愛しい人の行方
二人の姿が消えたことを恐る恐る確認して立ち上がる。
無音の聖拝堂に一人取り残され、いまもなお酷い悪夢を見ているような気がした。
嘘だろ、ジルが、ヤツらに連れて行かれるだと……
茫然として立ち尽くしていたが、こんなところでぼさっとしてはいられない。
一刻も早くジルの元へ!
群青色のローブをその場に脱ぎ捨て駆け出した。
考えるのはジルのことばかりで、どの道を走ったのか、誰とすれ違ったのか、そんなことすら一つも覚えていない。
ただ家までの距離が果てしなく遠く、一分一秒がとても長く感じた。
ようやくジルの家へとたどりつき、激しい音を立てながら扉を開けるが、中はしんと静まり返っている。
ジルも、教会の者も、誰もいない。
荒らされた痕跡もなく、朝出ていった状態のままのように見える。
「くそっ! どこだ、どこへ行った!」
間に合わず、すでに連れて行かれてしまったのではないだろうか。
ジルはマルク律教を家族のように信頼している。
アイツに来いと言われたと使者が伝えれば、疑わずについていくだろう。
そんなひどく不吉な予感が、頭をよぎる。
余計な考えを振り払おうと、乱暴に扉を殴りつけた。
考えろ。
アイツはどこにいる?
町か、教会か、それとも……
気ばかり急いて、せわしなく両足が揺れる。
――今日は無花果のタルトを作って待ってるね
ふと、ジルの声が蘇ってきて、はっと息を飲む。
無花果がなるのは、カルムの林だ!
顔を上げて、すぐさま一歩を踏み出す。
遠くに見える林に引き寄せられるように、町を駆け抜けた。
足がもつれはじめ、何度も転びそうになる。
焦りと不安から、上手く呼吸ができない。
光がまばらに降り注ぐ林の中、陸に上げられた魚のように、ぱくぱくと間抜けに口を動かしながら、ジルの姿を探し求めた。
「――ッ!」
木の根に足がかかり、派手に転んだ。
痛みなんて、一つも感じなかった。
それよりも、この心の方が……いいや、ジルの心の方がもっと痛いんだ。
両腕を地面につけて起き上がり、また走り出す。
走りづめだった足は、とうに限界を迎えていた。
「クソッ! 動けよ!」
息を切らせながら、思うように動いてくれない足に苛立って殴り、痛めつけた。
こうしている間に、ジルが連れて行かれるかもしれない。
そう思うと、ここで立ち止まる気にはなれなかった。
酸欠なのか視界も霞みがかっているが、大きく息を吸って顔を激しく横に振り、草木ばかりの景色を睨みつけていく。
まだ、最長の期限である十年はきていないんだ。
お前が終わりの時を迎えるには、早すぎる。
伝えたい言葉だって、まだ山ほどある。
アイツが好きな花の名だって、少ししか教わっていない。
あの柔らかい声も、穏やかな笑顔も、優しい温もりも、全部こんなところで失いたくなんかないんだ。
俺からアイツを奪わないでくれよ……!
いつかは今日じゃないだろう?
どうか、間に合ってくれ!
この広い林のどこにいるかなど、ちっともわからなかったが、愛しい者の姿を求めて、無我夢中で駆け抜けた。
――・――・――・――・――・――・――
「や、やめなさい!」
遠くから微かに女の声が聞こえてくる。
これは……ジルの声だ!
連れていかれていなかったことにわずかに安堵するが、声色と言葉からすると、状況は到底楽観視できるものではなさそうだ。
急ぎ足で、声のした方へと向かった。
「貴方たち、いったい何なんですか! 盗賊なんですか!?」
震えるジルの声がするが、姿はまだ見えない。
「あははっ! 人聞きが悪いねぇ、俺たちはしがない傭兵だよ」
高らかに笑う男の声がする。
どこか甘ったるい声に、虫唾が走った。
ようやくジルの姿が木と木の隙間から見えた。
ジルは、逃げ疲れたのか激しく肩を上下させて息をしており、幹に背をつけたまましゃがみこんでいる。
自分自身を守るように抱きしめながら、睨みつけるような視線を向けていた。
敵は二人。
どちらも若い男で、一人は長髪で細身の優男。
もう一人は、愚鈍そうな顔付きの大男だ。
どちらも左腰に剣を携えている。
すぐにでも飛び出してジルのもとに行きたかったが、そういうわけにもいかない。
気配を消して、距離を保ちながら、可能な限りジルの近くへ行こうと移動を始めた。
剣については一通り習っていても、ここに剣はないし、こんなにも疲弊している状態で、傭兵二人に勝てるはずがないからだ。
「ねえねえ兄ちゃん。この子“傭兵がどうして追いかけてくるの?”って顔をしているよ」
大男が楽しそうに、優男に話しかける。
どうやらあの傭兵二人は、ちっとも似ていないのに兄弟のようだ。
「はは、本当だ! お姉さん、せっかくだし、誰が俺たちを雇ったか教えてあげようか?」
からからと優男は笑う。
それを言うのはやめてくれ、と心の中で強く願う。
親のように信頼していた者の裏切りという残酷な真実を知ったら『証に負けたくない』と、張り詰め続けたジルの心は、あっという間に壊れてしまう。
もう二度と笑えなくなってしまうかもしれないんだ。
両のこぶしを力いっぱい握り、祈るような気持ちで優男の横顔を見つめる。
「雇った、って、だれ、が……?」
ジルが呟くように言うと、優男はにやりと笑みを浮かべていく。
「マルク律教だよ」
どこか冷ややかな声にジルは一瞬言葉を失くし、目を白黒とさせながら「嘘、そんなの嘘よ!」と顔を何度も横に振った。
いつもの気丈な姿とは違い、その仕草はまるで子どもが駄々をこねているようだった。
それほどに、受け入れ難い真実だったのだろう。
「嘘なんかついても、俺たちに得なんかないでしょ。ねぇ、お姉さん可愛い顔して、一体何したの? 教会に目をつけられるとか、ただ事じゃないよね~。連れてこれなきゃ殺していいとかさ、こんな依頼、滅多にないよ」
「私を、殺して、いい……? マルク、律教、が……?」
ジルの瞳は光を消失させており、全身も脱力してしまっていた。
親のように慕っていた者からの裏切りは、ジルの心を鋭く深く傷つけたのだろう。
涙も流すことなく、一切の感情を失くしたかのようなその姿は、糸の切れたマリオネットのようで、とても見ていられない。
奥歯をぎりと噛みしめて、男たちを睨みつけていく。
ジルの心を傷つけ悲しませた、目の前の男たちとマルク律教とに、どす黒く強烈なほどの殺意が芽生える。
絶対にヤツらを許してなるものか。
必ずいつかこの手で殺してやると、強く心に誓ったのだった。