先つ祖へ返る者 壱
皇都の郊外にある久母山は、丘陵と言っても差し支えのない、小さな山である。その名の通りに昔から蜘蛛が多く出る地で、この山を越えて地方へ向かうときには肌を出さぬようにせねば蜘蛛の噛み跡だらけになり、髪は白髪の如く蜘蛛の巣だらけになる、と冗談めかして噂されるほどであった。それ故にこの山を避けて通る者が多く、それがまた蜘蛛や他の生き物たちの勢いを盛んにする理由となっていた。だがそれも真冬にあっては、多くの生き物が息を潜めて眠りに沈んだり、寒さにその生涯を閉じたりして、静かさに拍車がかかっている。それはさておき、普段は極めて長閑な久母山で、後に語り草となる騒動が今まさに起きようとしていた。
晴雪の、美しい朝だった。柔らかな雪で枝葉を餅のようにこんもりとさせた常葉の木々が、朝日を浴びて眩しい。銀砂を撒いたようにきらきらと輝いている地面には、夜に徘徊する生き物の小さな足跡が綺麗に残っているが、今は何の気配もない。きりりと冷えた空気に水の匂いが混じる久母山は、常の如く穏やかな風景を湛えている。
そこへ突如、空気を激しく震わす轟音が響き渡った。寝起きの鳥が泡を食って警戒の声を発しつつ一斉に空へと飛び立ち、粉雪がきらきらと舞う。まるで大きな何かが、硬い壁を打ち破るような音であった。続いて、山頂付近から騒々しい気配が斜面を下ってくる。鋭く短い叫びをあげながら跳ねるように駆け下りてくるのは、年若い三人の人間である。足首の上まで積もっている雪に何度も足をとられながら、息急き切って先頭を走るのは、謌寮の謌生、大叢日和である。
「ぜ、全ッ然、話がっ、違う! 二人とも、いる!?」
あまりの悪路に振り返ることが出来ないまま、声を張って後方に安否を問えば、高鞍鴉近が返事の代わりに短く悪態を吐くのが聞こえる。そしてもう一人、息を弾ませながら元気に応える者がある。
「ははっ、日和殿、走るのが早くていらっしゃる!」
無邪気な幼子のように笑う同輩の謌生、紅緒の誉め言葉を背中に受けた日和は、絶対に今言うことじゃない、と恐慌状態の脳の隅のほうで考えたが、すぐに頭上から降りかかる枝雪を顔から払うことに気を取られる。背後からは、巨大な何かが雪をかき分けながら疾走する、低くくぐもった地鳴りのような音が途絶えることなく追いかけてきており、その不穏な響きが徐々に近くなっているのは気のせいではない。
「このままでは……っ」
追いつかれるという言葉を吐き出す白い息ごと噛み潰した鴉近が、ほとんど斜面を滑るように駆け下りながら、肩越しに後ろを振り返った。積もったばかりの乾いて軽い雪を巻き上げながら、丸い巨体に長い足を巧みに動かして走るそれは、確実に三人に押し迫っている。まるで蟹の爪のように先のとがった細く長い八本の足は硬質な艶をもって蠢き、その根元は、細かな、と言っても一つが紅緒の掌くらいの大きさもある棘のような毛で覆われている。長い足に対して控えめな頭には、玉のように円らな目がずらりと横並びに四つ並んでおり、てらてらと金属質な光を映している割には意思が読み取れない不気味さを感じさせる。全身が夜の闇のように混じりけのない黒色をしており、頭の何倍も大きく、はち切れそうに丸い腹部にだけ、派手な赤い模様が見えて何とも毒々しい。無機質な目のすぐ下で、獲物を捕らえる鎌のような上顎が軋みをあげながら開いたのを見た鴉近は、盛大に頬を引き攣らせて視線を正面に引き戻した。
そう、三人が追われているのは、久母山に住み着いている巨大な怪、雪の降りつむ冬には似つかわしくない黒い大蜘蛛であった。
事の始まりは、なんということのないお遣い程度の雑用だった。
久母山山頂近くにある洞穴に貯蔵されている、古酒の様子を見てきてくれないか、と宇賀地は少し疲れた顔で言った。
「毎年、元日の宴で、一年の吉凶をその古酒の出来で占って奏上するんだ。その後、屠蘇として振舞われる。酒造りは勿論、謌寮の職分ではないが、時々の洞穴の様子見は謌寮がやっている。あそこは、十年ほど前から、でかい蜘蛛の怪が出るようになったからな」
なに、出るだけで人を襲ったこともないし、冬は死んだように寝ているから大丈夫だ、と付け加えるうたよみの眠たげな半眼が、ひた、と自分を見ていることに気付いた鴉近は、嫌な予感がして、ゆるゆると首を横に振った。
「酒の運び出しは、別の日にうたよみが酒造司の者に同行してやることになっているから。お前たちは、酒室が獣やら人やらに荒らされたりしていないか、見回りに行くだけだ。紅緒と大叢弟とお前で行ってくれ」
宇賀地は紅緒から日和へ視線を巡らせて、最後に鴉近の肩口に手を置いた。そのまま意味深に肩を二、三度軽く叩く。それを払い退けたい衝動に駆られながらも、根が真面目な宿能生は渋々頷いた。別に同行する顔ぶれが嫌でそうなっているわけではない。
紅緒が巳珂を身随神とした衝撃の日から、鴉近は彼女のお目付け役に位置付けられた節がある。宇賀地にはっきりとそう言われたわけではないが、高鞍の家柄のことが理由にあるのだろうと予想はつくし、鴉近自身、自分が適任と考えている。あの日、帰宅した鴉近が、巳珂が處ノ森を出たこと、封じの綻びのこと、一族の力がどうしようもなく弱まっていることを話した時の父の顔を、鴉近は忘れることができない。怒りや恥じ、怨嗟とそして悔恨を経て行きついたのは微かに安堵が漂う穏やかな表情だったのだ。それらはみな、幾百年続く伽々羅の血筋を背負う当主たちの顔であったのだろう。そして、父親はただ静かにこう言った。「その、謌生の女だけが頼りと思え」と。
鴉近は、日和とともに外歩きに備えて身支度をしている紅緒を見遣る。彼女が何らの拘束もなく謌生として出仕していることについては、勅命であるという。主上にどのような思うところがおありなのかは到底知り得ないが、自分にはこれを見届ける義務がある、と鴉近は思う。
「高鞍殿、もう出ないと戻りが遅くなりますよ。あれ、今日はいつもより眉間の皺が深いですね」
鹿革の、厚みがありつつも柔らかそうな手袋をしっかりとはめながら、日和が鴉近の顔を覗き込む。紅緒がその後ろから、ひょい、と顔を出して、揉み解しましょうかなどと言ってくるのを聞き捨てて、鴉近は腹を括った。もう一度言うが、紅緒や日和と行動を共にすることが嫌なのではない。
彼は虫が大嫌いなのだ。
久母山には、宮城から徒歩で向かえば半刻で辿り着く。酒室のある洞穴まではそこからまた半刻、雪に埋まった細い道を、目印を頼りに山頂付近まで登らなければならない。
謌生の三人は、最初こそ日和と紅緒がじゃれ合っていたものの、|久母山に到着してからしばらく登ると互いに無言になり、行程の三分の二を越えた今では、ただひたすらに歩を進めていた。疲れた、というよりは、全ての音が雪に吸い込まれているかのような静かさと、肺を満たすいっそ清らかなほどに冷たい空気、背の高い常盤木が陽光を遮って見下ろしてくる様、白く滑らかに積もった雪が灰青色の影をところどころに落としている景色が、人を自然と寡黙にさせる。さくさくと沓が雪を踏む音と、軽く乱れた己の息だけが聞こえる中、先頭を行く日和が空を振り仰いで「あぁ」と一際濃い白息を吐いた。彼の梔子色の毛先が、木漏れ日に透けてきらきらと輝いて見える。
「もうすぐみたい。山頂が近く見える。ねぇ、ちょっと休もう」
縦一列になって前を行く者の足跡を踏んで歩いていたので、日和が止まれば後ろの二人も止まる。二番目を歩いていた紅緒はにっこり笑って、後ろの鴉近に「休憩です」と伝えると、すぐそばにあった倒木の雪を払った。
「お二人とも、ここに座りましょう」
「いやぁ、そんなに雪深いわけではないけれど、やっぱり歩きづらいね」
紅緒とともに倒木に腰掛けながら、日和は気休め程度に沓についた雪を落とす。つま先まで硬い革で覆った上等な沓だが、もう結構湿ってきている。それでも、足首まで筒があり、内側に柔らかな毛皮が張られているので暖かい。藁沓などよりはかなりましだ。
紅緒は、汗ばんだ額に張り付いた前髪を払い、熱を逃がすために円被の半身を捲って右肩にかけている。円被は軽くてたっぷりとした大きな布を肩から羽織り、体の正面で深く合わせて組紐を結んで留める防寒具で、広げると円形になるためその名がついている。さらに黒い毛皮の首巻を寛げ、手で扇いで風を送っている紅緒を、近くの木に立ったまま寄り掛かっている鴉近は凝視する。あれは黒貂の毛皮じゃないのか。
「あれ、高鞍殿は座りませんか」
人好きのする笑顔で、日和が自分の隣を示してくるが、鴉近は渋面を作って「遠慮します」と素っ気なく答えた。
「なんで?」
「は?」
「いや、何で? 座った方が休めるのでは」
やけに食い下がってくる日和に、鴉近は固唾を呑む。この男、もしかしてわかって聞いているのではあるまいな。冬の倒木なんてきっと、中で虫が、群れで、冬眠を……。そこまで考えて自らの思考で精神的損害を受けた鴉近は、寄り掛かっている木からも背を離した。
「俺は、疲れておりません」
「そうなんだ! じゃあ、次から高鞍殿が先頭を歩いて雪を踏んでくださいね」
さも自然な流れとでも言いたげな笑顔で役割の交代を告げる日和と、眉間に渓谷を作った鴉近が静かに見つめ合う間、紅緒はせっせと雪の中から枝を拾ってきては手ごろな大きさに踏み折り、一所に集めている。
「日和殿にはずっと先を歩いてもらっていましたから、火を熾して足を暖めてもらいたいのですが」
枝の小山が出来たところでそう言いながら、ちら、と鴉近を見る紅緒。日和は礼を述べながらも、困ったというふうに眉尻を下げた。
「この生木、というか、湿った木に火をつけるような高度な謌は私には無理だなぁ」
「言い出しっぺがこう言うのは心苦しいですが、私が詠めばこの辺一帯、焼け野原になりかねませぬ」
そうだねぇ、と互いに顔を見合わせた紅緒と日和は、何度も横目でわざとらしく鴉近を盗み見る。そして見られた数だけ苛立ちを募らせていく優秀な宿能生は、眉間の皺を海溝ほどに掘り下げて、甚だ嫌そうに口を開いた。
『……緋色の心の頑是なき 赫々と 濡れにし袖を干す熱さ 煌々と 古りにし恋の霞む明さ 燦々と 曇り眼の覚む皓さ』
鴉近が謌を詠むにつれて、何かが弾けるような極々小さな音が枝の山の中で橙色の火花とともに起こる。
『やがて身を焼き心を焦がし 暗き熾火となり果てて 白くなりてもまだ愛し 片生いなりの緋の心 吾が魂を ほの削る やよ ほの削る』
やがてふわふわと白い煙があがり始めたかと思うと、突如大きな赤い炎が鈍い破裂音をあげて立ち上がった。じろじろと火種を眺めていた日和と紅緒は思わず顔を仰け反らせる。危うくまつ毛でも焦がしそうな乱暴な着火である。それでも、徐々に落ち着いていく焚火に有難そうに手をかざしながら、「よっ、宿能生」「お見事」などと口々に褒めそやす二人を、心底うっとおしそうに見遣った後、鴉近はふらりと歩き出したので、紅緒が慌てて声をかける。
「鴉近殿、どこへ?」
「先に道を作っておく」
いっそ清々しいほどに忌々し気に吐き捨てると、ザクザクと音を立てて道を踏み均しながら遠ざかっていく背中をしばらく眺めてから、紅緒は小さく笑った。
「近頃、鴉近殿がお優しい気がします」
純粋に嬉しそうなその声音に、日和は理解できないという表情を浮かべてこたえる。
「どこをもってそう感じたのか是非教えて欲しいな」
「前ほど私を目障りと思うていらっしゃらぬご様子ですし、無視されませぬ」
枝が燃えていく暖かな音を聞きながら、紅緒はにこにこと頬杖をついた。確かに、紅緒の存在自体を無視していた以前に比べれば、最近の鴉近はまだましに見える。それに、稀にではあるが、先ほどのように悪ふざけを黙殺しないこともある。至極迷惑そうなのは隠しもしないが。だが、露骨に煩わしそうにされて喜んでいるのだから、紅緒は面白い。それを指摘すると、彼女はやや艶のある声音でこう答えた。
「気になるひとは困らせてみたくなるものでしょう」
「ははぁ、それはわからないでもない。紅緒とは気が合うなぁ」
気になる云々を別にして、最近何となく鴉近のことを揶揄いたくなるのは日和も同じであった。鴉近が纏っていたどことなく近寄りがたい雰囲気が、薄れた感じがするのだ。肩の力が抜けたといった方がいいかもしれない。表情も特別不機嫌でなければ、わずかに丸くなった気がする。
暫しの沈黙が流れて、ぱちん、と一際大きく木が爆ぜた。
日和が独り言のように呟く。
「綺麗な目もあまりしなくなったしね」
その言葉を反芻した後、紅緒はゆっくりと一度瞬きをして、翡翠色の瞳だけを、隣に座る同輩へと向けた。




