あなたに贈る花
ラストに挿絵あるため、苦手な方は挿絵を消してご覧ください。
しばしの間笑い続けていたのだが、突如足に感覚が無くなった。
ふっと、その場に崩れ落ちて、呼吸も荒くなりはじめる。
どうやら、証の力を使いすぎたらしい。
貧血になどなったことはないが、恐らくこんな状態なんじゃないかと思う。
気が遠くなって、目の前が白く霞んで歪み、ひどい吐き気がする。
小さく舌打ちをして顔を上げ、ネラの姿が描かれたステンドグラスを睨みつけた。
誰よりも憎い相手のはずなのに、艶やかな黒髪と柔らかい笑みがジルに重なってしまう。
やがて睨むのも忘れて、ただただその姿を見つめ続けた。
次第に、何とも形容しがたい想いが心の奥底から沸き上がってきて、ぼろぼろになった右手を思いきり床に叩きつけた。
「クソっ、なんでだよ……」
長椅子の脚にもたれかかりながら、嘆きに似た声で呟く。
胸の奥にある痛みや苦しみが、復讐を遂げれば、少しは和らぐと思っていた。
ジルがまた、微笑みかけてくれるような気がしていた。
それなのに……
苦しみなんて、一つも消えやしない。
四人も殺し、復讐を遂げたところで、結局何も変わりはしなかった。
得られたものといえば、殺人を犯したという事実と“何も変わらない”という虚しさだけ。
浮かんでくるのも……苦しみを隠して無理に笑った、あの顔……
ジルに似たネラ神をぼんやりと霞んだ目で見つめながら、そっと口を開いた。
「ジル……ごめんな……」
一人で苦しませて、無理に笑わせて。
幸せを与えてやることも、希望を見せてやることもできなかった。
ずっとそばにいたのに、誰よりも近くにいたのに。
お前を救ってやれなかった……
何が、恋人だ。
何が、プロポーズだ。
口ばかりの俺は、情けないほどに無力で……
結局アイツを不幸にしてしまったんだ。
後悔と懺悔を繰り返し、ずいぶんと長い時間をかけて体力を回復させていく。
ようやく身体の調子が戻って来たところでよろめきながら立ち上がり、ローブを脱ぎ去った。
このままここで死んでもいい。
そんなふうにも思ったが、教会に証を渡すのだけは御免だった。
証をヤツらに渡してしまったら、ジルが、ジェスさんが、これまで証を受け継いできた者の死が……無意味なものになってしまうのだから。
こうしてはいられない。
俺は四人も殺した殺人犯であり、教会が渇望する裁きの証を持っている。
この町にいつまでもいたら、確実に捕まってしまうだろう。
さて、ここからどう逃げるべきか……
聖拝堂の扉に手をかけながら、動かない頭を必死に働かせて、考えを巡らせていく。
陸路は逃げ場も多く、すぐに捕まるリスクは低いが、やがて行き先を追われ、囲まれる可能性が高い。
海路は逃げ場が少なく、船乗りにバレたらすぐ捕まってしまうためリスクは高いが、一度他の町についてしまえば身を隠しやすい。
どちらにするかと散々悩み、結局交易船の積み荷に紛れて、この町を出ることに決めた。
――・――・――・――・――・――・――・――
港へと向かうため、聖拝堂を出て町を行く。
その間、何一つとして視界に入らなかった。
誰かに話しかけられて、返事をしたような気もするが、どんな話をしたのか全く思い出せなかったし、思い出そうとする気力もなかった。
ぼんやりとした頭のまま、引き寄せられるように港へ向かい、ひたすら歩き続けていた。
いつまでもいつまでも、ジルの悲しみが混じった笑顔と、苦しそうに泣いていたあの日の声が、頭の中をめぐっていて。
悲しみと苦しみで満たされた暗い海に、ただただ溺れていた。
潮騒の音が聞こえ、ふと顔を上げたら、幾度もジルと通った海岸沿いにいた。
港に行くつもりだったのに、なぜか浜辺に来てしまったようだ。
規則的なリズムを刻む波と、遥か遠くにあるオレンジ色の夕陽。
それを見つめていると、最も幸せな日だと思ったあの日のことを思い出してしまい、また涙が溢れてくる。
指輪を見て泣く姿、ふざけて笑うあの顔、そして頬に当てられた柔らかな唇……
アイツの全てが愛おしくて、大切で。
ずっと守っていきたいと、そう思っていたのに。
強く目を閉じていくと、微かに足音が聞こえてきた。
「おっ、いいところに!」
後ろから、聞き覚えのない声がして振り返る。
するとそこには、もっさりとしたひげの男と、糸のように細い目の男がいた。
服装と体格からすると、恐らく船乗りなのだろう。
無言のまま二人に視線を送っていると、ひげの男はにかっと歯を見せて笑顔を浮かべてきた。
「なぁ兄ちゃん、港はどこだい? 道がわからなくなってよォ」
「港なら、この方向にまっすぐ行けば着く」
右方向を指し示すと、ひげの男は嬉しそうに笑んだ。
「助かったぜ、ありがとよ。礼にこれやる」
突き付けられた毛むくじゃらな手に握られていたのは、ドレスのようにヒラヒラとしたピンク色の花。
むさくるしい手と可憐な花とのあまりのアンバランスさに、苦笑いがこぼれてしまう。
「これは?」
「交易の売れ残りさ。季節外れのスターチス。とっといても枯れるだけだし、気になる女にでもやるといい。花言葉は確か……」
ひげの男は口元に手をあてて、うんうんと唸りながら考えていく。
それに見かねたのか、隣にいた糸目の男が、小さく息を吐いた。
「変わらぬ心、途絶えぬ記憶、変わらない誓い、ですよ」
「おお、さすがハルト! 元貴族なだけあるな、ははは」
ひげの男はうるさいくらいの笑い声を上げ、糸目の男はやれやれと言った様子だ。
「花言葉?」
ふとひっかかった言葉を尋ねてみる。
貴族の間で流行っているという話は聞いたことがあるが、これまでずっと花に興味もなくて、それが何か知ろうとしたことは一度もなかったのだ。
「おや、ご存じないですか? 花には意味がありまして、贈る時に自身の感情に似た花を選び、相手への想いをのせるのですよ。言えない、言いにくい想いを、ね」
ハルトは穏やかに微笑みかけてくる。
格好こそ船乗りだが、立ち居振る舞いは貴族のそれだった。
花言葉、ねぇ。
って、まさか……
「シオンという花にもあるのか?」
三ヶ月間離れ離れになっていた時に、ジルが“咲いたよ”と教えてくれた花、それがシオンだったように思い、尋ねてみた。
「シオンの花ことばは、“遠くにいる人を思う”でしたかと」
やはり、と目をつぶった。
本音をなかなか口に出さないジルは、大好きだった花を使って、俺に想いを伝えてきていたのだ。
「カランコエ、は」
ジルの家の庭に咲いていた小さな赤い花。
三ヶ月の神職候補生期間を終えて帰って来た時に、嬉しそうな顔で俺に名を教えてくれた花だ。
「“たくさんの小さな思い出”ですね」
ハルトの言葉を聞き、自身の口元に力がこもっていくのを感じた。
ジルもきっと、俺との思い出を大切に思ってくれていたのだろう。
一緒に過ごした日々が、何気ない小さな出来事が、かけがえのない幸せな時間だった。
カランコエの花ことばは、ジルがそう伝えてくれているように感じた。
「ペチュニアは……」
レストランから出た先にある花壇に咲いていた花の花言葉について、ハルトに問う。
あの日のジルは“私にぴったりだ”と言って、優しく笑っていた。
ぴったりとは、どういう意味だったのか、あの時にはわからなかったが、いまなら分かるかもしれない。
そう思い、食い入るようにハルトを見つめた。
「ペチュニアは“あなたと一緒なら心がやわらぐ”になります。どれも美しい花言葉の花ですね」
ハルトは、にこりと微笑みかけてきた。
聞けることのなかったジルの想いを、いなくなってしまった今、知ることができて、胸が熱く、苦しくなる。
ふと、ジルの最期を思い返す。
“ステキないい人生だった”
それは俺に向けた、アイツなりの優しさの言葉だと、そう思っていた。
あの笑顔も……証に負けたくなくて意地で笑ったのだと、そう思っていた。
苦しみと絶望の中で生き、日々辛い想いをしているとばかり思っていた。
だけど……
アイツは本当に、俺との毎日に幸せを感じていてくれていた。
俺に重荷を背負わせたくなくて、言葉にして言わないだけで、心の中では、こんな俺をずっと頼ってくれていたんだ。
無力だった俺でも、苦しむジルの心を救ってあげられていたのかもしれない。
アイツを幸せにしてやることができていたのかもしれない。
これまでにジルが俺にくれた、アイツの大好きな花。
それらが、届けてくれたアイツの言葉を知って、ようやく隠された想いに気付くことができた。
眼頭が熱くなり、視界が滲んでいく。
「一体どうしたのですか? そんなに花言葉にご興味がおあり」
「すまないが、最後に一つだけ教えてくれないか」
怪訝な顔をするハルトの言葉を遮って、言葉を放つ。
「はい、なんでしょう」
「ナナカマドの花言葉を教えてくれ。どうしても、知りたいんだ」
ジルが最期に俺に渡してきた、赤い実のついた枝。
小さなブーケだと言って、微笑んでいたあの花は……
「ナナカマド、なんでしたっけ、ううむ」
腕を前で組んだハルトは悩む様子を見せ、俺は静かに言葉を待った。
「ああ、思い出しました」
ぽんと両手を叩いたハルトは、にこりと笑う。
「“私はあなたを見守る”ですよ」
「みまも……る……」
言葉を復唱しながら、足元から崩れ落ち、砂浜に膝をついた。
ハルトの声は、ゆったりと低いのに、なぜかジルの柔らかい声が重なったように聞こえたのだ。
「ジル、どうしてお前ってやつは……」
次から次へと涙があふれ出てきて、それを止めることなど出来なかった。
ジルに会えない悲しみと、二度と知ることができなかったはずのアイツの想いを、また知ることができた喜びとで、胸がいっぱいになってしまい、何度もしゃくりあげた。
見知らぬ男二人の前だというのに、堪え切れずに、みっともなくぽろぽろと涙を流していく。
乾いた白砂に、次から次へと雫がこぼれ、花が咲いたような染みがいくつもできた。
ふと、首元が気になって、触れてみる。
ネックレスなど普段しないのに、そこにはチェーンがあった。
引っ張り出していくと、夕陽の光を浴びてシルバーの輪がきらきらと輝きだす。
これは……ジルが今朝くれた指輪だ。
首から外して、左の薬指にはめようとしたが、あまりにも小さすぎて途中までしか入らない。
「ホント、ジルは馬鹿だな……」
相変わらずどこか抜けているアイツの姿を思い出し、少しだけ笑って、涙をぬぐう。
「なぁオッサン、その花くれ」
「あ、ああ。いいぜ」
ひげの男は、突然泣き出した俺に困惑していたのか、たどたどしくスターチスの花を渡してきた。
髪を結んでいた紐をほどき、ポケットからナナカマドの枝を取り出す。
スターチスとナナカマドを共にくくりつけて、小さな花束を作り、海へと足を踏み入れた。
「おい、兄ちゃん! 何があったか知らねェが、早まるな!!」
ひげの男の言葉を無視して突き進み、ひざ下まで海に浸かるところで足を止める。
「……はじめて妻に贈る花束なんだ。届けてくれ」
返事があるはずもないのに、海に語りかけて、花束を浮かべた。
水平線で空と交わる海ならば、空色の瞳を持つジルに届けてくれそうな気がしたのだ。
波は幾度も寄せて返してを繰り返しているのに、花束は不思議と陸地のほうに追いやられることなく、そこにとどまりながら揺れていた。
スターチスの花言葉『変わらぬ心、途絶えぬ記憶、変わらない誓い』
俺もジルのように、花に想いをのせて、誓う。
ネラ教会の裏側を探り、この証を信頼できる者に受け継がせてやる。
だからずっと空から見守っていてくれ、と。
ジル。
いつか終わりを迎えるその時まで、俺はお前の想いと共に、生き抜いてみせるから。
もしもまた出会えたら、お前に叱られないように。
いつもみたいに、あの優しい顔で笑いかけてもらえるように。
アイツと対になった指輪を手にして顔を上げると、オレンジ色の夕空に交じって青色の空が見える。
ふと俺の大好きなジルの笑顔が浮かんで見えたような気がして、涙を溢れさせながら、笑う。
「オッサン。俺さ、鑑定士なんだ。損はさせねェから、アンタの船に俺も乗せてくれないか?」
涙をぬぐって笑いかけると、ひげの男は目を丸くさせ「オッサンじゃなくて、ライリーだ」と豪快に笑っていく。
そして「いいぜ、ワケアリなヤツは嫌いじゃない」と二つ返事で答えてくれた。
ライリーとハルト、あいつらはきっと悪いヤツじゃない。
“また、勘で人を判断するのか”とお前に笑われてしまいそうだ、と空を見上げて微笑む。
きっと、また後悔して、嘆いて、何度でも泣くだろう。
お前がいないことが苦しくなる夜も、数え切れないほどにあるだろう。
この傷と喪失感が癒えることは生涯ないと、自分でもわかっている。
だけど、それでも。
ジルだけを想いながら、色が消えて淀んだこの世界を生きていく。
アイツが言った唯一のわがままを叶えるため、またここから新しい一歩を踏み出していくんだ。
大丈夫、恐れることは何もない。
いつだって空を見れば愛しい妻ジルがいて、俺を見守ってくれているはずだから。