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うたよみの貴公子姫  作者: 希介
第三章
22/28

先つ祖へ返る者 壱

 皇都(おうと)の郊外にある久母山(くもやま)は、丘陵(きゅうりょう)と言っても差し(つか)えのない、小さな山である。その名の通りに昔から蜘蛛(くも)が多く出る地で、この山を越えて地方へ向かうときには肌を出さぬようにせねば蜘蛛の噛み跡だらけになり、髪は白髪(しらが)の如く蜘蛛の巣だらけになる、と冗談めかして噂されるほどであった。それ故にこの山を避けて通る者が多く、それがまた蜘蛛や他の生き物たちの勢いを盛んにする理由となっていた。だがそれも真冬にあっては、多くの生き物が息を潜めて眠りに沈んだり、寒さにその生涯(しょうがい)を閉じたりして、静かさに拍車(はくしゃ)がかかっている。それはさておき、普段は極めて長閑(のどか)久母山(くもやま)で、後に語り草となる騒動が今まさに起きようとしていた。

 晴雪(せいせつ)の、美しい朝だった。柔らかな雪で枝葉(えだは)を餅のようにこんもりとさせた常葉(ときわ)の木々が、朝日を浴びて(まぶ)しい。銀砂(ぎんさ)()いたようにきらきらと輝いている地面には、夜に徘徊(はいかい)する生き物の小さな足跡が綺麗に残っているが、今は何の気配もない。きりりと冷えた空気に水の匂いが混じる久母山(くもやま)は、(つね)(ごと)く穏やかな風景を(たた)えている。

 そこへ突如、空気を激しく震わす轟音(ごうおん)が響き渡った。寝起きの鳥が泡を食って警戒の声を発しつつ一斉(いっせい)に空へと飛び立ち、粉雪がきらきらと舞う。まるで大きな何かが、硬い壁を打ち破るような音であった。続いて、山頂付近から騒々しい気配が斜面(しゃめん)を下ってくる。鋭く短い叫びをあげながら跳ねるように駆け下りてくるのは、年若い三人の人間である。足首の上まで積もっている雪に何度も足をとられながら、息急(いきせ)()って先頭を走るのは、謌寮(うたのつかさ)謌生(うたのしょう)大叢(おおむら)日和(はるたか)である。

「ぜ、全ッ然、話がっ、違う! 二人とも、いる!?」

 あまりの悪路(あくろ)に振り返ることが出来ないまま、声を張って後方に安否(あんぴ)を問えば、高鞍(たかくら)鴉近(あこん)が返事の代わりに短く悪態(あくたい)を吐くのが聞こえる。そしてもう一人、息を(はず)ませながら元気に(こた)える者がある。

「ははっ、日和(はるたか)殿、走るのが早くていらっしゃる!」

 無邪気な幼子のように笑う同輩(どうはい)謌生(うたのしょう)紅緒(べにお)の誉め言葉を背中に受けた日和は、絶対に今言うことじゃない、と恐慌(きょうこう)状態の脳の隅のほうで考えたが、すぐに頭上から降りかかる枝雪(えだゆき)を顔から払うことに気を取られる。背後からは、巨大な何かが雪をかき分けながら疾走(しっそう)する、低くくぐもった地鳴りのような音が途絶えることなく追いかけてきており、その不穏な響きが徐々(じょじょ)に近くなっているのは気のせいではない。

「このままでは……っ」

 追いつかれるという言葉を吐き出す白い息ごと()(つぶ)した鴉近(あこん)が、ほとんど斜面を(すべ)るように駆け下りながら、肩越しに後ろを振り返った。積もったばかりの乾いて軽い雪を巻き上げながら、丸い巨体に長い足を(たく)みに動かして走るそれは、確実に三人に押し(せま)っている。まるで(かに)の爪のように先のとがった細く長い八本の足は硬質(こうしつ)(つや)をもって(うごめ)き、その根元は、(こま)かな、と言っても一つが紅緒の(てのひら)くらいの大きさもある(とげ)のような毛で(おお)われている。長い足に対して控えめな頭には、玉のように(つぶ)らな目がずらりと横並びに四つ並んでおり、てらてらと金属質な光を映している割には意思が読み取れない不気味さを感じさせる。全身が夜の(やみ)のように混じりけのない黒色をしており、頭の何倍も大きく、はち切れそうに丸い腹部にだけ、派手な赤い模様が見えて何とも毒々しい。無機質な目のすぐ下で、獲物(えもの)を捕らえる(かま)のような上顎(うわあご)(きし)みをあげながら開いたのを見た鴉近は、盛大に頬を引き()らせて視線を正面に引き戻した。

 そう、三人が追われているのは、久母山(くもやま)に住み着いている巨大な()、雪の降りつむ冬には似つかわしくない黒い大蜘蛛であった。




 事の始まりは、なんということのないお(つか)い程度の雑用(ざつよう)だった。

 久母山(くもやま)山頂近くにある洞穴(ほらあな)貯蔵(ちょぞう)されている、古酒(ふるさけ)の様子を見てきてくれないか、と宇賀地(うがち)は少し疲れた顔で言った。

「毎年、元日(がんにち)(うたげ)で、一年の吉凶(きっきょう)をその古酒(ふるさけ)出来(でき)で占って奏上(そうじょう)するんだ。その後、屠蘇(とそ)として振舞(ふるま)われる。酒造(さけづく)りは勿論(もちろん)謌寮(うたのつかさ)職分(しょくぶん)ではないが、時々の洞穴の様子見は謌寮(うたのつかさ)がやっている。あそこは、十年ほど前から、でかい蜘蛛の()が出るようになったからな」

 なに、出るだけで人を(おそ)ったこともないし、冬は死んだように寝ているから大丈夫だ、と付け加えるうたよみの眠たげな半眼が、ひた、と自分を見ていることに気付いた鴉近(あこん)は、嫌な予感がして、ゆるゆると首を横に振った。

「酒の運び出しは、別の日にうたよみが酒造司(さけつくりのつかさ)の者に同行してやることになっているから。お前たちは、酒室(さかむろ)が獣やら人やらに荒らされたりしていないか、見回りに行くだけだ。紅緒(べにお)大叢(おおむら)弟とお前で行ってくれ」

 宇賀地(うがち)は紅緒から日和(はるたか)へ視線を(めぐ)らせて、最後に鴉近の肩口に手を置いた。そのまま意味深に肩を二、三度軽く叩く。それを払い退()けたい衝動に()られながらも、根が真面目な宿能生(すくのうせい)渋々(しぶしぶ)(うなづ)いた。別に同行する顔ぶれが嫌でそうなっているわけではない。

 紅緒が巳珂(みか)身随神(みずいじん)とした衝撃の日から、鴉近は彼女のお目付(めつ)け役に位置付けられた(ふし)がある。宇賀地にはっきりとそう言われたわけではないが、高鞍(たかくら)家柄(いえがら)のことが理由にあるのだろうと予想はつくし、鴉近自身、自分が適任と考えている。あの日、帰宅した鴉近が、巳珂(みか)處ノ森(ところのもり)を出たこと、(ふう)じの(ほころ)びのこと、一族の力がどうしようもなく弱まっていることを話した時の父の顔を、鴉近は忘れることができない。怒りや恥じ、怨嗟(えんさ)とそして悔恨(かいこん)()て行きついたのは(かす)かに安堵(あんど)(ただよ)う穏やかな表情だったのだ。それらはみな、(いく)百年続く伽々羅(カカラ)の血筋を背負う当主(とうしゅ)たちの顔であったのだろう。そして、父親はただ静かにこう言った。「その、謌生(うたのしょう)の女だけが頼りと思え」と。

 鴉近は、日和とともに外歩きに備えて身支度をしている紅緒を見遣(みや)る。彼女が何らの拘束(こうそく)もなく謌生(うたのしょう)として出仕(しゅっし)していることについては、勅命(ちょくめい)であるという。主上(しゅしょう)にどのような思うところがおありなのかは到底(とうてい)知り得ないが、自分にはこれを見届ける義務がある、と鴉近は思う。

「高鞍殿、もう出ないと戻りが遅くなりますよ。あれ、今日はいつもより眉間の(しわ)が深いですね」

 鹿革(しかがわ)の、厚みがありつつも柔らかそうな手袋をしっかりとはめながら、日和が鴉近の顔を(のぞ)き込む。紅緒がその後ろから、ひょい、と顔を出して、()(ほぐ)しましょうかなどと言ってくるのを聞き捨てて、鴉近は腹を(くく)った。もう一度言うが、紅緒や日和と行動を共にすることが嫌なのではない。

 彼は虫が大嫌いなのだ。




 久母山(くもやま)には、宮城(きゅうじょう)から徒歩(かち)で向かえば半刻(はんとき)辿(たど)り着く。酒室(さかむろ)のある洞穴(ほらあな)まではそこからまた半刻、雪に埋まった細い道を、目印を頼りに山頂付近まで登らなければならない。

 謌生(うたのしょう)の三人は、最初こそ日和と紅緒がじゃれ合っていたものの、|久母山に到着してからしばらく登ると互いに無言になり、行程(こうてい)の三分の二を越えた今では、ただひたすらに歩を進めていた。疲れた、というよりは、全ての音が雪に吸い込まれているかのような静かさと、肺を満たすいっそ清らかなほどに冷たい空気、背の高い常盤木(ときわぎ)が陽光を(さえぎ)って見下ろしてくる(さま)、白く滑らかに積もった雪が灰青(はいおあ)色の影をところどころに落としている景色が、人を自然と寡黙(かもく)にさせる。さくさくと(くつ)が雪を踏む音と、軽く乱れた己の息だけが聞こえる中、先頭を行く日和が空を振り(あお)いで「あぁ」と一際(ひときわ)濃い白息(しらいき)を吐いた。彼の梔子(くちなし)色の毛先が、木漏れ日に透けてきらきらと輝いて見える。

「もうすぐみたい。山頂が近く見える。ねぇ、ちょっと休もう」

 縦一列になって前を行く者の足跡を踏んで歩いていたので、日和が止まれば後ろの二人も止まる。二番目を歩いていた紅緒はにっこり笑って、後ろの鴉近に「休憩です」と伝えると、すぐそばにあった倒木(とうぼく)の雪を払った。

「お二人とも、ここに座りましょう」

「いやぁ、そんなに雪深いわけではないけれど、やっぱり歩きづらいね」

 紅緒とともに倒木に腰掛けながら、日和は気休め程度に(くつ)についた雪を落とす。つま先まで硬い革で覆った上等な(くつ)だが、もう結構湿ってきている。それでも、足首まで筒があり、内側に柔らかな毛皮が()られているので暖かい。藁沓(わらぐつ)などよりはかなりましだ。

 紅緒は、汗ばんだ額に張り付いた前髪を払い、熱を逃がすために円被(えんぴ)の半身を(まく)って右肩にかけている。円被(えんぴ)は軽くてたっぷりとした大きな布を肩から羽織(はお)り、体の正面で深く合わせて組紐(くみひも)を結んで留める防寒具で、広げると円形になるためその名がついている。さらに黒い毛皮の首巻を(くつろ)げ、手で(あお)いで風を送っている紅緒を、近くの木に立ったまま寄り掛かっている鴉近は凝視する。あれは黒貂(くろてん)の毛皮じゃないのか。

「あれ、高鞍殿は座りませんか」

 人好きのする笑顔で、日和が自分の隣を示してくるが、鴉近は渋面(じゅうめん)を作って「遠慮します」と素っ気なく答えた。

「なんで?」

「は?」

「いや、何で? 座った方が休めるのでは」

 やけに食い下がってくる日和に、鴉近は固唾(かたず)()む。この男、もしかしてわかって聞いているのではあるまいな。冬の倒木なんてきっと、中で虫が、群れで、冬眠を……。そこまで考えて自らの思考で精神的損害を受けた鴉近は、寄り掛かっている木からも背を離した。

「俺は、疲れておりません」

「そうなんだ! じゃあ、次から高鞍殿が先頭を歩いて雪を踏んでくださいね」

 さも自然な流れとでも言いたげな笑顔で役割の交代を告げる日和と、眉間に渓谷(けいこく)を作った鴉近が静かに見つめ合う間、紅緒はせっせと雪の中から枝を拾ってきては手ごろな大きさに踏み折り、一所(ひとところ)に集めている。

「日和殿にはずっと先を歩いてもらっていましたから、火を(おこ)して足を暖めてもらいたいのですが」

 枝の小山が出来たところでそう言いながら、ちら、と鴉近を見る紅緒。日和は礼を述べながらも、困ったというふうに眉尻(まゆじり)を下げた。

「この生木(なまき)、というか、湿った木に火をつけるような高度な(うた)は私には無理だなぁ」

「言い出しっぺがこう言うのは心苦しいですが、私が詠めばこの辺一帯、焼け野原になりかねませぬ」

 そうだねぇ、と互いに顔を見合わせた紅緒と日和は、何度も横目でわざとらしく鴉近を盗み見る。そして見られた数だけ苛立(いらだ)ちを(つの)らせていく優秀な宿能生(すくのうせい)は、眉間の(しわ)海溝(かいこう)ほどに掘り下げて、(はなは)だ嫌そうに口を開いた。

『……()色の心の頑是(がんぜ)なき 赫々(かくかく)と 濡れにし袖を干す熱さ 煌々(こうこう)と ()りにし恋の(かす)(あか)さ 燦々(さんさん)と (くも)(まなこ)()(しろ)さ』 

 鴉近が謌を詠むにつれて、何かが(はじ)けるような極々(ごくごく)小さな音が枝の山の中で(だいだい)色の火花とともに起こる。

『やがて身を焼き心を焦がし 暗き熾火(おきび)となり果てて 白くなりてもまだ愛し 片生(かたお)いなりの緋の心 ()(たま)を ほの削る やよ ほの削る』

 やがてふわふわと白い煙があがり始めたかと思うと、突如大きな赤い炎が鈍い破裂音をあげて立ち上がった。じろじろと火種(ひだね)を眺めていた日和と紅緒は思わず顔を()け反らせる。危うくまつ毛でも焦がしそうな乱暴な着火である。それでも、徐々に落ち着いていく焚火(たきび)有難(ありがた)そうに手をかざしながら、「よっ、宿能生(すくのうせい)」「お見事」などと口々に()めそやす二人を、心底うっとおしそうに見遣(みや)った後、鴉近はふらりと歩き出したので、紅緒が慌てて声をかける。

「鴉近殿、どこへ?」

「先に道を作っておく」

 いっそ清々(すがすが)しいほどに忌々(いまいま)し気に吐き捨てると、ザクザクと音を立てて道を踏み(なら)しながら遠ざかっていく背中をしばらく眺めてから、紅緒は小さく笑った。

「近頃、鴉近殿がお優しい気がします」

 純粋に嬉しそうなその声音に、日和は理解できないという表情を浮かべてこたえる。

「どこをもってそう感じたのか是非教えて欲しいな」

「前ほど私を目障(めざわ)りと思うていらっしゃらぬご様子ですし、無視されませぬ」

 枝が燃えていく暖かな音を聞きながら、紅緒はにこにこと頬杖(ほおづえ)をついた。確かに、紅緒の存在自体を無視していた以前に比べれば、最近の鴉近はまだましに見える。それに、(まれ)にではあるが、先ほどのように悪ふざけを黙殺(もくさつ)しないこともある。至極(しごく)迷惑そうなのは隠しもしないが。だが、露骨(ろこつ)(わずら)わしそうにされて喜んでいるのだから、紅緒は面白い。それを指摘すると、彼女はやや艶のある声音でこう答えた。

「気になるひとは困らせてみたくなるものでしょう」

「ははぁ、それはわからないでもない。紅緒とは気が合うなぁ」

 気になる云々(うんぬん)を別にして、最近何となく鴉近のことを揶揄(からか)いたくなるのは日和も同じであった。鴉近が(まと)っていたどことなく近寄りがたい雰囲気が、薄れた感じがするのだ。肩の力が抜けたといった方がいいかもしれない。表情も特別不機嫌でなければ、わずかに丸くなった気がする。

 (しば)しの沈黙が流れて、ぱちん、と一際大きく木が()ぜた。

 日和が独り言のように呟く。

「綺麗な目もあまりしなくなったしね」

 その言葉を反芻(はんすう)した後、紅緒はゆっくりと一度(まばた)きをして、翡翠(ひすい)色の瞳だけを、隣に座る同輩(どうはい)へと向けた。

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