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うたよみの貴公子姫  作者: 希介
第三章
24/28

先つ祖へ返る者 参

 ようやっと立ち上がった日和(はるたか)ににこりと微笑みかけた紅緒は、大きく背後を振り仰いだ。

 蜘蛛の形をした巨大な()はもう目と鼻の先に迫っており、歓喜するかのように上顎(うわあご)(うごめ)かせている様も(つぶさ)に見て取れる。今、やや頭をもたげたのは、振り上げた脚を自分たちに振り下ろすためか、と日和が歯噛(はが)みする。

 その時、それは忽然(こつぜん)と姿を現した。

 この白銀世界の(あるじ)であると言われれば信じてしまいそうなほどに、白ずくめの男。

 常より身に着けている時代がかった装束(しょうぞく)は、全く冬向けの物ではないが本人は寒さなど意に介するふうもなく、実際、鼻の頭も耳朶(じだ)も全く赤くなどなっていない。そもそも息をしているのかどうか定かではないが、呼気も(もや)を作らない。今となっては知り得ない神祖(しんそ)という存在を彷彿(ほうふつ)とさせるに十分な、その神々しい立ち姿の割に、やや不満げにみえる表情は妙に人間臭く、大きめの口をへの字に結んでいる。雪まみれになって荒く息をついている日和と、何やら嬉しそうにしている紅緒。そのすぐ傍らに現れた身随神が(おもむろ)に口を開きかけた、その背後で、空高く伸びあがった不吉な黒い影を翡翠(ひすい)色の瞳が映した。

 突如、日和と紅緒を横合いからの衝撃が襲う。

 急に腰の辺りを()がれるように勢いよく引っ張られ、その場に残ろうとする頭や手足が一拍遅れてついてくる。誰かの腕が腰を抱え込んでいるのだと気付いたが、腹に感じる強い圧迫で二人とも声を出せずにいると、すぐにつま先が宙に浮いて、内臓が沈み込むような嫌な感覚を覚える。紅緒の視界を茶褐色の大きな風切り羽が(かす)めた瞬間、大蜘蛛が地面を穿(うが)つ大きな音が聞こえた。先ほどまで二人が立っていた場所が大きく(えぐ)られる音だろう。思わずつぶった目を開けば、素早く後ろへ流れ去る雪景色しか見えない。耳元で風が鋭く鳴き、自らの衣が激しくはためくのを感じる。

「あ、あこん殿」

 軽い眩暈(めまい)を感じながら、やっとのことで声を上げた紅緒が首を巡らせて見上げれば、両脇に紅緒と日和を抱えた鴉近(あこん)が歯を食いしばって飛んでいる。その背の大きな翼が大きく羽撃(はばた)くたびに前への推進力は生まれるが、徐々に地面が近くなっていく。重いのだ。それでもできるだけ距離を稼ごうと速さを失わないように粘る。が、いよいよ、低い茂みにすら紅緒のつま先が(かす)めるかと思われるほどに高度が落ちたとき、鴉近が短く詫びた。

「すまん」

 直後に、日和の腹を支えていた腕が耐えかねたように離され、すぐさま訪れた着地の衝撃に「うぐっ」というくぐもった悲鳴を上げた後、二、三度転がって新雪の雪だまりに突っ込んで埋まった。そこから少し離れた、木群(こむ)れが濃く見通しが悪いところまで何とか辿り着いた鴉近は、着地すると同時に乱暴に紅緒を放り出すと、息を切らせて地に倒れ込むように膝をついた。その背にはもう翼は無い。紅緒はすぐに鴉近を引きずるようにして手近な茂みに身を隠した。残念ながら大蜘蛛の四つの目は、鴉近が飛び去った方向を見失わなかったようだ。黒い巨体が周囲を探りつつゆっくりと確実にこちらに向かってきているのが遠くに見える。幸い、日和が埋まったと思しき辺りには今のところ気付いていないように見えた。それを確認した紅緒は、さっと身をかがめて、やや青褪(あおざ)めた鴉近の顔を覗き込む。彼はまだ肩で息をしている。

「蜘蛛がお嫌いなのに戻ってきてくださったのか。有難い」

 喜色を隠そうともしないその声が、それはもう大いに気に(さわ)った鴉近は端正な顔を歪めて顔を背けた。

「貴様、もっと早く身随神(みずいじん)を呼べ! この、鈍間(のろま)

「の、のろま」

盆暗(ぼんくら)

「ぼんくら」

 心も体も疲れ果てたところに紅緒への苛立ちと自己嫌悪と自暴自棄が重なった鴉近は、まるで悪態しか語彙(ごい)がないかのように、愚図(ぐず)、阿呆、間抜け、軽薄、粗忽(そこつ)、とぼそりぼそりと紅緒を端的に(ののし)り続ける。歯に衣を着せる気力も無い様子だ。紅緒は目を(みは)ってただ罵倒(ばとう)を浴びていたが、やがてきゅっと唇を引き結ぶと右手の人差し指でそっと鴉近の顎を(すく)いあげた。力無く視線をあげれば、かちりと視線が合った翡翠の瞳がやけにきらきらと輝いていたので、鴉近は絶望した。

「よう言うてくださった。容姿以外をそのように大っぴらに(そし)られたのは初めてではありますが、真の友とは心の内を明かし合うものだと心得ております故、心配なさらずどんどん言うてくだされ」

「はああぁぁあ……! そうじゃない……」

 大輪の牡丹の如き艶やかな微笑に向かって、溜め息とも悲鳴ともつかない声をあげて鴉近は力無く項垂(うなだ)れた。上機嫌の麗人は、その背を(なだ)めるように優しく叩く。

「おい、烏。俺を(おとり)にしたな」

 軽やかな紅緒の手とは違う感触が、鴉近の右の肩を掴んだ。わずかに首を(すく)めた後、ちら、と背後を見遣れば、果たして全くの無傷の巳珂(みか)が、ややくったりした日和(はるたか)の首根っこをひっつかんで立っていた。雪にまみれたまま微動だにしない大叢(おおむら)家の子息は、恐らくは気を失っているのだろう。意外なことに、巳珂の表情にも声音にも怒りはなく、かわりにうっすらと呆れが(にじ)んでいる。

「紅緒、お前、まさかあの虫けらに手を焼いて俺を呼んだのではないだろうな」

 駄目か、と後ろ頭を()く主人に、身随神(みずいじん)は少し考えて口を開いた。

「あの虫を(ちり)にするのは造作(ぞうさ)もないが、やたらと甘やかすのはお前のためにならない。俺のためにもならない。烏もそう思うだろう」

「い……はい」

 鴉近は喉まで出かかった「いいからあの(おぞま)ましいものを塵にしてくれ」を呑み込んで、何とか返事をした。

「大体、暇なときに茶飲み相手として()ぶばかりで、俺への信心が薄すぎやしないか。これでは後始末くらいしかしてやれないよ」

 ほんの少し、()ねたような響きを含んだ言葉にも、紅緒はあっけらかんとして「(しか)り然り」と笑った。まさかとは思うが、と鴉近は固唾(かたず)を呑んだ。まさかとは思うが、この女、もともと巳珂を(たて)にするためだけに()んだのではないだろうな。一般に言って身随神(みずいじん)の使い方として間違いとは言い切れない。状況や(カミ)の性質によってそういうこともあるだろう。だが、しかし、いくらなんでもこれは使い方を間違っているのでは。当の元神祖(しんそ)は、まるで子どもを(さと)すような調子で「出し惜しみはよくないぞ」などと自らの(あるじ)に声をかけている。すでにかなり近づいてきている大蜘蛛の様子を(うかが)いながら、紅緒は唇を尖らせた。

「出し惜しみなどではない、加減に自信が無かっただけよ。まぁ、巳珂がおれば大丈夫だろうし、せっかく鴉近殿がここまで距離をとってくださったのだ。遠慮なく詠もうぞ」

 雪を使うか、と続いた言葉を鴉近が理解する前に、巳珂が日和を地面に放り出した。仕方がない、という表情をその蛇顔に浮かべた身随神(みずいじん)は紅緒たちのすぐ正面に立つと腕を組んで尊大(そんだい)に顎をしゃくる。紅緒は、大蜘蛛に背を向けて仁王立ちする巳珂に嬉しそうに破顔して、大きく息を吸ってから目を伏せた。間を置かず、足元から目に見えない何かが立ち昇っているかのように、紅緒の衣の(すそ)や袖がゆるやかに(ひるがえ)る。長いまつ毛の下で揺らめく明るい緑の光が、弾けては(とも)ってまるで火花のようである。いつもの笑みを失くした彼女は、冷たく人形じみて見えて、鴉近は密かに身震いした。やがて、珊瑚(さんご)色の薄い唇からはじめの一節が滑り(いで)る。

『……ひ きよきめをうがつもの ひ しろきのどをくびるもの ひ しなやかなうでをたおるもの』

 低く穏やかな声で(つむ)がれる(ことば)は、懐かしさと不安を呼び起こす薄ら暗い節回しで謌となり、やがてそれに呼応するように、ざわざわと足許を何かが()い始める。(いや)、這っているのではなかった。舞い上がっているのだ。地に降り積もった雪が、表面から順に削り取られるように細かい水滴となって宙に巻き上げられていく。紅緒を中心に円状に雪が消えていく速さたるや目で追えぬほどで、すぐに目の届く範囲は全て地面が露わになってしまった。鴉近が昇っていく水滴を追って上を見上げると、あれほど木々を白くしていた雪も跡形もなくなっており、代わりに蒼穹(そうきゅう)に何かきらきらした(かたまり)がひとつ、水滴を集めて信じられない速さで大きくなっていくのが見える。

『ひ いつ あしをぬいつけ ひ いつ からだをひしぎ ひ いつ こころをくだき されどもこえのあつきに とかされる』

 一抱えある大きさから、馬ほどの大きさへ、さらに大きくなっていく透明感のある塊。あれは雪を水に変えて再び凍らせた氷塊だ、と鴉近が認識する頃には空いっぱいに膨れ上がったそれは、まるで独楽こまのような形をして、底面の鈍い角が大蜘蛛を睥睨(へいげい)している。きしり、ぱきり、と大きく(きし)む音が響いており、静々と降ってくる大気よりも数段冷たい冷気を浴びた大蜘蛛が、逃げまどっている。あぁ、しかし無駄だ、あの大きさではその程度の距離を逃げても当たる、とぼんやり考えた鴉近は、直後、全身を強張(こわば)らせた。我々にも当たるのでは? と。

 巳珂が「横着者(おうちゃくもの)」と呟くのが聞こえた。

『あがたまを けずりとる それ けずりとる』

 一種異様な光景とは裏腹に、微塵(みじん)(たかぶ)ることなくあくまで静かな調子を保ったまま、紅緒が最後の(ふし)を詠みあげた。直後、見えない支えを失った氷塊が全てを押し潰さんと落下し、視界いっぱいに迫りくる冷たい(きら)めきに、鴉近は(まぶた)を強く閉じた。




「聞いたぞ。山に穴をあけたらしいな」

 謌寮(うたのつかさ)に帰り着いたぼろぼろの三人を、宇賀地(うがち)が出迎えた。

 結論として、大蜘蛛は紅緒に跡形(あとかた)もなく潰され、謌生三人は無事、山を下りることができた。本題の酒室(さかむろ)についても律義に確認しに登った。逃げる勢いに任せてかなり下ってきていたらしく、山頂付近にある酒室には大蜘蛛との衝突の影響もなく、なんとか無事だったので三人は胸を撫で下ろした。ついでに鴉近(あこん)が大蜘蛛と遭遇した場所を確認したが、酒室と同じような洞穴(どうけつ)に大蜘蛛の冬ごもりの形跡があり、出入り口を自ら石や土で塞いで(こも)っていたのではないかと思われた。

久母山(くもやま)の方からすごい音がして見てみれば、春がきたみたいに山からすっかり雪消えたってんで、謌寮(ここ)は一騒動だ。うたよみが何人か様子見に飛んで行ったよ。俺はちゃんと説明したんだがな、きっと謌生(うたのしょう)の仕業だって」

 半眼でにやにやするこのうたよみを嫌いになりそうなので、鴉近は紅緒と日和(はるたか)の後ろで報告もせずに黙って死んだ目をしていることにした。代わりに日和が疲れ果てた声音で事の顛末(てんまつ)を説明し、紅緒一人が朝と変わらぬ様子で、表情だけはやや神妙している。

「……といった次第(しだい)で、酒室も古酒も無事、見渡す限りの雪がなくなり、大蜘蛛も跡形もなくなり、西の山肌に深い(くぼ)が残りました」

「そうか、氷塊だったか」

 宇賀地は得心(とくしん)がいったという顔をして腕を組んだ。久母山から聞こえた音や雪の量から考えて、さぞかし大きな氷塊だったろう。あんな蜘蛛なんぞひとたまりもないほどに。

「紅緒、魂魄はどれくらい削った」

「普段を一つまみとすれば、一掬(いっきく)程度かと」

 一掬(いっきく)。それを聞いて、鴉近は目を伏せた。彼女の一掬(ひとすく)いほどの魂魄と引き換えに作り出された凍てつく塊は、大蜘蛛を押し潰し、雪の消えた地面を深く穿(うが)った。勿論(もちろん)、鴉近たちの上にも等しく容赦なく()し掛かるように()ちてきたので、死を覚悟する(ひま)もなく(まぶた)によって視界を暗転させたが、一向に死ななかった。ゆっくりと目を開けた鴉近が見たのは、人を食ったような巳珂(みか)の薄ら笑いであった。「俺とて潰れたくはないからな」とだけ(のたま)った身随神(みずいじん)の背後では、夏の如き白く濃い雲がいくつも群れる青空に、薄くひんやりとした虹が架かっているのが見えた。自分たちを押し潰したはずの氷塊は煙のように消えたが、大きく深く(えぐ)れた地面に、大蜘蛛の死骸というよりも痕跡が辛うじてみとめられた。それを目の当たりにしたとき、鴉近の脳裡(のうり)を巳珂の言葉が(よぎ)った。大昔に彼を封じた伽々羅(カカラ)の者は山一つ消すほどの謌を詠んだという、あれだ。紅緒の謌で決して山が消し飛んだわけではない。それでも鴉近は、思わず紅緒を振り返った自らの視線に、当惑と(おそ)れが(にじ)むのを抑えられなかった。そして、ずっとなおざりにしていた疑問が久方ぶりに胸に去来(きょらい)する。この女の魂魄はどうなっているのか。元とはいえ神祖(しんそ)身随神(みずいじん)とすることができているのは何故か。一体、何者なのか。

「それはさておき、うたよみ殿。あの蜘蛛は死んだように寝ていると(おっしゃ)らなかったか」

 常よりやや低い紅緒の声で、鴉近は我に返った。日和も恨みがましい視線を宇賀地に送っている。彼は気絶までしたのだから仕方がない。対して熊によく似たうたよみは、後ろ頭を掻きながら悪びれもせずに笑う。

「言ったか、そんなこと」

「言いました……っ」

「お、鴉近、怒ってるな。まぁ、今年は偶然冬眠しなかったのかもなぁ。それに偶然にもあの蜘蛛はいい加減退治するように酒造司(さけつくりのつかさ)から苦情がでていたところだったし、偶然うたよみが皆忙しくて放置しているうちに、偶然見回りに向かったお前たちが出くわして、偶然紅緒が居合わせて何とかなって良かったよ」

 やたらと偶然が多い念を押すような宇賀地の言に、紅緒が片眉を上げて頷いた。

成程(なるほど)。次からはそのように回りくどくなさらずとも良いですよ」

 今思えば、いつもは二人で組んで行動しているのに、表向きは簡単な仕事にもかかわらず今日に限って三人も()かれたことにも、思惑あってのことだったのだろう。しかし、退治しても良いのなら、そう言ってもらえればもっとやりようがあったというのに、紅緒がぎりぎりまでどうしようか迷っていた結果、少し大事になってしまった。

「おっと、何のことを言っているのか俺にはさっぱり分からない。が、いくら我々うたよみが別件で忙殺(ぼうさつ)されていても、謌生(うたのしょう)には荷が勝ちすぎる件を、そう大っぴらに押し付けられない」

 肩を(すく)める宇賀地のすっとぼけた表情を、鴉近は心に刻んだ。この倫理観が微妙にゆるいうたよみのことは二度と信用しない。虫嫌いの逆恨みも含まれている視線に気付かぬまま、宇賀地は三人に報告を書くように告げて、自らの職務に戻っていった。


更新遅くなりました。


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