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物書き少女

さて自己紹介を済ませた二人だが、クラマは鍛錬の時間だと言って、部屋を出て行ってしまった。一人しかいないルームメイトがいなくなり、狭い部屋に一人取り残されたヴァンが、これから何をしようと考えこんでいると、後ろから、ガチャリ、と部屋のドアノブが回る音がした。


「お邪魔しまーす……。あれ、クラマ君はいないのね」


その正体はマリアだった。部屋の中をキョロキョロと眺めている。


「クラマは鍛錬に行ったよ」


「ふうん、その様子だと、彼にはもう会ったみたいね。4人で隊を組んで、実践演習するって言ったでしょう?彼はそのうちの一人。とっても頼りになるの」


「あと一人は?」


「これから会わせてあげる。私のルームメイトの女の子よ」


マリアはにこりと笑った。屈託のない、快活な微笑みは、そのまま彼女の人柄を表しているようだ。


「……ところでマリア」


「うん?」


ヴァンの問いかけに、扉のドアノブに手をかけて、外に出ようとしていたマリアは、ヴァンの方に振り返って答えた。


「服は着替えたんだな」


「……おかげさまでね。本当は身体を冷やすために、もう少し濡れたままでいたかったのだけど!」


先程の悲しい事故を思い出したのか、彼女は少し語気を強めた。


「……悪かったよ、本当に」


「ま、これから日も沈む事だし。そういった意味ではグッジョブ。お手柄ね。風邪をひく心配がないわ」


「じゃあなんで、あんなに服を濡らしたままにしていたんだ」


ヴァンは、無茶をした子供をたしなめる親のように、マリアに言った。


「激しい運動で火照った身体。風邪をひく事になっても、冷やしたいのは当然でしょ!」


マリアは、親にたしなめられた子供のように、呆れたような、少し参ったような、そんな様子で言い放ち、ドアノブを勢いよく回した。マリアは部屋から出ると、感情の昂りを鎮めたのか、落ち着いた様子で手招きし、ヴァンもこれに応じた。マリアの部屋は、ヴァンの部屋の隣だったため、到着までの時間を数える暇もなく、たどり着いた。



部屋の中は、ヴァンとクラマの部屋と比べ、実に飾り気がない。二段ベッド以外には、小さな本棚と、背の低い小さな机があるくらいだ。マリアのルームメイトは、その机の上にある紙に向かって、小さな敷物の上で正座をしながら、筆を走らせていた。彼女の迷いのない、鬼気迫るほどの筆使いは、書に挑む者とは、文豪とはこういうものなのだろうか、とヴァンに思わせるくらいの迫力があった。


「アンネ。取り込み中の所悪いけど、貴方に転入生を紹介したいの」


マリアの発言を受け、少女は筆を止め、ヴァン達の方を向いた。先程とは随分と変わって、非常に落ち着いた雰囲気を感じる。


「わあ、あなたが、私達の隊に入って頂ける方ですか?嬉しいです。これから、どうかよろしくお願いしますね」


彼女は深々と両手を美しく揃え、深々と頭を下げた。その過剰とも思える、歓迎の意の表し方に、ヴァンは少し慌てて、お願いだから頭を上げてくれと頼んだ。


「私、アンネロッサ・ユートポートと申します。マリアさんが呼んでいたように、アンネと。そう呼んで下さい」


顔を上げたアンネが自己紹介をすると、ヴァンも、マリアとクラマにやったように、自己紹介をした。彼が名乗るのは、やはり偽名である。この学園ですごす一年、俺は一体何度、偽名で名乗らねばならないんだ、とヴァンは後ろめたく思った。



「ああ、そうです。ヴァンさん、私趣味で小説を書いているんです。よろしければ、作品の感想を聞かせてもらえませんか?」


「え゛え゛っ!?」


アンネの優しい問いかけに、素っ頓狂な驚きの声を上げたのは、マリアだった。慎ましやかな女性ならば、決して上げるはずもないような、脳の自制を一切受けずに、喉からそのまま出てきた声である。それはそのまま、アンネの問いかけが、どれほどまでにあり得ない事であるかを、雄弁に物語っていた。


「あ、ああ。小説には詳しくない素人だが……」


「ええ、ええ!それで全く問題ありません!作品の感想を頂けるなんて、それだけで夢心地です」


マリアの驚きの声に、少し面食らったような様子を見せたヴァンだったが、別に小説を読むくらい、断るものでもあるまいと、二つ返事で快諾した。アンネも、ヴァンが躊躇いもなく、自分の小説を読んでくれる事が嬉しかったのか、返事の声が少し大きくなっていた。


「よしなさい、よしなさいな、アンネの小説を読むなんて。馬鹿な事はよしなさい。貴方は気付かず死に向かおうとしている愚か者よ。知らずに獣の檻に入ろうとしている愚か者よ。

よしなさい、よしなさいな。命が惜しいのなら、よしなさいな……」


だが、火災報知器のように、淡々と、しかし深々とした警告をするマリアに、ヴァンは恐ろしさすら覚えた。今までとはまるで違う、彼女の抜け殻のようで、呪詛のような警告は、ヴァンの親切心を飲み込みかけた。


「そ、そんなにか…」


「アンネのソレはもう、小説じゃないわ。前衛芸術と呼ぶ事すらあまりにおぞましい、文字の化け物よ」


何かトラウマのような記憶がフラッシュバックしたのか、マリアの目の輝きが失われていた。


「そ、そんな事ありませんよ!」


「私もルームメイトだし、本を読むのは好きだから、彼女のソレは読んだわ。……ええ、読んでしまったの。ああ、おぞましい!もし貴方がソレを読んでみなさい。悪霊のように、しつこく夢に出るからね」


「出てるんですか!?」


「たまにある寝起きが悪い日。原因は全部ソレの夢よ!」


今まで知らなかったような、マリアの驚きのカミングアウトに、アンネはすっかり意気消沈してしまった。


「……そういう事みたいです。私、頑張って書きましたし、人からの感想が嬉しくって仕方ないですけど、私の小説は、どうも危険物のようなものらしいので……」


悲しい目をして下を向き、その小説を仕舞おうとするアンネが気の毒に映ったのか、ヴァンはその小説を読む事に決めた。それは単純な親切心と、たかが小説、どれほどのものか、という侮りからくる行動だったが、これは全くもって、ヴァンらしくない行動だった。警告を受けたにも関わらず、私情で死地に赴く。相手の力量を侮る。元将軍としてあり得ない行為であるし、事実、これからヴァンは、己の軽率さを後悔する事になる。


「待て、アンネ。俺はその小説を読む。いや、読ませてくれ」


ヴァンの言葉に、アンネの顔は、枯れた葉が緑を取り戻すかのように、パッと明るくなり、一方マリアは、ああこの男、馬鹿な事をしたものだ、と天を仰いだ。



小説。たかだか小説であるはずだ。ヴァンは、マリアの小説評は、随分と盛られたもので、そして現実とは離れたものであると思っていた。仲の良い友人同士が戯れで発したような、冗談だと思っていた。しかし違った。マリアの言葉は、ありのまま、この小説(そう呼ぶ事すら躊躇われる何か)の事を伝えてくれていたのだ。


一ページ目を見ただけで、ヴァンの身体から汗が吹き出してきた。舌がヒリヒリとするし、脳が悲鳴をあげているのか、書いてある文字がぐらんぐらんと揺れる。身体が拒否反応を起こしているのだ。



ただ、ヴァンにはこの小説のどこが悪いか、と指摘する事が出来そうもなかった。いや、誰も出来ないだろう。世の中には駄文、悪文と賞される文が数多存在する。しかし、この文は善であるとか、この文は悪であるとか、そうやって文を賞する人達にこれを見せて、どんな評価が下されるだろうか。おそらく、なんの成果も残せないだろう。何故なら、強靭な精神をもったヴァンですら、たった一ページで、この文の毒気にやられているのだ。一体誰が、この文を最後まで読む事が出来るだろうか。


ヴァンはたまらず、助けを懇願するような、悲痛な目でアンネを見た。しかし同時に彼は見てしまったのだ。うきうきと、自分の小説を読んでいる様子を楽しそうに、しかし、大丈夫だろうかと心配そうに、こちらを見つめるアンネの姿を。ヴァンは、今すぐにでも、この狂った文を地面に投げつけて、跡形も残さず破いてしまおうという衝動を抑え、アンネの文を読み進めていくしかないと思った。彼女は、懸命に書いた自らの小説を、憎く思っていないようなのだ。それならば、何とかして読んでみよう。そうしなければ、きっと彼女は悲しむだろうから。


しかし彼の親切心を、アンネの文は容易く裏切る。ヴァンは気分が悪くて仕方なかった。脳髄の中を、蛆虫が這い回っているかのような錯覚を覚えた。彼の網膜には、この邪神が人を殺すために書いたような文が焼きつき、瞬きという、僅かな安息すら許さない。


限界だった。これ以上は、文字に殺されてしまう。


ヴァンは深く息を吐き、目を閉じて、アンネが小説と呼称した紙の束を、アンネにそっと返した。


「ど、どうでした?」


アンネの無垢な問いに、ヴァンは悩んだ。この悪魔を生み出したアンネに、力一杯に罵声を浴びせてやりたい、というのが、この疲弊した精神を、僅かでも癒すための、ヴァンの本音であったわけだが、ヴァンは落ち着いた様子を装い、こう言った。


「……俺は駄目だった。どうにも合わない。……いや、俺が、というよりも、この時代の人間には、とてもじゃないが理解されないと思う。他の人に見せたところで無駄だ。……人を殺すような文。そういう評価しか返ってこないだろうな。

ああ、この文は人に見せるものじゃないだろう。上手くは言えないが、全体的にマズい。

だが、もし物好きで探究心旺盛な、後の時代の人がこれを見れば、きっとこれは後世まで語られるような、凄い文だと賞されるだろう」


ヴァンの言葉に、アンネの顔は、ぱあっと輝き、そして彼女は、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます!その、ヴァンさんのような感想なんて、初めてで。……私、これから頑張りたいと思います!

……それと、ごめんなさい。マリアさん達から、散々な評価を貰っていたんですけど、私諦められなくて。もしかしたら分かってくれる人がいるんじゃないかって……」


「いいんだ。……ただ、もう人に見せないほうがいいかもな。それはもう、俺たちにとって兵器のようなものだから」


「……はい。ヴァンさん、ありがとうございました!」


きらきらとした、濁りのない、アンネの満面の笑顔を見て、ヴァンは救われた気持ちになった。彼女にとって、自分の作品が評価、批評された事は、それほど嬉しい事だったのだろう。事実、彼女が聞いてきた、自らの小説の評価というのは、恨み節の怒りの言葉ばかりだったから。


疲れ果てた足取りで、ヴァンが部屋を出ようとすると、マリアがぽつりと呟いた。


「彼女の作ったものが酷いだけで、アンネは良い子なのよ。ほんと、何かを作らなければね……」


「そうみたいだな……」


ヴァンの返事は、何とも適当なものだった。それほどに疲れていた。アンネのあの文は、一体どうして、あんなにも、見る者の心を絞め殺すようなものだったのだろうか。



あんな文になるためには、どんな工夫を凝らさなければならないだろうか?文章がぐちゃぐちゃであればいいか?いや、足りない。読み手に興味を一切与えないくらいに、つまらない話をすればいいか?いや、足りない。作品のほとんどを、理解不能な単語にしてしまえばいいか?いや、足りない。内容が、常識とかけ離れた、狂ったものであればいいか?いや、足りない。


ヴァンには、あの文のあそこが悪い、というような事は思わなかった。いや、分からなかった。ただその実体は、雲のように掴めず、しかしその恐ろしさは、易々と感じ取れる。例えるならば、ひたすらに遠大で、なんとしても人を殺さんとするような、凄惨な毒霧である。見なければよかったという、少しの後悔を携えて、ヴァンは力なく自分の部屋に戻った。

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