巨星、墜つ
ヴァンは疲れていた。もしかしたら、アンネの文の後遺症もあるだろうが、それにも増して、過日の戦の疲労が抜けきれていなかった。彼は自分の部屋に入ると、目を閉じた。少しの間だけ休もうと思っていたが、彼の意識は、すうっと綺麗に消えていった。寝ようとしていないのに、眠りにつく。疲弊した人間がやる事である。
彼が目を覚ますと、そこはベッドの上だった。辺りは暗い夜に変わっていた。
「目を覚まされたか」
ヴァンが、寝ぼけ眼でぼうっとしていると、クラマが話しかけてきた。
「ベッドまで運んでくれたのか?すまないな」
「床で眠るなど、身体に悪い事と思った故」
ヴァンは気怠げに首を鳴らし、ベッドから降りた。
部屋の中央には低い机があり、その上には、白米や野菜などが、簡素に食器に盛り付けられた、食事があった。
「食堂の夕食を持ってきた。栄養は身体を癒す故、なんとしても食べるのがよろしい」
クラマの気遣いに、ヴァンは礼を言った。腹は空いている。リオーネ学園で目を覚ましてから、彼は一度も食事をとっていないのだ。量は少なくなかったが、彼はあっという間に食べ尽くした。まさに生き返る心地だった。全身の細胞が輪になって踊っているかのように、歓喜に震えているのがわかる。
しかし、ヴァンの空きっ腹を満たすには、寮の食堂の食事では、足りなかった。まあこのくらいの空腹、戦場で慣れたものだ、とヴァンは気にしなかった。
ヴァンは立ち上がり、食器を片手に、扉に向かう。
「クラマ、食堂は何処だ?」
「その扉を出て右へ行けば。シャワー室の逆方向、その端、と言えばよろしいか」
「そうか、ありがとう」
そう言って、ヴァンが扉を開こうとする。しかし扉は、ヴァンがドアノブを回すのを待たずに、何者かによって開かれた。そこにはマリアが居た。何かあったのか、暗い雰囲気を身にまとって、俯いている。
「ど、どうした?」
そのマリアの様子に、ただ事ではないと思ったのか、ヴァンは部屋へと戻り、一旦机の上に食器を置いた。
「落ちたわ」
「え?」
「星が、落ちた。それも、大きく、そして、とびきり輝いていた、星」
星が落ちる―
星が輝きを失い、見えなくなる事。それは不幸な出来事を知らせる啓示として、この世界の人々に周知されていた。それはつまり、占星術というものであり、一つの学術として、ある程度の説得力を持っていた。占星術に詳しい人間の予想は良く当たる。そしてマリアは、かなり占星術に詳しかった。
「あの星は― あの星は、本当に大きな星。そう、私達のジブリオ帝国でも一番の……」
「……それが落ちたとなると……」
「おそらく……ジブリオの皇帝陛下は亡くなられたわ」
マリアが言うと、ヴァンもクラマも、驚きを隠せなかった。星が落ちるは凶事の知らせ。その星が大きければ大きいほど、世に及ぶ影響も大きいとされる。今日落ちた星は、他に並ぶもののない、特大の星だった。例えば、ジブリオで戦争が起きたとしても、それを知らせる星の輝きは、今日落ちた星には、遠く及ばないだろう。
「……それって不味くないか?」
不安気にヴァンは聞いた。
「ジブリオの世継ぎは何人もいても、皇帝陛下の実子となると、一人しかいなかったと思うが」
「歳は私達と同じくらいで、女性の方よ。施政者としての力は、まだ分からないけれど……。まだ若い方だし、どうなるか……」
「養子の方々の誰かを、帝位に就かせるとは思えぬ。この時期に、家臣が割れるような事はしたくはないだろう」
クラマが言った、この時期とは何であるか。ヴァン達が今過ごしているジブリオ帝国は、現在、ヴァンがかつて居たアキナを滅ぼした、ランバニア帝国と、同盟関係にある。
しかしその同盟関係、もうすぐで切れるのだ。ジブリオ側も、同盟延長の願いを何度か訴えたが、ランバニアは、それをことごとく突っぱねている。いつ攻めてきてもおかしくない。
「……何にせよ、これから天下は荒れるでしょうね」
「ランバニアは、アキナを大した損害を出さずに滅ぼし、その力を急速に増強させている。迅速に行動せねば、ジブリオも喰われるだけよな」
ジブリオ皇帝死す。もしその話が本当ならば、いや、それはかなりの確率で本当なのだろうが、しかしその話が広まるというのは、かなり不味い事態である。自国に混乱を、他国に攻め気を与えかねない。
今現在、世界には四つの大国が存在し、隣接している。
西のランバニア。北のジブリオ。東のエクトール。南のガインドラ。
ランバニアはエクトールと戦争状態にある。しかし、ランバニアのその矛先が、いつジブリオに向いてもおかしくない状態にあった。もしそこに、皇帝崩御の号外が飛べば……
「……しかし、陛下が亡くなられるとは……。どうにも信じたくない」
クラマは頭をかかえた。その声は、分かりやすく、クラマの悲嘆の感情を伝えていた。
「……あくまでも、ただの予測よ。外れる時は外れるんだから、気にする必要なんてないわ」
そう言うマリアの瞳には、うっすらと涙が見えた。それほどまでに、皇帝の死というのは、影響が大きい。頭に浮かぶだけでも、悲しくなってしまう。
とりわけ、ジブリオ皇帝というのは、民を重んじる名君であったので、なおさら、その死は深く惜しまれるだろう。
「ただ、覚悟はしておいたほうがいいわ。あんな星が落ちたとなると、皇室にとって良くない事は、起こるでしょうね」
マリアはそれだけ告げると、物憂げな表情を浮かべたまま、部屋を去っていった。クラマも、少し放心状態にあるような、そんな表情をしていた。
ヴァンは食器を食堂に運ぶ道すがら、ジブリオはランバニアと戦争をしてしまうのだろうか、と考えた。考えても考えても、どうにも答えは出てこないだろうし、今の自分に出来る事など、どれほどあるか、とも思ったので、とにかく今は学園に集中しようと、部屋に帰ると、現実逃避気味に眠りについた。