唯一のこと
無事に店の予約を済ませ、土産を買ってジルの家へと戻り、その日は一日、離れ離れになる前と同じように過ごした。
当たり前だった“ジルがいるいつもの景色”。
それがいかに素晴らしく、尊いものなのかを身にしみて感じ、現在の幸せと未来の苦しみとで俺の心は乱れた。
共に夕飯を作って食べたくらいで、特に何をするでもなかったが、幸せな時間はすぐに過ぎていく。
外を見るとすでに日は落ち、真っ暗な闇が満ちていた。
昨日までは、俺の知らないうちにジルがいなくなってしまうのではないかと不安に思っていたが、いまは手を伸ばせば届く距離にいて、コイツの息づかいも体温も感じることができる。
それだけでもう十分だった。
それ以上、他には何もいらないと思った。
「ねぇ、レオン。明日はどこにいくの?」
ふかふかのソファに腰かけているジルは、読みかけの本を机の上に置いて聞いてくる。
「そりゃ明日になってのお楽しみ、ってやつだ」
「教えてくれないなんて、けちね」
むくれるジルを見て笑う。
どこに行くかくらい教えてやってもよかったのだが、こうやって感情を出して拗ねるジルを見たかった。
どこにでもいるような普通の女、俺が愛するジル・ウォーカーを。
「さ、とっとと寝よう。明日は朝から出掛けるんだから」
明日のデートが楽しみで仕方がなかった俺たちは、ガキみたいに早々と布団の中に潜り込んだのだった。
――・――・――・――・――・――・――
その日の夜、ジルは叫び声を上げて目を覚ました。
あまりの勢いと声とに俺も驚いてまぶたを開けると、隣でジルは上半身を起き上がらせ、目を見開いたまま、ガタガタと震えていた。
どうやら、また悪夢を見たらしい。
コイツの左胸にある“裁きの証”は、本当に厄介事しか連れてこないようで、こうやって何度も持ち主であるジルに悪夢を見せてくるようだ。
ジルが見るのは決まって、兄が死んだ時の夢と、母親が死んで天涯孤独になった時の夢。
「嫌だ、どうして! お兄ちゃん、私を一人にしないで……」
ジルは両手で顔を押さえ、悲痛な声を出して泣きだした。
普段の様子とは異なり、癇癪を起こした子どものように泣きじゃくっているジルを見ていると、胸のあたりに何とも言えないモヤモヤとした苦しみが渦を巻いていく。
ああ。これで何十回目だ?
ジルが一体何をしたというんだ。
ひどい悪夢を見せられ、信じる心に闇を落とされ。
兄を、命を、幸せな時間を奪われていく。
「大丈夫だ、ジル。俺がいる。ここにいるから」
ジルを抱き寄せ、何度も大丈夫と囁きながら優しく頭を撫でていく。
半分錯乱状態にあったジルは、なだめられたことで落ち着きを取り戻してきたようだ。
次第に呼吸も深くなり、俺に抱きついたまま再び眠ってしまった。
腕の中で眠るジルを潰さない程度に力を込めて抱きしめる。
表にこそ出さないが、恐らくジルは、ギリギリのところで自分を保っているのだ。
言葉や表情にして出さないだけで、俺なんかが推しはかることができないほどに辛い思いをしているに違いない。
コイツは、俺がいない日は、どうしているのだろう。
悪夢を見たあともずっと、辛い心を抱えたまま一晩中泣くのだろうか。
一人にしないで、とああやって嘆きの声を上げ続けるのだろうか。
俺はただ隣にいるだけで……コイツに何もしてやれないまま。
苦しみから救ってやることもできないし、死の恐怖を消してやることもできない。
三ヶ月間潜入したところで、ネラ教の裏側も、証の呪いの対処法も何一つ分からない。
こうしている間にも、刻々と終わりの日は近づいているのに。
本当にこのままでいいのだろうか。
朝目を覚ますと、沈んだ気持ちとは裏腹に、雲ひとつないほどに良く晴れていた。
支度を済ませて外へと出ると、風が爽やかで心地よくて。
ジルのすぐ隣に死が迫ってきていることが信じられないほどだった。
隣を見ると、麦わら帽をかぶり、白のワンピースをまとったジルがいる。
あと何回、こうやって一緒に出かけられるのだろう。
いつかコイツがいなくなってしまったら、俺は……どんな想いでこの道を歩くのだろう。
人気のない林道を行きながら、ジルは鳥やリスの姿を探してきょろきょろと視線を動かしている。
その表情は無垢な子どものようで、あんな悪夢を見た翌朝の顔だとはとても思えなかった。
ジルは強い娘であまり弱音を吐かないが、こんな運命を背負わされて何も感じていないわけじゃない。
平気なふりをしているだけで、本当は俺なんかよりも何倍も辛いはずで。
いつも通りに振る舞い、笑顔を浮かべるジルは、“証になど屈しない”と意地になっているようにも見えた。
どこか張り詰めたものを感じさせるジルを見ていると“ネラ教会の裏側なんて放っておいて、一日でも多くコイツと一緒にいて、呪いを解く方法を共に探したほうがいいんじゃないだろうか”という思いが沸き出てしまう。
やがて、見られていることに気付いたのか、ジルは俺に視線を送ってきて、柔らかく微笑みかけてきた。
「ねぇレオン。私、本当のことを、知りたいわ」
そう言って、俺の左手をとって指を絡めてくる。
「本当のこと、って……」
俺の考えが見透かされていたように思い、たどたどしく言葉を返した。
「お兄ちゃんがどうしてああまでして証を守ろうとしたのか。知らなきゃいけない気がするのよ」
ジルは、強い意志のこもった瞳で、俺を見上げてきた。
空色の瞳は、まるで今朝の空のように一点の曇りもなくて。
どれだけの想いの強さでジルは教会を見極めようとしているのかが、手に取るようにわかってしまった。
ジルは俺なんかよりも、よっぽど覚悟を決めて与えられた運命に立ち向かおうとしているのだろう。
「本当のことを知る。それがお前の願いなんだもんな」
胸の痛みを隠して、笑う。
「うん。だから、レオンが手助けしてくれることが、たまらなく嬉しいの」
ジルは、ふわりと微笑み返してくれる。
優しくて穏やかな笑顔。
俺が一番好きなジルの表情だ。
この笑顔を守ってやるには、やはりジルから離れ、教会に潜入する時間も作らなければならないのだろう。
証の呪いを解く方法を教会で探りつつ、ジルの願いをも叶えてやること。
ひょっとしたらそれが、無力な俺ができる唯一のことなのかもしれない。