにこにこと彼女が食べる姿を見ており、食べ終えた後でそれ気づいた三咲は、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして揃えた箸を箸置きに置いた。
「す、すみません……いっぱいいただいちゃって」
「いいんだよ、何ならこれからも、時間がある時は食べにおいで。ひとりで食べるのもさみしくてね」
「いや、さすがにそこまでは……!」
「……僕は昔、色んな人の悩みや苦しみ聞く仕事をしたことがあってね、少しそういう勘はいいんだ」
独特な姿勢の動かし方、しゃべり始め、息の仕方。何かを抑制され、怯える人間というものは、専門家からするとすぐにわかるらしい。
おじいさんが何を言わんとしているか三咲にもすぐに分かった。
女子高校生が部活もせず、かといって家にも帰らず、遊びにも行かず、神社をうろうろしているのだから、何らかの事情を察するのが普通だろう。
「君はもうすぐ大人になるから、僕が何かを働きかけたりはしないよ。でも、どこか逃げ場があるだけでもいいかなって思ってね」
鼻の奥がつんと痛む。苦しい。でも、けして嫌な気持ちではなかった。
「あい、……がとぅ……ござ、ます……」
「いいんだよ、買い物をお願いしているし、僕も助けられているからね」
どうしてこんな優しい人がいるのだろう。
自分はこんな、醜くて、情けない人間なのに。
しゃくりあげる三咲を前に、おじいさんはただ黙っておかわりのお茶を入れてくれた。




