終わりのはじまり
「嘘だろ……」
最初、コイツが何を言っているのか、全く理解ができなかった。
あまりにも予想外な展開に、呆けて立ちつくすことしかできない自分が情けない。
「悪いが、もう一度返事を聞かせてくれないか?」
変わらず頭の中は白く染まったままだが、ありがたいことに、この唇は自然と動いてくれた。
祈るような気持ちで問いかけて言葉を待つが、得られた返事は……
「レオン、貴方のプロポーズは……受けられないわ」
先ほどと一言一句違わないセリフに、足元がぐらりと揺れた。
湯水のように“なぜ?”という思いが湧き出て、止まる気配すら見えない。
拒否をされる理由に、思い当たる節など一つもなくて。
この事態を受け入れることができない頭はもう、しっちゃかめっちゃかだ。
自分が自分じゃない感覚にさえなり始めてしまったため、とりあえず冷静になろうと誤魔化し笑いを浮かべた。
「はは……まさか、俺ァずっとお前に嫌われてたのかよ」
荒ぶる心を抑えて平静を装い、苦笑と皮肉を交えながら尋ねる。
俺の問いに対し、目の前に立つ恋人、ジルは困ったように微笑みかけてきた。
どこかよそよそしさを感じさせるその態度に苛立ちがまた募ってしまい、現実から目を背けるように深く息を吐いて、視線をそらした。
俺の左手にはオレンジ色に輝く海と、沈みゆく夕陽、足元にはどこまでも広がる細かい白砂でできた浜辺が見える。
家から三十分ほど歩けばたどり着くここは、静かで景観もよく、俺とジルにとってお気に入りの場所だった。
ついさっきまでオレンジ色に包まれる海岸を、世界で一番美しい場所のように感じていたのだが、それも今じゃなんの変哲もないただの浜辺にしか見えなくなってしまった。
俺一人浮かれて、馬鹿みてェだ。
こんな酷い状況なのに笑えてくるのが、自分でも不思議だった。
ここ数カ月、ジルにどう自分の気持ちを伝えようか、毎日のように考えていた。
プロポーズの言葉も、選んだ場所も悩んだだけあって、俺の中では満足のいくものになったと思う。
正直なところ、かなり自信があった。
ジルと恋人同士として過ごしたこの一年間は楽しかったし、コイツが隣にいてくれれば、それだけで幸せを感じることができた。
だからこそ、コイツも同じように思ってくれていると信じていたんだ。
ほんのついさっきまでは。
確実に“イエス”の返事をもらえると思っていたのに……
ぎり、と歯噛みし“やっぱり、納得いかねぇ”と、こぶしを強く握った。
「……違う、違うのよ。レオンのこと、嫌いになったわけじゃ、ないの」
弁解をしようとしてくるジルがうつむくと、肩まで伸びた黒髪がはらりと垂れ落ちる。
顔を覗き込むと、空色の瞳が潤んでいるように見えた。
「曲がりなりにも俺が貴族で、ジルが平民だからか? 下流貴族の三男坊なんざ、平民と変わらな……」
「違う、そんな簡単なことじゃ、ないの……」
顔を上げたジルは、いまにも泣きだしそうな顔をし、それを誤魔化すように微笑んでいる。
どこか弱ったような雰囲気を醸し出すジル。
暗闇に満ちていく海岸沿い、何故だかコイツまでも闇に取り込まれてしまいそうに感じてしまう。
いま、コイツの存在をここにとどめておかなければ、ふらっとどこかへ……手の届かないような場所へ行ってしまうのではないか。
そんな馬鹿なことが脳裏をかすめ、思わず手を伸ばし、白く華奢な腕を掴む。
気温だって寒くはないのに、ジルの身体は不思議なことに小刻みに震えており、右手は自身の身体を守るように、左胸へとあてていた。
その姿を見て、はたと一年前のことを思い返し、口を開く。
「もしかして、火傷のことを気にしている……のか?」
腫れものに触るかのように、そっと問いかけると、ジルはわずかに顔を背けてきて、小さくうなずいた。
付き合い始めの頃に聞いたのだが、ジルの胸元には、酷い火傷の痕があるらしい。
らしいというのは、一度もそれを見たことが無く、どんなものなのか全くもってわからないからだ。
これまでずっと、何があってもコイツは胸元を見せようとはしてくれなかったし、俺も嫌がるジルにそんな無理を強いてまで見たいとは思わなかったのだ。
「どんな傷なのかわかんねーけどよ。そんなんで嫌いになったりとか、お前を見る目が変わったりはしねェよ」
これまで何度も言い続けてきた言葉をまた投げる。
だが、結局いつものように、はぐらかされるのだろう。
どんなに言葉を尽くそうとも、ジルはその傷跡に俺を踏み込ませようとはしてくれないのだから。
そう思っていたのだが、ジルは大きく息を吸って、何かを覚悟したかのような顔を向けてきた。
「胸にあるのは……火傷の痕なんかじゃない。この話の続きは私の家でにしましょう。こんなところじゃ話せない」
――・――・――・――・――・――
俺たちは無言のまま海岸を出て町へと戻り、人気のない裏道を行く。
夕飯の支度をしているのか、魚を焼くにおいや、シチューの香りが漂ってくる。
狭い路地に、夕飯の香り、こんなのいつもの風景だが、俺たちだけは“いつも”のままでいられずにいる。
ちらと視線を送ると、左隣を歩くジルは相変わらず浮かない顔をしていて、無言のままだ。
いや、浮かないというよりはむしろ、断頭台に向かう囚人のような表情にも見える。
ったく、そんなにプロポーズが嫌だったのかよ。
どん底まで精神を突き落とされてしまい、深いため息をついて、暗くなりゆく空を仰いだ。
“俺の何がいけなかったのか”と、あれこれ考えているうちに、気が付いたらジルの家の前にたどり着いていた。
ジルは鍵を回して扉を開け、家へと迎え入れてくれる。
「レオン、どうする? 夕飯先食べる?」
コイツは何事もなかったかのように微笑み、明るい口調で尋ねてくるが、俺は首を横に振った。
ジルの顔が一瞬にして引きつったのがわかった。
「火傷と偽ってきたモノとやらについて、聞かせてくれ」
よほど言いづらい内容なのだろうが、いつものように、はぐらかされてたまるかよ。
強く見つめていくと、ジルは視線をそらしてくるだけではなく、俺に背まで向けてきた。
「……お茶を淹れてくるわ」
「おい、また、逃げんじゃねーよ!」
ジルの手を掴んで引き寄せ、乱暴にシャツに手をかける。
「嫌っ! やめて、やっぱり言いたくないの、お願い!」
自分の胸元を必死に押さえようとしているジルを無理やり左手で押さえこんで、右手に力をこめた。
布が裂ける鋭い音がするのと同時に、薄暗い部屋の中で見えたのは、柔らかそうな肌。
そして、左胸に浮かんでいる青黒く光る剣と渦の模様だった。
「ジル、これってまさか……」
頭の中が白一色に染まり、思考が停止してしまう。
本当に驚いた時ってやつは、言葉が続かないものなんだと、はじめて知った。
ジルは放心したように表情を失って、その場に崩れ落ちていく。
やがて両手で顔を覆って泣きだしてしまい、静かな部屋には嗚咽が漏れだした。
胸元に輝いていたのは、魔力を持つ者であるという“証”だ。
証を持つ女は“祈りの巫女”、男は“神の使い”と呼ばれて、皆幼いころより小さな町に軟禁され、文字を知ることも許されず、恋をすることさえ叶わない。
巫女は厳しい規律の中で家畜のように生かされ、最終的に世界の平和を保つために生贄として暗黒竜の元へと差し出される宿命を持っている。
だが、ジルは……?
元々、祈りの巫女として生まれた女じゃない。
幼い頃のコイツを知っているが、その時にはこんなふざけた“証”なんてものは、なかった。
なぜ、どうして、血縁で受け継がれるはずの“証”をジルが持っているんだ。
混乱しすぎたせいか、ぐらりと激しいめまいが襲ってきて、俺もジルの前に座り込んでいく。
すすり泣くジルの嗚咽だけが悪夢のように響いていて、あまりの衝撃に息をするのも忘れていた。
どれもこれもわけがわからなかったが、これ以上コイツが泣いている姿なんて見たくない。
ジルを悲しみの海から救いだしてやりたい。
その想いだけが、今一番はっきりとした感情だった。
両手を伸ばして、震えるジルを強く抱きしめる。
しゃくり上げ続けるジルの頭に顔を寄せ、何度も髪を撫でてやる。
「大丈夫、俺はいつだってお前の味方だ」
未だ混乱は収まってなどいないが、そっと囁くように言葉を紡いだ。
ジルも顔を寄せてきて、こくりとうなずいてくる。
コイツの泣きやませ方は、誰よりも俺がよく知っている。
ようやく落ち着いたのか、ジルはぎゅっと俺を抱きしめてきて。
「騙していてごめん。これは、さすがに怒られてもしかたないね」と誤魔化すように笑い、震える声で言ってくる。
恐らく、証があることで“教会に突き出される”とか“黙っていたことで軽蔑される”とでも思っているのだろう。
ったく、見当違いな心配をしすぎなんだ、コイツは。
思っていた以上にデカイ秘密を独りで抱え続けていたジルと、それに気付けなかった自分に強烈に腹が立った。
「ああ。いままでにないほど、腹は立った」
嘘偽りない想いを伝え、深く息を吐く。
ジルはそっと俺から距離を取って、座ったまま「ごめんなさい」と、たどたどしく言って頭を下げてくる。
あーもう、コイツはほんと仕方のねぇ奴だな。
俺は距離を取り返すように、ジルの両手をとって呆れ笑いを浮かべた。
「俺が一番ムカついたのは、渾身のプロポーズを蹴られたことだ。さ、今までため込んできたモン、まとめてゲロっちまえ。全部受け止めてやっからよ」
ジルは、俺の言葉に安心したのかふわりと笑う。
それは優しくて柔らかい、光にとけるような綺麗な笑顔だった。
ああ、そうだ。
俺が一番好きなのは、お前のこの笑顔なんだよ。