シンガーソングファンタジー ~近未来形吟遊詩人のいる風景~
ほろん、ほろん、と音が溶けだしてゆく。哀切なメロディは、聴く者たちの心に不思議なさざ波を立ててゆく。技巧ではなく、魂が奏でる稚拙な音色である。だが、そこには確かに、小さな世界があった。
猥雑なざわめきで満ちていたその空間に、ひとときの静寂が訪れた。小さく繊細な音色の作り出す世界に、酔漢たちは呑まれていった。
「かつては、緑あふれる美しい大地……けれども今は、荒れ果てて」
歌い上げる鈴の声音は凛として、凡庸な語句の羅列を天上の音曲へと変えてゆく。
「赤茶けた荒野と、錆びた鉄の世界……暮らしは豊かに、魂は貧しく、精霊の過ぎり去った、寒く冷たい世界」
リュートを奏でるのは小柄な、少女といってもよい容姿の、安い酒場には似合わぬ年頃の娘である。時代がかった若草色のストールに、明るい白のワンピース。スカートの丈は短く、健康的な太股がすらりと伸びている。鉄パイプを組んだ椅子の上で、リュートを膝の上に乗せて爪弾くその横顔は、美しかった。
「人々よ、森を思い出して。共に暮らした、あの日々を……貧しい暮らしと、高潔な魂を」
少女が奏でるのは、遠い日を想う哀切歌である。一部の自然崇拝者たちが唱えるお題目とあまり違わぬ歌詞は、酔漢たちの耳を右から左へと抜けてゆく。いかに情感たっぷりに歌い上げられようとも、懐古主義者の理想論になど、誰も耳を貸さない。切々としたBGMを肴に、酔漢たちは盃を動かし、ざわめきが甦る。
「……魔導アンプ、使うかい?」
再び猥雑となった店内で、カウンターの向こうからマスターが少女に問いかける。手には黒いコードと、マイクスタンドがあった。
「ありがとう。けれど、このままでいいわ。スピーカーを壊しちゃったら、悪いもの」
リュートを爪弾きながら、少女は微笑んで言う。それは、はっとするほどの、美しい笑顔であった。テレ・ヴィジョンで見るようなアイドルたちとは、一線を画するほどの、天然自然を閉じ込めたような、輝きがそこにあった。
「……そうかい。俺は、あんたの歌、好きだぜ」
コードを仕舞い、マスターがグラスを手に取り、磨き始める。
「……ありがとう」
少女は小さく言ってから、また歌を歌い始める。美しい、かつての森を想う歌声は、酔漢たちの耳には届かない。それでも、少女は歌い続けていた。
やがて、酔漢たちが大きな歓声を上げる。酒場の奥に設えられたステージに、魔導ランプの派手派手しい灯が入る。そこへやって来るのは、ギターを持った青い髪の痩せぎすの青年である。
「なんだなんだ、今日は妙に湿っぽいじゃねえか! 雨季は、とっくに過ぎちまったんだぜ! 盛り上がっていこうじゃねえか!」
ステージ上のマイクスタンドを手にして、青年ががなり立てる。そして手元のギターへ魔導アンプのプラグを差し込んで、弦をかき鳴らす。硬質な電子音が、店内のあちこちにあるスピーカーから響き渡る。
「オーケー! 今夜も熱く、燃え上がるんだ! 『夜はこれから、ダンシングナイト』! いくぜ!」
青年が指を鳴らすと、ステージのドラムセットにゴーレムが召還される。重厚なバスドラムのリズムは一定で、早まる心臓の鼓動のように響いてゆく。軽妙なギターの音色がそこへ乗り、ポップな音色を形作る。
「ヘイ! どうしちまったんだいキミ? 今日はやけにそっけないけど、そんな横顔が俺のハートを打ち抜くのさ! ヘイ! ヘイ! ダンシングナイト!」
始まる青年の歌は、どこにでもある流行歌だった。音の勢いとハイテンションなリズムに、酔漢たちは手を叩き、ヘイ、と合いの手を入れる。
「……今日は、もう終わりかしらね」
膝の上に置いたリュートを背中へ仕舞い、少女は言う。カウンターに、コトリとグラスが置かれた。中には、琥珀色の液体と氷が揺れている。
「……あんたの歌の、代金だ。うちでいっとう、上物を注がせてもらったよ」
「ありがとう。ゆっくりと、いただくわ」
グラスを傾ける少女の口元へ、琥珀色の液体がゆっくりと流れ込んでゆく。幼くみえるその容貌に、似合わぬ色香が漂った。
「声上げ手上げ、踊るんだ! ヘイ! ヘイ! ダンシングナイト!」
もはや金切り声となった青年の歌声が、びりびりと店内を震わせる。
「……美味しい。樽の香りが、強くて素敵ね、マスター」
「……ありがとう」
騒然とする店内をよそに、少女は微笑んで言う。無表情で、マスターがグラスを磨きながら、答えた。まだまだ続きそうな青年のステージに背を向けて、少女はただ、グラスを傾け続ける。アップテンポなBGMとは切り離されたように、少女とマスターの間に、ゆっくりとした時間が流れていった。
三曲目を終えた青年のギターが、不意に曲調を変える。ゴーレムの叩くドラム音が小さくなり、スローなリズムを刻み始める。
「ここからは、ゆるーいリズムで愛の歌だ。聞いてくれ! 『我は求める、必要なおまえ』」
曲名を聞いた途端、少女は口の中の芳醇な香りを霧状にして噴き出した。マスターは少し顔を顰めた後に、少女へおしぼりを渡す。
「けほっ、けほ……ご、ごめんなさい」
「いや……慣れん奴が来ると、こうなる。悪いのは、あんたじゃない」
少女とマスターの会話の間に、青年の演奏は続く。情感あるメロディラインをなぞるギターの音色は、スローバラードの色香を漂わせる。そして、
「我はぁー、求めぇるぅ、必要っなあぁー、ぅおまえー」
歌詞も、歌声も、強烈なものだった。先ほどまでノリノリであった酔漢たちが立ち上がり、一斉にブーイングをかます。気の荒い客などは、手にした酒瓶を投擲さえし始める。酒瓶は青年の顔面に当たる直前に、青年の展開した魔導壁にぶつかり四散し、青年がにやりとした笑みを向けてサンキュー、と小さく返礼する。彼にとっては野次も、歓声の一部のようであった。
「……酷い声ね。歌詞に組み込まれた古代語が、可哀想になってくる」
心地よさげに咽喉を披露する青年に苦い顔を向けて、少女は言う。
「ギターのテクはあるんだがな。ヒットチャートでも、いいとこまでは行ってたよ。あの曲を、自信満面に歌いだすまでは……」
渋い顔で、マスターが答えた。グラスを磨く手を止めて、マスターがカウンター端にある魔導アンプの制御盤へと視線を向ける。音量を、落とすつもりなのだろう。動きかけたマスターの視界の端で、少女が立ち上がった。
「……お帰りで? 勘定は、結構だ。良い歌、聴かせて貰ったからな」
マスターの問いに、少女は首を横へ振る。そして少女は、ストールの中へ手を入れるとカウンターの上に三個の金貨魔素を転がした。
「お店とスピーカーの修繕費。次のスピーカーは、人工水晶じゃなくって、天然水晶のものをお勧めするわ」
ふわりとストールをたなびかせ、少女はくるりと背を向けステージに向けて歩き出す。
「そんなら、いっちょ派手にやってくれ……ん?」
少女を見送ったマスターが、金貨魔素に伸ばした手を止める。
「これは……白金貨、だと? しかも三枚……スピーカーどころか、店を十軒建ててもおつりが来る……お、おい、あんた」
慌てて引き留めようとするマスターの手が、宙を掻いた。すでに少女は、青年の立つステージ正面で腕組みをして仁王立ちに青年を睨み付けている。
「一体、何をおっ始めようってんだろうな……」
戦慄と興味のないまぜになったマスターの呟きは、酔漢たちのざわめきの中に消えてゆく。
熱唱する青年は自我の最中にあり、現世離れしたその少女の接近に気付かなかった。仄かに白い燐光を纏い、亜麻色の長く繊細な髪がストールとともに揺れる。精巧な人形のように整った、白磁の肌。そのどれもが、魔導美容技術で作られたそれとは、一線を画する美を醸し出している。そんな少女が、酔漢たちの間を抜けて、ステージの前に現れたのだ。ブーイングと、酒瓶の砕け散る音が一瞬にして鳴りやみ、静かになった。
「……チップ入りね。少し、痛くなるかも知れないわ」
瑞々しく色香のある少女のピンクの唇から、そんな呟きが漏れる。少女の視線の先にあるのは、青年の爪弾くギター、正確にはそこに繋がれたアンプへのコードである。
些か前時代的なコード接続は、酒場のマスターの趣味であった。整備の難しく買い手のいない音響機器一式を、後生大事に抱え込んでいたのは安い売値とちょっとした感傷によるものである。
そんなマスターの事情などは知る由も無く、少女の蒼い瞳はコードを凝視する。青年のピックがギターの弦に触れるたび、青年の魔力がコードを通じてアンプへ供給されてゆく。そうして、スピーカーからギターの音色が流れてくるのである。マイクもまた、同様であった。
「故にぃー、我っわああ……ん? ハッキング?」
破滅的な歌声が止み、訝しげな青年の呟きをマイクが拾う。少女は、微笑を浮かべてぱちりと指を鳴らす。直後、店内四隅とステージ横に設置されたスピーカーから硬質なガラスの砕けるような破砕音が鳴り響く。ほどなく、スピーカーは白煙を上げたまま沈黙した。
「ぎゃあああああ!」
ステージ上で、ワンテンポ遅れて青年が悲鳴を上げる。両手で頭を掻きむしるようにしたその顔には、強い苦痛が刻まれている。
「大げさね。それとも、幻痛に慣れていないのかしら。頭の中の魔力増幅素子と、音響機器とのリンクを断っただけだから、怪我は無い筈よ?」
背中からリュートを引き抜きステージに上がりつつ、少女は青年に向けて口を開く。その横で、青年の召還していたドラムセットの前のゴーレムが制御を失い、くしゃりと身体を折り曲げ崩れ落ちる。
「い、いきなり何しやがる!」
額を押さえ、脂汗を流しながら青年が少女に抗議する。対する少女は涼しい顔でリュートを軽く爪弾きつつ、不敵な笑みを返す。
「聴くに堪えないムード歌謡を、消してあげただけよ。大体あなた、その歌詞の何を知っているの。聴いたところ、恋も知らない若造のくせして」
少女の指摘に、青年は身をのけぞらせて狼狽える。
「なっ……なんだと!? こ、この曲は……いいや、そんなこと関係ねえ! てめえだって、恋も知らねえ未通娘ってえ年頃のくせに! 知ったふうな口利いてんじゃねえぞ!」
青年が少女を指差し、声を荒げる。その指摘は確かに見えて、しかし少女は余裕の表情である。
「女を見た目で判断するあたり、本当にまだまだね。こう見えても私は、あなたより幾つも年上なのよ?」
言って少女は、軽く頭を振る。亜麻色の美しい髪からぴょこんと飛び出すのは、長く細い耳である。
「エ、エルフ……? あの、伝説の……? い、いいや、そんな筈は無え! エルフなんぞはとうの昔、百年以上も前に世界樹と一緒に滅んだ筈だ! その耳も、イカれたファッションか何かだろ!」
「正確には百と二十四年前に、世界樹と一緒に高次元へと旅立っていったのだけれど……私みたいに、残ったエルフもいるのよ。こういうのが、好きなエルフが……」
ほろん、と少女がリュートを鳴らす。その音色は、アンプを用いずとも店内の隅々まで涼やかに響いてゆく。滑らかに柔らかく紡がれる旋律に、青年を除いた店内の人間たちが陶然と聴き入ってゆく。
「こ、これは、『我は求める、必要なおまえ』……?」
青年の口から零れ出た言葉に、少女は形の良い眉を少し顰めて首を振る。
「せっかくの綺麗な古代語に、珍妙な訳を付けないでくれるかしら? これは、『我の求めたるは、ただひとりの君だけ』よ。昔々、ひとりのドラゴンが、たったひとりと思い定めた小さな恋人に、贈った歌……」
リュートを奏でながら、少女は朗々と語り始める。たたん、と足でリズムを刻めば、崩れ落ちたゴーレムが再び形を成してドラムをそっと叩き始める。
「もういない君へ、我のもとを、去ってしまった君へ……ただひとりの、君へ」
歌うメロディラインは、青年のものと同じである。だが、歌詞に込められた情感は、まるで桁違いであった。透明感のある哀切な歌声は、店内の誰をも鎮まらせ、涙を流し始める者さえ生み出してゆく。
「こ、これは……こんな、くそっ!」
たったひとり、焦りを見せる青年がギターをかき鳴らし、少女の爪弾くリュートへ追随を試みる。次いで声を張り上げる青年であったが、その歌声は少女の声にかき消され、ギターの音色を献じるばかりとなる。
「君がいなくなり、初めて知りたるは、我が心の裡にある、灯のような想いばかり……ああ、我の求めたるは、ただひとりの、君だけ……」
少女のリードに導かれるままに、青年がギターをかき鳴らす。柔と硬の音色が混じり合い、酔漢たちは知らずのうちに肩を寄せ合い、緩やかに身を揺する。青年が強引に転調を試みようとしても、少女はリュートとは思えないほどの豊かな音階で流れを作り、歌声は揺るがない。鋭い視線を少女へ向ける青年に、少女がウインクをしてみせる。
「そうしてドラゴンは、旅に出る。たったひとつを取り戻すために、いくつもの町を巡り、長い時を超えて、どこまでも……大きな翼を、語り部は謳う」
リュートの音色が、変わる。哀切歌から、アップテンポへ。ドラムゴーレムが激しくリズムを叩き始めれば、青年のギターは置き去りにされまいと必死に音色を重ねてゆく。酔漢たちと、そしてマスターの目には確かに、力強く飛翔するドラゴンの姿が見えていた。音符と爽やかな風に乗り、ドラゴンはどこまでも飛んでゆく。少女の歌声が、導く物語の先へと。
少女は青年と向き合い、軽やかにリュートを爪弾く。正対する青年は、負けん気でギターをかき鳴らす。互いに浮かべる表情は、挑戦的な笑みだった。ぶつかり合うことで、互いの音色が一段、また一段と高まってゆく。少女の柔らかな旋律と、青年の力強い音域とが、絶妙な調和を醸し出す。ゴーレムのドラムに合わせ、酔漢たちが手拍子足拍子で応え、酒場全体が揺れるほどの大きなバックコーラスへと進化を遂げる。そうして、誰もが笑顔になっていた。
「この、不思議な出会いに、感謝を……愛する心に、希望を込めて……」
ほろろろん、とリュートが締めくくれば、ギターの和音が尾を引いてリュートの音色を見送る。ドラムセットのシンバルが、最後の一音を叩く。酔漢たちから、拍手大喝采が上がった。
「いいぞ、あんたら!」
「アンプも無しに、よくやったぜお嬢ちゃん!」
「兄ちゃんもよく頑張った! いつものだらけたバラードよか、全然いいぜ!」
思い思いの言葉をかけてくる酔漢たちに一礼して、少女は呆然と脱力している青年の手を引きステージを降りる。観客たちの波が割れて、少女と青年はそのまま店の外へと抜け出した。
「おい、どういうつもりだよあんた! 俺のステージに、勝手に割り込んできて」
「あー、楽しかった! 森を出てから、こんなに楽しいステージは初めてだわ。ありがとう」
少女の手を振り払って言う青年に、少女は伸びをしながら満面の笑顔ではしゃいだ声を上げる。外見相応の無邪気な笑顔に、青年が一瞬息を呑み、頬を赤らめつつも激しく首を横へ振る。
「そうじゃなくって! 何てことをしてくれたんだ!」
掴みかからんばかりの勢いで食って掛かる青年に、少女はきょとんと首を傾げる。
「え? 楽しくなかったかしら?」
「違う! だけど、そうじゃないんだ! 今夜のライブには、物騒なスポンサーがいて……」
「それって、お店の周りにいる、黒いクルマの中の人たちのこと? 確かに、剣呑な雰囲気醸し出しているけれど」
「へあ!? い、いつの間に……うわあ! もうダメだ、あんた逃げろ! 奴らの狙いは、俺なんだ!」
少女の指摘に視線を巡らせる青年が、悲痛な声を上げる。その間に、酒場前の歩道に沿って停められたクルマからは、黒服の怪しげな男たちが降りて来る。男たちの手には、黒光りする揃いの魔導拳銃が握られている。青年の身体が、びくりと跳ねた。
「魔導伝達文でも来たのかしら? 彼らは、何て?」
「契約不履行につき始末するって……ああ、もうお終いだぁ……」
頭を抱え、青年がうずくまる。青年の脳に埋め込まれた魔力増幅素子に、男たちからのメッセージが届けられたのだ。
「なるほど絶体絶命ね……ねえ、もしこの状況から助けてあげたら、私のいう事、聞いてくれるかしら?」
一糸乱れぬ動きで青年に向けて魔導拳銃を構える男たちを前に、少女は怖れる風もなく問いかける。
「……何か、やばいことをさせようってんじゃないだろうな? いや、それ以前に……何とかなるわけないだろ!」
「今の状況よりかはましで、楽しいことよ。まあ、見ていなさいな」
狼狽え続ける青年にウインクを一つ投げて、少女はリュートをほろんと爪弾く。同時に、男たちが引き金を引いた。直後、酒場前の道路にいくつもの轟音が鳴り響く。
「う、わああああ!」
青年の身体が跳ね、後ろ向きに跳び上がる。どすん、と尻から着地する青年であったが、腕の中に抱きしめるように保持したギターだけは守り抜く。それは、青年の最後の意地であった。
「……一人で何しているの? 危ないわよ」
固く目を閉じた青年の耳に、呆れたような少女の声が聞こえてくる。
「じゅ、銃で撃たれたんだ! もうダメだ! せ、せめて、俺のギターを形見に」
「弾は当たっていないわよ。発射もされていない弾丸に当たるなんて器用な真似は、エルフでも無理ね」
「はえ?」
間の抜けた声を上げ、青年が目をゆっくりと開ける。その目に飛び込んできた光景は、夥しい数の黒服たちが拳銃を取り落とし倒れ伏した姿だった。
「……何、したの?」
尻餅をついた姿勢のままで、青年が呆然と問いかける。
「魔導拳銃の魔力に、ちょっと細工してやったのよ。あいつら、神経加速も使ってたみたいだから、しばらくの間は伸びているわね」
事も無さげに言って、少女は得意げに微笑む。美しい横顔に戦慄を覚え、青年がぶるりと身を震わせる。
「さて、と……それじゃあ、行きましょうか」
ごくりと唾を飲む青年に向けて、少女が華奢な右手を伸ばす。
「い、行くって……どこへ?」
圧倒的な力量を見せつけられ、抵抗する意志も萎えた青年が恐る恐る手を取った。
「本当の音楽を、伝道するのよ。私と、そしてあなたのギターで」
「本当の、音楽……?」
立ち上がり、肩を並べた青年に少女はこくんとうなずいた。
「そう。あなた、歌は壊滅的だけれど、ギターの腕は一流よ。だから、私と一緒に組んで、この世界から失われた真の音楽を大衆に伝えるの。これは、大いなる使命よ。どうかしら?」
少女の問いに、青年は少しの間、脳内のチップに命じて思考を加速させる。通常の五倍程度の加速度のついた意識の中で、決断は行われた。
「……いいぜ。約束だからな。追って来るマフィアどもを何とかしてくれる限り、俺はあんたについていく」
思考加速の代償の軽い頭痛を抑えつつ、青年は言った。
「決まりね。決断が早くなることだけは、良い事ね、チップも」
改めて少女が、右手を青年の前に差し出す。
「オリバー・ブライトマンだ。よろしく頼むよ、ボス」
その手を握り、青年が名乗った。
「セリカ・ノア・グリーンウッドよ。セリカって呼んで。ボスはやめて頂戴」
苦笑しつつ、少女も名乗り返す。
「了解、セリカ。ところで、これからどうするんだ?」
「次の目的地は、もう決めてあるの。そうね……」
言いつつ少女、セリカが首を巡らし手近な黒いクルマの一台に向けて歩き出す。オリバーも後へ続き、二人はクルマへ乗り込んだ。
「魔導コンピューターは、素直でいいわね」
魔力を使ったハッキングがしめやかに行われ、クルマの魔導内燃機関に火が入る。セリカは助手席に、オリバーが運転席に着いた。
「……あんたの頭の中には、どんだけすごいチップが入っているんだ、セリカ」
マフィアのクルマへのハッキングをいとも容易く完遂するセリカへ、オリバーが問いかける。
「私? チップは、入れていないわ。自然のままが、一番だもの。魔力を練るコツさえつかめれば、これくらいチップ無しでも出来るようになるわよ。たぶん、百年くらいはかかるけれど」
「……俺には、一生かかっても無理ってことは理解できたよ。それで、どこへ行くんだ?」
「会いに行かなきゃいけない人がいるんだけれど……ちょっと待って」
ハンドルを握るオリバーを手で制し、セリカが窓を開ける。見れば、クルマに近づいてくる一人の男がいた。酒場の、マスターである。
「ハーイ、マスター。何か忘れ物でもしたかしら?」
軽く手を挙げて言うセリカに、マスターがにやりと笑って手にした物を持ち上げて見せる。
「あ、俺のゴーレム……完全に忘れてた」
マスターを見やったオリバーが、頭に手を当てて言った。
「後部座席に、積んでおこう。それからもう一つ、積み荷があるんだがいいか?」
問いかけつつ、マスターが後部ドアを開けて乗り込んでくる。
「このクルマは、タクシーでも運送屋のトラックでもないわよ、マスター」
半目になって振り返るセリカへ、マスターが白金貨素子を二つ差し出した。
「お釣りだ。こんなにはいらん。それから……」
素直に受け取ったセリカへ、マスターが次に見せたのは、どこからともなく取り出したアルトサックスである。
「ロブ・マイステルだ。こいつの扱いにゃ、少しばかり自信がある。俺も、連れて行ってくれ」
マスターの手にあるそれは、魔導部品の入っていない、骨董品のような代物だった。見る者が見ればそれは、丁寧に手入れの施された逸品である。
「楽しくなりそうね。いいわ、マスター、いいえ、ロブ。一緒に行きましょう」
セリカとロブが、にこりと笑みを交わし合う。オリバーは二人を眺め、肩をすくめて再びハンドルを手にした。
「それで、お次はどこへ行くんだよ、セリカ?」
「職人街の、ウィリアム・ブラックスミスっていう人のところよ。彼とは昔、少しだけ付き合いがあったの」
「職人街……黄色階級のエリアかよ……しかもブラックスミスっていやあ、偏屈なベーシストで鳴らしたドワーフの頑固爺じゃねえか」
「……楽しく、なりそうだな」
嘆息するオリバーと、ぼそりと呟くロブ。二人の様子にセリカは満足そうに笑みを大きくして、リュートをかき鳴らす。
「それじゃ、さっさと出発進行よ! ぼさっとしていると、そろそろ黒いのが目を覚ます頃合いだから」
「げっ、了解っ!」
セリカの言葉通り、黒服たちが頭を振りつつ起き上がる。慌てたオリバーが、クルマを急発進させる。
「その調子よ、オリバー。賑やかに行きましょう! さあ、ロブ、あなたの音も、聴かせて頂戴!」
「……ああ。昔を、思い出すな」
リュートの音色に、アルトサックスの軽快な音が重なる。陽気なメロディを響かせながら、クルマは魔導ランプに照らされた夜道を、どこまでも走り抜けてゆく。三人の、吟遊詩人たちを乗せて、どこまでも。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今作も、お楽しみいただけましたら幸いです。