裁きの証
ジルを好きだと気づいたのは、一体いつだったろうか。
そんなのもう、はっきりと思い出せやしない。
ただ、自分でもよくわからないうちに、幼馴染だったジルの姿を無意識に探すようになっていた。
気になっていることに気づいてしまったら、もうどうにも止まらなくなってしまって。
聖拝の時間も神職の説教そっちのけで、熱心に教えを聞くジルの横顔を見つめていたし、ジルの一挙一動にずっと惑わされ続けていた。
ジルの姿は仮の姿で、本当は地上に降りてきた女神ネラなんじゃないか。
あの時の俺は、そんなバカなことを本気で思ったりもしていた。
それくらいジルは、気丈で優しく、誰に対しても親切で、誠実な女だったのだ。
ただ、恋人同士となった今それを考えてみると、コイツはずいぶんと抜けていて、お人好しすぎているから、確実に女神には向いてないことがわかったんだが。
まぁとにかく。
そんなこんなでしばらくジルを目で追い続け、一年ちょっと前に、意を決してコイツに交際を申し込んだ。
告白をしたのは、おっとりとしているくせに、表情だけはころころと変わるジルを、ただ見ているだけでは満足できなくなったから。
俺のことよりも、ネラ教の教えに入れ込んでいるのが悔しく思うほどに、ジルを自分のものにしたくて仕方が無くなっていたのだ。
だが、その時も一か月以上、のらりくらりとかわされ続け、長々と返事を待たされた。
つまりは、あれもこれも、全ては“証”がネックだったのか……
――・――・――・――・――・――・――
「それで、いつから“証”を持ってたんだ?」
隣に座るジルに、そっと問いかける。
あれから俺たちは、ソファに腰かけて、証についての話をすることにした。
すでに日は暮れており、窓の外は漆黒の闇が満ちている。
ランタンの灯りに照らされるジルの横顔が、寂しそうでもあり、どこかホッとしたようでもあった。
一人で抱え込んでいた証について暴露できたことで、肩の荷がわずかでも下りたのかもしれない。
ジルを安心させようと、コイツの細っこい右手に自身の左手を重ねていく。
すると、それに促されるかのように、ジルはポツポツと話し出した。
「この証はね、十八歳の時、お兄ちゃんが託してきたの」
「お兄ちゃん、ってジェスさんが? 海に出たっきり行方不明なんじゃねぇのか」
目を見開き、混乱した頭で過去を振り返る。
確か、俺の記憶ではジルの親父さんは航海士で海で失踪していて、ジェスさんは親父さんを探そうと、後を追うように海に出ていた。
その間に、おふくろさんが病気になって死んでしまい、ジルは十七歳にして天涯孤独の身になってしまったはずだ。
「お兄ちゃんは突然ここに帰って来たのよ。身体は傷だらけで、泥まみれだった」
ジルは視線を落として、険しい表情をしている。
それほどにジェスさんは、酷い傷を負っていたのだろう。
「海賊にでも襲われたのか?」
「ううん、お兄ちゃんは……ネラ教会に襲われた、って言ってたわ」
「は!?」
思わず大声を出して、身を乗り出す。
ネラ教会が市民を襲うだなんて、そんな話、見たことどころか聞いたことすらない。
「信じられないわよね。私も未だにそう……」
困ったようにジルは笑っている。
ネラ教を熱心に信仰しているジルのほうが、俺なんかよりもよほど衝撃は強かっただろうし、信じられないのも当然のことだ。
「そんな話、信じろってのが無理な話だ。この世界はネラ教会によって秩序が保たれてる。市民を手にかけるなんざ、あっちゃなんねーことだろうが」
動揺を隠し、肩をすくめて言う。
この世は、唯一神であるネラを崇めるネラ教会によって守られている……
いや、ある意味教会に支配されている。
民は例外なくネラ教を信仰し、王も貴族も、町長も村長も誰もが、ネラ教会には逆らえないのだ。
司法、行政、立法、その裏には全てネラ教会の影が蔦のように絡んでおり、野心を抱くやつは皆、いかにして教会に取り入られようか、画策していた。
まぁ、そんな事実は誰にも言えないし、別に“何かおかしい気がする”と声をあげる気もなかった。
言ったところでどうせ何も変わらないし、でかすぎる権力に潰されるのがオチだからだ。
ジルは俺の“教会が民を手にかけるのが信じられない”という言葉に、こくりとうなずいてきて、口を開いた。
「私もなにかの勘違いなんじゃないかって、そう思ってる。だけど……」
「だけど、なんだ」
「お兄ちゃんはネラ教会にだけは“証”を渡しちゃいけないって。痛みで話すのも苦しかったと思うのに、何度も何度もすがりつくように言ってきたの……」
ジルは、ぐ、と口元に力を入れて、こぶしを強く握る。
久々の再会で兄がひどい傷を負っていて、しかも信仰する教会が原因かもしれないだなんて、相当ショックを受けたのだろう。
そして、その時に受けた心の傷は、恐らくいまも癒えきっていない。
俺の目にはそんなふうに見えた。
苦しげな横顔を見つめていると、ジルは再び口を開いていく。
「お兄ちゃんはね、誰にも内緒でこれを守り、次に受け継がせる相手を探してくれ、って私の手を強く握って言ってきたわ。そして、言い終えた後、闇に取り込まれて、消えちゃったの」
「は? 消えた!?」
「この証、“裁きの証”は、力を分け与えてくれる代わりに、寿命を奪っていくらしいわ」
「──ッ!?」
ジルはとんでもないことをさらりと言って「結局、その力の使い方もわかんないんだけどね」と、誤魔化し笑いを浮かべてきた。
なんだよそれ、確実に笑うとこじゃねーよ……
あまりにも予想外な言葉に理解が追い付かない。
寿命を奪ってくる?
これまでに、何年コイツの寿命を奪われた。
一年か、二年か、それとも十年……?
非現実的なことを言われて、混乱がますますひどくなっていく。
もしも七十まで生きられるとして、十年奪われたら、六十、か。
あと四十年ないくらいだ。
まだまだ俺たちは一緒にいることができる。
男の方が早死にしやすいから、ひょっとしたら同じ時期に死ねるかもしれない、なんて、そんなことを思う俺は、どこまでも考えが甘かった。
ジェスさんのことを思い返せば、残された時間の短さにすぐ気づけたはずなのに……
よほど、現実を直視したくなかったのだろう。
ジルはそんな俺の考えに気づいているのかいないのか、視線を落として、自嘲するように笑った。
「私に残された時間は、最長で十年。お兄ちゃんは五年しかもらえなかったみたいだから、私もあと何年……ううん、あと何日生きられるかもわからない」