鴉の心、斯く乱る 壱
「んん?! 巳珂様、今ずるをしませんでしたか?」
「おやおや、酷い言いがかりだ」
「いやだって、おかしい……おかしいですよ、何度賽を振っても四しか出ないなんて」
不正だ不正だ、と言いながら半信半疑の面持ちの日和に、さも興味なさそうに白い髪を弄っている巳珂、目を皿のようにして正四面体の賽を見ている玄梅。彼らの前には双六の盤が置かれていて、五つある日和の駒はひとつもあがっていないのに対して、巳珂の駒は全てあがっているという圧倒的戦局をみせている。
「でも待って玄梅くん。逆に私がいくら振っても一しか出ないのもおかしいから」
「確かに。ではこれが神祖の神祖たる由縁……」
賽子の出目なんぞで神祖を感じるな、と大笑いしたかったが、口下手な氷雨はほんの少し眼光を鋭くするにとどめた。隣では紅緒が、自らの身随神が同輩と双六に興じているというなかなかに奇抜な状況を嬉しそうに眺めており、鴉近はというと、例によって皆から離れた壁際にこちらを見もせずに座っている。
何を隠そう、彼らは今、軟禁されている状態である。不慮のこととはいえ、国家の秘事に触れたのだから、一応上からの許しが出てから帰ってくれという言葉を残して、宇賀地は上とやらへ報告しに出て行ってしまった。司琅が出入り口付近につまらなそうに立っているのは、おそらく宇賀地に見張りを言いつけられたからだろうが、宇賀地が出て行ってから四半刻、すでに彼は双六に混ざりたいと思っている。
とにかく、そうしてできた不思議な状況である。
いい加減、何の喜びも見出せない双六遊びに飽きたのか、日和が賽を放り出した。
「ねぇ、紅緒、聞いてもいいかな。御前講義で詠んだ謌は、あれは何の謌なの?」
国家の秘事にかかわるとはいえ、知ってしまったものは仕方がないのだから、気になることは聞いておかないと気持ちが悪い。日和の問いに、他の謌生の目も紅緒に集中する。彼女は翡翠の目を斜め上に向けて、少し首をかしげた。さらさらと黒髪が肩を流れる。
「あれは、私が詠んだものではなく、巳珂に教えられたものなので……。まぁしかし、察するにあれは巳珂を拝するただの祝詞ではなかろうかと思うのですが。のう、巳珂、違うか?」
意味もなく双六の駒を積み上げていた巳珂は流し目で自らの主を見遣る。
祝詞とは、神への賛辞や、どういった神であるかを詠み込んだ謌である。主に社や祠に祀られた神への畏怖を込めた挨拶のようなもので、社の守り手が毎日の勤めで詠んだり、謌を詠むことが出来ない者が祈るときに用いる、魂魄の遣り取りの発生しない謌である。つまり、間違っても身随神の契約を行う謌ではないということだ。
巳珂は、にぃ、と大きめの口の端を吊り上げた。
「その通りだ、あれは俺の祝詞だよ。いいかい、お前たちのいう神とやらは人間の魂魄を糧に業を行うが、神祖は糧を必要としない、というより、魂魄を糧とする仕組みがない。さらに言うと、俺は逆賊として神祖の力を奪われているから、仮に魂魄を受け取ったとしても行使する力がない」
滅茶苦茶役立たずだな、とは流石に口に出せなかった玄梅の隣で、紅緒が極々明るい声で面白そうに笑った。
「滅茶苦茶役立たずよの」
紅緒以外の全員が息を詰めた。この女は越えてはいけない一線を、鼻歌まじりに一足飛びで越える危険人物である。が、当の役立たずは特に気に障った様子もなくせせら笑った。
「まぁ、聞きなさい。俺は神祖の力は失ったが、この身体は神祖の力の行使に耐え得る身体のままなのだよ。神とも、勿論人間とも違う不老にして不死の『器』だ」
「つまり、頑丈な役立たずということか」
「紅緒っ」
にこにこと言い放った紅緒を、冷や汗をかいた玄梅が小声で窘める。
「すまぬ、巫山戯すぎた。して、巳珂はいったい何を私から受け取ってその『器』とやらに入れるつもりか」
飄々と問うてくる紅緒に、口の端を下げて心底つまらなそうな表情をした元神祖は鼻で息を吐いた。
「お前、聡すぎるのも考えものだよ……。まぁ、いい。俺は罪を犯す過程で、他の神祖にはない能力を得ることになってね。いや、進んで得た力といった方がいいが、とにかく俺は、人間から受け取ったあるものを力とすることが出来る。それは、信仰だ」
「信仰?」
まるで初めて聞いた言葉かのように繰り返す紅緒の眉が、珍しく顰められている。
「そうだ、信仰だ。俺の存在を信じ、畏れ敬う心だ。心の拠り所とし、疑わぬ思想だ。勿論世に遍く存在している神も信仰を集めているが、あれらはそれを力にすることはできない。だが、神祖でも神でもない俺は、魂魄を受け取る代わりに信仰を受け取ることが出来る。それを多く集めれば集めるほど、俺は大きな力を使うことが出来るのだよ」
それは……大いに拙い。
ほんの少し自慢げに胸を張っている巳珂を見つめる玄梅の掌に汗が滲む。それは大いに拙いのではないだろうか。この白い男が、神のように社にでも祀られれば、謌の詠めない人間からも力を得ることが出来るかもしれないということだ。総量に上限のある魂魄と違い、減ることのない信仰心を無限に集められるかもしれないということだ。かつて、裏切り行為を働いたことがあるという、この美人だが心根が歪んでいそうな蛇顔の男が、大人しくその力をしまい込んでおくはずがない。
「そこのお前、今かなり無礼なことを考えただろう」
普通に国家の危機、と心の中で呟き額にまで汗を浮かばせた玄梅は、巳珂のじっとりとした嗤いに身を竦ませた。隣では日和が青い顔に、聞かなきゃよかったなという表情を貼り付けている。氷雨がそっと紅緒を窺い見ると、こちらは存外にすっきりとした顔をしている。
「どおりで、身随神の契約を行ったときも魂魄を持っていかれた感覚がなかったわけだ。得心がいった」
にこにこといつもの笑みを浮かべた紅緒が言い終わらぬうちに、大股の荒い足音が近づいてきたかと思うと、次の瞬間には真更衣の襟元を掴みあげられていた。無理に仰向かされた視界に、怒りやら嫌悪やらがない交ぜになった鴉近の顔が現われた。見たことのない表情をした宿能生は、司琅と氷雨があげる制止の声を聞き捨てて、驚きで声を失っている紅緒に噛みつくように低く問う。
「貴様……! 得心がいっただと? 自分が何を引っぱり出だしてきたのか、わかっているのか。お前がへらへらと何も考えずに連れてきたこれは、多くの犠牲のもとにあの岩に縛り付けた災厄だ、それを貴様は」
全員が動けないでいる。否、巳珂については胡坐をかいた膝に頬杖をついて傍観者然として動かずにいる。翡翠色の瞳のすぐそばで紫の目が暗く輝いている。鴉近様……と呆然とした響きの声が紅緒の口から漏れた。
「その、怒りに燃える菫青石の如き瞳のなんと美しいことか……」
日和が固まっていた首をぎしりと軋ませ、玄梅が奇声を上げて誤魔化そうとしたが、時すでに遅く、下瞼を痙攣させた鴉近が憤怒の形相でさらに紅緒の首元を揺すり上げた。流石に呼吸が妨げられるほどに頸を絞られた紅緒が、それでも柔らかに鴉近の腕に手をかけながら、落ち着いた声音で宥める。
「鴉近様、鴉近様、大丈夫です。彼は私の身随神ゆえ、私の信仰しか受け付けませぬ。そうであろ、巳珂」
毛ほども力を緩めることなく、鴉近が巳珂を睨めつける。冷めた淡黄色の目をしたその男は、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「そのとおりだ。俺はそもそも、身随神の契約などという理の外にいる存在だからね。紅緒からしか信仰を受け取らないという条件で、身随神となることを許されたのだよ」
「だとしても、貴様がこれと手を組んで良からぬことを企てない保証にはならない」
むしろ深くなった眉間の皺と、ぎりぎりと音がしそうなほどに噛みしめられた鴉近の言葉に、紅緒は神妙な顔をして頷いた。
「わかります。私ほど信用に足らない怪しい人間はそうそうおりませぬゆえ。しかし、今言えることは、この者は私が身随神になってほしいと頼んだ時、至極嫌そうでものすごく渋々だったこと、それから私がこの者を強く信仰することは天地がひっくり返ってもないということ、そして私が鴉近様の思うような悪事を働くことは絶対にないということだけです。いくら絞めあげられようとも、これ以上のことは今のところ言えませぬ」
最後ににっこり笑ってあっけらかんとして言う紅緒。「天地がひっくり返ってもは言い過ぎでは?」と巳珂が呟く。紅緒の真意を推し量るように暫しその顔を見据えていた鴉近だが、やがて吐き捨てるように言った。
「……口では、何とでも言える」
「だからといって、紅緒が死ぬまでそうしているつもりか」
冴え冴えとした声とともに、横合いから伸びた冷やりとした大きな手が、紅緒の襟元を絞めあげている鴉近の腕を掴んだ。深い瑠璃紺色の目を鴉近に据えた氷雨であった。常の無表情にわずかに剣呑さを滲ませた彼に、一瞬気圧された鴉近の手が緩んだとき、誰かがぱんぱんぱんと大きな音を立てて手を叩いた。
「はいはいはいはい、やめやめ。お前ら、今日はこれ以上面倒事を起こさんでくれ」
うんざりしたような声を上げたのは、いつの間にか司琅の隣に立っていた宇賀地である。綺麗に剃ってあったはずの髭がうっすらと伸びてきており、疲労の表情が浮かぶ顔を更に煤けさせている。
「とりあえず、紅緒以外は帰ってもいい。当然、今日のことは全て口外無用だからな。ぺらぺら喋れば重いお咎めがあるぞ。それから、明日も通常通りに出仕するように。紅緒は今後の対応について、もっと上役の方々まで話がいってるから、もう少し待てよ」
司琅にもうしばらく紅緒を見ておくように言って、宇賀地は踵を返して足早に部屋から出て行く。元来やる気のないあのうたよみを、あのように忙しく働かせてしまっているのは、大半が自分のせいという自覚のある紅緒は「ご苦労をおかけして申し訳ない!」と大きめの声を、去り行く熊のような背中にかけた。と、その胸ぐらを掴んでいた手が不意に離れた。おっと、と小さく声を上げて尻もちをつく紅緒に一瞥もくれずに、鴉近は荒い足音を立てて廊下へと出て行った。完全にこの状況に飽きてしまった様子の巳珂が、目だけで鴉近の動きを追う。咄嗟に引き留めようとした日和が、口を思わずつぐんでしまうほどに、立ち去っていった鴉近の表情は険しかった。
「紅緒、大丈夫ですか?」
鴉近が出て行ってから数拍置いて、少し呆れを含んだ表情の玄梅が、紅緒に声をかけた。例によって怪我がないか確認して襟元を正してやっている。大事ない、と応えて立ち上がる紅緒は、何事もなかったかのように「鴉近様は正義感が強くていらっしゃるからなぁ」などとにこにこしていて、それを見ていた日和もそっと息を吐いて緊張を解く。
「いやー、驚きましたね。高鞍殿があんなに激昂するとは」
常に何かに苛々としているように見える高鞍鴉近だが、今まで決して声を荒げたりするようなことはなかった。あの言動からして、巳珂との間に何かあるのだろうけれど……と思案しながら兄に話しかける。
「それよりも、さっきのは紅緒の印象良かったんじゃないですか。こう、びしっと助けに入って……」
にやついた口許を手で隠して、にじり寄るが、紅緒と玄梅の遣り取りをじっと眺めている兄からは反応がない。
「兄上?」
「……紅緒は」
「はい」
「……ときどき情緒がおかしいな」
たっぷりと考えた後に、今更といえば今更なことを言う氷雨に、賢明な弟はただ「はぁ」と気の抜けた相槌をうつ。兄の口からとくに続きは出てこないようなので、未だ何やらやっている紅緒と玄梅を、日和もぼんやりと眺める。紅緒の鎖骨のあたりに鴉近の爪が当たってできたと思われる小さな傷を見つけた玄梅が、この世の終わりのような声をあげて慄いている。男女の距離感的にどうなんだろう、あれは。まぁ、玄梅の表情が、未婚の女子の柔肌を目前にした男のそれとは到底かけ離れているので良いか。紅緒も呑気に「唾つけとけば治る」とか言っているし。
「紅緒と少し話がある。鴫沼と先に帰ってくれないか」
不意にそんなことを言い出した氷雨に、日和は意外そうな目を向けてから短く返事をし、玄梅を紅緒から引き剥がしにかかるのだった。
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