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餓狼

ヴァンはエイナの後に続き、学園内を進む。木造の建物の中からは大地の香りが漂い、ヴァンの鼻腔を癒す。二階建ての校舎はかなり広いようで、校舎から出るのにも、ある程度の時間を要した。


「へえ……。こりゃ凄い」


校舎の外へ出ると、ヴァンはおもわず感嘆の声を漏らした。学園の周りは自然に溢れ、まるで木々達が躍動しているように、生き生きと豊かな緑を携えている。遠くの数多ある小屋から聞こえてくる馬のいななきに、ヴァンは思わず破顔した。ここは自然の活気に溢れていると、ヴァンは穏やかな気持ちになった。木々達に囲まれた村で育ったヴァンにとって、ここは心休まる場所である。


だが、そうした安寧を打ち壊すような、恐ろしい怪物が二人の前に現れた。目の前に突如出現したそれを見て、エイナは足を止めた。その額には一筋の汗がつたう。



それは狼であった。いや、狼と呼んでいいのかためらうほどに、常規を逸した巨躯だった。その体高は3mをゆうに超え、荒々しい白銀の毛は、絶世の美しさを誇っている。二人に向かって獰猛な唸り声を上げ、その強靭な足で今にも飛びかかろうとしている。


「他の生徒はどこにいる?」


その巨体を前にしても、なんら動揺する事もなく、ヴァンは落ち着き払ってエイナに聞いた。その視線が狼から逸れる事はない。


「……多分……皆自分の部屋にいるのかな……」


エイナの声は震えていた。狼のぎらぎらとした鋭い爪がこちらを向いている。はっきり言えば、エイナ自身の戦闘力は高くない。いや、軍人を育て上げる学園の教師をしているのだ。実力はある。だがこの場において、周りが余りにも常規を逸して強いのだ。エイナは目の前にそびえる猛獣に、勝ちの目があるとは思えなかった。


「……そうなると、俺が戦うしかないみたいだ」


そうしたエイナの姿を見て察したか、ヴァンは白狼を見据え、殺気を伴って睨みつけた。狼もヴァンに向かって威嚇するように唸る。


「そ、そんなボロボロの身体で勝てるもんじゃない……。逃げるのも肝要な事さ……」


後ずさりしながらエイナが言う。


「問題ない。獣相手なら……少しの無理で十分だ」


ヴァンは拳を胸に当てる。それは心器を引き出す合図。ただ彼の動作は一切の無駄が無く、瞬き一つの瞬間、彼の胸先には既に心器が取り出されていた。


(……成る程、やっぱり凄いものだ)


エイナは将来軍の重要な役職に就くであろうエリート達等が集う、リオーネ学園の教師である。単純な腕っぷしとなると、それほどでもないが、こと心器を素早く展開する事において、学園内で右に出るものはいなかった。だが、ヴァンという男のそれは、エイナにも見きれなかった。エイナに見えたのは、ただ彼の動作、その残像だけだった。


「来いよ。死にたいなら、な」


ヴァンは左肩を前に突き出し、腰を落とす。ヴァンの心器は刀であった。漆黒の、刀。


光は、人の目を惹き付ける。しかし純粋なる闇もまた、人を惹きつける引力がある。ヴァンの黒刀から目を離す事など、エイナにしろ狼にしろ、一体どうして出来ると言うのだ。


均衡した雰囲気のまま、しばしにらみ合っていたヴァンと狼だったが、ふと狼の口から、だらりと大粒の涎がこぼれ落ちた。怪しい光を放つヴァンの心器にたじろぎはしたが、しかし狼の腹の中は、何とも空っぽである。目の前にいる人間。それはすなわち彼にとって餌を意味する。


張り詰めた空気の中、ヴァンは心器の刃先を大地と接触させた。それは引き金となり、白狼はヴァンへと勢いよく飛び掛った。その巨体から考えられないほどの高速に、エイナは驚愕した。


そう、その狼はまさに突然変異の怪物であった。その分厚い毛皮は鎧のごとく、生半な武器を弾くだろうし、その強固な爪と牙は、かすっただけでも人の皮膚を豆腐のように引き裂くだろう。その狂った馬力、放置すればどれほどの人が殺されるか分からない。たとえ優れた軍人でも果たして勝てるかどうか―


だがその白狼、力は強くとも決定的に運が欠けていた。何故なら野獣の前にいるのは、一騎当千の豪傑と讃えられた、ヴァンフォーレ・ワインズその人なのだから。


ヴァンは腰を捻る。両足で大地をしかと踏みしめる。刃は天を向き、まさに天地を切り裂くように―



それは見事なまでの縦一閃だった。全身の力が込められて放たれ、大きな弧を描いたヴァンの黒刀は、白狼の装甲の如き分厚い、肉や骨や皮を意に介さず、その身体を真っ二つに切り裂いた。


「いてて……無理はするもんじゃないな……」


足元に転がった、二つに分かれた白狼の死体を見向きもせず、ヴァンは首筋をさすった。疲れたようなため息をつき、返り血を浴びた自らの髪に触れ、少し困ったような顔をした。


「寮に入る前にシャワーでも浴びる必要がありそうだ」


「あ、あはは……。いやはやお見事と言う他ない……」


唖然としたようにエイナが言った。


「この学園は、いつもこんな猛獣がやって来るのか?」


「いつも……でもないし、来たとしても大した奴じゃない。今回は本当に、あり得ないと言うしかないくらい特例だよ。……ここまでだと、依頼が来るかどうかも分からないかも」


エイナはしゃがんで、狼の死体を注視している。


「依頼?」


「学園の掲示板にね、貼られるんだよ。例えば山賊の討伐だとか。例えば猛獣の討伐だとか。生徒達がそういう依頼を受けて、無事解決したらちゃんと報酬が出る。ま、現金だね。ただどんな依頼も好きに受けれる訳じゃない。危険度が高い依頼ほど、多くの人数で臨む事が推奨される」


「すると、この狼はかなり危ない部類に入るのか」


「それはもう、最高クラスだろうね。さっきの素早い身のこなしを見るに、軍隊でも苦戦しそうだ。それくらいのレベルになると、依頼自体が受けられない事があるのさ。挑んだところで死ぬだけだからね」


「……でも、これくらいは何とかしてほしいもんだが。軍の将軍を目指すとなると、だけど」


ヴァンの言葉に、エイナは苦笑いを浮かべた。将軍にも色々なタイプがいる。軍の最後尾から指揮をするようなタイプ、自ら最前線で戦う事で、味方の士気を高めるタイプなど、様々である。将軍が必ずしも強くある必要はない。ただ、武勇に優れた将軍というのは、それだけで味方を奮いたたせ、軍そのものの力を底上げするものである。故に軍を率いる者は、強ければ強いほど良い、というのがヴァンの考えである。


実際彼は最前線で戦い、常に勝ち続けた。数多の敵将を討ち取り、その度に彼に従う兵士達は奮いたつ。そういった状況を何度も経験したのだ。


「……ともかく、血だらけでこれからの仲間に会う訳にはいかないな。寮にはシャワー室があるんだ。まずはそこに行こう。……僕の服にも、ちょっと血がついてしまったし……」


「先生が着替えるにしても、俺の分の着替えはあるのか?」


「用意しておくよ。ああそうだ、この死体も処理してもらわないと。……うーむ、やる事が多い!」


エイナはたまらない、と言うように頭をかいた。


「ところでシャワー室はどこだ?」


「ああ、あそこに木造で3階建ての建物があるだろう?」


ヴァンがエイナの指差した方を見ると、それは大きな建物があった。あれこそリオーネ学園の寮だ。学生のほとんどが寮に住まうからか、その広さもかなりのものである。


「あの建物の1階の……ここから見て右端にシャワー室がある。浴びるのは気持ち長めにね。僕が着替えを取りに行って、シャワー室に向かうまで、少し時間がかかると思うから。」


「分かったよ、それじゃ」


ヴァンは空を切り裂くように刀を振り、ついた血を飛ばす。そして心器の柄で胸を、とんと叩いた。それは心器をしまう合図のようなもの。ヴァンの胸が光り、彼は心器をその光の中にしまい込んだ。心器は抵抗なくするすると、あっという間に光の中に全て入っていった。ヴァンは自らの心器をしまうと、シャワー室に向けて駆け出した。全身に返り血を浴びているのだ。続けて戦うような敵もいないので、早く洗い流してしまいたくて仕方なかった。


(この異常な獣……。世界の災禍を知らせる、天啓でなければ良いけれど……。なんて、ね)


エイナはしばらく白狼の死骸を見つめた後、ゆっくりと立ち上がり、自分とヴァンの着替えを取りに歩き出した。


今日の天気は晴れだった。うだるような暑い日差しの中を、雲は途切れ途切れに天に漂う。しかし、空を往く雲の流れは少し早く、その色は少し暗かった。それはまるで人々に、天下の暗雲を告げに来たような。そんな空だった。

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