動き出した運命
ここまでを少し改稿しています。
物語の流れ自体は大きく変わりませんが、ジルのキャラクターは掴みやすくなるかもしれません。
それからの数日間、俺たちが証の後継者について話すことは一度たりともなかった。
ちゃんと話さなければならないことは心底わかっていたのだが、またあんな雰囲気になってしまうことを恐れていたのだ。
小鳥の鳴き声を聞き、カーテンから差し込む朝の光を浴びながら、群青色のローブに袖を通す。
今日もまた、教会での仕事をしつつ、内情を探りに行かなければならない。
「なるべく早く帰ってくるから」
ドアの前で振り返ってジルに言う。
「いってらっしゃい。ア・ナ・タ」
ジルはいたずらっぽい顔をして笑っている。
恐らく、一足先に妻のふりをして、ふざけているのだろう。
昨日の泣き顔がただの悪夢だったかのように思えるほど、穏やかな表情をしていた。
我慢しているのかと思うと切なくもなるが、いつもの笑顔にほっとしてしまう自分もいる。
「ああ、行ってくるよ」
差し出された荷物を受け取って頬にキスをしていくと、くすぐったそうに微笑んでいた。
「明日、届を出せたら、こんなのも冗談じゃなくなるわね」
そう話すジルは、なんだか照れくさそうな様子だ。
結婚を楽しみにしてくれていることが感じとれて、俺まで幸せを感じてしまう。
すでに家族にはジルを紹介しており、結婚の許可も得ている。
あとは届けを出すだけだったのだが、婚姻届けを受理してもらえる日は、週に一度しかない。
待ちに待ったその日が明日であり、届を出した後に俺たちはそのまま簡単な結婚式を上げる予定なのだ。
「明日が楽しみだな」
さらさらとした黒髪に触れていくと、ジルは撫でられた猫のように目を細めていく。
「あっ、そうだわ!」
「どうした?」
何かを思い出したような声を出すジルに声をかけると、コイツは棚へと向かって引き出しを開け、何かをとってきた。
「これあげる」
開かれた手のひらには、銀色の輪と細身のチェーンがのせられていた。
「ん? なんだ、これ」
「指輪! かわいいでしょう?」
「町で売ってたのよ」と、チェーンをつまみ上げたジルは、屈託無く笑う。
「指輪ぁ? ガキが着けるような安物じゃねぇか」
なぜそんなものを? と、首をかしげた。
すると、ジルは照れた様子で、頬を掻いていく。
「結婚指輪が待ちきれなくて買っちゃった。ほら、おそろいなのよ!」
ジルは自身の首元から覗いていたチェーンを引っ張り出す。
その先には、先程俺に渡そうとしてきた指輪と同じものが光り輝いていた。
「おいおい」
おもちゃのような指輪に喜ぶジルを見て、呆れてしまう。
こんな安物の指輪……しかも一緒に選ぶわけでもなく、自腹で買ってくるやつがいるかよ。
しかも、女が。
ジルは苦笑いをする俺に構うことなく、背後へと周ってきて、後ろから抱きついてくるように手を回してきた。
「ネックレスにできるようにチェーンもつけたんだから。早速着けてあげるわね」
ジルの声は弾んでいて、顔を見ずとも、コイツがどんな顔をしているのか、はっきりと感じとれる。
「明日の朝、何百倍もいいヤツができ上がるだろうが」
されるがままだったが、悪い気はしない。
楽しそうな様子のジルに、思わず口元が緩んでいくのが自分でもわかった。
「ふふふ、楽しみ! 今日は無花果のタルトを作って待ってるね」
いつものように柔らかく笑ったジルは手を振りながら、見送ってくれる。
こんなふうに何気ない幸せな毎日がいつまでも続くようにと、心から願った。
――・――・――・――・――・――・――
ジルが幸せそうな笑顔を見せてくれる。
それが何より嬉しくて。
気分も晴れやかになり、面倒でしかなかった日課、聖拝堂の掃除も未だかつてないほどにはかどる。
神秘的なステンドグラスの光を浴びつつ、鼻唄を歌いながら、背もたれのある長椅子を雑巾で拭いていく。
すると、外から笑い声が聞こえてきて、思わず椅子の影に隠れた。
ご機嫌な様子で掃除をしているのが、なんだか恥ずかしく思ったのだ。
がたりと扉が開いたであろう音がし、ひそめられた声がする。
「まさか、あのジル・ウォーカーがなぁ」
愛しい者の名に、身体がぴくりと震える。
あまりの衝撃に喉が詰まり、時が止まったかのように感じた。
「ええ。トーマ・レイ……いえ。ジェス・ウォーカーの妹だったとは、驚きですね」
さっきジルの名を呼んだ、甲高く癖のある声は恐らく、隣町の律教のローガン。
こっちの低くて柔らかい声は、マルク律教だろう。
ジルが探りを入れているのを、やつらは見破ったのだろうか。
緊張から荒くなっていく呼吸を必死に抑えながら、息をひそめ、様子をうかがう。
「トーマ、やはり偽名だったか。散々我らを掻きまわして来た挙句、蒸発とは困ったものだ」
ローガン律教が、やれやれといわんばかりの声を出し、深くため息をついている。
最も知りたい部分だけやつらは触れて来ず、苛立ちと焦りばかりが募った。
「まぁ、いいじゃないですか。ジェスの血縁はジル・ウォーカーだけ。証が渡っているとしたら、あの娘なのでしょうから」
マルク律教の上機嫌な笑い声がして、思わず耳を疑った。
嘘であってくれと、聞き間違いであってくれと、本気で願う。
「ある意味、行き先がわかりやすくてよかったのかもしれぬ」
「そうですね。今頃、捕縛されている頃でしょう」
マルク律教はジルを助けるように説得するどころか、アイツを捕まえることに賛同していた。
おっとりとしたマルク律教の物言いに愕然として、体中の力が抜けていく。
アイツは、ジルを娘のように可愛がっていたじゃないか。
ジルからも、あんなにも信頼されていたのに。
それなのに、なんだ、この仕打ちは……!
悔しさと怒りとでこぶしを握り締めて、下唇を噛む。
やがて、口の中に苦くて不味い鉄の味が広がった。
「マルクよ、この件は誰にも言っていないだろうな」
念を押すローガン律教に、マルク律教はからからと笑い声を上げていく。
「言いませんよ、そんなこと。民に知れ渡り、大ごとになってはマズイでしょう?」
「ああ、違いないな」
楽しそうに笑う二人はまた、外へと出ていく。
ちっとも現実感が沸かず、まるで別世界の出来事のようだ。
無音とも思える空間に、扉が閉まる音だけがやけに大きく聞こえた。