蛇と蜜、そして金剛石 肆
「おい、貴様、もう一人の謌生!」
「玄梅ですわ、御父様」
「玄梅とやら、貴様の連れはどうかしておる。すぐに止めさせんか!」
玄梅はこっそりと溜息を吐いた。
紅緒の「姫ごと焼く」発言に泡を喰ったひとりの女官が急いで呼んできた、この屋敷の主、斎長が突き殺さんばかりにこちらを指差している。
どうかしている点は同意するが、止めることはできない。紅緒はきっと樒姫を焼いたりはしないからだ。
「落ち着いてくだされ、斎長様。その怪は二の姫の魂魄の深くまで見えぬ楔を打って、彼女の魂魄を糧としておるのです。姫の魂魄が蜜が如き甘やかな質でいらっしゃるが故でございます。その楔を無理矢理に抜いてその怪を引き剥がせば、姫の魂魄は損なわれ、廃人となりましょう。怪のほうから自然と離れればよいのですが、それが叶うのはおそらく姫が息絶えたとき。怪を退治するには、もう姫ごと焼くしか手はありませぬ」
「いや、落ち着けるか! 物事には優先順位というものがあるじゃろうが」
「はぁ、ですから、斎長様はとにかく怪をどうにかするようおっしゃったので、姫ごと焼きます」
見事なまでに話の通じない紅緒の様子に、本当に大丈夫かどうか、玄梅も不安になってきた。ずっとにこにこしているのが本当に狂気じみている。
「いや、もちろん姫から離れてくれさえすれば、万事解決なので、私とて殺しはしませんよ。他の誰かに取り憑くなどしてくれれば、全く問題はないので。な、玄梅」
本日二度目の急な呼びかけに、玄梅は彼女が何をするつもりなのかやっと把握した。蜂の猫は、玄梅と樒姫を見比べて、心なしかそわそわしているように見える。深く溜め息を吐いて、「仕方ない」と呟いたあと、少し声を張り上げる。
「本当ですね。ところで関係ないのですが、私は最近身随神の他に、眷属の一体や二体は欲しいと思っておりまして」
完全に怪は玄梅を見ている。ぶぶ、と音を立てて翅を震わせてさえいる。もう一押しだ。
「ほう、そうなのか。まぁ今は関係ないからその話は後でしろ。そろそろ、事を済ませて寮に戻らねばならんからな」
言いながら、懐から態とゆっくりと細身の鉄鞭を取り出す紅緒。そして、じっと蜂の猫を眺めながら、いやー、燃えやすそうな怪でよかったよかった、などと明るい声で呟いている。
「さて、姫」
世間話の続きのような気軽さで呼びかけて、姫を捉えたその翡翠の瞳が、不穏さを孕んでちりちりと爆ぜている。この状況下であっても、燐光が散るような紅緒の美しさに、その場の者たちは一瞬目を奪われる。見るのは二度目の玄梅さえも見惚れる。まだ一節も謌っていないというのに、ぶわりと熱風が立ち昇り、冠が飛び髷が解けた。豊かな黒髪がうち靡き、この世のものとは思えぬ、ともすると禍々しくさえある彼女は、それでも目尻と口の端に優しい笑みを湛えて宣告した。
「謌いますぞ、ご覚悟召されよ」
あれは姫に言っているのではない。そうわかっている玄梅でも怖気づく迫力である。女官は悲鳴をあげ、斎長は華家らしからぬ悪態とともに決死の形相で姫に覆いかぶさり、樒姫自身も固く目を閉じている。
そして、短く息を吸った紅緒の白い喉が愈々動こうとした瞬間、高速で飛来した何かが、玄梅の顔面に激突した。
「ぐむっ?!」
頭を後方に持っていかれる衝撃に仰け反った玄梅が、何とか腹の筋肉で姿勢を立て直した。首が痛い。鼻が痛い。額も痛い。生暖かい。そして視界が黒い。顔にぶつかったまま離れない何かのせいで何も見えないが、妙に静まり返った中で「速いな」とぽつりと呟く紅緒の声だけが聞こえた。
「紅緒、全く見えないのですが、成功ですよね」
くぐもった玄梅の問いに、紅緒は笑いを堪えた。彼は今、顔面に蜂の猫をしがみつかせて突っ立っている。しかも蜂の猫は小刻みに震えているのであった。
「大成功よ。一節くらいは謌うことになるかと思うたが、一音発する前に一直線に飛びおったわ。しかも怯えて震えておる。撫でて宥めてやらねば顔から取れぬやもしれん」
面白さのあまり華家言葉が出てしまっているが、呆然としている斎長たちには聞こえていない。次第に我に取り戻した斎長が困惑気味に呟いた。
「ど、どういうことだ……?」
二、三度背中を撫でてようやく玄梅の顔から離れた蜂の猫をまじまじと眺めながら、紅緒は応えた。
「この怪を無理矢理姫から引き離せぬのは真にございます。ただ、『姫ごと焼くしか手がない』というのは嘘でございます。騙して申し訳ありませんが、この怪は人語を解すので、自ら樒姫から離れるように仕向けるには、迫真の演技が必要でした。そこで、皆様には大いに焦り、恐れていただくために我々が演技していることをお伝えしませんでした」
へたり、と幾人かの女官が脱力して座り込む。樒姫本人は、呑み込んだ重い覚悟を息と一緒に、ほっと吐き出した。斎長はまだ姫をしっかりと抱いたまま、半信半疑の様子で蜂の猫を凝視している。
「しかし……あんなにも姫から離れなんだそれが、こんなにもあっさりとその男に」
「玄梅ですわ、御父様」
「その、玄梅に懐いているのは何故か」
紅緒は、彼女の視線を避けてぐいぐいと玄梅の脇に潜ろうとする怪に、苦笑する。すっかり嫌われたらしい。かなり脅しつけたので無理もないが、少し悲しい。
「玄梅の魂魄の質と、この怪の質が同じなのです。ただし、玄梅のほうが段違いに濃い。魂魄が甘美な質の姫は、この怪にとって、言うなれば『ご馳走』、玄梅は『親玉』といったところ。『ご馳走』にくっついていて殺されるくらいなら、『親玉』の眷属になって庇護下に入るのがよいと、この怪が判断したので、玄梅に乗り換えたのです」
親玉とか乗り換えたとか何となく人聞きが悪い感じがするが、玄梅も頷く。
樒姫が一歩進み出て、心配そうな表情を浮かべて問うた。
「玄梅は、大丈夫なのですか? 私のように辛くはないのですか」
はた、と紅緒は口を噤むと、横目で幼馴染を見る。彼女の笑みの種類がいつもと違う気がする。あれはにこにこではなくて、にやにや、だ。紅緒のそれがなんの目配せかは知らないが、玄梅は微笑んでみせた。
「ご心配なく。同じ質であれば、この怪に与える魂魄は微量で済みますし、眷属にすれば与えるだけでなく、働かせることができるので、こちらにも利があります。それに、私の魂魄の質はとても珍しく……その」
口籠ったあとに、少し苦い表情を浮かべて続ける。
「非常に強いのです。ですので、この怪のせいで魂魄を損なうことは、まず無いでしょう」
そうなのですね、と安堵した様子で樒姫が呟いた。とにかく良かった、良かった、と斎長や女官がようやく緊張を緩ませたところで、じっと玄梅を眺めていた紅緒が不意に声をあげた。
「おお、もうこんなに日が高い。急ぎ寮に戻って報告せねば。行くぞ、玄梅」
そう言うとさっさと玄梅の手を掴んで、さくっと人差し指に黒檀の護符を戻すと、そのまま立ち去ろうとする紅緒に、慌てた樒姫が声を上げる。
「お待ちください! まだお礼を……」
「ご安心くだされ、姫。魂魄の香りが漏れるのを防ぐ護符を、できるだけ早く届けますゆえ。玄梅が」
えっ私が? と玄梅は疑問を呈すのをよそに、紅緒は「では」とたった一言でその場を辞した。急いでそれを追う玄梅の肩には、少し名残惜しげな目を樒姫に向ける蜂の猫がしっかりと載っていた。
あとには、嵐の如く二人の謌生を、ぽかんとして見送る治見家の面々だけが、残されたのだった。
謌寮に戻る頃にはすっかり昼を過ぎていたが、大叢氷雨と日和が多少疲れた顔をして二人を迎えた。思ったより紅緒たちの帰りが遅かったので、待ち草臥れたのだ。大叢兄弟がまだ寮に居残っていることを玄梅が不思議に思っていると、日和が声をかけてくる。半分寝ているような気だるい様子だ。
「いや、二人とも遅かったね。偵察をしに行っただけだと思ってたんだけど、何か厄介ごとでも……あったね?! 肩に何か載ってるものね!」
途中で玄梅の肩の上の怪に気付いて、のんびりした声音が驚きに変わった。うわーなにそれ猫、いや蜂? とすぐさま駆け寄ってきて観察し始める。
「まぁまぁ、話すと長くなりますゆえ、とりあえず座りましょう。お二人は今日は何を?」
紅緒が腰を下ろしながら氷雨に笑いかけた。三白眼がちらりと高坏に載った石を示す。
「……中仰詞様からのご依頼だそうだ。半透明の部分に異形の目玉が浮かぶ」
途端に紅緒が半眼になり、あぁそれか、と小声で呟いた。隣に座った玄梅が耳聡く聞きつけて、そっと訊ねる。
「この石は?」
「確かに目玉が浮かぶ。毬兎がえらくお気に入りでな。目玉の方もいつも毬兎を探している」
毬兎とは、中仰詞である深見草尚季の今年六つになった長男、つまり紅緒の弟である。玄梅は会ったことがない。
「心配ないと申し上げたのに。過保護で困るな父上は」
石に目を向けたまま、玄梅にだけ聞こえる声でぼそぼそと悪態をつく。だがその声音はどこか愉し気だ。
「では悪いものではないのですね」
「はは、こんなものより毬兎の方がよっぽど怖いわ」
「は?」
こそこそと二人が話しているのを大叢兄弟が《いぶか》訝しみ始めたので、紅緒はそこで切り上げて、日和に向き直る。
「目玉は出ましたか?」
「出たけど、特にそれ以上は何もなかったよ。嫌な気配も感じないし」
でしょうな、と紅緒は微笑む。害無しと報告していただいて、さっさと深見草家に送り返してやってほしい。それが無いと泣く幼児が一人いる。
「それで、玄梅にくっついているこの怪ですが、我々が治見家に到着したところ……」
紅緒は治見家での出来事を、斯々然々と説明する。玄梅の魂魄の質に関しては、本人が隠そうとしているようなので、適当に誤魔化しておくことにする。自分も素性について黙っていてもらっているのだから。
「木天蓼が効きました。一部猫なので、いけるかもしれないと踏んで玄梅に木天蓼を持たせたら、これこのとおり」
どちらかというと猫寄りなのかな……と日和は怪をジロジロと興味深げに見ており、氷雨はただただ触りたそうにしていて、玄梅に「眷属にしたなら、今度触らせてほしい」と恫喝、もとい頼んでいる。
玄梅は人知れずほっと息をついて、大叢兄弟に訊ねる。
「ところで、お二人は何故この時間まで寮に……」
その時、部屋の入口に人の気配が立った。
全員が、そちらを振り向くと、果たしてそこにいたのは高鞍鴉近であった。
真直ぐな髪は心なしか艶を失って、ぱさついているし、疲れがにじむ顔に憮然とした表情を浮かべている。何故か衣までよれている。何より違和感なのは、彼が右手に川魚を通した笹の枝を、幾つも提げていることである。
暫し、静寂が部屋に満ちる。
「た、高鞍殿、お疲れのご様子ですね。こちらへ来て座りませんか?」
鴉近が口を開かず、また立ち去る素振りも見せないので、日和はそっと声をかけた。実を言うと高鞍鴉近は、未だにこの面々と全く打ち解けていない。唯一日和が二、三言の必要事項を話しただけで、氷雨と玄梅は話したことがないし、紅緒に至っては話しかけても無視をされている。そんな鴉近が何か言いたげに立ち尽くしている。手に魚を提げて。
不機嫌の極みという表情の宿能生の様子を、全員が恐る恐る窺う。
「……黒羽先輩が、お前たちに渡せと」
魚を差し出してくるので、慌てて玄梅が受け取る。魚が手を離れた瞬間、鴉近はさっさと踵を返して歩き出していた。
「えっ、ちょ、これ! ……どうしますか?」
鴉近の背中に声を掛けたが、無視された玄梅は、仕方なく紅緒と大叢兄弟を振り返る。紅緒が何言ってんだという顔で呆れたように首を振った。
「焼いて食べるに決まってるだろう」
謌寮の裏で焚き火を熾した彼らが、立ち昇る煙に駆けつけた宇賀地による制裁を受けるのはまた別の話である。
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2020/10/15 加筆修正




