白いひと 弐
皇都にはヒモロという古い名がある。
この国の統治者たる皇帝の血統が、神祖と深い関わりがあったことに由来する名だと言われている。神祖とは現在で言うところの、モノの『神』たちとは全く異なる存在であり、所謂ほんものの、天地創造を行った神々のことである。天上にまします彼らは気まぐれに下界に干渉することもあり、宮中でも折に触れて神祖に係わる儀式や行事を行っていた。しかしそれも何百年か前の話である。いつの頃からか、神祖は下界に一切関与することがなくなったという。その理由は秘事とされており、たとえ高位の華家であったとしてもあずかり知ることではない。現在では宮中の行事に神祖の痕跡を見ることもなく、民間の神祖信仰も破毀された。やがて、人々が神祖にかわって、モノに『神』を見出してから幾百年、神祖の存在そのものを忘れ去って今に至る。
そのような経緯もあって、実際のところ誰もがこの都市のことを、ただ、皇都と呼んでいる。
その皇都だが、国の中枢であるにも拘らず都市を囲む壁を持たないので、外界との隔たりが無い。ただ、皇帝が住む皇宮と、それを囲むように建つ省庁の建物がある区域である宮城だけは、周囲にぐるりと塀を巡らせている。これは、ここ皇都に反乱分子が攻め入る心配が少ないが故である。今のところは、と言ったほうが良いかもしれないが、とにかく、これまでに地方領主による造反の例は無い。皇帝の統治が地方まで行き届いていることと、単純に地方と中央の富力の差が大きいという理由からである。そして、戦力となるような謌の才がある者は各地方官より皇都に報告が上がり、乾祇官という省庁において管理され、うたよみとなり得るほどの力があれば、地方の平民でも謌寮に召出されることもある。
そんな、平和呆け気味のこの都の、西の外れに、手付かずの木々が鬱蒼と茂る土地がある。整地された市街を抜けると唐突に現れるその木群は、處ノ森と呼ばれる、立ち入りが禁じられた場所だ。
周囲を歩いて回れば半刻ほどかかるような大きさの森ではあるのだが、そこに生き物の気配は毛ほどもない。ゆえに耳鳴りがしそうなほどに静謐で、薄暗く、ひやりとした空気と近寄り難い雰囲気を周囲に漂わせる、まさに禁足地然とした場所である。だが、何故そこが禁足地なのか、誰も知らない。恐ろしいモノがいるだとか、古の神域だとか、入れば祟られるとか、目に見えぬ病の元があるだとか、噂は様々あるが。
入っても罰せられる訳でもなく、誰かが見張っている訳でもなく、囲いが施されている訳でもない。ただ、得体の知れない畏怖と伝承によって、誰も近寄ることがない森である。
それ故に全く人々には知られてはいないが、その處ノ森の中心には、巨石が一つ、ひっそりとしかし確かな存在感と不自然さを以て鎮座している。大人の背丈ほどの高さと、同じだけの幅があり、苔むして少し湿った感のある白っぽい岩である。
普段は虫すら這 うことのないこの岩だが、今日はすぐ隣に来訪者いる。膝を抱えて、地べたに座っている、人間だ。艶のある黒髪に、翡翠色の瞳、神憑った美貌のその来訪者は、誰あろう紅緒である。昼下りとはいえ、冬の陽光は弱く、木漏れ日も極薄くしか届かないここで、彼女の纏う空気もやはりどんよりしている。
四半刻前から、身動ぎ一つせず、沈黙を守る紅緒は、下唇を突き出し眉間にしわを寄せて、一点を睨み続けていた。早い話がぶすくれている。
「……何故私には身随神がいないのか」
存分に不貞腐れた後で、徐に発せられた紅緒の呟きは、森の静寂に吸い込まれて消えるかと思いきや、岩の上にいる何者かに拾われた。
「お前の魂魄が大き過ぎるから」
わかっているとは思うが、と笑いを含んだ男の声が降ってきた。つい、と紅緒が声の主を見上げる。男がひとり岩に腰掛けて彼女を見下ろしていた。幼子を見るように目を細めて、唇に微笑を湛えたその男の、組んだ脚がゆらゆらと揺れている。
「お前がその顔でここに来るのは二度目だけれど、昼間に来るのは今日が初めてだね」
揶揄うように再度言葉を発したそれは、人型をしているが、明らかに人ではなかった。何もかもが晒されたかのように白い。身丈より長いであろう髪も、異様に整った顔や、細身に纏っている時代がかった装束も、そこから覗く手足も、眉や睫毛の一本までもが白い。その中で瞳だけが、辛うじて白目と見分けがつく程度に、極々薄く淡黄がかっている。
「出仕しているのだから、そうそう朝早くには来られぬ」
紅緒は、憮然とした口調で返す。以前は日もまだ昇らぬ早朝に屋敷を抜け出してはここに来ていたが、謌の生となってからはそれも難しくなった。そもそも、堂々と外出できるようになったため、こそこそと早朝に出掛ける必要もなくなったのだ。
「そうそう、それ。前はあんなに度々訪ねてきてくれていたのに、最近はとんと顔を見せないじゃないか」
別に早朝に来ずとも、昼でも夕でも時間はあるだろう、とまるで淋しがっているようなこと言ってはいるが、声音から揶揄の響きは消えていない。紅緒は男の白い顔を半眼で見遣るが、常と変わらない薄ら笑いに真意を測りかねて溜め息を吐く。それに構わずに岩の上からはさらに声が降ってくる。
「毎日のように来ていたものが、突然音沙汰がなくなると気になって仕様がない、というのは本当だな。お前、押す以外に引くことを覚えたのか」
今日はやけに恨みがましいし、しつこい。まさか本気で言っているのか? と、今度は大きな目を眇めて胡乱気な視線を送るが、やはり結果は同じである。
そんなことより、身随神である。今朝の先輩との実習は恙無く終わったが、問題はやはり明日の講義である。
「蠱物殿、どうにかならんかな。身随神」
蠱物、と呼ばれた白い男は、大きめの口の端を引き下げて、肩を竦めた。目鼻立ちが蛇や蜥蜴寄りである。
「どうにもならないのでは」
興味が薄そうなその返答に、紅緒が呻く。身随神の約定を結べば、常に微量の魂魄がその『神』に供され続ける。ただ、彼女の大き過ぎる魂魄においての微量は、『神』にとっては微量ではない。いずれは供給過多で『神』の気が触れてしまうのだ。彼女が初めて約定を結んだ身随神は、悲惨なことになった。知らなかったとはいえ本当に悪いことをした。
蠱物は顎に手をやって頷いた。
「にぎり飯を毎日一つづつ食べるのと、米櫃いっぱいの飯を毎日口に詰め込まれるのとでは、やはり日が経つにつれて差がでる、といったところかな」
そんな腹がいっぱいになるような愉快な話ではない、と紅緒は大きく嘆息した。
この蠱物を名乗る男は、いつだって飄々として掴み所がない。
いつも、紅緒の悩み事や相談話を嗤いながら聞いて、現実と真実だけを淡々と返してくる。言い様は素っ気無く冷淡だが、意地の悪いことは言わない。傍から見れば優しくはないかもしれないが、何をもって優しいとするかは人それぞれであり、その点において紅緒は一度も彼を不快に思ったことはない。むしろ、得体が知れないこの蠱物が、善悪のどちらかに寄った性質も感情も信条も、何も持っていないように見えることが、怖かった。何て空っぽで不安定な生き物だ、と、十数年前にここで初めて彼と会ったときには、幼い紅緒の心が怖気立ったものであるが、それにももう慣れた。
何だか底の知れない、自称蠱物の変な友人といったところで、この男の存在に方を付けて、今に至る。
紅緒はもう一度ため息を吐きかけて、はた、と動きを止めた。
「そうだ、蠱物殿がなってくれればよいのではないか?」
翡翠の瞳を輝かせて見上げると、蠱物は間髪入れずに、にっこりと嗤った。
「もしかして、俺は今、死ねと言われているのだろうか?」
頭上からの圧力をさらりと受け流し、紅緒は首を傾げて破顔する。
「貴方は死なぬでしょうに」
互いに笑顔で見つめ合ったまま、暫しの沈黙が流れる。紅緒はその発言の根拠を示さなかったが、蠱物もまた否定も肯定もしなかった。彼はふん、と鼻を鳴らして口を開く。
「そもそも、俺はお前たちのいう『神』ではないから無理だ。前にも言ったが俺は蠱物で、蠱物とは」
「人を惑わす悪い怪の類であるが、幼き頃に言ったとおり、私は貴方が自らを蠱物というのでそう呼んでいるだけで、本当に蠱物だとは思っておらぬ」
言葉尻を攫われて、彼にとってはつい昨日のことのように身に覚えのある遣り取りを聞かされた蠱物は、暫し口を噤む。小さい頃から、一筋縄ではいかないのだ、この紅緒という人間は。
「……俺は、そういうことはしてはいけないことになっているのだよ。だから無理だ」
幼子にするように、噛んで含めるような口調でそう言う爬虫類顔の男に、珍しく紅緒が食い下がる。
「そのようなこと、誰が決めたのだ」
「親」
「蠱物に親などいない。森羅万象が父母であろ」
言い方が良くないぞ、と嗤う白い男を見て、紅緒はわずかに眉尻を下げた。このままではのらりくらりと躱されて有耶無耶にされてしまう。仕方なく、奥の手の言葉を、ぼそりと呟いた。
「私のことを愛してくれると言ったではないか……」
蠱物が、笑顔のままに喉の奥で「ぐッ」と何かを詰らせたような音を出した。
そのまま、珍しく長めの沈黙が流れる。鳥の声もないこの森で、唯一の音源が揃って口を閉じているので、静寂が耳に痛いほどであったが、紅緒はここぞとばかりに神妙な表情をして、しょんぼりと座っていた。
やがて、白い男は、すぅ、と目を細めた。
「……わかった」
「本当か?!」
途端に、無邪気な子供のように顔を輝かせた紅緒に、白い人差し指が突きつけられる。
「早まってはいけない。これはお前が思う以上に繊細な問題だから、考える時間をくれないか。そのうえで、身随神が必要になったら、今から教える謌を詠め。俺と約定を結ぶ謌だ。それで俺が現れなければ、無理だったのだと諦めること」
いいね、と念を押せば、紅緒は何度も頷いた。嬉しそうなその様を、苦笑を浮かべて横目に眺めながら、蠱物はふと、真顔になった。その視線は紅緒の首許に注がれている。
「そういえば、蠱物殿は身随神として何が出来るのだろうか」
今更といえば今更な疑問を呈する紅緒に、蠱物は投げやりな応えを返す。
「ああ、大抵のことはそこそこ出来るよ……ところで、お前」
蛇のような淡い女郎花色の瞳が、じろじろと黒貂の毛皮を舐めている。
「その襟巻は初めて見たな」
「ああ、今日、誰ぞ知らぬ方からいただいた」
ふーん、と気のない返事をしながらも、蠱物はなんとも複雑な表情を浮かべて、襟巻を眺める。必要以上に眺める。あまりにも見ているので、紅緒はおずおずと襟巻を外す。
「欲しいのならば、差し上げるが、念のために言うと、裏に簡単な怪除けの謌が施されて」
いるから気をつけて、という言葉の続きを紅緒は呑み込んだ。皆まで言わさずに、無言で襟巻を掴んだ蠱物は、裏地に縫い付けられている小さな護符に顔を近づけた。ひくり、とわずかに頬を動かしたが、何も言わない。またしても微妙な顔をしている。忌々しいような喜ばしいような、懐かしむような嫌悪するような、そして結局そのどの感情も浮かべあぐねて、ただ口をへの字に結んだような顔だ。
蠱物を自称する割に怪除けの護符に抵抗がなさそうなことは最早気にはならないが、様子が常と異なるので、紅緒は彼に声を掛けようとした。が、蠱物は次の瞬間には興味の欠片も無さそうな表情にもどり、襟巻を紅緒に投げて寄越した。
「さてさて……愛するお前の頼みであれば、すぐにでも聞いてやりたいが、事は慎重に運ばねばならない。判断を誤ると、死ぬかもしれないからね。俺か、お前が」
そんな大それたことを私は頼んだのか、と紅緒は一抹の不安をおぼえた。その様子を見て、蠱物は口の端を吊り上げて嗤う。
「一人の人間のためにこの岩を離れるのは正しいのか否か、このがらんどうに何かを注ぐのは正しいのか否か」
白い男の、誰に宛てたともつかぬ淡々とした独白が、しんとした冬の森に、染み入るように響く。
「間違わないよう頑張ると、お前と約束したからな」
読んでいただき、ありがとうございます。
書くのに時間がかかったわりには、面白いお話ではないかもしれません……。
今後のために評価などいただけると嬉しいです。
2019/10/10 修正
修正箇所:蠱物の目の色(菫色→淡黄)
2020/10/22 加筆修正




