お人好しな娘
「そりゃあお前、人を殺し、物を奪えと謳う宗教がどこにある?」
鼻で笑って肩をすくめると、ジルは眉根を寄せながら不満げに口を尖らせてくる。
だが、そんな表情をされても、この話を止めようなどとは思わなかった。
ジルは毎度甘すぎるし、純粋すぎる。
それをわかってもらいたかったのだ。
「ネラ教の教えなど、ただの夢物語だろう。実際、綺麗事だけじゃ人は生きられねェし、救えもしない。お人好しにも……」
――ほどがあるんじゃないか。
そう言おうとした時、遠くから聞き覚えのある子どもの声がした。
「あーっ! ジル姉ちゃんだっ」
声をあげ、こちらを指差していたのは、孤児院にいる少女、オリガだ。
にかっと笑うあの娘は、髪を結ぶのが下手くそなのか、二つに結った髪の高さが毎度のように違っていた。
何をそんなに急いでいるのか全くもってわからなかったが、オリガはジルが振り向くやいなや、こちらに向かって駆けだしてくる。
「ちょっと、オリガ。走ったらまた転んじゃうわよ!」
慌てて制止するジルの声は聞こえているのだろうが、少女が走るのを止める気配はない。
“また”ということは、こういうシチュエーションで何度も転んでいるのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、オリガはつんのめり、派手に地面へとダイブした。
ほうら、言わんこっちゃねェ。
どうしてガキってのはこうやって“やるな”といわれることをやって、お決まりのように転ぶんだか。
「うわっ、うわあああん」
砂のついた顔を上げて、オリガはむくりと起き上がり、わめくように泣き出す。
見たところ、どこも怪我はしていなさそうだ。
「レオン、これ持ってて」
「うおっ!」
ジルは、さっきまで後生大事に持っていた、教典の入ったカバンを乱暴に投げつけてきて、オリガ目がけて駆けだした。
「大丈夫? 見せてみて」
自身の服が汚れるのも気にせず、オリガの前で両ひざをつけてしゃがみこんだジルは、オリガに怪我がないか確かめたあとに、ぎゅっと抱きしめた。
「びっくりしたわねぇ、でももう大丈夫よ」
ジルが、しゃくりあげるオリガの頭を何度も撫でて声をかけていくと、魔法でもかけられたかのようにオリガの泣き声はわずかだが収まる気配をみせた。
さすが、手慣れたモンだ。
思わず目を丸く見開いて、感心する。
ジルは、この町の孤児院に通いで働いている。
明るくて柔らかい雰囲気を醸し出すジルは人気があるようで、子どもに囲まれていたり、よじ登られたりしているのを俺も何度か目撃していた。
「ねぇオリガ、泣かないで。そうだ! 私、いいこと思いついちゃったわ。痛いのは、最近文句ばっかりの、お兄ちゃんの足に飛ばしちゃおう!」
おい、ジル。にこにこと笑いながら、なに物騒なこと言ってやがる。
「お、にい、ちゃんの、足に? でも……」
「お兄ちゃんは強いから、大丈夫だよ。そーれ、飛んでけーっ!」
ジルは一番痛そうにしていたオリガの膝を撫でて、俺の足の方へと何かを投げつけるような動作をしてきた。
なんなんだよ……それ。
人に痛みを投げつけるパターンは、はじめて見たぞ。
苦笑いを浮かべていると、ジルから“何か反応しなさい”とばかりに、じとっとした目を向けられる。
どうしたら正解なのかがよくわからなかったが、とりあえず、足をぼりぼりと掻いてみた。
「ほらね、痛いのはちゃんと飛んでったよ。もう大丈夫でしょ?」
「うんっ、もう痛くない! すごいね、ジル姉ちゃんとお兄ちゃん!」
ジルの問いかけに対するオリガの返答に、もはや笑うしかない。
おいおい。痛みなんて、完全に気のせいだったんじゃねーか。
「ふふふ、よかった。それと、あっち向いて。髪直してあげる」
ジルの言葉に、ふにゃりとオリガは笑った。
さっきまでは大泣きしていたオリガは、髪を整えてもらい、あっという間にゴキゲンな表情へと変わっていた。
「ジル姉ちゃん、ありがとう!」
「日が暮れる前に帰ってね」
「うんっ、ばいばい」
「また明日ね!」
ジルは去りゆくオリガに手を振り、無邪気に笑う。
家族を亡くし、証という厄介事を抱えながら、それでもコイツはこうやって他人を愛して、笑うのか。
どうしても知りたいことができてしまった俺は、オリガを見つめるジルの元へと向かい、隣に立った。
「なぁ」
「ん、なぁに?」
オリガの姿が見えなくなってもジルは穏やかな笑みを浮かべていた。
「どうしてお前はそうやって笑う? 俺には泣きわめいても、当たり散らしてくれてもいいんだが」
こんな運命を背負わされてもなお、ジルは自棄になることもなく、塞ぎこむことも無い。
辛くないはずはないのに、笑い続ける。
それが、不思議で仕方なかったのだ。
問いかけられたジルは、照れたような、戸惑ったような顔で微笑む。
「うーん、負けたくないから……かな」
「は?」
言っている意味が全く分からずに、思わず声が出てしまう。
勝ち負けの話ではないのに、何を言っているんだ、と苦笑する。
そんな俺の心の声を読みとったのか、ジルはくすくすと笑い、自身の左胸に手をあてた。
「私は最期の時まで“私”でいたい。証に、負けたくないの」
あまりにも負けん気の強いジルに呆れて、口角を上げながら小さく息を吐く。
ああ、そうだ。コイツはこういうやつだった。
たおやかな見た目をしておきながら、芯だけは鋼のように強い。
疑う心を知らず、真っ直ぐに生きる、純粋なジル。
岩肌の隙間に凛と咲く花のようだと、幾度思ったことか。
ネラ教会を疑い、警戒してほしいと思いつつも、いつまでもこの純粋さを保っていて欲しいと思う。
頼って欲しいと思う一方で、このしなやかな強さを忘れないでいて欲しいと願ってしまう。
矛盾しているのは、自分でもよくわかっている。
だが、俺が愛したのは、どこまでもお人好しで、バカで、美しく純粋な女なんだ。
そんな女が、どうしてこんなことに巻き込まれなきゃならねーんだよ。
胸を締め付けてくる痛みと、ジルへの愛しさとでたまらなくなってしまい、左手でジルの肩を抱き寄せた。
「うわっ、レオン、どうしたの?」
至近距離でジルは俺のことを見上げてくる。
空色の瞳が、光を集めて海のように輝いていて、思わず見とれてしまう。
「いや。いい女だと思ってな」
にやりと笑いながら言うと、ぼっと顔に火がついたようにジルの顔は赤くなった。
「そんなこと、思ってもないくせに」
ジルは視線を背けて、口をとがらせている。
そんなふうに照れて強がる顔がまた、俺の心を掴んで離さないことを、コイツはわかっていてやっているのだろうか。
――・――・――・――・――・――・――
その日の夜は実家へと戻り、鑑定と交易の腕とで成り上がった親父に『ネラ教会の神職を目指す』と告げた。
親父はかつて、足手まといでしかなかったであろう子ども時代の俺や兄を航海に連れ出してまで、鑑定と交易のスキルを高めてくれた。
その長い船旅のおかげで、学んだことは数えきれないほどにある。
親父は、仕事の手伝いを頼めなくなることを残念がってはいたが『ミラー家から神職が出るとなったら、それは名誉なことだ』と喜んでもくれた。
親父には感謝しかなくて、スパイとしてネラ教会に行くことに後ろ髪ひかれてしまう思いもあった。
失敗すれば、家にも迷惑がかかるかもしれない。
それでも、見て見ぬふりなんかできるわけがない。
ジルを隣で支え、願いを叶えてやれるのは、きっと……この俺だけなのだから。