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うたよみの貴公子姫  作者: 希介
第三章
23/28

先つ祖へ返る者 弐

 鴉近(あこん)は、無心で雪を踏んでいた。

 酒室(さかむろ)のある洞穴(ほらあな)までの目印を横目に、歩きやすそうなところを選んで適当に踏み固めていく。ざくざくとやや乱暴に歩を進める自らの足音と、少しごわつく円被(えんぴ)衣擦(きぬず)れだけが耳を支配している。後方の呑気(のんき)な連れの姿はすでに木々に隠れて見えず、かわりに前方に山頂というのも(はばか)られるほどになだらかな天辺(てっぺん)が近づいている。足を止めて、抜けるように澄んだ空を仰いだ鴉近(あこん)は浅く一息()いた。表面を薄く雪に(おお)われた大きな岩が目の前にあったので、それに手をついて少し休みながら辺りを見回せば、同じような黒っぽい岩が斜面に露出していて、目当ての洞穴が近い雰囲気を感じる。いっそ一人でさっさと酒室まで行って確認してきてしまおうかとも思ったが、ここまで道を作ってきた意味がなくなるし、何よりあの二人に楽をさせるのは(しゃく)(さわ)る。とりあえず露払(つゆはら)いはここまでにして、二人がここまで登ってくるのをここで待つか、一度戻るか。そこまで考えて、少し暑くなってきたので、ばさりと円被(えんぴ)の半身を(まく)り上げて肩にかけた。

 ふと、違和感を覚える。

 動いていないのに、衣擦(きぬず)れが聞こえる。

 (いや)、違う。今もカサコソと間近で聞こえ続けるこの音を、鴉近は自らの衣擦(きぬず)れだと思っていた。だが、今しがた円被(えんぴ)を払った音とは出所(でどころ)が微妙に違ううえ、やけに硬質な感じがする。風や水の立てる音ではない。生き物の意思を生々しく感じさせる不規則さを持つそれが、どこから聞こえるのか、視線だけを横に(すべ)らせた鴉近はわかってしまった。手をついている岩と、その隣の岩との間、縦に()けた口のような大きめの、暗い、暗い隙間(すきま)。その奥から、まるで何かが絶えず身動(みじろ)ぎをしているような音が聞こえてくる。

 とてつもなく嫌な予感が、鴉近の心の臓を無遠慮(ぶえんりょ)に撫でた。

 そのまま立ち去りたい衝動を何とかねじ伏せて、息を殺し、なるべくゆっくりと裂け目を(のぞ)き込む。奥の方は空洞(くうどう)になっているのか、闇が深くて何も見えないが、何かが(うごめ)いているわけでもなさそうだ。ほんのわずかに安堵(あんど)した鴉近は少し顔を引いて、奥よりはまだ薄く光が差し込んでいる手前の薄暗がりに何気なく視線を転じた。(すみれ)色の瞳が、鈍く光る何かを(とら)える。光り方からして、円い、暗い色をした何かである。大きさは人の頭ほど。四つほど並んでいるように見える。それでもまだ何かわからず、鴉近は伸びあがって隙間を覗き込み、もっとよく見ようと目を(すが)める。すると(にわ)かに、(まる)いそれら全てが、確実に鴉近を《《見た》》気配がした。

 声も漏らさず、鴉近はただ息を止めて全身の産毛を逆立たせた。




 焚火(たきび)の中で、燃え尽きた細い枝が音も立てずに崩れた。間に合わせの(たきぎ)では量が足りず、積み方も良くなかったのか、鴉近が(おこ)した火はやや勢いを落としていたが、それでもまだ暖かく燃えている。

 それをぼんやりと見ている日和(はるたか)を、無言の紅緒が横目で観察している

 今しがた、「綺麗な目もあまりしなくなったしね」と高鞍(たかくら)鴉近について不思議な所感(しょかん)を述べた日和(はるたか)は、それ以上何か言う気配もなく、無造作に細い枝を火にくべた。普段は暗い赤銅(しゃくどう)色に沈んでいる瞳が、盛んに燃える(だいだい)色を映して、ちらちらと(あや)しく明滅(めいめつ)している。視線を日和の横顔から前方に戻して、いつになく真剣な表情を浮かべた紅緒は、何度か(まばた)きをしてから、口を開いた。が、躊躇(ちゅうちょ)の末に何も発言しないままに、そっと口を閉じた。そのまま、一頻(ひとしき)り沈黙が続き、二人の間で木が()ぜる音だけがやけに大きく響く。

「…………いや、何か言って?」

 耐えかねた日和(はるたか)が力無くそう言ってから恥ずかしそうに両手で顔を(おお)ってしまったので、紅緒は、さっと彼に向き直る。

「これは申し訳ない。(ひと)り言なのか、(こた)えても良いのか(はん)じかねまして。いや、しかし日和殿が鴉近殿を綺麗と思うていらっしゃったとは(つゆし)知らず。いつもはそういうことに(うと)いつもりはないのですが、全く、それはもうまっっったく気付かず。少し動転(どうてん)してしまいました。しかしそういうことならこの紅緒、喜んで協力いたしますゆえ」

 (せき)を切ったように話しながら自信ありげに胸に手を添えた直後に、「もしかして今日私は邪魔でしたか?」などと心配そうにする男装の麗人を、日和は至極(しごく)面白そうにじっくりと眺めてから、彼女の細い肩を優しく叩いた。目許(めもと)には苦笑が浮かんでいる。

「違う違う、紅緒が言ったんでしょ。高鞍殿の目が綺麗だって。怒りに燃える……何だっけ」

 あぁ、と気が抜けたように呟いた後、紅緒は肩に置かれていた日和の手をそっと掴むと、兄の氷雨(ひさめ)と同様に切れ長なその目を覗き込んだ。

「その、怒りに燃える柘榴石(ざくろいし)(ごと)き瞳のなんと美しいことか」

 ちゃっかりと日和の瞳の色に合わせて言い換えつつ、(せん)だって怒れる鴉近に向けて言った言葉を再現する紅緒に、日和は、ここに兄上がいなくて良かった、と内心思った。兄氷雨(ひさめ)は最近、口には出さないが、時折、嫉妬の感情を覚えているように見える。特に紅緒の言動に振り回されがちな玄梅(くろうめ)に向けて。喜ばしい変化ではあるが、自分は別に兄に(ねた)まれたくはないのだ。いくら兄弟であっても、鬼気迫(ききせま)る表情の兄に無言で眺められている玄梅になり代わりたいとは思わない。

「そうそう、それ。私もあれは綺麗だと思ってたんだよね。もともと紫だか青だか、作り物みたいに不思議な色をしているけど、怒ったときは特に人間ぽくて」

 ()めているにしては()して熱も込めずに言う日和を、紅緒は片眉を上げて見遣(みや)った。(うっす)らと笑っている彼は、手を握られて瞳を覗き込まれていることには照れる様子もなく、逆に紅緒の翡翠(ひすい)虹彩(こうさい)をじっと観察するように見つめ返してくる。

「高鞍殿は、以前はいつもああいう目で紅緒の背中を見ていたんだけど、本当に最近はそうでもないんだよね」

 紅緒は(あご)を引いて、ほんの少しだけ目を細めた。

 いつもと何ら変わらぬ様子で話す目前(もくぜん)の男が、淡々とした口調に(かす)かに(にじ)ませている揺らぎが、同輩(どうはい)謌生(うたのしょう)間の緊張状態が緩和されたことへの安堵なのか、鴉近から険しい視線を受けなくなった紅緒への祝福なのか、(ある)いは別の感情からくるものなのか。はっきりと見極める前に紅緒は、はっと頭上に目を遣った。すぐさま、握ったままだった日和の手を引いて自らの(ふところ)に引き寄せると同時に、着ている円被(えんぴ)を日和の頭から(かぶ)せる。直後、頭上から降ってきた大きな雪の塊が、日和の座っていた辺りに鈍い音を立てて落ちた。木の枝葉にたっぷりと積もっていた雪が、何かの拍子で滑り落ちてきたらしい。軽い雪の塊とはいえ、高いところから落ちてきたものに当たればそれなりに痛いし、襟元(えりもと)なんかに雪が入っては体が冷えてしまう。

 危なかった、と(ひと)()ちた紅緒が円被(えんぴ)に降りかかった粉雪を払って、腕の中の日和を覗き込む。

「少し強く引っ張ってしまいました。平気ですか」

「いや、大丈夫、ありがとう」

 流石(さすが)に照れ笑いのようなものを浮かべて身を起こす日和をじっと眺めながら、紅緒は少し首を傾げて思案していたが、やがて口を開いた。

「鴉近殿は、きっと(いきどお)ってなどいなくとも人間らしくて美しいですよ。だからいつか、笑っていただけるようになりたいのですが」

 なかなか前途多難(ぜんとたなん)で、と言葉の割に困った様子もなく楽しそうに微笑む花顔(かがん)を、日和は表情のない目で流し見た。口許(くちもと)にだけおざなりな薄笑いを乗せているその男は、数舜(すうしゅん)検分(けんぶん)するかの如く極めて怜悧(れいり)な瞳で紅緒を見たあと、(にわ)かに眉根(まゆね)を開き、格別に人懐っこい表情で深い笑みを(こぼ)した。

 それはまるで(わらわ)のように無邪気だった。

「いつか、紅緒が怒っているところも見せてね。私たち友人なんだからさ」

 兄の氷雨といい、この兄弟は何故私が怒ることについて気に掛けるのか、と心底不思議に思いながらも、紅緒は違和(いわ)を感じていた。「友人なんだから」などと言われれば喜びのあまり狼狽(ろうばい)する自信のある紅緒が、今、(いた)って冷静に突っ立っているのは、この違和感のせいであった。日和の声音には勿論(もちろん)強要の響きはなかったが、冗談ほどの軽さも無い。どうやら本当にそう思っているようだ。だが、表情か、雰囲気か、一連の言動か、もしくはその全てに(まと)わるように(ただよ)う何かが、言葉通りに受け取ることを許さない。

 背に得体のしれない悪寒(おかん)(うっす)らと感じた紅緒が、右の(かかと)をわずかに引いたとき、地が揺れたかと錯覚(さっかく)するほどの大音響が響き渡った。山頂方向からだ。すぐに身構えた二人が振り返ると、然程(さほど)傾斜のないはずの斜面を一抱えほどもある岩がかなりの速度で転がり落ちてきており、それを追うように駆けてくる人影が見える。衣を大きく(ひるがえ)しながら、(まり)()ねるようにして下ってくるのは、どうやら鴉近のようだ。彼の表情がやっと見えたところで、日和は眉を(ひそ)めて「えっ、何事?」と(つぶや)く。いつも仏頂面(ぶっちょうづら)宿能生(すくのうせい)は今、死に物狂いのお手本のような表情をしていた。彼を追う低い地響きが徐々に大きくなっていく。目の上に手庇(てびさし)をかざし、伸びあがって音の正体を確かめようとしていた紅緒の目に、小高い雪溜(ゆきだ)まりを豪快に蹴散らして現れた黒い小山が映った。果たしてそれは、雪煙(ゆきけむり)を巻き上げながら長い脚を地面に突き立て、巨体であることを感じさせない動きですべるように滑らかに鴉近を追う、黒い蜘蛛(くも)であった。

「う、え、おおおお!? 紅緒、走って!」

 叫ぶことで我に返った日和は、うわぁ、などと気の抜けた歓声に近いものを漏らして棒立ちになっている紅緒の腕を乱暴に(つか)み、身を(ひるがえ)して走り出す。何とか足を滑らせて転ぶことは避けられているが、積雪のせいで思うように走ることが出来ず、更には刺すように冷えた空気が気管が強張(こわば)らせ、たちまち息切れを起こしてしまう。

 程なくして鴉近が二人に追いついた。つまり、蜘蛛もまた近くに迫ってきているということだ。

「高鞍殿ッ? 何てものを連れてきてくれたんですか!」

 前を向いたままの日和が、追ってくる地響きに負けないように声を張り上げるが、必死の形相(ぎょうそう)の鴉近は答えない。無視したのではない。蜘蛛へのあまりの嫌悪に半狂乱となっているがゆえに、本当に耳に入っていないのだ。八本も脚が脚が脚が、つやつやの目が目が目が、密集した毛が毛が毛が、円い腹が腹が腹が! という絶望の叫びだけが彼の頭を満たしている。

「冬は、死んだように、寝ておるという話では、なかったのか」

 紅緒は誰にともなくそう言いながら、ちらちらと後方を(うかが)う。体力には自信のある彼女であるが、流石(さすが)にこれだけ大きさに差があれば分が悪い。すでにかなり息が(はず)んでいる。先頭を走っている日和に至っては段々と雪に足をとられだした。

「ぜ、全ッ然、話がっ、違う! 二人とも、いる!?」

「ははっ、日和殿、走るのが早くていらっしゃる!」

 場違いに明るい紅緒の笑い声が地響きに呑み込まれてしまうほどに、追跡者が近づいている。後ろを振り返って更に顔色を失くしているところを見ると、鴉近は使い物になりそうもない。(うた)のために立ち止まることなど到底(とうてい)できないが、今は息が続くうちにとにかく何か詠むしかない。日和は走る速度を保ったまま、無理矢理に息を整え、早口で(ことば)を紡ぐ。

『暗き地を()(みつ)なる(もう) 岩を締め砕く(はげ)しき(じょう) (しな)う (たわ)む (から)む (まと)う (しば)る (いまし)む ()(たま)を 取り削る それ 取り削る!』

 拍子(ひょうし)もへったくれもない謌を、それでも最後の(ふし)まで乱暴に詠みあげると、下から突き上げる衝撃とともに、雪原(せつげん)が割れ、その下の地面をも割って太い木の根が次々と頭をもたげた。ひた走る三人の後を追うように、軽い雪崩(なだれ)を起こしながら、まるで生き物のように根が(おど)(いで)て、大蜘蛛の行く手を阻むように絡み合った。が、蜘蛛は全く意に介さない様子で、ぬめるように

 ってそれらを乗り越えてくる。ほんの少しだけ速度が(ゆる)まったかもしれない程度の効果に、日和は盛大に舌打ちしてから、声を張り上げる。

「鴉近殿! 貴方が連れてきたんだからッ、何とかしてくださいよ」

「鴉近殿っ、大丈夫です。蜘蛛は刺したりしませんよ」

 紅緒も援護するようにいささか見当違いなことを叫んだが、鴉近は「だが噛むだろうが!!」とこちらもやや的外れなことを口走った。そして、左腕を高く(かか)げて火事場の集中力で(またた)く間に()び出した身随神(みずいじん)紫鷹(しよう)を、背中の翼へと姿を変えさせてから渾身(こんしん)の力で地を蹴る。一人だけ空へ逃げようというのだ。鴉近の背で茶褐色の大きな両翼(りょうよく)が伸びをするように広がった後、豪快に空気を巻いて素早く羽撃(はばた)く。それに(あお)られた日和がよろめいて派手に尻もちをついた。

「この野郎、後で覚えといてくださいね!!」

 みるみる高度を上げる鴉近に向かって、良家の子息にしては少々口汚く叫ぶ日和を助け起こしながら、紅緒は背後に迫る大蜘蛛にさっと目を走らせた後、空を振り(あお)いで深く息を吸った。

巳珂(みか)!」

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