純然たる悪癖の披露 参
昼になると、終日勤務の者以外はさっさと帰宅する。
勤める部署にもよるが、出仕する者の勤務時間は基本的には午前勤務のみで、日替わりで午後も続けて勤務する者、夜間の泊まり込みから翌日の午前まで勤務する者がいる。
新人の謌生たちはしばらくは全員が同じ講義を受けるために、皆が午前勤務であったが、謌寮の一室には一人の新人謌生が居残っていた。紺青の髪に冷たい目の大叢氷雨である。
何をするでもなく文机に頬杖をついて、前方の中空を鋭く睨んでいる。否、睨んでいるようにしか見えないのだが、実際のところ彼は何も考えてなどいなかった。つまり、気に入らない人間を夜陰に紛れて殺す算段を立てている時の顔をしながら、その実、只管ぼんやりしているだけなのである。時折、空腹がちらっと脳裏を過る程度である。
悲しいことに彼の持つ、冷たさを持って整った顔立ちに、目つきの悪さと表情の乏しさが加わり、人に誤解されやすい雰囲気に仕上がってしまっているのだ。対照的に弟の日和が近づきやすい空気を纏っているのも遠因ではある。近寄り難いというか怖い雰囲気の氷雨に直接ものが言えない者が、日和に言伝を頼むことも少なくない。だが、日和ほどではないが氷雨も社交性はあるし、話しかけられれば喋る。本人は、少し顔が怖くて少し感情の起伏が平坦なだけの普通の青年である、と自負している。実際は、より重症なのだが。
とにかく彼は今、視線のみで目の前の壁にとまっている赤い蜻蛉を殺そうとしているのではない。
「あ」
戸口の方から聞こえた小さな声に、氷雨はちろりと黒目だけを向けた。声で半ば予想したとおり、翡翠の瞳の女がそこに立っていた。意外そうに眉を上げた表情を、友人を見つけた子供の顔に早変わりさせて、こちらに足を踏み出したのを認めて視線を前方の壁に戻す。彼女はこちらに向かって来るようだが、氷雨には積極的に話すべき事柄が特にない。それ故の無視であった。
案の定、衣擦れとひたひたと板敷きの床を踏む音が氷雨のすぐ横までやってきて止まった。そして、暫し思案するような間の後で、二歩下がってから腰を下ろした。氷雨の視界の端に卯の花色の袖が入り込む。視線は感じないので、紅緒もまた前方を向いて座っているようだ。すぐ隣というほど近くはないが、存在を無視するには近すぎる距離感である。
ひとしきり長閑な沈黙が続き、その間、何羽かの小鳥の囀りが通り過ぎてゆく。
氷雨は軽く動揺した。この女、何をしに来たのだろう。
やがて、二人分の視線に耐えかねてか、未だ壁にとまっていた蜻蛉が、その薄ら氷の如き翅を震わせてふわりと飛び立ち、開け放してある蔀戸から滑るように外に出ていった。小さな虫の気配が去るのを待って、満を持して紅緒が口を開く。
「日和様の兄君」
探りさぐりといった声音で呼びかけて、ちら、と翡翠色の瞳が氷雨を窺う。が、氷雨はゆっくり一度瞬きをしただけであった。
「氷雨様とお呼びしても?」
「…………」
紅緒は見逃さなかった。ぴくりとも表情に変化のない氷雨の顎が、浅く引かれたのを。ありがとうございます、と嬉しそうに礼を述べた紅緒であったが、そもそもこれといった話題を用意せずに話しかけたとみえて、早々に次の言葉に詰まった。
「えー……と、何故こちらに?」
どうでも良いことを聞いた。まぁ、当たり障りのないことを聞いたとも言う。そう考えながら、紅緒は珍しく殊勝な態度で前を向いている。
氷雨は弟の日和を待っているのだが、ぼんやりと玄梅とかいうあの男も、日和とともにうたよみが藁人形を始末するのを手伝っていたなと考えるうちに紅緒が話を進めてしまった。
「私は、日和様と一緒に宇賀地様の片付けを手伝っている玄梅を待っております」
だから何なんだろう、と紅緒は自問した。柄にもなく緊張している彼女は、意を決したようにくるりと氷雨を振り向いた。彼はやはり壁を睨んでいる。紅緒はしばしその横顔を割と不躾に眺めてから、独りぼっちの会話を再開した。
「氷雨様の謌は旋律が実に美しかった。お声が良いから尚更なのであろう。しかし普段はあまりお話しにならないようで、とても惜しい」
何を言い出すのだ。
氷雨は大いに当惑したが、相変わらず表情は極寒、その視線は壁から微動だにしない。心中ではおろおろとどう返事をしたものか考えあぐねているうちに、紅緒が三度口を開いた。
「あの、日和様とはいつもどのようなお話しを?」
「……」
どんな話? 日和と?
弟との今朝の会話を思い出すうちに、紅緒が重ねて問うてくる。
「うたよみを志されたのはいつ頃からなのですか?」
「……」
氷雨はいつ頃からなのかを真剣に思い起こすために眉間に皺を寄せ、目を閉じた。十になった頃と思うが、厳密に志したのはもっと後だった気もする。
部屋には重い沈黙が満ちた。
紅緒の眉尻が少し下がり、さすがに居た堪れなくなり、そっと氷雨から視線を外した。
「……申し訳ない。五月蝿くしてしまった」
まただ。
氷雨は胃の腑のあたりが重くなったような苦しさを感じてため息を吐いた。話しかけてきた大体の者とこうなってしまう。怯えるか、腹を立てるかして、その後二度と声をかけてはこない。女ならば前者で、最後は必ず「下らないことを申しました、忘れてください」などと小さな声で言って泣くのだ。紅緒の次の言葉を予測しながら氷雨は半眼になる。自分の凶相と口下手が憎い。
「やはりそう簡単には、その美しいお声は聞かせてはもらえませぬか」
紅緒が何やら不思議なことを言い出した。
理解が追いつかない氷雨の脳内に疑問符が浮かぶ。
「私が卦体なのは認めますが、消して悪い人間ではない。だから、どうか出し惜しみせずにお話ししてくださらんか」
「出し惜しみ……」
極小さく呟いて、氷雨は初めて紅緒を顧みた。紅緒は氷雨の様子には気づかぬようで、確かに俯いてはいたが、怯えているというよりは自嘲しているように見える。
「いや、仕様のないことだな。このように怪しげな、しかも弟君に馴れ馴れしく近づく、獣のような目の鴉色の髪の女など……」
氷雨はわずかに目を眇めた。何の話なのかさっぱりわからないが、何かしらの齟齬が生じているようだ。どうやらこの女、自らの素性や風体が怪しいがために、氷雨が話してくれないと思っているらしい。顔が怖いと逃げられるのも悲しいが、この女の勘違いはそれこそ心外な話である。
対して紅緒は幼い頃に負った心的外傷を勝手に引きずり出し、どんよりとした空気を背負っていたが、やがてゆるゆると首を振った。
「まぁ、また懲りずに話しかけます。今日はもうお邪魔いたしませぬが、いつか、その冬の朝の如き美しいお声で私の名を呼んでくだされ」
氷雨には自分の声がとてもそんな良いものに思えはしないが、紅緒が世辞を述べているようにも見えず、よく照れずにそのような台詞を言いこなせるものだと感心する。すると、紅緒が立ち上がる気配がした。さすがの氷雨とてこのまま紅緒を帰すのは拙いと思い、何か言うことを探した。彼女はどうやら自分を恐れたり腹を立てて立ち去るわけではないらしいので、何か言わなければ。
「あぁ」
紅緒が不意に嘆息のように声を上げたので、氷雨は思わずその顔を見上げた。柳眉を歪めて悲痛な表情を浮かべた彼女は、さっと身を屈めると、細い指先で氷雨の前髪を掬った。
氷雨は無表情はそのままに、息を呑んだ。
「申し訳ない、御髪が……」
凍ったように体の動きを止めた氷雨は、鼻をかすめる自分のものではないとろりとした艷やかさのある香の薫りと衣擦れの音に麻痺しかけた思考を叱咤して、そういえば紅緒の謌で前髪が少し焦げていたことを思い出した。が、今はそれどころではない。とにかく心の蔵が落ち着かないので、我が事のように痛ましい目をしている紅緒に、気にしなくていいと早く告げて離れてもらいたい。そんな焦りから、勢いに任せて口を開く。
「……男の髪が焦げたところでなんだと言うのだ」
氷雨は内心頭を抱えた。やっと喋ったと思ったら何なのだ、その言い草は。そうじゃない。いや、概ねそういうことなのだが、そうじゃない。一方で紅緒は眉間にしわを寄せる氷雨のそばに膝をついて、少し驚いた顔をしている。
「でも、穏やかな海の色をした綺麗な髪です。氷雨様そのもののような」
「…………」
この女は今、俺が穏やかだと言ったか? 陰で『触れなば切れん』などと揶揄されている俺を。
氷雨が黙っていると、紅緒はそっと氷雨の髪を手放し、「このお詫びは後日必ず」などと言いながら身を引こうとするので、思わずその手頸を捉える。
「おぉ」
一拍遅れて紅緒から声が漏れた。自ら人に触れることはあれど、その身分の高さゆえに、こんなふうに強く手を掴まれるなどということが滅多にない彼女は純粋に驚いている。そして翡翠玉の如き虹彩を何度も瞬かせて氷雨の手を観察している。
紅緒の様子には気づかないようで、更には自分が大胆にも紅緒の手を取っていることにすら気づいていない様子で、氷雨は逡巡する素振りを見せてから、静かに口を開いた。
「俺はここで日和を待っている」
はた、と紅緒は氷雨を見つめた。
今、彼は何と。
「お前の連れと同じように手伝いをしているから」
氷雨は紅緒を見据えたまま言葉を続ける。
「日和とは日頃、謌の話をする以外は、猫の話などを時折する」
「ね、こ」
紅緒はぽかんと開いていた唇をきゅっと引き結んだ。その目には友人を見つけた子供のような光がよみがえっている。
「うたよみになると決めたのは、十五の頃。謌が詠めると分かったのはもっと前だが、そこまで謌が好きではなかった。それに、俺の声は別にお前が言うほど良くない」
氷雨はそこで一旦言葉を切ると、斜め上を見ながら声を落とす。
「出し惜しみなどするような声でもない。お前は話すのが早い……もっとゆっくり喋れ」
こくこく、と頷く紅緒を見て、一先ず安堵の溜息を吐いた氷雨は、重要なことを思い出して目に力を込めた。
「言っておくが俺は怒っていない」
絶対零度の真顔である。間近にそれを見た紅緒の口の端がひくついた。
「お前を蔑んでもいない。消え失せろとも思っていない。鬱陶しいとも、殺そうとも思っていない」
「し、知っております」
堪えきれずに、ついに紅緒は笑い出した。やはり知っていたのか、と肩の力を抜くと同時に、この女何を笑っているのだろうと氷雨は眉を顰めたが、泣かれるよりいいかと思い直した。
「それから、髪のことは本当にどうでもいいから」
「え?! ちょっと?!」
裏返りかけた男の声が、氷雨の言葉を遮った。
振り返ると日和と玄梅が揃って戸口に立ち尽くしている。やけに青褪めた顔の玄梅に紅緒が呑気に「ご苦労」などと言っている。少しの沈黙のあと、遠慮がちに日和が声を発した。
「あぁあ兄上? あの、随分と紅緒殿と仲良くなられたようで」
弟の滅多に見ない引き攣った顔に、氷雨が自らの右手を見ると、ほっそりとした白い手頸があった。更に、自分の顔の五寸と離れていない位置に紅緒の細面があり、にこにこと笑っている。果たしてそれは世間一般の華家社会で言う、男女の適切な距離の二十分の一ほどの距離感であった。更に本来なら間に御簾などを挟んでいる。
氷雨は精神力を総動員して平静を装い、ゆっくりと紅緒の手頸を掌をはがすようにして、開放した。
「玄梅、そう怖い顔をするな。私が先に氷雨殿の髪に触れたのだ。私が焦がしたから謝りたくて」
「え?! 貴女またそんな……いい加減その、人を誑す癖をどうにかしてください」
「誑すとは人聞きが悪い。本当のことを言っているだけであろ。実際、氷雨殿の髪と声は美しい」
「いや、そういうところですよ? 駄目なのは。大体紅緒は……」
氷雨はさっと立ち上がると、始まった玄梅の小言を背に聞きながら、その部屋を後にする。後ろからついてくる日和のもの言いたげな視線は、気づいていないふりをした。
どうせこの後、車の中で質問攻めに遭うに決まっているのだから。
その日、初出仕を無事に終えた紅緒は、父尚季に「父上によく似た質の同輩がおりました」と嬉々として報告した。つまり、顔と心情が連動しないということなのだろうと正しく理解した尚季は、若いころの自分を思い起こして、しみじみと言った。
「それはさぞかし苦労していることだろう」
「はい、恐らくは。しかし私がいるからには、そのような苦労はさせませぬよ」
にこにことしている娘の男前な言葉に、尚季は『まさかその子のこと娶る気かな』と不安になったが、娘の悪癖を思い出して、そっと眉間を揉みほぐしたのだった。
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2020/10/12 加筆修正