リオーネ学園
「………!」
気を失ったヴァンが目を覚ましたのは、白い部屋の大きなベッドの上だった。医療器具の入った棚が見受けられる部屋。隅にぽつんとたたずむ小さな机の上には、花びんに美しい花が飾られている。
「……ようやく起きた。一日中目を覚まさないから、心配したんだよ?」
ヴァンが声のした方を向くと、そこには若い女性がもう一つのベッドの上に座っていた。こちらを見据え、穏やかに微笑んでいる。
「目を……。!!!しまった、ここは!?」
迂闊に意識を飛ばすという、ありえない失態をしてしまい動揺したのか、ヴァンは慌てて飛び起きた。
「安心して。ここは帝国ジブリオのリオーネ学園。ハイオンド学園長が貴方を運んできたんだよ?あの学園長が、ね。」
「……そうか、俺は気を……」
締め付けられるように痛む胸部を抑えながら、ヴァンは拳を開いては閉じてを繰り返す。
「……どうかした?」
彼女の問いかけに、ヴァンは力なくうなだれた。
「……闘いで力を使い果たしたのか、思うように身体が動かない。限界まで神開の力を使ったんだ。治るのは当分先だろうな……」
彼の身体が、鉛のように重いのは、きっと精神的な問題ではなく、体力が空っぽの状態で、なお無理に身体を振り回した代償だろう。
「大丈夫?明日から学園生活を送ってもらおう、と思ってたんだけど……」
「こういう事は前にもあった。一日で治るよ」
ほっとした、というような息を吐き、彼女は立ち上がった。おんぼろなベッドが、ぎしぎしと喧しく音を立てる。
「僕、エイナ。エイナール・ヨーデウィッヒ。この学園の教師で、貴方が入る予定のクラスの担任をしています。これからよろしくね」
「ヴァンだ。ヴァンフォーレ・ワインズ。……そういう名前だが、これからは偽名を使ったほうが良いかもしれないな」
ヴァンが立ち上がると、身体が大きいからか、ベッドがエイナの時より大きな音を立ててきしんだ。まだダメージが残っているのか、ヴァンの身体は少しふらふらと揺らめく。
「そうだね、もし生徒達にバレたら、きっと大騒ぎになる。後は名前だけじゃなく、出来れば顔もいじったほうが……」
「戦場では顔の殆どを隠す兜を被っていたから、あんまりバレないと思うが……ま、髭を剃るさ。最近全然剃っていなかったからな。……でも今は出来そうもないなあ」
ヴァンは自らの手を見つめ、ため息をついた。幾千、幾万もの敵をなぎ倒してきた、ごつごつとしたこの手が、いまやこのザマだ。こんな状態で戦が起きてみろ、俺はどれほどお荷物で、そして無様な最期を遂げるのだ、とヴァンは自嘲気味に笑った。
「それなら僕が剃ってあげようか?」
そう言ってエイナはヴァンの瞳を覗き込んだ。透き通るような彼女の目を、ヴァンはじっと見据すえると、意を決したように頷いた。髭を剃るには刃物がいる。しかし今日初めて会った他人に、刃を顔に近づけるのを許すという事は、中々出来るものではない。ある種の固い信頼が必要不可欠になってくる。
だが、数多の戦場で彼を救ってきたヴァンの勘は、エイナという女性に警戒する必要を示さなかったし、彼も彼女という一個人が、そう悪い人ではないと思ったのだ。
「……分かった。頼むよ」
「オッケー、僕にどーんとお任せしなさい!それじゃ、動かないでね?」
エイナは胸に拳を当て、力を込めた。彼女の胸が光輝く。眩い光に包まれた彼女の胸の中から、短剣の柄が顔を覗かせる。エイナはそれを掴み、己の胸の前に引き抜いてみせた。
「あんたの心器はナイフか。……戦闘の時は大変そうだ」
「だけどこういう戦闘以外の時には便利だからね」
[心器]。この世界に生きる者、一人一人が一つずつ持ち合わせている武器であり、心の写し鏡とされるもの。それは生まれつきに備わり、その時々の感情によって、心器の性能が左右される。ある者は短剣、ある者は槍。人それぞれに心器の形は違う。
心器には[神開]と呼ばれる、その心器の力を極限まで開放した状態も存在するのだが、それが使えるのは一握りの人間だけである。ただ、このリオーネ学園は、その一握りが数多集う場所でもある。
「うん、こんなものかな。ま、一切合切綺麗さっぱりってわけにはいかなかったし、また後でちゃんと剃ってね」
エイナの手際は非常に素早かった。ヴァンが髭の後をさすってみると、非常に綺麗に剃られている事が分かった。部屋に飾られた鏡で自分の顔を見てみると、前と随分印象が変わって見える。
エイナが胸にナイフの柄を軽く当てると、彼女の胸が光り、エイナは自らの心器をその光に押し込む。心器は光の中へと吸い込まれ、その姿を消した。心器はまさに心臓の位置から現れ、心臓の位置へと帰る。心器が持ち主を傷付ける事は無い。
「髭一つで大分変わるなあ。威厳を出すために剃らずにいた髭だが、無くなってみると何だか一気に若くなった気がするよ」
少し名残惜しそうにヴァンが言った。
「前よりずうっと学生っぽくなったね」
髭を剃る前とは趣の違う空気を深々と吸い込み、ヴァンは明るく笑った。
「ありがとう、エイナ先生」
今は四季で言う所の夏である。なんとも心地の良い空気が、肺の中に行き渡る。アキナの王都と比べ、透き通った風の味がする学園の空気。澄み切った自然に満ち溢れていた故郷を思い出し、ヴァンは少し力が戻ったような気がした。
「それじゃ、これから寮に行こう。明日から授業に参加してもらおうと思ってるんだけど、寮は今日から入ってもらうよ。コミュニケーションは早く済ませれば済ませるほど都合が良いからね」
「最もだ。だけどね先生。こっちは病み上がりの身なんだ。案内はゆっくり頼むよ」
そう言ってヴァンは一つ、大きなのびをした。ふらふらとしていた前とは違い、力に満ちたのびだった。