夏の話 1
「……なんや、あんた死ぬんか」
振り返って驚いた。
十階は超すであろうマンションのフェンスの上。
そのわずかな幅に革靴の底をひっかけ、男が屈んでいた。
白いワイシャツの袖はまくり上げられ、均整の取れた腕がのぞいている。喪服のような真っ黒いベストが細い腰を強調し、黒いネクタイは強いビル風に踊っていた。
幾多もの窓の明かりや航空灯に照らされてなお、黒豹のように妖艶で静謐な姿。
「そなら、そのからだ、僕の好きにさせ」
「……は?」
びゅうと噴き上げる風に彼の黒い髪が躍る。
声は意外と若く、歳は自分より少し上くらいだろう。聞き心地の良い、よく通る声。
「僕の【シタ】になりや」
ただ一点、奇妙なことに、彼の顔に当たる部分は白狐の面に覆われていた。
吊り上がった目に赤い隈取。頭の後ろに結わいでいる、朱色の組み紐が優雅にたなびく。
端正な狐面で素顔を隠した男は、そう言いながら靴裏を蹴り、今まさに地面に向かって落下している私の体を、弾丸のような勢いで正面から抱きしめた。
――今まさに、屋上から飛び降りたばかりの私を。
ぜはーぜはーと気管から漏れ出す息が汗をかいている。
心臓は早鐘のように拍打ち、どくどくとした血流が首や後頭部を駆け巡る。改めて手の平を見るが、傷一つない。太い足も丸々とした体も、恐怖で震えてはいるものの、大きな怪我はなさそうだ。
震えを抑えて彼に目を向ける。
狐面をかぶったその男は、実に平然とした様子で裾のホコリを払っていた。
背は高く、それに合わせたように手足のバランスも非常に良い。先ほどは気づかなかったが、手には黒革の手袋をしているらしく、慣れた様子で手首の辺りをなおしていた。
腰には筒状の細長い何かが下がっている。
死亡予定場所であった駐車場の一角にへたりこんだ姿勢のまま、少女は声をあげた。
「……あ、あの」
「ん~?」
声を出すとちょっと心拍が落ち着いてきた。
代わりにちょっと気持ち悪くなってきたが仕方がない。
男はのんきな返事を返しながら、首の辺りを手で押さえ、こき、と捻っている。
狐のお面にスーツ。どう考えても普通の人ではない。
そもそもマンションの屋上から飛び降りて無事なものが人であるはずがない。
「な、なに、で……」
「なに」
「えっと……あの……」
言葉が出ない。
相手をイライラさせているような気がして、なおも思考が詰まる。どうしよう、……何か、言わないと、また人を怒らせてしまう。……なんて言おう、ありがとう? いやそれとも……。
先ほどの恐怖とは違う悪寒に襲われる。
まただ。
また私はぐすぐずして、人を怒らせてしまう。早く、言わないと、でも。
だがそんな彼女の心境とは裏腹に、狐面の男は平然とした様子でその場に立っていた。怒るわけでもなく、安否を気遣うでもなく、彼女の言葉をただ真摯に待っている。
「わたし、その……死のうと、して」
「まあ、そうやろな。普通死ぬな」
「えっと、それで……」
そうだ。
私は別に助かるつもりなんてなかった。
あのマンションに上り、フェンスを越え、駐車場の白線だけを見て、地面を蹴った。
その理由は他でもない――死のうと、思ったのだ。
「どうして、助けて、くれたんですか……」
時刻は零時を超え、もう翌日になっている。
人一人通らぬこの時間に、何故あの屋上にいたのか。おまけに何かを呟いたかと思えば、落ち行く彼女よりも早く落下し、勢いのまま抱きかかえると、くるりと身を返しては華麗に着地してみせた。
おまけに悲しいことに、少女の体形はお世辞にも細いとはいえない。重量もしっかりとあるその体を受け止めただけでももの凄いことだ。
一瞬夢を見ているのかと疑っていたが、どうやら現実のようらしい。
「助けたいうか、僕のモンを拾っただけや」
「僕のモン……?」
「その体好きにしていいって話やろ?」
反芻し、きょとんと首をかしげる。その体とはつまり、私の体のことだろう。
好きにしていいとは、つまり。
臓器売買とか、奴隷労働とか、そういう。
「き、聞いてません! そんなこと」
「嘘いい、僕は確かに言うたよ」
「そんなの聞いてな……い……?」
否定しながら考える。
そういえば落下しはじめた瞬間、この男が現れ、何かを言っていた気がする。
もしかしたらそれか。
えっでもあんな極限状態での契約って有効なの。助けて法律。
「人間が、ただ死ぬだけなんてもったないわ。僕の【シタ】としてつかぁせてもらいます」
「あなたの……シタ?」
「そうや」
そういうと男はす、とこちらへ歩みを進めた。
コツン、という靴音が高く響き、暗闇へと吸い込まれていく。彼の腰元で赤い飾り紐が緩やかに弧を描いた。その根元は長い筒状のものに結ばれている。
あれは――鞘か。
少し視線をずらすと鍔と握り手が見える。中身を確かめたわけではないが、これは俗にいう日本刀と呼ばれるものではないのか。銃刀法違反、とまたも意味をなさない法律を思い返しながら、近づいてくる男を恐る恐る見上げる。
表情の読めない狐面。
白く漆喰のような質感に、目元には赤い隈取に金泥。顔の全てを覆っている割に、先ほどから発声が綺麗に聞きとれるのは何故だろう。
「死ぬだけの役目なら、その体で、僕に奉仕しいや」
なぜだろう、仮面の下の目が、すうと細められたような気がした。
和風ファンタジーです。
完結までお付き合いいただけたら嬉しいです!
西洋ファンタジーですが、前作「推定年齢120歳、顔も知らない婚約者が実は超絶美形でした。」も完結済みですので、こちらも読んでいただけると嬉しいです~!