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うたよみの貴公子姫  作者: 希介
第三章
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毒、滴る 壱

 梅の花が見たい、と姉が言った。

 まだ年が明けて間もない、酷く冷える時節(じせつ)であった。梅は今、やっと固い(つぼみ)をつけたところだ。この時、姉は(せき)の出る病を(わずら)って、ここ三日ほど部屋に(こも)りきりになっていた。少し熱が下がり体が楽になってきた彼女は、褥に横になっているのに飽いて、憂さ晴らしにこんなことを言っているのだろう。幼さ故の我儘(わがまま)に、大人たちは苦笑した。自分はそっと姉の部屋を離れて、母親に梅を早く咲かせるにはどうしたらいいか尋ねた。幼心に姉を気遣っていたのだ。母は優しく撫でてくれた後、少し考えて、暖かいところに枝を置いておけば早く咲くかもしれない、と教えてくれたのだった。それからすぐに、雪のちらつく庭に降りて、白梅の枝ぶりの綺麗なところを丁寧に折り取り、火鉢のある部屋で水を入れた(かめ)()して、毎日世話をした。一朝一夕では咲かないとわかっていたが、これが咲けば長引いている姉の咳が治る気がして、日毎(ひごと)(かめ)の前に正座してはじっと見つめていた。姉はこのまま治らないのではないかという不安が、どろどろと溢れ出すような心持ちの時も、そうしていれば何故か気持ちが休まった。

 そのうち、小指の爪先ほどだった蕾は豆粒ほどに膨らみ、固く締まっていた(うてな)を緩めていった。そしてある朝ついに、弾けるように円い花が幾つもが咲いた。目に痛いような鮮やかな(くれない)の花弁に、幾本も伸びる糸のような(しべ)がどこか生き物じみて見えた。庭の梅は白かったのではないか、と一瞬思ったがすぐにどうでもよくなり、急いで瓶から抜き取ったそれを捧げ持って、姉のもとへ駆ける。彼女は、もうほとんど快癒(かいゆ)していたので、起き上がって笑顔で迎えてくれた。意気揚々と差し出された梅の枝を、嬉しそうに受け取った姉。小さな口から、「ありがとう」の代わりに、こぽり、と(こぼ)れた赤い血が忘れられない。あまりにも唐突で、まるで嘘のように、口を抑えた姉の手から漏れるそれが忘れられない。そばについていた大人の絹を裂くような悲鳴、倒れこむ姉の真っ白な顔、駆け付けた父が自分を振り返ったときの目つき、赤黒く濡れた袖、飛び交う狼狽(ろうばい)の声、そのすべてが忘れられない。

 震える両手を胸に抱え込み、声も出せずに後退(あとずさ)った自らの目に、無造作に床に投げ出されたそれが映る。

 咲いていたはずの毒々しいほどに紅い花は影も形もなく、ただ、開く気配のない赤茶けた(つぼみ)がついているだけの、うら寂しい梅の枝であった。




 薄い瞼がわずかに震える。寝息より幾分深く吸われた息が、長く長く吐き出され、そっと目が開いた。密に生えそろった睫毛(まつげ)(かげ)った瞳は、ぼんやりと天井の格子(こうし)を映している。天蓋(てんがい)などはない簡素な寝床である。(ふすま)だけは絹綿(きぬわた)の入った良いものを掛けてはいるが、目が覚めれば覚めるほどに肺腑(はいふ)を満たす空気のしんとした冷たさが、身体を冷やしていくように感じる。濃い紅梅色の虹彩の濁りを(ぬぐ)うように、ゆるゆると瞬きをしてから、(ふすま)の下で(かす)かに身じろいだ。右手親指に(はま)っている硬質な()を、人差し指の側面でゆっくり(こす)るようにして確かめる。ほんのり(ぬく)まった白金の指環だ。手のひら側に施された梅の細工をなぞれば、指先に微かに感じる凹凸が、安堵と忌々しさを同時に(もたら)す。すっかり癖になってしまったその仕草を、意を決したように止めると、鴫沼(しぎぬま)玄梅(くろうめ)は深く息を吐きながら(しとね)から身を起こした。






鴫沼(しぎぬま)は、女の兄弟はいるか?」

 先を行く獣の太い尾がゆらゆらと揺れている。氷雨(ひさめ)身随神(みずいじん )の大きな山猫である。それがしなやかに肩を動かすたびに、綸子(りんず)のような艶のある黒い毛並みに同色の縞模様や斑点が浮かんだり消えたりする様を、ぼんやりと眺めながら歩いていた玄梅は、はた、と顔を上げた。並んで歩いている氷雨が横目でこちらを見ている。見て、いるんだよな……? 睨んでいるわけではないはず……などと脳内で呟いて、そっと目線を外しながら、玄梅は答えた。

「姉が一人おりますが」

 そこそこ良い家に()した玄梅の姉は、低位とはいえ華家(かげ)の娘としてはなかなかに奔放な性格ながら、夫君(ふくん)の懐がよほど深いのか順調な新婚生活を営んでいるようで、来月には臨月を迎える。顔立ちこそ玄梅とよく似ているが、性質は似ても似つかないような姉だ。先だっても、夫婦喧嘩をしたとかで澄ました顔で数日間実家に居座っていた姉を思い出して、苦い顔をしていると、氷雨が、どおりで、と呟いた。

「女の扱いがうまい」

「お……女の、扱い」

 玄梅は音を立てて固唾(かたず)を呑みこんだ。語弊(ごへい)がすごい。おそらくは玄梅の紅緒(べにお)に対する態度を見てそのように言っているのだろうが、あれはどちらかというと『子供の扱い』に近いと玄梅は自覚している。氷雨は玄梅が紅緒以外の婦女と接しているところをあまり見たことがないので勘違いしているのかもしれないが、人間全般に対して遺憾(いかん)なく人見知りを発揮する玄梅が、女性の扱いがうまいなどということは絶対にない。

 まるで自分が女誑(おんなたら)しかのような言い方はやめて欲しいです、と言いたいがなかなか言えない玄梅は、さくさくと雪を踏む足下へと目を泳がせた。

 年の瀬の皇都は、冷たい天色(あまいろ)に晴れ渡った空の下、身を切るような風もなく、寒いとはいえ穏やかな朝を迎えていた。道々の雪には、すでに多くの足跡がついており、ぬかるむほどではないもののそこかしこが土で黒く汚れている。

 大叢(おおむら)氷雨(ひさめ)鴫沼(しぎぬま)玄梅(くろうめ)は今、宇賀地(うがち)の指示で、とある華家の(やしき)に向かっている道中である。謌生(うたのしょう)の残り三人は今日、近場の山に登らされているとか。それに比べれば、多少足下が悪くとも文句は言えない。平気な顔で雪の山道を登っていきそうな自称深窓の姫君を思い出しながら、玄梅は口を開いた。

「紅緒のことでしたら、あれは幼馴染だからですよ。幼いころから世話を焼いていた癖で」

 そこで、はっと口を(つぐ)んだ。紅緒は出自を隠しているのだから、昔のことはあまり触れないほうがいいのかもしれないと思ったのだ。玄梅が横目で(うかが)うと、幸いにも氷雨は不自然に途切れた言葉を気にした風はなく、ただ無表情で、なるほど、と頷いただけだった。

 そして、訪れた気まずい沈黙が二人の足音を必要以上に響かせる。この道中、この調子で一言二言交わしては黙ってを繰り返している。口下手同士の会話など、所詮(しょせん)はこんなものであった。

 ややあってから、耐えかねた玄梅が沈黙を破った。

「そ、それにしても、五辻(いつつじ)様はどうなされたのでしょうね。昨日はあんなに謌寮(うたのつかさ)(かくま)ってほしいと頼み込んでおられたのに」

「……あぁ。まさかこちらから迎えに行くことになるとはな」

 頷いた氷雨は、昨日謌寮に現れた五辻(いつつじ)保則(やすのり)の顔を思い出す。掃部寮(かもんりょう)史生(ししょう)を務める男である。然程(さほど)位は高くなく、父親が亡くなってからは、じわじわと家が傾いていると聞いた。しかし、それを差し引いても彼の身なりは酷く(すす)けていた。乱れた(びん)や泥が跳ねたままの(はかま)(すそ)を見るに、無頓着(むとんちゃく)といったほうがいいかもしれない。さらに頬はこけ目は落ち(くぼ)み、土気色の肌は血が通っているのか疑わしくなるほどに艶がなかった。宇賀地が彼に対応する場に謌生(うたのしょう)たちも同席したのだが、(うつむ)いて黙りこくる五辻(いつつじ)の発する異様な気配に、全員がちらちらと宇賀地の様子を窺った。それは、うたよみや謌生(うたのしょう)にとっては、いっそ目に見える臭気といっても過言ではないほどに、痩せて骨ばった男の肩から立ち昇っていた。あれは魂魄が腐敗する臭いだった、と氷雨は思う。指導役のうたよみは、垂れた(とび)色の目を少しだけ(すが)めて、五辻の左手を見つめている。細長く裂かれた麻布が、小指と薬指を一緒に巻いて、手首まで覆っている。一目で血とわかるどす黒く変色した液体が、ちょうど二本の指あたりから滲んでいた。

 五辻は、しばし放心したかのように黙っていたが、やがて独り()ちるように口を開いた。ひび割れた声で途切れ途切れに話すには、自分は大きな罪を犯した、と。その報いが夜ごと自分を(さいな)みに来る。このままではきっと殺されてしまう。いや、私はもうすでに駄目かもしれない。いやだ、死にたくない。ずるいずるい、俺はまだ生きているのに、母は妹は、ずるい。……いや、違う。違うな。そうだ、あの二人もとり殺されるかもしれないんだ。だからどうか私と、母と妹も、一緒に謌寮(うたのつかさ)で守ってくれないか。あぁ、口惜(くや)しい、不条理だ。俺のせいではないのに、なぜ俺が。ずるいずるいずるいずるい。お前たちが知りたがってることについて、俺の罪について告白するから、どうか。もう耐えられない。だって自分も家族ももうすぐ

「ちぎられて、あかぁく、くろく、ちいぃさく、まろめられてしまう」

「氷雨殿?」

 名を呼ばれて、氷雨は我に返った。いつの間にか、玄梅も氷雨も足を止めていた。耳にまとわりつく五辻の熱に浮かされたような声を振り払って、瑠璃紺(るりこん)の瞳を左右に走らせると、目の前に、破れかけた小柴垣(こじばがき)と、何とか体裁(ていさい)を保っている門がある。道案内をしていた黒山猫の姿が消えているところを見ると、目的の五辻邸に辿り着いているようだ。

「大丈夫ですか」

「……昨日の五辻殿を思い出していた」

 あぁ、と玄梅は眉尻を下げた。紅梅色の目には同情や悲哀ではなく、嫌悪がうっすうらと浮かんでいる。

「最後はかなり取り乱していて全く要領を得ませんでしたね。おかげで紅緒が無駄に興味を持ってしまって」

 自らの精神衛生上の理由で、彼女にはこういう物騒な匂いのぷんぷんする事柄に、できる限り首を突っ込まないでほしい、と心中で舌打つ玄梅の顔には「いい迷惑だ」とはっきり書いてある。それを流し見て、この男も大概だな、と氷雨は思う。

 それはさておき五辻邸である。

 門外から見ても、(やしき)の荒れ具合が酷く、晴天の下でも薄暗い雰囲気が漂っている。しかも、さびれていることを差し引いても、やけに人の気配を感じない。客の訪れを告げても(こた)えは期待できないであろうことが、ありありと伝わってくる。しばし無言で門の中を窺っていた二人は、ちら、と目線を交わした。氷雨が浅く溜息を吐いてから、深く息を吸ってわずかに姿勢を正した。

「まぁ……あのように差し迫った様子で、夕刻には必ず母と妹を連れてくると言っていた人間が現れなかったのだ。何かないほうがおかしい」

 低い声で言って、(おもむろ)に門の中に一歩踏み込んだ。さくりと踏んだ雪は、足跡一つなく真っ新である。少なくとも今朝は誰も出入りしていないようだ。そのまま遠慮なく歩を進める氷雨を、玄梅は嫌々ながら追う。

 庭は物寂しく(すさ)んでおり、(やしき)自体も近づけば近づくほど傷みが目につく。低位とはいえ華家の邸宅としての様式は踏襲(とうしゅう)しているが、屋根の檜皮(ひわだ)()がれたり、少し(かし)いでいる柱が幾本か見られる。冬の朝の冷たく清らかな空気が、邸に踏み入った途端、肌に(まと)わりつくようになり、毛穴を(いや)らしく逆撫でていくのを確かに感じる。二人の謌生(うたのしょう)は声を発さずに、辺りを探りながらとりあえず寝屋(ねや)に向かう。五辻保則がいるならばきっとここであろう。が、辿り着いた寝屋は格子や(しとみ)が下りていて、しんと静まり返っている。

「五辻殿。謌寮(うたのつかさ)よりの(つか)いにござりまする」

 玄梅がやや声を張って庭から呼びかけたが、やはり邸内(ていない)からは物音ひとつせず、生きているものの気配を全く感じない。中で誰かが息を潜めている、などということも考えづらい。謌寮 (うたのつかさ)からの来た者を隠れてやり過ごしても、五辻に利がない。もう一度、今度はもっと大きな声で名を呼んでから、玄梅は無意味に背伸びをして見えるはずもない寝屋の中を覗き込んだりして少し待ってみたが、やはり五辻が姿を現す気配はない。右手の親指に指環を無意識に(いじ)りつつ、玄梅は「どうします?」と言いながら背後の氷雨を振り返る。と、彼はやや中途半端な姿勢で顔だけを左に向けていた。様子がおかしい。

「どうされま」

「シッ」

 息だけで鋭く制されて、玄梅はやや垂れ気味の目を(しばたた)かせたが、氷雨の発する(ただ)ならぬ空気に()されて黙る。親の(かたき)でも見つけたかのような氷雨の視線を追えば、どうやら北の(たい)を見ているようだ。陽光に照らされた屋根や柱がこちらの建物と同じように傷んでいる様がここからでもわかる。

「――聞こえたか、今の」

 低く静かだが、緊張を(はら)んだ声音で問われて、玄梅も北の対を見たまま声を潜める。

「いえ、何も。何か聞こえました?」

「女の、泣いているような……」

 言いさした氷雨と玄梅の耳に、(かす)かに、だが今度は確かに聞こえた。誰かが(むせ)び泣いているような声だ。やはり北の対から漏れ聞こえているようだ。泣き声に小さな悲鳴が混ざるのを聞いて、二人は素早く視線を交わし、北の対に足を向けた。


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