白いひと 参
その日、鴫沼玄梅は起床から嫌な予感がしていた。
昨日目撃した、天然同士の甜言蜜語の投げつけ合いに、胸やけか何かでもやもやしたものを抱えながら床に就いたせいで、今朝になってもそれを引きずっているのかとも思ったが、どうやら違う。冬の冷水で顔を洗った後も、朝餉の干鰯を食んでいる時も、徒歩で謌寮に向かう間にも、言い知れない引っかかりがあった。いくら溜め息を吐いても晴れない彼のそれは、胸やけなどではなく、ざわざわとした胸騒ぎであった。
果たしてそれは見事に的中することになる。
「御前講義?!」
日和が目を見開いて頓狂な声を上げた。今日は無精髭をきれいに剃った宇賀地が神妙な面持ちで頷く。
「急にどういった経緯かはわからんが、先程そのようにお達しがあった」
御前、つまり皇帝の前で、講義を行うということである。普段、宮城内の視察や見学を行うことなど皆無に等しい皇帝である。新人謌生の講義を御覧になるとあって、謌寮は全体的にざわついていた。もちろん当の謌生たちは輪をかけて狼狽えている。
「ともあれ、講義の内容に変更はない。それにもうじき主上がここにお渡りになられるから、最早いつも通りやるしかない。心の準備をしておけよ」
主上とは皇帝の尊称である。宇賀地は面倒そうに顔を掌で撫でては欠伸をかみ殺しているが、謌生はそうはいかない。あまりにも急過ぎる話で、心の準備もくそもない。主上は、ひよっこ謌生による『僕の私の身随神発表会』などご覧になって、何が楽しいというのだ。日和の顔にはそう書いてある。その隣で氷雨も不安そうに殺気をとばしており、宿能生である鴉近ですら戸惑いが隠せない。無論、気弱な玄梅は半死半生の体であった。
主上がわざわざ謌寮くんだりまで御出座しになるなんて。そしてその御前で身随神を使うだなんて。今朝からの胸騒ぎはこれのせいだったのだろうか。
「ど、どど、どうしましょう、紅緒……紅緒?」
反応が無いことを訝しんで振り返ると、長く真っ黒な髪で顔面を覆った何者かが、静かに立っていた。玄梅は短く息を呑む。怖い。こちらを向いているのが顔なのか後頭部なのかも定かではない。
玄梅が言葉に詰まっていると、ゆらり、とそれが近付いてきた。
「由々しき事態よ、玄梅」
「うわ、紅緒でしたか。やめてくださいよ、何で顔を隠しているんですか?」
紅緒が、のそのそと目のあたりの髪をかき分ける。覗いた翡翠色の瞳に、困窮の色が見て取れた。
「私にはまだ身随神がおらぬ」
「え。それは、何というか……困りましたね」
まだいない、というのは今日の講義中に身随神の契約を結ぶつもりだったからで、ただの講義であれば宇賀地に事情を話せば問題ないと思っていたのだ、ともそもそと紅緒が言い訳する。
神を身随神とする契約の締結は極稀に失敗することがある。使役者と神の実力に不均衡があったり、神の意に染まない約定だったりする場合、契約することができないとされている。実際それは、神に拒否されて逃げられるのがちょっと恥ずかしいという程度の失敗である。しかし御前となると、粗相が怖い気持ちは、玄梅にも痛い程わかる。
「仕損じたときのことを思うと、恐ろしくて顔も出せぬ」
紅緒が、きょどきょどと目を泳がせて再び髪で顔を覆った。この幼馴染にも存外可愛らしいところがあるではないか、と玄梅は仲間を見つけた心持ちになり、彼女の黒髪をそっと掻き分けてやる。
「わかりますよ。でもまぁ、失敗しても死にはしませんから」
人間、自分よりも狼狽えている者を見ると落ち着くものである。先ほどまで緊張のあまり冷や汗をかいていた小心者の玄梅は、笑みさえ浮かべて紅緒を励ました。
しかし、いっこうに晴れないどんよりした半眼の紅緒は、徐に応えた。
「いや、死ぬ。契約を結ぶ予定のモノから昨日そう言われた。失敗すると死ぬ場合がある」
出来れば主上の前で死ぬのは避けたい、などと呟く彼女を、玄梅は凝視する。確かに御前での死亡事故は大いに拙いが、そういう問題ではない。
「え? いや、御前でなくとも死ぬのは避けて欲しいのですが……? ちょっと待ってください、貴女いったい何と契約を結ぶ気なんですか?」
身随神の契約で命を失うようなことがあるなど聞いたことがない。一時のささやかな余裕など彼方にふっとんだ玄梅は紅緒の肩を揺さぶって問い詰めた。さっきから翡翠の目が明後日の方向を彷徨っているので、嫌な予感しかしない。
「處ノ森の蠱物だ」
「んんんん?! 何処の何?!」
耳は確かに彼女の言葉を拾っていたが、脳が理解を拒否したので、珍しく大きな声で聞き返した。なにしろ禁足地になど碌なモノがいるとは思えないし、そもそも蠱物は怪であって神ではないので、契約を結んだとて身随神ではなく眷属になるのではないか。というか『處ノ森の蠱物』とか、いかにも失敗したら死にそうな響きではないか。玄梅が困惑の極みに陥ったその時、紅緒の背後に宇賀地が立った。
「あー、言い忘れてたが、今日の御前講義の出来で祷謌の詠人が選ばれるらしい。だからそのつもりで……おっと、すまん、これは言い忘れたままの方が良かったか。俺は忘れるから、お前たちも忘れてくれ」
何の気なく話している途中で、さらに強張った謌生たちの表情に気付いた宇賀地は、無責任なことを言って後ろ頭を掻いた。
祷謌は一月十五日に行われる宮中行事で、うたよみが詠む謌や身随神の技によってこの皇都の地の神を鎮め、一年の吉凶を占うというものである。勿論、皇帝やその妻たち、皇帝の補佐である坤政大臣のほか、紅緒の父のような高官たちが居並ぶ前で行われる。その詠人は常であれば熟練のうたよみから選ばれるのだが、今回は違うようだ。確かに、占いという点ではかなり形骸化しており、余興的な要素が強い行事のため、観衆を楽しませることが出来る者であれば、とくに年齢も地位も関係がないともいえるのだが。
「まさか謌生から詠人をだすなんて……」
日和がぼそりと呟いた。こうなってはもう、一体何に緊張していいかわからない様子で、半ば茫然としている。だが、玄梅たちはそれどころではない。そんな得体の知れないモノと契約を結ぶなとか、私の身随神になれるのはそいつだけなんだもんとか、こそこそと押し問答をしていると、宇賀地が、はた、と二人に目を止めた。
「何だお前ら。珍しく喧嘩か?」
「おお、ちょうど良かった、うたよみ殿」
失敗した場合のことは伏せて、身随神の契約をその場で結びたい旨の事情を説明する紅緒に、玄梅は鳩尾を抑える。ついに胃が痛み始めた。
その時、にわかに張りつめた空気が静かな波のように押し寄せ、次いで皇帝の渡りを報せる先触れの声が響いた。
未だ嘗てない緊張感をもって、講義は始まった。
場所は、謌寮の建物の裏、以前にも講義で謌の実演のために使用した場所である。そこに持ち込んだ螺鈿細工を施した漆塗りの豪奢な椅子に座る皇帝は、藤黄の真更衣に金鶏が刺繍された漆黒の上衣を羽織る軽装で、精緻な彫刻が施された象牙の笏を片手に弄いながら、畏れ多さに慄く謌生たちをじっと眺めている。御年二十五になる。皇族の証である眉頭だけ残した瓣眉に、涼しげな一重瞼で、怜悧さを感じる艶のある黒い瞳からは何の感情も読み取れない。帯剣した侍従が二人後ろに控えている以外は、従者がいないので、物々しさが薄いことが唯一の救いである。
「あーそれでは、寒いのでさっさと始めてさっさと終わるとしようか、諸君」
常に比べて少しだけ殊勝な表情で、常と何ら変わらぬ発言をする宇賀地に、謌生たちはわずかに肩の力を抜いた。
「昨日伝えたとおり、今日は身随神を披露してもらおうと思う。各々、身随神を顕現させた後、何かしらの技を見せてもらいたい。祷謌の詠人を選抜する関係もあるので、使う技は娯楽性の高いもので頼む」
淡々と説明をするうたよみは、いったん言葉を切ると、ちら、と紅緒を見遣ってから付け加えた。
「その前に、紅緒がこの場で身随神の契約を交わすらしいから、まずはそれからやってもらおうか」
謌生たちが、「あ、そうなの」くらいの表情で進み出る紅緒を眺めている中、玄梅だけが壮絶な心配顔で彼女の背中を凝視している。やはり今日は仮病でも使って邸に引き篭もっていれば良かった。朝っぱらから幼馴染が死ぬところなど絶対に見たくない。せめてもう少し事情を詳しく説明してくれないと、理不尽が過ぎて全く受け止められない。今更ながら、彼女の大雑把さがもどかしい。幼いときにもっとよく言い聞かせるのだった。生死に関わるような事柄については、きちんと詳細を説明し、幼馴染に止めるように説得される時間を設けたうえで、しでかすべきだと。
目まぐるしく、悔やんだり憤ったり案じたりの思考で吐きそうな玄梅を、紅緒がこっそり振り返って、頑張りますとでもいうふうに、軽くこぶしを握ってみせた。にこにこと笑う口の端が引き攣っている。
いや、そんな握りこぶしひとつでは毛ほどの平静ももたらされない、と玄梅が掌で顔を覆う一方で、紅緒は一つ息を吐くと両手を空に掲げた。そして、喉の音を立てて、空気を肺に集めた。
『あまさかる ましろきいわおにます ましろきかみ じょうていにさかいつ ふじょうのながれかみ』
紅緒の唇から滑り出た低く穏やかな声が、ひりりと空気を冷やした。まるで何かをあやすようなその声色や調子は常の如くだが、彼女を中心とした波紋のように辺りを満たした空気は、異様であった。静かで、冴えざえとした、ともすると悪寒を誘うような気配がする。誰もが紅緒を注視する中、皇帝もまた目を細めて、わずかに身を乗り出していた。
『かがせ こんじん みか さいせつ おがみたてまつりて かしこみかしこみもまをさく』
顕著な違和を感じるのは詞である。謌生たちが眉を顰めて視線を交わす。いつもの彼女とは詞の選び方が異なっている。
恐らく、紅緒が自ら詠んだ謌ではない。更に言うならば、身随神の契約を結ぶ謌とも形式が違うように聞こえる。あれは、一体何の謌だ。
鴉近は、玄梅が顔面蒼白で爪を噛んでいるのに気付いた。何やら様子がおかしい。そっと宇賀地の顔色をうかがうと、紅緒を眺める表情こそ平静を装っているが、やや日焼けした額に、玉のような汗が浮かんでいるのが見えた。
『あがたまを たてまつりて くすしきみかげ このみにあたえたまへと まをすことをきこしめせと』
紅緒は、掲げた両の手をゆったりと顔の前まで下ろすと、粛々と低頭した。
『かしこみかしこみもまをす』
結びと思われる箇所が謌いあげられ、辺りを静寂が満たした。
何も起こらない。
謌生たちは無言のまま、再び困惑の視線を交わし合い、最終的に宇賀地をちらちらと窺う。
通常、謌にのせた魂魄が神に受理され身随神の契約が成立すれば、神が姿を示すなどするはずである。が、何も起こらない。失敗なのだろうか。
紅緒は額づいたまま微動だにしないので、表情をうかがうこともできない。
「おい……?」
宇賀地が、恐るおそる紅緒に声をかけるが、反応がない。最悪の事態を思って息を詰めた玄梅の足許で、砂利が、ざり、と鳴った、その時。
紅緒が膝から崩れ落ちた。
まるで、操り手に打ち捨てられた人形のように、力なく頽れた。
そのまま動かない華奢な背に、御前であることも忘れて彼女の名を呼びながら、玄梅は駆け寄った。
読んでいただき、ありがとうございます。
長らく筆が止まっておりましたことをお詫び申し上げます。
まだ本調子ではない感じが文章の端々に見られますが、ご笑納ください……。
2020/10/23 加筆修正




