嬉しい誤算
神職候補生を目指すこととなった俺は、自宅に帰ることなく、ジルの家に入り浸っていた。
だが、コイツと甘い時を過ごすということは、ほとんどない。
朝から晩まで、ただひたすらに、ネラ教会の歴史や教えについての勉強会が開催されているのだ。
神職候補生になるには、律教以上の地位にある者の推薦を受けるか、難関な筆記試験と面接をパスしなければならない。
そして、非常に残念なことに、この町のマルク律教から推薦を受けることが、不可能であることはわかっていた。
数年前、聖拝の最中に居眠りしてしまったのを、あのオッサンは今もしぶとく覚えているようで、たまにからかわれるからだ。
あの時のあれはもう、時効にはならねェだろうか。
……なるわけねーか。
深くため息をつくと、ジルは困ったように笑い、口を開く。
「それじゃあ、まずは簡単なのから復習しましょ。暗黒竜について、教えてください」
ジルは教典を開きながら、質問を飛ばしてくる。
「暗黒竜は……」
以前と比べて、シワやヨレが増え始めた俺の教典。
それを机の上に置いたまま開くこともなく、ジルの質問に対して、頭の中の知識を引っ張り出していく。
こんなふうにして、俺とジルはこの数週間、二人で勉強をしていた。
以前、勉強なんざ一人でできる、とジルに言ったのだが、俺の言葉を信じていないのかなんなのか、“一緒に勉強する”といって聞いてくれず、この状態に落ち着いたのだ。
暗黒竜について質問を飛ばしてきたジルは、俺の答えを心もとなげに待っている。
まったく……さすがにこんな楽勝問題で躓くかよ。
吹きだしながら笑い、回答をはじめた。
「暗黒竜とは、千年近く前、暗雲を割って現れた竜のことだ。山を崩し、海を荒らし、数々の町を崩壊させ、数多の命を奪った、忌まわしき存在。その頃はまだ人間だった、ネラ・アレクシアの手により、最果ての地に封印された。合ってるだろ?」
自信満々に、ふんと鼻を鳴らしてジルを見る。
だが、ジルはなぜか眉をひそめていた。
「……間違ってるわね」
「どこが」
ソファにもたれて、深く息を吐く。
俺の返答は完璧だったはずだ。
「ネラ・アレクシア“様”よ。敬称つけ忘れたら、それだけで心証悪くなるわ」
ジルは呆れたように笑っていた。
ネラ教会に、こびるのもへりくだるのも遠慮したいところだが、そうも言ってられない。
“やっぱり私が教会に潜入するしかない”だなんてジルに言わせないためにも、俺がやるしかないんだ。
「了解。ネラ“様”だな、気をつけるようにする。次の質問をくれ」
俺の返答にジルは満足そうにうなずいた後、教典をめくっていく。
「じゃあ次は、かなり難易度高いのいくわね。第百二十二歌の内容を簡単に教えて」
“さすがに難しすぎたかしら”とジルは俺の顔を不安そうに見つめてきていて、俺は“見くびるなよ”と、両口角を引き上げた。
「第百二十二歌は、航路の制限、だろ。決められた航路以外を行けば、ネラ様の加護は失われて船は沈み、災厄が訪れる」
「すごい! レオンすごいわ! この数週間でこんな難しいところまで覚えてるなんて」
ジルは自身の顔の前で両手を叩き、嬉しそうに笑っている。
コイツのこんな顔が見られただけでも、勉強をする甲斐はあったのかもしれない。
「俺を誰だと思っている。十にして、いっぱしの鑑定士と言われた男だぞ。記憶力だけには自信があるんだよ」
俺の自慢話に、ジルの空色の瞳がきらきらと輝き出すのがわかる。
見る目が一気に変わった――
そんな印象だ。
もしかして、コイツは俺のことを“仕事もせずにフラフラしている放蕩息子”とでも思っていたんじゃないだろうか。
「お前……俺のことを、仕事もせずに遊び回ってるだけだと、そう思っていただろう」
カマをかけてみると、ジルは頬を掻きながら気まずそうに笑った。
「じつはちょっとだけ思ってたわ。貴族ってそんな感じなのかなって」
「まぁ、俺も仕事のことを、ほとんど話さなかったしな」
俺の仕事は、人手が足りていない親父のサポートだった。
そのため、家から出ずとも仕事ができた。
腕利きの鑑定士であり、交易商である親父の元には、依頼が手一杯になるほど集まりすぎていたからだ。
しかしまぁ、無職と思われていたとは……
こりゃ証があろうとなかろうと、あのプロポーズの返事は“ノー”だったかもしれない。
さすがのジルも、甲斐性なしの男は嫌だろう。
「そっか。ずっとお父さんの船で旅して、修行してたんだもんね。誤解してて、ごめん」
「ごめん、じゃねーよ。ったく、とんでもねェ見当違いだ」
呆れてため息をつくと、ジルは笑う。
「でも、これは嬉しい誤算よ! このまま二・三か月も勉強すれば、試験だって通れるかもしれないわ」
――・――・――・――・――・――・――
そんなジルの見立てどおり、勉強をはじめて二か月半で筆記試験を通過し、本性を隠して面接へと臨み、無事に神職候補生の資格を手に入れた。
やる気のなかった俺が急に熱心になったことに、マルク律教は首をかしげていたが「ジル・ウォーカーに感化された」と答えると、想像していた以上にすんなりと納得してくれた。
神職候補生となると、三ヶ月間修行に専念させられ、そこでもまた、適正を判断される。
この期間は、外との関わりを制限され、肉親や兄弟にすら会うことは許されず、会えるのは教会関係者のみ。
さらには唯一の連絡手段である手紙のやりとりも、週に一回だけだ。
ジルを一人置いていくことに不安はあったが、ジルの願いを叶えるには神職候補生として潜入する他ない。
それに何より、俺が“やっぱりやめる”と言ったところで、ジルが代わりに行くことになるのは目に見えている。
「それじゃ、行ってくる」
三ヶ月間の修行へと向かう俺は、荷物を肩にかけて、扉の前で振り返った。
「お願いだから、無理だけはしないで。元々は私のわがままだし、辛かったら帰ってきて大丈夫だから」
ジルは申し訳ないとばかりに、うつ向く。
まぁ、コイツがそういう顔をするのもわからないでもない。
教会嫌いの俺が、三ヶ月も教会に入り浸りになる生活をすることになるわけだし、何よりこの身に危険が及ぶ可能性がある。
気にするな、と言ったところで効果はない、だろうな。
小さく息を吐いて、苦笑いを浮かべた。
うつむくジルを少しの間眺め、あごを乱暴につかんで顔を上げさせる。
俺の唐突な態度に驚いているコイツを見て笑い、噛みつくように唇を奪った。
しばしの間、柔らかい唇を堪能し、ゆっくりと顔を離すと、耳まで真っ赤に染め上げて、あわあわと動転するジルの姿が目に入る。
「ちょ、っと、ねぇ! い、いいい、いきなり、何をするのよ!? 全然そんな雰囲気じゃなかったじゃない!」
一年も付き合っているのに、未だ初な姿を見せてくれるジルが、いとおしく、面白くもあり、くつくつと笑った。
「タダ働きはごめんだし、前払いで少し払ってもらおうと思って、な」
「ま、前払いぃ!?」
笑われたことが悔しかったのか、ジルは睨み付けるように俺を見てくるが、そんな上気した顔で睨まれたところで、怖くもなんともない。
たまらずジルを抱きしめて、耳元で囁く。
「残りのぶんは、俺が帰ってからもらう。踏み倒して、逃げるんじゃねェぞ」
別に、甘い雰囲気にしたかったわけじゃない。
ここで、湿っぽい空気になるのがたまらなく嫌だったのだ。
……“確かな約束”それが欲しかった。
ただ、三ヶ月後も、生きてここにいてくれれば、いい。
それだけで……いいんだ。
恐らく、伝わらなくていい俺の真意まで、ジルに伝わってしまったのだろう。
コイツは俺のことを、強く抱き締めてきて、決意のこもった声ではっきりと言葉を放ってくる。
「大丈夫。どこにも行かないで、ちゃんとここで待ってるから」
ジルはいま、どんな顔をしているのだろう。
不安にさせただろうか。
恐る恐る覗き込むと、目が合った途端、空色の瞳が柔らかく細められて、口元は柔らかく弧を描いていた。
――私は最期の時まで“私”でいたい。証に、負けたくないの
その言葉がふと蘇ってくる。
証の恐怖に屈さないこと……それがきっと、コイツの戦いなんだ。
ジルの強さに改めて気づき、俺もコイツに負けていられないと強くこぶしを握ったのだった。