受け継ぐ者は……
「ねぇ、レオン」
家へと戻り、夕食の準備をはじめたジルは、こちらを見ることもなく話しかけてくる。
「何だ」
勉強のために読んでいた教典を机の上に置き、顔を向けていく。
するとジルも手を止めて、こちらを振り返ってきた。
「“裁きの証”の後継者のことなんだけどね」
ジルから飛び出て来た思いもよらぬセリフに言葉も無くなり、自然と眉が寄っていくのがわかる。
「もう、そんな顔しないで欲しいわ」
ジルは困ったように笑っていたが、そんなことは無理な相談だった。
証が受け継がれていくということは、元の持ち主の死を意味するからだ。
「そう言われても、楽しく聞ける話じゃねェよ……」
誤魔化すために苦笑いをすると、ジルは真っ直ぐに俺を見つめてきて、きっぱりとした口調で話し出す。
「大丈夫よ、貴方には渡さない」
「は?」
渡さないという意味がちっとも理解できず、言葉が続いていかない。
ジルが裁きの証を持っていることを知っているのは俺だけ。
つまりは、必然的に次の持ち主は俺になるのだろうと、そう思っていたのだ。
「それなら、誰が……」
他の候補者を考えてみる余裕もなく、思った言葉がそのまま飛び出てしまう。
そんな俺を見てきたジルは、キッチンに背をもたれさせながら、口を開いた。
「マルク律教に相談してみて、最終的に彼に受け取ってもらえたらいいなって思ってるの」
「おい、嘘だろ!?」
がたりと大きな物音を立てて、跳ねるように立ち上がる。
よりによって、兄から『絶対にこの証渡すな』と言われている相手、ネラ教会の者じゃねェか。
なぜ、そんなヤツを選んだのか、いくら考えてみてもわからない。
“こんな証など、やつらにくれてやってしまえ”と、そういうことなのだろうか。
ジルは「嘘なんかじゃないわ」と首を横に振り、俺の目を見据えてくる。
その瞳の強さから、冗談や自棄になって言っているわけではないことが、ひしひしと感じとれた。
「マルク律教は孤児院のお世話もよくしてくれているし、人望もある。いつもあれこれ決めつけずに、いろんな人の意見を聞いてから物事を判断してくれる素敵な方よ」
ジルは、そう力説してくる。
思い返せば、確かにコイツはマルク律教を実の親のように慕っていた。
悩み事を相談したり、嬉しいことを報告したりと、はたから見ていて、実の親子のようだとしばしば思ったことを覚えている。
そしてジルは未だ、ネラ教を強く信仰している。
“律教にまで上り詰めたマルクは優れた人物であり、説明すればちゃんとわかってくれる”とでも思っているのだろう。
ジルとマルクの間には信頼関係があるのかもしれないが、裁きの証を敵方に渡すのは危険すぎるし、考えが甘すぎる。
まだ、教会の裏側を付きとめていないのだからなおさらだ。
これまでずっと証を隠してきたのに、信じていた教会を疑って探ってきたのに、なぜジルは急にこんなことを言いだすのか。
コイツのおかしな態度に疑問ばかりが募った。
「マルク律教は、ダメだ」
その場に立ったままジルを睨みつけて、きっぱりと言い放つ。
「だって……他に頼めるような人がいないもの」
「俺に渡せばいい。そうするものだと、ずっと思っていた」
歩み寄りながら声をかけていくと、ジルは視線を落としてうつむいた。
「嫌よ、レオンにはこんな思いをしてほしくない。マルク律教はネラ教会の人だけど、理由を全部話せばわかってくれると思うのよ」
「いや。アイツは、危険な気がする」
「どうして」
怪訝な顔をしてくるジル。
その表情から、律教のことを心から信頼していることが感じとれてしまう。
少しばかり言うことを悩んだが、“どうして”と問うてくるジルに、自分の考えを嘘偽りなく告げることにした。
「カン、だ」
「カン!? そんなもので人を判断するのね」
ジルは呆れた、とばかりに肩をすくめて息を吐いてきた。
「大事なことだろ」
「そんな薄情な人だと思わなかった」
もう聞きたくない、といった様子でジルは背を向けてきて、夕飯の支度を再開した。
そんなジルの様子に苛立ちが募って、そうするつもりはなくとも自然と声が刺々しくなってしまう。
「薄情、じゃねーだろうが。ジルの持っている“裁きの証”はこれまで大勢が苦しんで犠牲になって、そうやって守り通してきたモンなんだろう。慎重になりすぎるぐらいでちょうどいい」
「……だからこそ、じゃないの」
ジルは呟き、またうつむいていく。
「どういうことだ」
よく聞き取れずに聞き返すと、ジルはエプロンを外して、乱暴に俺へと投げつけてきた。
「もういいわ、知らない!」
ああ、もう、いったいどういうことなんだよ!
第一、第二段階を通り越し、ジルの怒りの最終段階である、第三段階に突入してしまっている。
普段ならこうやっていきなり怒り狂うことなどないのに、コイツは一体どうしてしまったのだろう。
「ジル、何をそんなに怒っているんだよ!?」
聞く耳を持とうとせずにずかずかと歩いていくジルは、寝室の扉を荒っぽく閉めて、一人閉じこもってしまった。
ノブをひねっても開かない。
どうやらコイツはまた鍵をかけたらしい。
「ジル、何がいけなかったんだ。言ってもらえなきゃ、俺はわからない。わかってやりたくても、わからねーんだよ……」
扉に手をあてて、必死に呼びかける。
ジルは扉のすぐ向こう側にいたらしく「もうこの話はしたくない」と、揺れる声で言ってきた。
「本当にマルク律教に渡すつもりなのか? やめろよ、そんなこと。まだ何も見極めてねェだろう。な?」
強い口調で言いたくなるのをぐっと堪えて、極力優しく話しかけていく。
そうしないと、ジルの心がまた閉ざされてしまいそうに思ったからだ。
「そんなの……」
こもったようなジルの声が聞こえてくる。
「頼むから、そこでやめずに教えてくれ」
ここで逃してなるものかと、続きを促すように声をかけた。
「そんなの本当はしちゃいけないって、私だってわかってるよ! だけど、こんな重荷をレオンに背負わせたくなんかない! 貴方が苦しむのだけは、どうやったって耐えられない……」
扉一枚隔てた向こう側から、泣き叫ぶような悲痛な声が聞こえてくる。
悪夢にうなされている時以外に、一度だってコイツのこんな声を聞いたことはない。
それが自分自身のことではなく、俺を想ってこうなっているのだと知ってしまい、引き裂かれそうなほどに胸が痛んだ。
「ジル、俺のことはいいから、感情的になるな。本当に必要なことを見極めたほうがいい」
「嫌! いやよ、こんなモノを貴方に渡すなんて」
叫びにも似た声とともに、しゃくり上げる声が聞こえてくる。
ジルは暗い部屋で一人、苦しみに耐えながら泣いているのだ。
「お願いだから、手の届かない場所で泣かないでくれ。全てを一人で抱えようとしないでくれよ……」
何度も扉をノックして、開けてくれるように頼みこむ。
この扉はきっと、ジルと俺との間にある、心の壁なのだろう。
俺を想う気持ちがアイツの心を苦しめて、素直に感情を出せない原因にも、道を断つ原因にもなっている。
俺には遠慮などせずに、全てをゆだねて欲しいのに。
苦しみを共に背負ってやりたいのに。
アイツの心がそれを許さない。
きっと、ここで感情を決壊させたら歯止めが利かなくなることを……これまでの気丈な自分ではいられなくなってしまうことを、ジルはわかっているのだ。
幾度も呼びかけて、ようやく扉を開けてくれた時、ジルの目は泣いたせいで痛々しく赤く腫れていた。
「あんまり見ないで、酷い顔だから」
ジルは泣き疲れた顔で苦々しく笑っている。
「俺も似たようなもんだ」
そう言い返して、なだめるように何度も、さらさらとした髪を撫でた。
やがて、言葉も無いまま抱き合ったのだが、苦しみは一つも消えやしなかった。
ジルの心は張り詰めていて、すでに決壊寸前なのだろう。
それなのに、意地になっているのか、いつも本音を見せようとはせず、コイツは無理にでも笑おうとする。
そんなジルの姿を見るのが、ただひたすらに辛く、苦しかった。
自分はどうなったって構わないから、コイツの痛みの全てを引きうけてやりたいと、そんな起こり得ない奇跡を激しく渇望した。
鉛のように鈍く、重い感触だけが心に残る。
月明かりも無い夜、静かすぎる寝室には一すじの光すら見えない。
微かに震えるジルをきつく抱きしめて、いるかもわからない神に祈る。
俺の全てをやるからどうか……ジルを助けてやってくれ、と。