白いひと 陸
比較的低い身分の家の出でありながら、まだ若い身空でうたよみになった青年がいた。異例の速さの取り立てに、当時の謌寮はざわついた。彼は、南の地方で小さな社を守る一族の長の長子で、情感に優れた謌の詠み手であった。一族で唯一謌を詠むことができた彼は、地方官よりその評判を聞いた乾祇官によって皇都に召出され、謌生となった。その後は持ち前の才能と、多少の運も手伝って、うたよみへの階段を一段とばしで駆け上がり、周囲を驚かせた。生来、勤勉であった彼は、社の守り手としても期待されていたが、うたよみとなってしまっては皇都を離れることもままならないため、詮方なく、郷里の社は弟が世話をしている。因みにその社に祀っているのは、青い蛇の姿をした穀物の豊穣を掌る『神』である。
宇賀地是清は久方ぶりに、かつて口馴れた謌を声に出さずに詠んだ。術を行使するための謌ではなく、神を拝するためだけの祈りの謌である。
わかっている。実家で祀る蛇神など、目の前のあれにとっては路傍の石に過ぎないことを。それでも心中で何か唱えていなければ落ち着くことができない。宇賀地の黒目がそろそろと動いた。目の前のあれ、とは、紅緒の膝を枕にごろごろとだらしなく寝転がっているあの男だ。
「これ、蠱物殿。お行儀ようなされ」
「いやいや、お前のせいで俺は今日、あちこち走り回らされたのだ。ただでさえ久々に森から出た身だというのに、不本意にも、突然、たくさん、しかも急ぎで走り回らされたのだよ」
少しくらい転がっていてもいいじゃないか、と態とらしくぐったりとしてみせる蠱物に、紅緒は神妙な様子で本日何度目かの詫びをいれた。
謌寮の一室では、處ノ森の蠱物と謌生の面々、宇賀地、そして自宅にいたところを呼び出された黒羽司琅が顔を突き合わせている。妙な空気の中、皆、宇賀地が口を開くのを待ちながら傍若無人な蠱物をちらちらと窺っていて、特に司琅などは、つい今しがた状況説明を受けたばかりで現実味がないのか、完全に不審者を見る目をしている。
「宇賀地様、主上のご様子は?」
紅緒を除いて、唯一蠱物の存在感に呑まれていない鴉近が静かに口火を切った。はっと我に返った宇賀地は、脳内祈祷を止めて、謌生たちに向き直る。
「主上はご無事だ。お怪我もない。幸い、ご気分を害されたご様子もなく、落ち着いていらっしゃった。それどころかお前たちへの労いのお言葉まで賜ったよ。安心しろ」
それを聞いて場の空気が安堵に溶けるのを見届けてから、うたよみは頭を掻きながら再度口を開いた。
「で、だ。人の頭の形をした例の蠱物のことだが」
そこで司琅が姿勢を正して床に両手をついた。急いで駆け付けたせいか、常は洗練されている装束の色目や着こなしが、いまいち精彩を欠いており、表情には切迫感が漂っている。
「宇賀地様、まず私の落ち度で此度のような失態を御前に晒した挙句、主上の玉体をも危機にさらし、宇賀地様ならびに謌生の面々に迷惑をかけたことを平にお詫び申し上げたい」
謌生一同がぎょっとした表情で、項垂れている先輩謌生を見遣った。まるで人が変わったかのような口調である。この人の一人称は確か『俺様』ではなかっただろうか。よもやこんなにきちんと畏まって話せる人間だったとは、と鴉近は失礼なことを考える。
「そんな、しろちゃん、いや司琅殿」
慌てた紅緒が素早く腰を浮かせたので、處ノ森の蠱物の頭が滑り落ち、板張りの床で鈍い音を立てた。
「お待ちくだされ。一緒に任にあたっていた私にも責があります」
「黙っとけ、新人。探知してたのは俺様だろ」
無言で側頭部を擦りながらのっそりと半身を起こす白い男。それを固唾を呑んで見守りながら、宇賀地は司琅と紅緒を片手でおしとどめる。
「まぁまぁ。二人とも感心な態度ではあるけどな、今言ったとおり主上はご無事だし、俺たちも死んじゃいない。あまり気にするな。ただ今後、あの蠱物についての検分を行うにあたって、色々聞かねばならんから司琅を呼んだまでだ」
早速だがいくつか答えてくれ、という宇賀地の申し出に、ほんの少し苦い表情を残す司琅が頷き、紅緒が腰を落ち着かせる。
宇賀地は、呪物が他にどこに埋まっていたのか、埋められていた場所に施術者の何らかの痕跡がなかったか、発見時の呪物の形状や、孕んでいた呪詛の成熟具合、最終的な処分の方法などを丁寧に質問し、司琅が時折紅緒の補足を交えながら答える。一通りの問答が終わってから、そういえば、と司琅が呟く。
「玉が……あったように見えました」
「玉?」
眉間にしわを寄せる宇賀地に、やや自信無さ気な司琅がこめかみに手をやりながら記憶を探る。
「先ほども申しましたとおり、我々が回収した呪物はまだただの肉の塊に等しく、蠱物に成っていなかったため、処分としては燃やすだけでよいと判断し、そこの新人が謌によって焼いて処分しました。その火力が強かったので、呪物は一瞬で灰になりましたが、燃えかすの形が崩れる寸前に親指の爪ほどの丸いものを灰の中に見たと思います。それもすぐに粉々になりましたが」
紅緒はわずかに目を瞠って司琅を見た。あの時、燃やし切ったことは確認したが、彼が言う玉には気がつかなかった。大叢兄弟と玄梅は顔を見合わせる。呪物に何か仕込まれていたということだろうか。薄らと困惑の空気が流れたが、宇賀地は微妙な表情で考え込んだままである。鴉近と司琅が慎重な目つきでそれを窺っている。
「それはこれか」
唐突に、處ノ森の蠱物が声を発した。全員がはっとして彼を見遣ると、彼は無表情で何かをつまみあげている。白い指先にあるのは、赤錆色のそら豆ほどの玉であった。心なしか汚いものでも持つような手つきをしている。
「確かに、そのような大きさの……それをどこで?」
司琅の驚きを含んだ声に、蠱物はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「さっきの人首の蠱物の眼窩の奥にあったものを抜いたのだが。お前たちの話し合いにお役立ちかな」
言うが否や、無造作に宇賀地に放る。焦りつつも受け止めたそれを、具に観察するうたよみの表情が徐々に険しくなっていくのを、皆が静かに見守っている中、鴉近が控えめに口を開いた。
「それは、通常の呪物には用いないもののようですが、何でしょうか」
「わからん」
唸るように即答して、宇賀地は徐に懐を探る。
「とりあえず何なのか調べる。この件については、謌寮をあげて探ることになったから、お前たち、もし何かわかったら必ず俺か、謌寮の上役に報告して指示を待つように。勝手に行動するなよ」
一頻り探したが、懐紙が無い。小さく舌打つと、横合いから玄梅がさっと差し出した。軽く礼を言って、受け取った懐紙に赤黒い玉を包んで懐に仕舞い、軽く息を吐く。色々と気が重い。さぁて、などと白々しく呟きながら、宇賀地の鳶色の垂れ目が處ノ森の蠱物を窺うと、対照的な吊り目と、かちりと目が合った。自分の番かな、とでも言いたげな表情をしている。
「あー……紅緒の、その、身随神のことだが」
どこから説明するべきか、しばし考えあぐねる。ただただ興味津々な日和と只管に無表情な氷雨、若干敵意を含んで蠱物を見ている玄梅に、目障りなものが増えたと思っていそうな鴉近、胡散臭そうな司琅を見回して、宇賀地は慎重に口を開いた。
「お前たち、神祖という存在について知っているか?」
一様に覚束ない表情を浮かべる謌生の中で、鴉近だけが目を瞠って腰を浮かせた。その目は、再び紅緒の膝に頭を載せようとしている男に向けられている。淡黄と菫色の視線が一瞬絡み合ったのち、鴉近が口を開いて深く息を吸った。すかさず宇賀地が静かだが有無を言わせない声音で言葉を発した。
「鴉近、お前ちょっと察しが良すぎるぞ、落ち着け。謌を詠んでも、お前が死ぬだけだろう」
一瞬で殺気立った宿能生に紅緒は肩を竦めて固まっているし、處ノ森の蠱物は何事もなかったように、ごろりと寝転がった。鴉近は驚愕の表情のまま、そろそろと腰を下ろし、最後には脱力するように座りなおした。それを確認して、宇賀地は説明を再開する。
「神祖とは、太古の昔にこの世界を創り給うた存在と、その子たちのことだ。勿論、現在俺たちが目にしているモノの『神』とは存在の次元が違う、人智を超えた力を持っている天上に住まう神々だ。モノは、言わば神祖による森羅万象の創造という御業の残滓だな」
玄梅は首をかしげる。そのような話は初耳であった。ちらりと大叢兄弟を見ると、彼らも戸惑いの色を浮かべている。紅緒は無表情で宇賀地を見ているだけで、何を考えているのかさっぱりわからない。
「皇都がこの地に造営されて早幾百年が経ったが、実はこの地に都を造るように時の皇帝に告げたのは神祖のうちの一柱であると言われている。当時、神祖たちは皇族を通して人の世に関与していた。政について彼らに助言を求めることもあったという。謌によってモノと魂魄の遣り取りをする方法を示したのも神祖たちだった。では、何故、現在その存在が人々から忘れ去られているのか」
次第に宇賀地の口調がいつもの講義じみてきた。しかし、彼らしくもなく欠伸をかみ殺すことも横になるようなこともなく、ただ一度、間を置いて唾を飲み込むと、心なしか声を落とす。
「いいか、今から話すことは、本当に一部の人間しか知らされていない話だ。妄りに口外しないと約束しろ」
嫌だ、聞きたくない。その場の大体の人間がそう思った。そのように前置きされるような事柄は無駄に厄介だと相場が決まっている。しかし悲しいかな、頷くしかない謌生たちを見回して宇賀地は徐口を開いた。
「神祖は、モノの『神』たちのようには人前に姿を現さない。その存在を実際に確認しているのは皇族だけだ。それも、目で見て認識しているわけではない。かつて、皇族は神祖をその身に降ろすことができた唯一の血筋だった。だからこそこの国の長になったと言われている。その時々の皇帝自らが神祖を降ろす器となっていたらしい」
聞いたことのない昔語りを口にする宇賀地は、まるで見知らぬ人間のようだ。
彼の話によると、皇族以外の人間は、目に見えぬものを姿も知らぬまま、その存在を確かめる術を持たぬまま、信じ崇めていたことになる。そこに確実に存在しているモノを神として信仰している今の感覚からすると、それは心許ない気がする。想像した玄梅の胸に何とも言えない不安がじわりと滲んだ。
「あるときから、皇帝は神祖を降ろすことをやめた。詳しい理由は俺も知らされていない。むしろその詳細にこの事実が秘事となった理由があるそうだが……。とにかく、神祖たちの間で人の世界を巻き込んだ諍いが起きたという話だ。それが収束してからは、神祖たちは人の世界に係わらなくなったという。だから皇族の神降ろしも途絶えたというわけ」
そこからは、皇都を中心に神祖信仰を積極的に廃する動きが広がり、長い時間をかけてモノの神の信仰を広く浸透させて今に至る。実体の見えない遠い存在である神祖に比べ、身近なものに宿っていて姿を見ることすら可能な神であれば、民にとってその新たな信仰は受け入れ易かったことだろう。
「あの……それと、紅緒の身随神とどのような関係が?」
遠慮がちに日和が挙手した。宇賀地はにっこり笑って日和を振り向く。ところが何を言うでもなく、次に笑顔のまま紅緒の膝の上に目線を向けた後、再度日和を見る。日和は珍しく眉を顰めた。何だ? 気持ち悪いな……。
「わかる、わかるよ、うたよみ。さぞ言いにくかろうね、本人を前にしては」
不意に揶揄の笑いを含んだ声を上げて、むくりと起き上がったのはずっと黙って聞いていた白い男であった。大きめの口の端を吊り上げて、爬虫類じみた嗤いを浮かべたその男に、氷雨が小さく「本人?」と問いを発する。
「よかろう、自己紹介くらい自分でしようじゃないか。俺はね、かつて神祖の一人だった者。うたよみが言うところの諍いとやらを起こした首謀者、親たる神祖に弓を引きし逆賊、幾百年も地上の石っころに繋がれていた大罪人、神祖の力を奪われて空っぽになった器、そして、今ここにいる紅緒の身随神となった者だ」
最初からそれを自分で言ってほしかった。白目を剥いた宇賀地は心底そう思った。こちらがどれだけ気を遣ったと思っているのだろう。それから、紅緒が「そうなんだー」くらいの表情で元神祖を見ているのも気に障る。こんな厄介ごとを持ち込んだ張本人の癖に。見ろ、他の謌生たちの気持ちいいくらいに驚いている顔を。衝撃のあまり声も出んではないか。
「ところで、そこのうたよみは何故俺が何者か気付いてしまったのかな?」
不満げな半眼で紅緒を眺める宇賀地は、不意に問いかけられて、びく、と肩を揺らす。尋ね方がどことなく怖い。気付いてはいけなかったのかもしれない。なんせ神祖自体が秘められた存在のようなものだ。急にその可能性に思い至って、応える前に思わず軽く低頭してしまった。
「はい、紅緒が詠んだ謌の内容に御名が含まれていましたので」
ふむ、と元神祖は思案顔で口許に手をやる。
「ぬかったわ。まさか分かる者がいるとは。さてはお前、優秀だね」
白い顔でにっこりと笑いかけられて、ぞっとした。どっちだ、褒めているのか、殺そうとしているのか、どっちだ。ま、こうなっては仕様がないか、と呟くのが聞こえて、宇賀地はそっと肩の力を抜いた。
「えっ……と、それでは、その、何とお呼びすれば。我々は謌の中のどれが御名であったかわからないのですが」
再び日和が小さく挙手した。あいつ結構度胸がある、と宇賀地は彼を再評価した。
「そうだね、たくさん名があるから」
そう呟いて暫し考えた男は、やがて真っ白な髪を揺らして嗤った。
「巳珂、と」
大変お待たせいたしました。




