蛇と蜜、そして金剛石 壱
「蜂の猫が出る」
天神髭の華家がうんざりした顔で嘆いた。やけに鼻にかかった声の持ち主だ。
「蜂の……猫、でございますか」
相対する玄梅は眉をひそめかけて思い止まった。相手は自らよりも高位な身分である。隣では姿勢よく座った紅緒が、いつも通りにこにこと座っている。華家の男は、まるでそこにそれがいるかのように中空を見つめて、ぼそりと呟いた。
「否、猫の蜂か」
端正な唇に笑みを湛えたままの紅緒が、小声で「どっちだ」と零すのを横目で窘めて、玄梅は少し膝を進めた。
「猫の蜂とは、それは一体どういった怪でありましょうか」
「猫のような蜂よ。彼奴は二の姫の居室にだけ昼間に現れ、姫を苦しめる。憐れな姫は痩せて柳より細い有様よ。とにかく不気味で手が出せぬのだ。二の姫が取って喰われる前にどうにかしてたも」
口では依頼をしながらも、二人の謌生を侮る視線を投げかけてくる、年のころ四十といった風情のこの華家、名を治見斎長という。中の下といったところの身分である。ねっとりとした喋り口が特徴的である。
「では、これから二の姫様のお部屋に参っても?」
「致し方なし」
それでも不満そうに鼻を鳴らした斎長は閉じた扇をひらひらと振って、二人に退出を命じた。
「謌寮にも困ったものよ。うたよみではなく謌生なんぞを寄越すとは、まったく……」
背後で聞こえる大きめの独り言を、聞こえぬふりで、玄梅と紅緒は簀子縁へ出る。華家にしては明け透けな態度の男だ、と玄梅は好ましくさえ思った。廂に控えていた女官がすっと先に立ち、二人を先導する。二の姫のもとに向かうのだろう。
歩きだしてしばらく経ってから、紅緒がくすくすと笑い出したので玄梅はぎょっとした。
「どうしましたか?」
「いや、なに。斎長殿、いや、斎長様が私に全く気づかなんだのが面白うて。先年、我が家で催した春の宴で話までしたのに」
「はぁ、まぁそれはそうでしょうね。大体貴女は元来人前に顔など絶対に出しませんし、斎長様程度の……斎長様の位では、お話をしたといってもせいぜい女官を介してでしょう」
途中で前を行く女官の様子を窺ってから、更に声を低くした玄梅に、紅緒は「確かに」と頷く。
やがて東の対に渡る透渡殿に差し掛かかった。壺庭には秋草と柑子の木がすっきりとした風情で配されている。なかなかに良い壺だ。歩を進めながら庭を見遣って紅緒は呟いた。
「それにしても蜂の猫とは」
玄梅が女官に聞こえぬ程度に溜息を吐いた。
「何なのでしょうね。斎長様ももう少し教えてくださってもよいのに」
「娘が妙な怪にとり殺されそうだ」と治見斎長が謌寮に訴えてきたのは二日前らしい。新人謌生たちは先日七日間の座学を終え、その退屈さに耐えかねた宇賀地の指導により、実習に移ったところだった。二人一組となり、謌寮への簡単な依頼を処理、もしくは調査するという実習である。因みに二人組は日替わりで組み替えられる。と言っても新人は五人であるので、余った一人は先輩の謌生と組むことになっている。
玄梅と紅緒は今日が初めての実習であるが、本件についてはとにかく斎長から謌寮にもたらされた情報が少なすぎるので、とりあえずの調査に派遣されたのだった。それ故に玄梅も紅緒も特に気負った様子はない。
「心当たりはないことはない」
呑気な口調で紅緒が言った。
「虫であり獣であるような外見の怪を見たことがある。が、猫や蜂に似てるかと言われると確信が持てんな」
「あまり聞きませんが、もしかしたら、見た目がそういった類の怪が何種か存在しているのかもしれませんね」
玄梅が顎に手をやって思案していると、ある御簾の前で女官が立ち止まった。ここが二の姫の私室らしいが、天気が良いにも関わらず、手前の御簾も、その奥の蔀戸も締め切っている様子である。玄梅と紅緒はちらりと視線を交わす。
「姫様、謌寮より謌生が参りました」
案内してきた女官が、極小さな声で室内に声をかけると、さらさらという衣擦れの音の後に、更に小さな声で応答があった。紅緒たちには聞き取れないが、女官にはわかるらしく、少し渋ったあとに「わかりました」と応えると、静かに御簾の内に入っていった。ほどなく、するすると御簾が上げられ、奥の蔀戸も開けられようとしているのが見えた。御簾の奥には二人の女官が控えている。
ゆったりと、室内から甘い匂いが漂ってきたのに玄梅が片眉を上げた。
「……謌生さま」
蔀戸の奥には薄紅色の几帳が立てられており、二の姫はその向こうにいるらしい。少し掠れてはいるが、可憐さを感じる声が呼びかけてきた。
「さま、と呼んでいただくような身分ではありませぬ。私は紅緒、こちらは玄梅。どうぞ、そのように」
紅緒が柔らかく応えた。几帳の奥から、息を呑む気配がした。几帳というのは外側からは奥が見え難いが、あちらからは案外こちらが見えるものだ。恐らく紅緒の美貌が目に止まったのだろう。手前に控える女官たちも、わからないほどさり気なく彼女を盗み見ている。
「紅緒、玄梅。どうか廂まで、いらして」
許しを得て、御簾と蔀戸をくぐり、不満顔の女官の前に座る。男性をここまで容易く廂まであげるのは破格の扱いといってもよく、女官たちが快く思わないのも当然なので、玄梅は居心地悪く肩をすぼめた。一方で紅緒は全く意に介していない。まぁ女なのだから当たり前なのだが、今日は華家を訪ねるというのできちんと髷を結って、冠帽も着けている。つまり今日の彼女は、知らぬ者には青年にしか見えないのだった。
だが、ここまで近付いて几帳の向こうの二の姫は時折苦しげに細い息を吐いているのがわかった。思ったより深刻な状況なようだ。
姫様、と紅緒が呼びかけると、少し笑う気配がした。
「私のことは樒と」
勿論、真名ではない。しかし、女官たちはぎょっとして声を上げた。
「姫様! 下々にそのように濫りに御名前を告げてはなりませぬ!」
また、か細い吐息が聞こえた。
「どうせ私はもうすぐ事切れるのです。私のために来てくれた者にくらい自由に名乗りたい」
諦観に満ちた言葉に、玄梅は場違いながら感心した。斎長の二の姫は今年十三になったところだと聞いていたが、為人は随分と大人びているらしい。
「死にませぬよ。私共がさせませぬ、絶対に。な、玄梅」
にこにこと笑う紅緒に急に話を振られて、玄梅は狼狽える。絶対に、などと言い切っているが、我々は様子見に先遣されてきただけの謌生なのだが……。
玄梅はとりあえず視線に『余計なことしないで』という訴えをのせて紅緒に送る。が、反応が無いので口に出す。
「紅緒、嫌な予感がするのですが、気のせいですよね」
「ですが、死なぬとはいえ、いただいた可愛らしい御名は返せと言われてももうお返しませぬよ、樒姫」
十人のうち十人が色めき立つような、艷やかな笑みを几帳の奥に向けた紅緒が玄梅を黙殺した。どうやら気のせいではないらしい。急に帰りたくなった玄梅は白目を剥いた。
一方、先程目くじらを立てていたはずの女官たちは「まぁ!」などと言って頬を染めたりしている。樒姫からも安堵したかのような小さな笑いが漏れた。
「さて、とはいえまずは怪がどういったものかを知らねばなりませぬ。樒姫、今そこに件の怪はおりますか?」
「……はい。待雪、几帳を」
「はい」
几帳の布を纏め上げてしまえば樒姫と直に対面することになるのだが、待雪と呼ばれた女官も最早諦めたのか、背に腹は変えられぬと腹をくくったのか、はたまた紅緒の美貌のおかげか、素直に指示に従った。それでも何だか申し訳なくて、玄梅はそっと目を伏せた。
「おや、これは」
紅緒の驚きの声にはわずかに笑いが含まれていたので、怪訝に思った玄梅はちらりと樒姫の方を見た。
果たしてそこには、小造りな稚さの残る顔に、ふわふわとした飴色の髪をした樒姫が座していた。青褪めた肌に、小さな唇が色を失っていて痛ましい。玄梅と目が合うと、彼女はつぶらな瞳の目尻で弱々しく微笑んでみせた。そしてその膝の上には何かが丸くなっている。全体的に黒々としたごく短い毛に覆われ、ぬらりとした艶でまるで濡れているように見える何か。冬の黄貂のような鬱金色のふさふさした毛を一部に生やした何か。ちょうど中型の獣くらいの大きさの………。
「あれは……猫?」
よく見ようと目を眇める玄梅の呟きに、ぴくりと黒い塊が反応した。最初に感じた甘い匂いがさらに濃く香る。おもむろに、それは、ゆっくりと顔と思われる部分をこちらに向けた。猫のような鼻口が確認できる。そして、閉じた両目にあたる場所がゆっくりと裂け始め、その間にある二本の触覚のようなものがざわざわと揺らめいた。目覚めようとしている。
「……いや? 蜂、かな」
今度は紅緒が囁いた。
今や完全に開いた怪の眼を凝視して、玄梅は小さく呻く。
その奇妙な怪は、穴のように黒い、大きな複眼を持っていた。
何故、こんなことになったのだろうか。
高鞍鴉近は、水が滴る髪を乱暴にかきあげた。仲秋の抜けるような青空の下、濡れそぼって氷のように冷えた衣が体に張り付く。手足の先の感覚は結構前から無い。目の前の寒々しい湖を眺めながら、一瞬、熱い湯を張った湯舟に意識を飛ばした。あぁ、一人で来ていたなら、こんなに苦労することはなかっただろうに。
「宿能生! ボサッとするな!」
鋭く呼ばれて我に返ると、心中で悪態をつき、口では謌を詠む。地響きのような不穏な音が湖から鳴り始め、徐々に大きくなっていく。水面にはざわざわと漣が立っている。
『彼方と此方を隔てしは 黒き壁 高き壁 堅き壁 聲も通さぬ香りも通さぬ想いも通さぬ 無情の壁よ 吾が魂を 削る やよ 削る』
対岸には派手な色目の装束を着た男が謌によって緻密に巨大な幕状の網を編み上げていくのが見えた。複雑に絡み合った蔦の見事な網である。謌生とはいえ流石に先輩なだけある、と鴉近がちょっと上から感心していると、不意に水面が大きく膨れ上がった。次の瞬間、轟音を上げて見上げるほどに高い水柱が湖の真ん中に立った。バラバラと大粒の雨のように水が鴉近に降りかかる。その頂点から躍り出てきたのは、何百という魚の一群である。きらきらと銀色の背が腹が日の光を反射する。統制のとれた動きで、上空で一条の蛇のような躍動感をもって身をくねらせてとんぼ返りすると、速度を上げて真っ直ぐに鴉近に向かって降下してくる。鴉近は地を踏みしめて身構えた。
対岸の先輩がこちらを指差して何か怒鳴っているがよく聞こえない。どうせ「しくじったら殺す」とか何とか言っているのだろう。これが三回目なのだから、鴉近とてもう失敗したくない。失敗の原因は二人の呼吸がなかなか合わないことにある。まぁこの先輩と出会って開口一番に、自分一人で十分なので寮で待っていて欲しいなどと正直に言ってしまった自分が悪いのだが。あれから彼は鴉近のことを名ではなく宿能生と呼ぶ。能力を鼻にかけていけ好かない奴だと思われたのだろう。
しかし、驕りでもなんでもなく真実だ。一人で十分なことも、一緒に来ないで欲しいことも。
眼前に迫る銀色の奔流を見据え、その角度を見極め、見えない何かを持ち上げるように素早く腕を振り上げる。ズバン! という小気味よい音を立てて、鴉近の足下の地面から巨石の一枚壁が一瞬で生え、銀色の蛇は咄嗟に身を捩って右に頭を振る。逸れた何匹もの魚が激しく壁に当たるのを意に介さず、すぐさま鴉近の腕が振られた。魚群の進路に新しい壁が素早く出現し、更に右へ進路を変えさせられた魚たちは、最後にもう一度、突如そそり立った壁によって三度右へ舵を切った。その瞬間、先頭の魚の眼前には植物で編まれた網が迫っていた。何百匹の魚が勢いのままに、ビチビチと生きの良い音を立てながら網に突っ込んでいくのを、鴉近は息を切らせて呆然と眺めた。
「よっし、大漁大漁!」
網を張っていた謌生が、ゆっくりと空を掴むような仕草をした。すると、網は魚を包み込むように隙間なく閉じた。鴉近は彼のもとに駆け寄り、大きく膨れ上がった網を見上げる。
「どうですか?」
「まぁ、待て。今探してやる」
丹色の真更衣に金茶の衣を合わせ、黒に近い茶の袴を穿いた砂色の髪の彼は二年目の謌生で、名を黒羽司琅という。シロちゃんと呼ぶように強要されたが、鴉近は絶対に呼ばない。右の袖を絡げた司琅は、網の口を少しだけ開けて、そこに手を突っ込んで、魚の塊を弄っている。
「んー、来い来い来い来い来い来い来い……」
よくそんなことできるな、と生き物を苦手とする鴉近はげんなりした。
「来い来いこいこ、来たー!!」
叫んだ司琅が、ずぼっと勢いよく魚団子から手を引き抜き、黒いものを地面に叩きつけ、すぐさまその一部を踏みつけた。
果たしてそれは、蝙蝠のような羽根を背に生やした黒い魚であった。司琅は、羽根だけを踏んで逃げないようにしているらしい。それでも自由な尾鰭を必死にピチピチと動かして逃れようとしている。
「これは……この小さな怪があの量の魚を操っていたのですか?」
「そう。こいつがみんなの目になっていたんだなぁ」
「はぁ」
よくわからないが、とにかく謌寮に目撃情報が寄せられた『空飛ぶ銀色の大蛇事件』はこれで解決したらしい。ならば、ずぶ濡れの鴉近は早く帰りたい。というか、司琅は何故全く濡れていないのだろう。恨めしそうに見ている鴉近の視線をよそに、当の本人は黒い魚の怪をつまみ上げて、やや目線をそらしながら不本意そうな口調で鴉近を褒める。
「宿能生もまぁまぁ頑張ったじゃん。ほんとは一回で成功させてほしかったけど。ご褒美としてこの魚、持って帰れば。なかなか美味いから」
司琅が指を鳴らすと、均衡をもって張りつめていた網がくたりと張りを失い、はらはらと解けた。結果、中に詰まっていた夥しい量の魚が流れ出るように草地に散らばった。鴉近は何歩か後退って、びちびちと跳ねながら広がり続ける魚の波を避けた。生臭さが鼻をつく。
「全ては無理です」
「そ? じゃあまぁ残りは湖に戻すか……って、お前なんでそんなぐしゃぐしゃに濡れてんの?! 一緒に歩きたくないから今すぐ乾いてくんない?」
「……はい」
何故、こんなことになったのだろうか。
真面目な鴉近は、魚を拾いながら、深い溜息を吐いた。同時に火を熾す謌を力無く紡ぎながら独り言ちる。
「早くうたよみになりたい……」
今日は高鞍鴉近の厄日である。
2020/10/15 加筆修正