孟春と花房 壱
年が明けた。
寒さはいまなお厳しいが、新しい年を迎えた人々の装いには若草や萌黄の色がみえはじめ、気持ちは早くも春めいてくる。
宮中では、内々で華家たちをざわつかせていた皇帝が蟲物に襲われた件が、年の瀬に五辻保則の捕縛によって一応の収束を見たため、晴れやかな安堵に包まれた新年となった。元日の行事や、続く怪払い儀式などが数日に渡って執り行われ、先日、祷謌の神事も無事に為遂げたという。
そう、祷謌、である。謌生の高鞍鴉近が詠人に選ばれた、例の行事である。
曰く、御前に群臣並み居る前で謌を詠み、身随神を披露したあと祝賀の舞を舞った鴉近は、若年のしかも謌生にしては堂々たる振る舞いだったらしい。
曰く、祷謌の出来は上々で、身随神の扱いも素晴らしく、皇帝からも直々にお褒めの言葉があったという。
曰く、鴉近の禁欲的で端正な顔立ちに華やかな儀礼用の衣装が相まって、なんとも美しかったと聞く。
曰く、皇帝の妃たちの住む宮などでも同じく祷謌を披露して回り、たくさんの女性を魅了した、とか。
「見たかった」
一頻り、伝聞調で鴉近の評判を語ってから、紅緒は端的に嘆いた。
今は一月の末、新年の浮かれた雰囲気が遠い昔のように思えてくるころである。この話をすでに何度も聞かされている玄梅は、後ろを歩く幼馴染を振り返りもしない。
「だから、仕方ないでしょう。未だ謌寮は五辻殿の件で立て込んでいますし、そもそも謌生など宴に出られませんからね」
「そうはいってもやはり、鴉近殿の晴れ姿をこの目でしかと見たうえで、一から十まで褒めちぎりたかったのだ」
鴉近は心底嫌がりそうである。玄梅は苦笑交じりに少し声を落とす。
「主上に輿入れでもしていれば見れたのではないですか」
玄梅は無論、軽口のつもりで言ったのだが。紅緒は、これ以上藪蛇はつつくまいとそっと口を閉じて、素知らぬ顔で冠帽の黒い飾り紐を弄った。今日の紅緒は、髪をきちんと結い上げたうえに冠帽を被り、卯の花色の真更衣の下に花緑青の衣を纏い、寒さで赤く染まった目許すらも麗しい、貴公子然とした出で立ちである。片や玄梅は黒紅色の衣の上に真赭の真更衣を重ねた落ち着いた装いで、常のごとく右手の親指には白金の指環が嵌っている。
「姫様、謌生のお二人がいらっしゃいました」
二人の前を歩いていた案内の女官が立ち止まり、もはや見慣れた御簾の内に静かに声をかけた。すると、すぐに部屋の主が直々に返事をする。
「玄梅、紅緒。どうぞ、廂までいらして」
その弾んだ声に、紅緒と玄梅も笑顔で目を見交わして廂に入った。みずみずしい花のような天香の香りが満ちた室内には、女官が三人行儀よく控えており、その奥に几帳が一つ立てられている。裾と袖を払って座った二人の謌生は、まずはそっと頭を垂れて新年の挨拶を述べた。
「あらたしき歳の始めの目出度きに、幸い多からんことをご祈念申し上げます。樒姫様におかれましては、ご機嫌麗しく何よりでございます」
玄梅の畏まった口上に、面映ゆそうにくすくすと笑う声が几帳から漏れ聞こえる。
「二人にも幸い多からんことを。もう、そんなに堅い挨拶をなさらないで。照れてしまいます」
「樒姫、そう言わずに。玄梅は昨日何度も練習していたのですから。今のは最も良い出来でした」
「まぁ、そうなのですか」
おい、何で言うの、という紅梅の視線を横顔に受けながら、紅緒は几帳の向こうの樒姫と微笑みあう。
本日、紅緒と玄梅は、猫の蜂の件以来何度目かの招待を受けて、治見邸を訪れている。樒姫の傍にいつも控えている待雪も、うら若き主の程近くにわずかに几帳一枚を隔てて、二人が座っても最早何も言わない。彼女にとってみれば、特に玄梅は、身分こそ低いがその身を挺して主を救った、なかなかに見どころのある男である。
「玄梅、挨拶の練習は紅緒と二人でなさったの?」
「はぁ、まぁ、そうですが」
「二人きりで?」
「そうですよ、樒姫。こやつときたら肝心の笑顔が引き攣るのが治らず、私がなんどもほぐしてやったのです。このように」
「うわ、やめてください紅緒、姫の前で」
「なんだ、恥ずかしいのか、頬を赤くして」
「あなたがつまんで引っ張っているからだと思いますけど!?」
「あらぁ……! まぁまぁまぁまぁ」
たとえ彼らとの会話がややおかしくても、樒姫がとてもとても楽しそうにしているのだから構わない、と見守る待雪の目は生暖かい。他の女官は、樒姫同様に「あらぁ……!」の表情になっている。
四半刻ほど一頻りじゃれあって一定の義務を果たした謌生二人は、女官が出してくれた温かな蜜湯を啜って一息つく。蜜湯は、蜂の巣から採れる蜜を湯に溶かしてほんのりと甘くした、なかなかに高価な飲み物である。滋味のある甘さに玄梅の表情がわずかに緩むのを、嬉しそうに眺めていた樒姫が、はた、と手を打った。
「そうでした、二人に聞きたいことがあるのです。ひと月前に五辻様のお邸であったという恐ろしい出来事について」
思わず玄梅が噎せる。まさか深窓の姫君である彼女の耳にまで入っているとは思わなかった。しかも、華家の女性であれば聞いただけで気を失ってしまいそうなあの惨状について、彼女は聞きたいことがあるという。紅緒は片眉を上げて小首を傾げた。
「よく御存知ですね。一体どこの不埒者がその可憐な御耳に血なまぐさい話をお聞かせしたのやら」
やや面白がるような声音で、どこから話が漏れたのか探る紅緒に、樒姫は小さく笑いながら答える。
「不埒な私の父に聞きましたの。あまり広めて良いお話でないことは承知しておりますわ。安心なさって」
あぁ、と玄梅は小さく納得の声を発する。すっかり失念していたが、樒姫の父、天神髭にねっとり口調の治見斎長は、五辻と同じ掃部寮に属している。勿論、斎長の方が位もずっと高い上役であるが、事の子細を知っていて然るべきである。いけない御父上ですね、などと笑いながら、紅緒が話の先を促すと、几帳の向こうで樒姫が少し身を乗り出した気配がした。稚さの残る声に、気遣わし気な響きが滲んでいる。
「実は然程詳しくは知りませんの。ただ、乱心なさった五辻様が家族を手にかけようとしたとか。その時居合わせた謌生が、素晴らしい機転を以て誰も死なさずにその場を治めたと聞いて……それはもしかして」
「玄梅です。えぇ、この玄梅ですとも」
間髪入れずに誇らしげに答えたのは、本人ではなく隣で胸を張っている幼馴染である。やめて、本当にやめて、と玄梅は白目を剥いた。なにしろ自分は、『素晴らしい機転で死者を出さずに治めた』のではない。差し迫った状況に已む無く、不本意に、無念にも、震えながら、その場の人間に無差別に服毒させただけなのだから。
「私はその場にはおりませんでしたが、聞くところによると、並大抵の謌では為す術なく、五辻殿はあわや絶命の危ない状況であったところ、玄梅がいたおかげで大事にならずに済んだそうです。まさに天賦の才があればこそ為せる業。いや、我が幼馴染ながら鼻が高くて」
「ももももうそれくらいで」
玄梅は紅緒の袖を強めに引く。控えている女官たちがひどく感心した様子で頷いており、待雪に至っては、「ご立派です」などと呟いている。几帳の向こうの樒姫は少しの間沈黙していたが、やがて躊躇いがちに玄梅を労う。
「玄梅、本当に立派な活躍ですね……でも、まだ謌生だというのに、人死にが出るような恐ろしいお勤めをなさっているなんて、私、心配で」
無理に明るくしたような声音が、だんだんと萎んでいくのを聞いて、紅緒が、おっと、という表情で口を抑える。が、時すでに遅く、室内にはしんみりした空気が漂い始めてしまった。静まり返った中で、玄梅は、ちら、と紅緒に非難の視線を寄こした後一つ息を吐いて、少し几帳の前に膝を進めた。
「御心を砕いてくださり、有難きことでございます。確かに、少し危険なこともあります。しかしそれは、大抵は私が未熟だからそうなってしまうのです。今回も、恥ずかしながら自信が無く、判断が遅れてしまったので、余計に危なくなってしまったというだけです」
訥々と紡がれていた言葉はそこで途切れた。人見知り口下手引っ込み思案の限界が来たようだ。言葉を選んだ割にはややぶっきらぼうな物言いになってしまったが、打つ手なし、以上です、とばかりに黙り込んだ玄梅を横目に、慌てて紅緒が後を引き継ぐ。
「つまり玄梅は、うたよみになる頃には、樒姫にもご安心いただけるような頼りがいのある男に成長すると申し上げたいのです。だからどうか、愛らしい声をそのように沈ませないでください」
「……そうですね。ごめんなさい、二人はうたよみになるために努力しているのだから、心配より応援した方がよいですね」
気を取り直したように言う樒姫だが、まだ空元気の域を脱していない。少しだけ眉尻を下げた紅緒は、少し思案した後に殊更に明るい表情で口を開いた。
「そういえば、先日私も自信の無さゆえに大失敗してしまい、同輩に鈍間、盆暗、愚図、阿呆と罵られてしまいました。それに比べれば玄梅は」
「誰にですか」
紅緒のあっけらかんとした口調を打ち消す低い声で玄梅が話を遮った。今それはどうでもいいから、と送った目配せは、暗澹たる紅梅の目に受け取りを拒否されたので、紅緒は仕方なく鴉近の名を挙げる。と、玄梅の目がすっと細まった。
「高鞍殿……あの人、紅緒に対して失礼すぎませんか。そろそろ我慢の限界なのですが」
地を這うような声音に、紅緒はぎょっとした。女官たちも驚いて目を瞬かせている。
「ど、どうした玄梅、急に」
「急? 急なものですか。あの人が最初の講義の時から紅緒に悪態をついていたこと、私は忘れていませんからね。遊びに来ているのか、と言ったのですよ、初対面の人間に向かって」
実際には聞こえていなかったので、そうだっけ、と小首を傾げる紅緒をよそに、玄梅の鴉近への不満が止まらない。
「その後も、紅緒が話しかけても無視するわ、目障りだとでも言わんばかりの顔をするわ、舌打ちはするわ、挙句胸座を掴んで恫喝までする始末」
急に饒舌ね、と誰かが呟き、きっちりと高鞍の邸がある方に向けられている玄梅の目がだんだんと据わっていく。今おそらく、邸にいる鴉近の背を悪寒が駆け巡っているに違いない。よくよく思い返してみれば、玄梅が鴉近と話しているところを見たことがない気がする。もしかして本当に初めから馬が合っていなかったのだろうか。幼馴染の妙な地雷を踏んだことに気づいた紅緒が、樒姫や女官たちの様子を窺うと、樒姫は几帳の向こうで表情はわからないが、黙って聞いている。というかごそごそと何かを取り出している音がする。女官たちのほうは「ほう? これはこれで」という興味深げな表情をしている。
ああ成程、これは彼女らを楽しませる新しい試みなのか、流石は玄梅、私との付き合いが長いだけあると盛大に勘違いした紅緒は大きく二度頷いた。
「しかも聞くところによると、久母山での件、高鞍殿はいの一番に逃げたというではありませんか。そんな体たらくで人を口汚く罵るなんていったいどういう神経をしているのでしょうねぇ、あの御仁は。虫が苦手? 宿能生が聞いて呆れると思いませんか」
几帳の向こうから「あ、あ、玄梅もう少しゆっくり……」などという切羽詰まった独り言が漏れ、墨が香り、紙のこすれる音もする。樒姫は何か書き留めているようだ。
「最近ほんの少しまともに紅緒と口を利くようになってきたのも、それはそれで腹立たしいんですよね、正直。一体どの面下げて……紅緒が何も言わないので堪えていますが、いつか紅緒の前で、地に額をつけて、これまでの態度を詫びさせてやる、絶対に」
ついに物騒なことを言い出した玄梅の頤を、横からついと伸びてきた白い指が捉える。その指に従って顔ごと振り返った先には、艶然と微笑む紅緒の顔があった。少しだけ開いた眉頭と伏せ気味の瞳にほんのりと切なさが漂った、十人中九人が胸を貫かれる表情である。世にも希少な貫かれない派の玄梅は、半眼でやや不満そうにしている。
「なんですか、今いいところなのですが」
「『こちらを見ろ。お前の瞳が私を映していないことを、これほど辛く思う日が来るとは思わなかった』」
一瞬、紅緒を除く女たちの時が止まった。




