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ごっこ遊び

作者: Rainy

 前から、男が歩いてくる。街灯の少ない道だから、どんな色の服を着ているのかはわからない。何色を着ているのだとしてもきっと黒く見えるだろう。ジャージを着ているようにも見えるが、正確にはわからない。時計に目をやると、夜九時を少し過ぎたあたりだった。少し遅いかもしれないが、ランニングをしていても不思議ではない時間だ。しかし男は走ってはいない。それなら何をしているのだろう。男はただ真っ直ぐに歩いている。真っ直ぐに、私に向かって歩いてくる。

 私と男がすれ違う瞬間、左の脇腹のあたりに衝撃を感じた。とん、とか、そんな感じの軽い音。そうして、男が走っていく音が聞こえた。さっきまで歩いていたのに、想像もできないような速さで走り去る音。それを聞いているうちに、脇腹のあたりから熱を感じた。少しずつ私を侵食するみたいに。脇腹に手を伸ばすと、少なくとも男とすれ違う前には無かったはずの、固い何かに触れた。まるで突然脇腹から生えたみたいだ。それから、濡れた感触。街灯が少ない道だから、やはり色はわからない。でもきっとこれは、水なんかじゃないのだろう。水にしては、あまりに温かくべとついていた。ではこの液体は何だろう。何が、私の身体から流れ出しているのだろう。

 背後から、女の人の悲鳴が聞こえる。そこで初めて、自分が地面に倒れていることに気が付く。ざらついたアスファルトの感触が手に伝わる。そして、脇腹が焼けるように痛むこともやっと気が付く。声が出ない。大丈夫ですか、という声が聞こえる。けれどそれに返事をすることさえも出来ない。息を吸い込むたびに痛み、息を吐き出すたびに痛む。声が、出ない。全身が痛い錯覚を覚える。

 視線の先に、今から自分が帰るはずのマンションが見えた。母親が、夕飯を作って待っているはずのマンション。ついさっき、私が「もうすぐ帰る」とメールをして、「了解」と返してきた母がいる。けれどもう、それも霞み始めた。焦点を合わせてみても、すぐにどこかへ消えてしまいそうだ。

 これで死ぬのか、とぼんやり思う。私はここで、二十年そこそこの人生を終えるのかと。やり残したことがたくさんあるような気がするが、今後も何事もなく生きていたところで、それがやり遂げられたとも限らないのだろうな、とも思う。我ながらあまりに悲観的で、どうしたらいいのかわからなくなる。さっきまで私に一生懸命呼びかけていた女性は、今度は必死になって電話をかけている。きっと救急車を呼んでいるのだろう。改めて考えてみればこれは通り魔事件なのだろうから、警察にも電話しているのかもしれない。この女性を、私は知らない。赤の他人にここまで一生懸命になれるなんて、この人はとても優しい人なんだな、などと場違いなことを考える。

 遠くのほうで、救急車のサイレンが聞こえた。早いなあ、そんなにすぐに来られるものなんだ、そんなことしか思い浮かばなくなってしまった。もうすぐ死ぬかもしれないのに、私の頭はひどく冷静に動いていた。時々思い出したように襲ってくる痛みを除けば、私はいつも通り過ぎるくらいだった――

「なんてね」

 男の人とすれ違う。何事も起こらない。左の脇腹に衝撃なんて無い。濡れた感触も、焼けるような痛みも無い。私はいたって健康体のまま、マンションへ歩いていた。勝手に通り魔犯に仕立てあげてしまった男の人に、心の中で謝っておく。

 いつからかわからないけれど、時々こんな遊びをしていた。バスに乗っている時にバスジャックされるごっこ。道を歩いていたら路上駐車の車が爆発するごっこ。帰り道に通り魔に刺されるごっこ。不謹慎極まりないし下手をすれば精神病を疑われるレベルだ。そんなことはわかっている。でも時々、無性にやりたくなる。そうして大概、自分が助からない方向性で物語を進める。たまたまマナーモードにしていなかった携帯電話から着信音が鳴り響き、それが犯人の癇に障り撃ち殺される展開。車が爆発する瞬間がスローモーションで見えて、何秒か後に地面に叩き付けられる展開。「誰でもよかった」という犯人に刺され、救急車で運ばれるも病院で死亡が確認される展開。きっと私は、想像の中で何百回か死んでいる。でも現実の私は生きている。不幸でも幸福でもない程度に生きている。これはたぶん幸せなことなのだろう。

 想像の中で通り魔に刺されて死んだ私は、何事もなくマンションにたどり着く。何事もなく母親が出迎える。台所からは、ごま油の匂いがする。コートを脱ぎながら母親に話しかける。

「今日の夕飯何?」

「野菜炒め。冷蔵庫にいろいろ残ってたから」

「ふーん」

 美味しそうだね、と言いながら、私はごま油に引火して台所が火の海になるという雑なごっこ遊びを始める。そんなことあるわけない。天ぷらとかならまだ現実味はあるけど。野菜炒めくらいでいちいち人が死んでいたら人間は簡単に絶滅するだろう。これはさすがにセンスがない、と自分一人で結論付けて、皿と箸を準備する。

 ご飯とみそ汁、野菜炒め、それと豆腐。なんて普通で平和なのだろう。こんなにも平和な夕飯を作れる母親から、どうしてこんな子供が出来上がるのか、不思議であると同時に申し訳ない気持ちになる。あなたの娘は、へらへらしながら自分が死ぬストーリーを展開して遊んでいるのですよ。

「いただきます」

 テレビでは、これまた平和な人たちが平和な会話を繰り広げていた。高級な肉を食べて何が楽しいのか私にはわからない。脂がしつこくないですねとか口の中でとろけますねとか、そのことで何か得をすることがあるのだろうか。おそらくひがみに聞こえるのだろうが、純粋な疑問として、胃に入り形が無くなるものにそこまでお金をかける理由が見つからない。

「いいなあ」

「何が?」

「美味しそうだなって」

「……ああ、テレビ?」

 きっとこれが普通な反応なのだろうなと、キャベツをかじりながら考える。もっと幸せな想像を広げるべきなのだ。例えば母のように。

「もし宝くじ当たったら、美味しいもの食べに行こうね」

「ああ、うんそうだね」

「あんたは食べ物に興味ないもんねえ」

「無いねえ」

「じゃあ宝くじ当たったら何する?」

 そうくるとは思っていなかったから、どう言ったらいいのかわからなかった。よく考えると、私はあまり、明るい想像をしたことがないかもしれなかった。自分に幸運が訪れる図が浮かばないから。不幸を背負って生きているつもりもないけれど、私よりも幸せになるべき人間は他にもっといるはずだから。例えば、母とか。

「さあ……本とかたくさん買うんじゃないの。ああ、本棚増設したいかな」

「夢がない」

「まあね」

「もっと楽しいこと想像すればいいのに。旅行に行きたいとか、豪邸に住みたいとか」

「……どうせ暗い想像しかしてないからね」

 ああ、言ってしまった。これは完全に余計な話だった。みそ汁を飲みながら母の様子をうかがった。特に気にしていなさそうな顔ではある。これはただの主観だからあてになんかならない。母は、幸せになるべきなのだ。だからせめて私は、何かに秀でた人間でなくとも、普通の人間にならなくてはいけないのに。

 何でもなさそうな顔をしながら、母は人参を口に運ぶ。咀嚼する。飲み込む。そうして私に向かって言う。

「それは遺伝かもしれないわね」

「……は?」

「私もそうだったから。……例えば映画館に行くでしょう、その時に、こんなにたくさんの人がいる中で火事があって、非常ベルが鳴ったらどうやって逃げるのが最短ルートか、とか、そういうのばかり考えていたころがあったの」

「……ふーん」

 だから大丈夫よ、と母は言う。何も大丈夫じゃない、と私は思う。母は、助かる道を想像するのだから、そりゃあ大丈夫だろう。でも大丈夫なんかじゃないのだ。映画館で非常ベルが鳴ったら、最後列の真ん中に座っている私はどれくらいの確率で逃げ遅れるのか、ここにいるどれくらいの人間が煙を吸い込んで死ぬのか、その中に私は含まれているのかどうか、まあそんなことしか思いつかない。何一つ、大丈夫ではないのだ。

 けれどそれを口にする気はなかった。言わなくていいことだから。

 ごちそうさま、と呟いて、私は立ち上がる。適当に皿を洗って、お風呂のスイッチを入れる。この時期はお風呂を沸かすのに時間がかかって困る、とか、できるだけ普通なことを考えながら。

 自分は死にたいのだろうか、と改めて考えてみる。別にそうではない、という解答しか出てこない。死にたくはない。死んでもいいとは思っているけれど。毎日楽しくて仕方ない、というわけでもない。どちらかといえば毎日疲れることばかりだ。最近はどうにも、有体に言ってしまえば『世間とのズレ』みたいなものを自覚してしまうことが多いから。しかもそのことを、誰も責めることが出来ない。わがままを言えば、私を責めることも出来ない。私だってこうなりたくてなったわけじゃないから。

 困ったなあ、とぼんやり思った。ぼんやり思う時点でそれほど困ってはいないのだろう。ややこしい言い方になってしまうが、それほど困っていないことそれ自体が問題なのだろう。もっと世間とのズレを埋める努力をした方がこの先いろいろな面で楽になれそうな気がする。でもそうする気にはなれない。これはたぶん大問題だ。

 どうしたらいいのかなあ、なんて、本当は心にも思っていないことを考えているフリをする。意味もなく。私はいったい誰に向かって演技しているのだろう。お風呂が沸いたことを知らせるアラームが鳴ったので、考えているフリをやめてお風呂に向かう。

 お風呂で溺死するごっこを終え、歯を磨いて髪を乾かす。非常に健康的な生活を送っているような気分を味わう。深夜のバラエティを見ながら明日のバイトの時間を確認する。朝の九時半から。家を九時には出ないと間に合わない。早く起きなくてはいけない。朝は、苦手だ。

「明日バイト早いから、もう寝るね」

「そうなの、おやすみ」

「おやすみなさい」

 冷たさの残る布団にもぐりこんで、天井からの吊るし照明を眺める。何かの拍子で照明が落ちてきてそれが運悪く頭に直撃してもう二度と目覚めないごっこをしながら、私は目を閉じる。

 明日は何を使って遊ぶのだろう。


この人の一日を書いてもよかったけど、明るいうちからこういうことを考えながら生活するわけではないので、夜のシーンから。

別にこの人は不幸なわけではないです。それなりに楽しく、生きています。

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