大口
八月十日、気温四十二度。
宮崎県の夏は太陽しかなく、俺は失業中の身だったから、身重の妻が病院から帰ってきたときも、下着のまま畳に寝転び甲子園のラジオ中継を聴いているだけだった。蝉の死にそうな泣き声、空気が歪んでいる。リストラされたときに故障したクーラーはそのままで、蚊取り線香の臭いと、団扇だけが、わずかな涼を感じさせていた。俺は再就職などすでに諦めていたので、ハローワークに通っていると信じている妻の問い掛けにも、生温い返事をするだけだった。
だが、妊娠二ヶ月目の妻は何も話しかけようとせず、庭に干していた洗濯物を取り込みに行った。家事手伝いを妊婦にさせるのは罪悪感が働くが、今日は蒸し暑いし、羽虫がうるさい。このまま日陰にいたいから、寝たふりでもしておこう。
……などと思案していると、不意に妻が俺を呼んだ。
不機嫌な声を吐き出して、立ち上がる。洗濯物を抱えることぐらい、まだできるはずなのに……と不平不満を呟き、雑草が生い茂る庭に降りた。腐敗臭を孕む土の臭い、宮崎県の日差しは殺人的で、だから猟銃を持った男が警官隊と銃撃戦をするという事件も起きるのだろう。灼熱の風が汗を浮き上がらせ、タオルを片手に妻の元へ歩く。サンダルの隙間から草が絡みつくが、妻は呆然としたように俺の名前を呼び続け、地面を指差していた。
「あなた」
俺も妻と同じように、その地面の見慣れたものを目にする、立ち尽くして。
それは口だった。
巨大な、人間の、口。
ドロドロと流れていく雲の下、半開きの口が一つ、俺の庭に穿たれていた。
「……この口、知能は低いみたいだな」
いつも口を開けているのはバカの証拠だ、と死んだ父が言っていた。艶やかなピンクの頬肉、黄ばんだ歯は治療の跡一つなく、舌が蠢いている。唇は爛熟した赤紫、そして土と同化していた。口があるのなら鼻や目がどこかにあるかもしれないと、辺りを見回すが、どうやら怪異はこれだけのようだった。
妻は日傘の先で、大口の舌や歯を突いた。
「おい、危ないぞ」
直径は一メートル半程だが、飲み込まれないとの保証もない。あの前歯は、容易く人間の肉と骨を食いちぎるだろう。俺は妻が肉塊になるのを想像して、汗が滝のように流れるにもかかわらず悪寒に襲われた、大口は日傘の攻撃をむず痒そうに耐えるだけだった。
「これは地球の口なのよ」
何かの確信を得たのか、妻が振り返る。
「だが、そのようなものが、どうして俺の家に出てきたのだろう?」
「きっと、お腹が空いたのだわ」
妻は微笑むと、呼び止めようとする俺を無視して家の中へと入った。雲が掻き回され、澱んだ熱風に吐き気を催すほどだ。大口に、俺の黒い影が差している。その歯垢だらけの歯を見詰めた俺は、掃除したいという欲求に駆られてデッキブラシを探した。
風呂場の隅に立てかけられたデッキブラシを両手に、歯を洗う。歯磨き粉はないが、粉石鹸で十分だろう。磨きはじめると、白い泡はすぐに茶色に濁った。歯茎や歯と歯の間は特に念入りに磨き上げ、バケツで水をかける。汚れと泡の混じったものが、食道に流れ、飲み込まれた、咽の鳴る音。
灼熱の、太陽、俺、大口、そして妻。
「何をしているの?」
「歯磨きだよ。お前は?」
「食べる物を持ってきたの」
妻が手にしているのは、紐だった。
その先には、お隣の山崎さんが飼っている犬が蹲っている。夜となく昼となく、バカみたいに吠える犬だった。妻は玄関先で唸り声を上げていた犬を見て、ショベルで殴り、何度か蹴って、ここに連れてきたと説明した。山崎さんは家を留守にしているみたい、と意味深に付け加えて。
「妊娠しているのだから、あまり無理はするな」
「分かってるわ。それよりも、肉食なのかしら?」
身重の妻は額に汗を滲ませていた。好奇心に、目が輝いている。
「見たところ、肉食動物の口ではないようだ」
「人の口なら雑食でしょ?」
「そうだな」
俺は枝を手折ると大口に与えてみた。磨いたばかりの頑強な歯が、葉に触れたとたん閉じられる。その力は予測をはるかに上回り、尻餅をついた俺は、そのまま大口が枝をもさぼる様を眺めた。
心臓が高鳴っている。
バカみたいだ。妻のクスクスと微笑む声を聞いて、俺は極力冷静を装った。
「……葉っぱは食べるみたいだ。草食だな」
「肉も食べるわ」
妻が犬の肋骨を踏み砕きながら呟く。キャンキャン吠える犬、山崎さんは探すのだろうか。犬なんて、どこにでも転がっているというのに。それにしても妻が山崎さんの犬を嫌っていたのは知っていたが、こんなに嬉々として暴力を振るうとは意外だった。しかし宮崎県の夏は暑く、日差しは容赦なく、妻は妊娠してからナーバスなのだ。人様の事情も知らずに吠え散らす犬など、死ぬのが当然だった。
「止めないの?」
潰れていく内臓、肋骨の先が皮を突き破り、目と鼻から血が溢れ出る。妻の問い掛けに俺は首を振った。どうせ、その口に落とすつもりなんだろう、と言うと、彼女は手綱を俺に手渡した。
「あなたがやってみせて」
試しているのか、俺を。期待に満ちた両目と、暑さもどこかに消えた表情で、俺に男らしさを見せろと。息も絶え絶えな山崎さんの犬を引きずる。殺して口に放り込もうか、それとも生きたままが良いのだろうか。妻の眼差しは、どうやら生きたままのほうを望んでいるようだ。
「はやく、はやく」
妻が俺を急かす。
ああ、今してやるさ。
太陽の眩しさに判断力も衰えていた。
俺は犬の首輪を無造作に掴み、吊り上げ、大口に与えた。
巨大な舌が伸び、磨いたばかりの白い歯が血に染まる。骨を砕き、血を啜る。その単調な音が夏の太陽に吸い込まれていった。首が千切れ、頭が潰れる様を二人で鑑賞し、犬が死ぬのを見るなんてはじめてだわ、と妻が俺の手を握る。犬を与えられた大口は、悦びに悶え、ミンチになった肉を何度も何度も咀嚼した。
「肉も、喰うようだ」
タオルで顔を拭きながら、俺は呟いた。
「肉の方が好きなのかしら?」
「しかし、肉ばかりじゃあ健康に悪いだろう」
妻が、俺の顔を凝視する。
「あなたはいつも面白いことを言うのね」
足下の大口は、満足そうに咽を鳴らしていた。面白がらせた覚えはないのだが、問い質そうとする暇もなく、妻は居間へと戻ってしまう。自分の子宮の辺りをさすりながら。夏の太陽光線は妊娠二ヶ月目の妻には辛いのだ。俺も甲子園の結果が気になったので、庭に現れた大口はとりあえず放置しておくことにした。
自分では、どうにかなる問題でもない。
冷蔵庫からビールを出して、栓を抜く。妻が台所から枝豆を持ってきたので、珍しく気が利くじゃないか、と思ったが、こうしてお膳を境に向かい合っても、別段喋ることがないと気が付いた。甲子園は雨が降っているようだ。新聞を開いてみても求人欄にはコンパニオンや日雇いの募集ばかりだ。
「良い就職先はあった?」
「大卒の再就職は、難しいと言われたよ」
もちろん俺は何もしていない。だから、それはデタラメなのだが、完全な嘘というわけでもなかった。大卒の三十代営業が生活レベルを落とさずに、再就職できるような「都合の良い」職業は、宮崎県には存在しない。脱サラするだけの元手もない俺には、経歴を隠してブルーカラーとして働くか、ここで高校野球を聞くかの選択しかないのだ。
今更、俺が肉体労働に従事できるのだろうか。人生の落伍者、負け犬という視線を浴びることに、耐える自信は、ない。
それはスティグマだわ、と妻が言う。
「スティグマ?」
「大卒の営業だったことが、あなたの再就職を躊躇わせている。卒論のテーマだったでしょう?」
アーヴィング・ゴフマンの『スティグマの社会学』のことを話しているのだ、と気付くのに時間は要さなかった。俺は大学では社会学を専攻し、彼女の言葉通り、それを卒論のテーマにしていたからだ。キリスト教におけるスティグマは「聖痕」と訳され、磔にされたキリストと同じ傷が身体に浮かぶ現象とされているが、社会学においては「人にマイナスの印象を与える属性」という意味で使われる。
「どうでもいいけれど、稼ぎがないと赤ちゃんが死ぬわよ」
妻は優しい表情で、微笑んだ。
ああ、分かってるさ。俺はビール片手に寝転んだ。ラジオも昔の歌謡曲しか流れていないので、こうなると、気分を変えるためのキスがしたくなる。
寝返りを打ったが、妻はすでにいなかった。
「明日、山岡さんを呼ぶから」
という台所からの声。
「どうして山岡を?」
俺は問い掛けたが、答えは返ってこなかった。
この畳の熱さ、汗が止まらない。俺は自嘲して、ビールを一気に飲み干した。
宮崎産業大学の国際社会学科に通っていた俺と妻は、同じゼミに属していたことから親しくなり、卒業後程なくして結婚した。山岡はゼミの後輩だ。山岡は三流大学出身のくせに宮崎電力に入社したので、その孫会社に勤めていた俺に良く会いに来てくれていた。
次の日も、太陽は白熱灯のように輝き、揺らめいている。
「いやぁ、どうしてここまで暑いんですかねぇ」
「すまないな、クーラーが壊れているんだ」
「あたた……、それはとんだ災難で」
ハンカチで額を拭う山岡に、妻が麦茶を差し出した。下着姿の俺と、ネクタイ姿の山岡、妻は来客ということで化粧をしている。山岡はヘラヘラ笑いながら礼を言った。如才ない男で、膝元には奴が持参した薩摩揚げの箱がある。俺は団扇で首元を仰ぎながら思った。
妻は、いつから山岡を「山岡さん」と呼ぶようになったのだろう?
「仕事は、忙しいのですか?」
「ええ、長谷川さん」山岡は今も、妻の名前を旧姓で呼ぶ。「シーガイアが倒産してからというもの、鹿児島の方に行く機会が多くなって、正直ウンザリしているんですよ。ああ、この薩摩揚げは、天文館通りにある老舗で買ったものです」
「いつも感謝していますわ」
微笑む妻の唇には、普段使わない口紅が塗られていた。
俺はおそらく、憮然とした表情で会話を聞いていた。妻が山岡に「さん」を付けるのも、山岡が妻の旧姓を口にするのも、二人の話が妙に噛み合うのも気に入らなかった。妻に麦茶を要求したが、返事がなかったので自分で台所まで取りに行く。山岡は俺の背中に軽薄な視線を注いでいることだろう。心の奥底で、零細企業にリストラされた俺を蔑みながら。
忸怩たる思いがネガティブな妄想となり、奥歯を噛み締めた。湯飲みの麦茶を飲み干し、頭を冷やす。
「今日は、お前に見てもらいたいものがあって……」
「そうなのよ、山岡さんにちょっと見てもらいたいものがあるの」
妻が俺の言葉を遮った。
「お、おい……」
山岡の斜め前に座り直し、妻が俺を一瞥する。
「ほら、家の人ってこういうことに対処できないから、山岡さんなら良い考えが浮かぶんじゃないかと思って」
「はあ、それで……」
「ちょっと庭に出てもらえます?」
暑さで意識が朦朧としたために、大口のようなものを見たのではないか。その可能性も捨てきれなかったから、俺は慎重に話を進めていくつもりだった。だが、妻は俺の思惑など遠慮解釈なしに、山岡の奴を庭に連れて行ってしまう。目を白黒させながらも、満更ではないという表情で庭に降りる山岡を眺め、また麦茶を注ぐ。
そうしている内に、奴の驚く声が俺の耳に届いた。
「うわ! 何だこりゃ」
「口だよ」
それしかない、という答え。
麦茶を飲む。二人の足下では、だらしなく開いた大口が、朝食べた野ウサギの味を思い出していた。舌が動いている。どうやら幻覚ではないようだ。俺はとりあえず安心したが、山岡は予想もしていなかった超常現象に、半笑いの表情を凍り付かせていた。
「なぜ、こんなものが?」
「昨日、庭で見付けたのよ」
妻が呟く。
その唇を指先で撫でる姿に、山岡は眉を顰めた。腕や背中から浮かび上がり、地面に落ちる前に蒸発してしまう汗と光、地面に揺らめく大口は、生々しく、動かしようがなく、そして苦しげだった。風なく、草の萌え茂る庭に俺と妻と山岡は、三者三様の表情で佇む。
鼻孔をくすぐる腐臭、大口の気紛れな仕草、どろどろした気持ちを影に落として。
「生き物……なんですか?」
「ああ、生き物を食べるからな」
俺は山岡の背中を軽く押した。
「わわわ、驚かさないでくださいよ!!」
と、真剣な面持ちで抗議する奴の顔が可笑しかった。
「ビビルなよ、こいつは土と同化しているんだ。飛びかかることはない」
「でも、こいつ、肉も食うんでしょう?」
「ええ、大好物よ」
妻が山岡の持ってきた薩摩揚げを、一つ大口に放り込んだ。常に飢えているから、薩摩揚げとて巨大な奥歯で噛み締めて、味を堪能してから飲み込もうとする。山岡は振り返ると俺たちに薄ら笑いを浮かべた。たぶん、自分があの前歯に噛み千切られ、奥歯に何度も潰されることをイメージしたのだろう。
「言葉は、喋るのですか?」
「いいや、そんな知能はない。口だけだからな」
俺は大口に唾を吐いた。
「生きている痰壺だ」
太陽は容赦なく頭上で輝き散らしているし、だから俺は妻を庇の下まで連れて行った。妊娠中で疲れているのか言葉数は少ない。俺が勧めた氷入りの麦茶をゆっくり飲み干していった。あまり無理するなよ、と気遣いを見せたかったが、クーラーも壊れたまま放置している俺が言っても説得力がない。
せめて雲でも出てくれればよいのだが。
庭にいたため腕や足を蚊に咬まれてしまった。蚊取り線香を点けて、山岡が居間に上がるのを見届ける。俺たちは三人とも、わずかな時間しか日光に当たっていなかったのに、汗が滝のように流れていた。とにかく麦茶を振る舞い、瞬く間にポットが空になる。
「団扇……どうぞ」
妻が山岡に団扇を手渡した。
「ああ、どうも。お身体は大丈夫ですか?」
「ええ、いつものことだわ」
下腹部を撫でる姿は、意識するまでもなくエロスに満ちていて、俺は独占欲から山岡に、妻が大口に執心のあまり犬を殺したことを話そうと思ったほどだ。もちろん、思っただけだ。この暑さ、心が熔けそうになる。山岡は、腕を組み、あの大口の庭を何度も眺めていた。
妻が色眼鏡で見るまでもなく、俺は自分が甲斐性のない男だと自覚しているし、会社からはリストラされた身の上だ。だから大口にも「さて困ったものだ」と呟くのが精一杯なのだが、山岡の奴はもっと宮崎電力の営業マンらしいことを思案しているみたいだった。
山岡には、対策を練る能力も、実行に移す行動力もある。
「先輩は、良い再就職先が見つかりましたか?」
「いいや、世の中は世知辛くてね」
「そうですか……、力になれなくて申し訳ないのですが」山岡は俺から妻へ視線を動かし、雑草に覆われた大口の辺りに首を動かすと、軽く頭を下げた。「今日は、ここらで退散することにしますよ」
「あら、夕ご飯までいてもいいのに」
妻のつまらなそうな表情に、山岡は俺を気遣うような素振りを見せる。メロドラマ的な会話に辟易した俺は、そもそも山岡の訪問を快く思っていなかったから、薩摩揚げのお礼を言って、それとなく帰るように誘導した。山岡を玄関まで見送り、缶ビールを呷ると、畳に寝そべる。
こちらに来た妻が腹の上に覆い被さり、
「胴回りが太くなってきているわ」
と言った。
「ビールばかり飲んでるから、まるであなたが妊娠したみたい」
「仕方ないだろう。再就職先もないのだから」
「大学の頃のあなたはもっと痩せていた」妻の声は、天井を見詰める俺には少しだけしか届かない。「あなたの脂肪も、あの口に食べてもらえばいいのよ。そうすれば、山岡さんみたいに……」
「山岡みたいに?」
聞き返した俺に、妻は投げ捨てるような眼差しを置いて、台所へと消えていった。
湿気の塊を孕ませた風が、不吉を予言した。
樹々がざわめく。乾いた身体に汚らしさを感じつつ、俺は庭に佇んでいた。妻を捜していたのだ。歪んだ太陽が草を萎れさせて、ひどく息苦しい。息苦しいが少し注意深ければ、あまりの暑さで落下した蝉を、幾つも見付けることができるだろう。我が家の庭は、それほど広くもないのだが、今は眩しさのせいで居間までの距離がはるか遠くに霞んでいた。
俺は妻の名を呼んだ。
返事はない。
もう一度妻の名を呼ぶ。
熱風が土を枯らし、彼女のクスクスという声を運んできた。どこにいるのだろうと訝しみ、あてどなく庭を歩く。あの大口だけが、まったく涼しげな態度で寝ていたが、歯や舌は血にまみれていた。生き物を与えるのは妻が取り仕切っていたけれども、肉ばかりじゃあ胃がもたれるだろう。俺は地面に転がっているキャベツを手に取ろうとした。
だがキャベツの横には、なぜか小さな靴が転がっていて、俺の首を傾げさせる。
「面白いものがある」
靴を手に取った俺に、妻の影が被さった。
「面白いものがあるって、教えてあげたの」
カーテンで半分だけ身を隠していた、身重の妻。この靴が幼稚園の上履きだと気付いた俺は、立ち上がり、大口に投げ捨てた。言わんとしていることを察して、証拠隠滅を計ったわけだ。しかし、俺は恐怖に膝が揺れていた。妻の慈愛に満ちた表情は、母へと至る段階を一つ一つ踏み進む美しさがあったから。
「すごく喜んでた」
「こいつは、お前の子供じゃないよ」
「あの子は赤ちゃんよ。私たちがいないと、何もできないわ」
汗を吸収しきれず、シャツの裾から水滴が落ちる。大口が肉を食べるのか知りたくて、妻は山崎さんの犬を殺した。だから、どこからか幼稚園児を連れ去って、大口が人肉も食べるのかを確かめたとしても不思議ではないと思った。大口の歯に付着する血と肉が、見ず知らずの幼児のものだとしたら……
「冗談よ」
信憑性の欠ける口調だったが、
「ああ、冗談なんだ。すっかり騙された」
と胸を撫で下ろし、居間に戻る。
俺は怖じ気づいたのだ。俺の心境を悟り、妻が微笑みを浮かべている。俺は向かい合う妻から視線を逸らした。俺の目は、味を堪能した大口が舌を嘗める、その行為に固定された。真偽など、くだらないと見得を切っても、モラルの圧力を受けて精神が磨り減っていく。今日はどことなく優しいじゃないか、と言った俺に妻は、
「そうね」
とだけ答え、気が付くと、俺は畳に寝転び天井の染みを数えていた。
海底から浮上する鯨の気持ちだった。
「……俺、は?」
妻は俺の腕を枕にして、寝息を立てている。夢だったのだろうか、妻が大口に食べ物を与えるために、子供を攫う夢。こうして妻の寝顔を見ると、大学時代と何ら変わりなかったが、山岡や、大口のことを考えるにつれて、妻が分からなくなるのが不安だった。
妻の髪を撫でながら、
「お前は何も変わっていないよな」
と囁く。
「変わったのは、あなたのほうだわ」
というのが、妻の返事だった。
興醒めしてしまい、俺はラフな格好のまま、氷でも買いに行くことにした。外出するときに麦藁帽子と首に巻くタオルは必需品だった。過酷さを極めた夏の日は、畦道を歩く無職の中年男性など、熱中症で簡単に殺してしまうほどだからだ。空の青さと水田の緑が混ざり合うことなく共存し、それは現実的な光景ではありえないと思われた。熱風が肌を撫でる。畦に作られた直線的な舗装道路を、一台の自動車が時速八十キロのスピードで駆け抜け、電柱に激突した。叩き潰されたように自動車は凹み、横転する。俺は一部始終を眺めた。弾き飛ばされた人間がグルグルと地面を転がり、奇妙な死のオブジェになるのを。
すぐに人が集まり救急車が呼ばれたが、俺は野次馬どもに紛れ、死体を観察した。なんだ、夢の後味と、この光景はさして変わらないではないか。有り得ない方向に曲がった腕と、土を濡らす血に、俺は安心した。気に病むことは何一つ無いと思い直せば、ここでの惨事もささやかな出来事でしかなく、表通り出た俺は氷の他にコーラを買った。
夏は負け犬どもの収穫期と、ラジオが俺に教唆する。
甲子園の中継をいつも聴いているが、だからといって高校野球のファンなどではない。宮崎県の代表高校も早々に負けてしまった。ただ、価値があると信じ、学力と生涯賃金を犠牲にし、時間と労力を注ぎ込んだものが、たったの二時間で思い出の砂になってしまう。そうしたドラマを聞き流すのは心地よかった。
「あなた、野球が嫌いだったの?」
「野球部は大嫌いだった。あそこのOBは、みんな中途半端な生き方をしているよ」
今では俺も中途半端な生き方をしているので、嫌悪感よりも同類相哀れむ感情のほうが強くなっているのだが。
盆はこれといって特筆すべきこともなく、それから二三日経ち、山岡が宮崎電力の社用車で現れた。社の御中元と、クーラーボックスに詰め込まれたアイスクリームを手土産にして。
もちろん奴が持参したのはこれだけではなく、俺と妻に奇妙な機械を披露した。
「これは、原子力発電所で使う特殊なカメラです」
庭に乗り入れた社用車に、それは隙間なく詰め込まれていた。コンピューターのような計器に箱形のモニター重なり、ドラム巻きになったチューブが連結されている。要するに巨大な胃カメラだった。原発内の、人間が立ち入れない場所を見るために大学で試作され、現在は西都原古墳群の調査にも使われていた装置を、山岡の奴は強引に借り受けたらしい。
このような大層な機械を家に持ち込んで、何をするつもりなのかと思ったが、
「きっと、あれを口に入れるのよ」
と妻が囁いた。
山岡を見詰める目は好奇心に輝いている。俺は自分で「巨大な胃カメラ」と思っておきながら、その用途にまで考えが至らなかったことに舌打ちした。なるほど、あのカメラなら大口の内部が分かるかもしれない。
「最長、二百メートルまで伸ばすことができます」
「それだけあれば尻まで行くな」
蚊に刺された痕を掻き、大口の脇に立つ。肉付きの良い唇は完熟した果実のようだ。腐臭が漂い蠅が集るので、俺はこまめに歯を洗っていた。今は午前中の食事が終わり、大口もだらしなく舌を垂らしたまま、昼寝と洒落込んでいる。
途方もなく遠くから聞こえてくる蝉の音。
「どういう理屈で、どうなってるんでしょうね」
山岡が大口を覗き込んだ。白みを帯びた舌とピンク色の口内に、生々しさを感じて身を仰け反らせる。
「はは、慣れないっすね。こいつは何時見ても」
「これは、土に同化しているんだよ」俺はデッキブラシの柄で唇の辺りを突いた。「口の中は洞窟にでもなっているのさ」
「でも、ちゃんとした生き物なら、消化器官があるはずよ」
妻の意見に、山岡は可笑しそうに微笑んだ。
「もしかしたら、ブラジルにお尻の穴があるかもしれませんよ」
「それなら二百メートルでは足りないだろう」
「ねぇ、そんな話はどうでもいいから、早く試してみましょうよ」
妻が袖を掴んで急かす。山岡がこのような機械を持ってきた意図を、俺は知りたかったのだが、なぜだか問い質す気にはなれなかった。奴のことだから単なる調査目的ということは有り得ない。妻のご機嫌を取ろうとしているのかもしれないし、怪異に対して無力な俺を、ただ笑いたいのかもしれない。
俺は昔から、献身的な態度の陰に隠れた山岡の、打算的な表情が嫌だった。こうして俺が無職となり、電力会社勤務の奴を見上げていると、嫌悪感をより確かに自覚できる。
こいつは俺を慕っているというポーズが好きなだけなのだ。
「あなたも、どう?」
妻が俺にアイスクリームを手渡す。
まあ、いいさ。俺はアイスクリームを嘗めた。差し当たっては、この大口を調べるのが先決だ。山岡や、妻のことは、それから考えればいい……もちろん俺の再就職先についても。
俺は妻の肩を抱き寄せ、妻はスルリと腕から抜け出る。
山岡が機械に電源を入れて、チューブの先端を引っ張った。モニターが作動し、土塊と雑草の画像を映す。それから間もなくして俺の顔に切り替わった。アイスクリームの棒を名残惜しく嘗めていた俺は、「間抜け面するなよ」と小さく呟いた。
山岡は顔に似合わず用意周到な男なのだが、それは仕事の上だけでなく、大口の調査にも存分に発揮された。奴の手際の良さを前にすると、俺などは男としての劣等感に歯軋りしてしまう。しかし、今は大口だけに集中しよう。機械のほうの準備は完了したが、もちろん、あの屈強な前歯でチューブを切断されたら元も子もないので、大口には猿ぐつわをしてもらうことになった。大口は好き嫌いのない奴だったが、そうはいっても食べられないものを喰うほど無節操ではない。
「チューブが入れば良いのだから、これで十分でしょう」
山岡が持ち出したのは、鉄パイプを箱状に組み合わせたものだった。これを大口に押し込んで、その隙間からチューブを差し込んでいく作戦らしい。しかし、それでも舌が邪魔になるのは避けられないように思えたのだが、山岡はその点にも十分気を払っていた。
助手席から取り出したのは、猟銃だ。
「これは、法を犯しているのですが」
麻酔弾を込める。
「本来は熊やイノシシに使う代物です。一発で効かないようでしたら、二発目を撃ち込みましょう」
「まあ、怖いわ」
銃を構えた山岡を、妻が不安げな面持ちで見詰めていた。そうだった。麻酔銃は良い手段だが、妻が身重であることを失念していた。ただでさえ不安定な心が、耳を裂く銃声によって悪影響を与えてしまうかもしれない。
「おい、山岡……」
目配せをすると、奴も自らの行為が適当ではないことに気付いた。
「すみません。軽率でした」
「いえ、良いのよ」
俺たちが気遣いうものだから、妻は逆に気丈になって、大口の横に立った。山岡が手に持つ猟銃を、撫でたが、その顔には彼女の強情な一面が露わになっている。こうなるとテコを使っても説得はできないので、俺は山岡に、
「早くやっつけてしまえ」
と言った。
猟銃を構える。
「じゃあ……いきますよ。耳を塞いでください」
「さっさと撃て」
俺は妻を抱き寄せて、目隠しをする。
山岡は銃口を大口の舌に向けた。
銃声は、思ったほどでもなかった。
突然の刺激に大口は驚き舌を尖らせた。荒々しくのたうつが、すぐに麻酔が効果を示し、痙攣した大口の舌が下唇にもたれかかる。間髪入れず俺と山岡で鉄パイプの箱を突っ込み、完全に拘束してしまった。抵抗が少なかったことが幸いした。俺は猿ぐつわをされた大口に手を伸ばし、舌先のぬるりとした感触を楽しむ。
空気も揺らめく気温に反比例した、味覚器官の冷たさ。
「気持ちよさそう」
妻が呟いた。
「おぞましいだけだ」
唾液に濡れた右手を見せると、妻は顔を赤らめて、俺の指先を嘗めようとする。人差し指の爪が妻の小さな舌に撫でられて、それは大口と同じ感覚だったが、俺は気分を害した。
「何を考えてるんだよ」
「ごめんなさい。つい、甘そうだったから……」
俺はタオルで手を拭きながら、妻の答えに鼻白む。
「あの……そろそろ次に移りましょうか」
「そうだな」
俺は山岡の指示に従いカメラを大口の中に差し込んでいった。異物を喉元深くに挿入されて、嘔吐感からか大口の歯がわずかに震える。白濁した液体が込み上がってきたが、真上を向いているために、ぶくぶくと異臭を漂わせただけで流れ落ちた。我が身に置き換えると、なかなかにゾッとする光景だった。一メートルほど入れたところで、山岡がモニターを俺にも見える位置に持ってくる。
画像は予想通りだったが、期待はずれでもあった。
「これは食道……ですね」
「ああ、俺の食道と大差ない」
テレビの健康番組で観たことがある。緩やかに蠕動する食道は、グロテスクではあったが未知のものというわけではない。妻も無言のまま、少し落胆していたが、すぐに気を取り直して、
「まだ一メートルでしょ?」
と言った。
「……先は長いからな」
俺は妻の頬を撫でながら、挿入を開始する。
医者であれば、こういう行為は日常茶飯事で、しかも患者に優しく接することが求められるのだ。彼らは尊敬に値する。俺は途中で絡まないよう慎重に作業を続けていたのだが、慣れないせいで集中力も途切れがちだった。
モニターの画像も、それが大口のものであるのか、人間のものであるのか区別がつかない。
徒労に終わるのではないかとも思ったが、ようやく十メートルを過ぎた辺りから変化の兆しが見えてきた。
最初は、肉壁から立ち上がる突起のようなものだった。
「動いていますね……」
モニターを凝視する。無数の突起がイソギンチャクように揺らめき、消化器官を下っていくカメラにまとわりついた。むろん俺たちの目を楽しませるためのものではない。その突起は大口が飲み込んだ食物を、さらに奥へと運ぶためのものだ。白く艶やかな突起は、先に進む程、太く長くなっていき、歪な文様が浮かび上がるものまで現れた。
「あの突起の先端、人の顔にそっくりだわ」
文様は黒く三つの斑点を持ち、苦しげに喘ぐ顔を連想させた。見慣れない異物に対処も分からず身を捩らせている、そうやってゾロゾロと蠢く突起に俺たちは顔を見合わせた。少しずつ人外の光景を露わにしていく大口の中に、期待感が高まっていたからだ。太陽の光を浴びて腕や額から煙が出そうになるが、山岡の用意したアイスクリームとスポーツドリンクを手に、ここから動こうという気持ちは微塵もなかった。
妻も、日傘を手にして、居間で休むつもりはないようだ。
「ああやって消化できるか消化できないか、選別とか認識をしているんですかね」
山岡が冷静に呟く。
大口の歯が鉄パイプの箱を軋ませていた。歯はあらゆる力の源であり、俺たちは大口の咬合力を甘く見ていたかもしれない。噛み潰されるということは現実的でないものの、ここはすでに「ありえない」場所なのだ。チューブを入れる速度を速めようとしたが、その時、玄関の方で呼び鈴が鳴った。
「誰かしら?」
迷惑そうに妻が振り返る。
「居留守でも使おうか」
「庭を覗かれでもしたら、後が面倒ですよ」
「……それもそうだな」
再び鳴った呼び鈴と山岡の言葉に促されて、俺は大口から一時だけ離れることにした。どうせ新聞の勧誘や回覧板などだろう。タオルで汗を形だけでも拭き取って、玄関に向かう。もしそうなら追い返すつもりだった。俺は気の抜けた返事を繰り返して、ドアを開けた。
「あ、ああ」
そこにいたのは、お隣の村田さんだった。
「何でしょうか?」
「あの……ペットの犬を探しているのですが……」
「犬、ですか?」
あの犬は、今頃大口の胃の中でよろしくやってることだろう。
大口の奥歯が村田さんの犬を噛み潰す。その光景や音や妻のカタルシスを得た顔は、俺の中で鮮明な記憶を保っていた。面白可笑しいのは、飼い犬の身を案じている村田さんの必死さが、たまらなく馬鹿馬鹿しいからだ。耳障りな犬が消えて、近隣住民も気が晴れ晴れしているのに。
気温三十五度の中、迷惑な飼い犬を探し回るなんて、暇でくだらない人間だ。
「犬が……いなくなったのですか?」
「ええ、ちょっと目を離した隙にいなくなったみたいで。どこかで、見かけたりしなかったでしょうか」
「犬ねぇ」
俺は興味がない素振りを見せるため、首筋を撫で、大きく息を吐いた。
「知らないです」
「……」
「いやぁ、お宅の犬がいなくなったなんて、初めて知りましたよ」俺は気怠く微笑む。「気を付けるように妻に言っておかないと」
「え?」
「私の妻は妊娠しているんですよ。もし、道を歩いていて犬に襲われたらどうするんですか。あなた、警察沙汰になっても責任をとれるんですか? この前も幼稚園児が野犬に咬まれるという事件があったみたいですし、新聞、御覧になってます?」
滔々と喋る俺に、村田さんは鼻白んでいた。穏和な口調と、強硬な態度を織り交ぜて、村田さんを精神的に叩いていく。俺は「警察」と「責任」の二つをことさら強調し、その顔が不快感と不安に染められていくのを楽しんだ。無言で佇む様を。
「何かある前に、見付かればいいですね」
「……ご迷惑をかけて申し訳ありません」
深々と頭を下げる村田さんを見下ろし、無職の俺が優越感に浸る。お前のバカ犬は、俺の妻が攫って、大人しくなるまでスコップで殴り倒し、この俺が殺した。そういうことを心に秘めて謝罪の言葉を聴くのは最高だった。
俺は村田さんを礼儀正しく送り返した。
時間はもう、真昼の最中。空気の揺らめく未舗装の道、とぼとぼと歩く村田さんの背中に、「二度と来るなよ」と呟きドアを閉める。今日は本当に、宮崎中で熱中症が溢れることだろう。軽い目眩のような感覚を、温い水道水を被って鎮めてから、俺は庭へと戻った。
「村田さんだったよ」
俺は妻に告げた。
「どうでもいいわ」
山岡と妻は食い入るようにモニターを見詰めている。
「これを……」
促されるまま俺も二人の間に加わる。大口に差し込まれたカメラは、俺が村田さんと話していた間に、かなりの距離を進んでいた。何があったのだろうか、言葉少なげな妻と山岡に問い質しても、確かな返事はなかった。
雄弁に物語っていたのは、モニターの方だ。
そこに映し出されていたのは、一輪の花だった。
カメラが到達したのは、よほど広大な空間であるらしい。
そして花は画面の大半を占めていた。肉色の花弁、爛れ、血管が浮かび上がっている。白濁した汁が蔦を滴る様も垣間見えたが、大口が庭に出現してからというもの、こういう光景には心構えができていたから、さほど「驚いた」わけではなかった。
ただ、この画像の前後関係には興味がある。
「なぜ、こいつの口の中に花が咲いているんだ?」
俺は疑問を口にしたが、それは他の二人にとっても同じだった。山岡と妻は、俺が庭から離れた後も、カメラを飲み込ませていったが、急に画面が不鮮明になったかと思うと、映像が切り替わったのだという。
顔の突起が蠢く食道から肉花が咲き誇る場所へ。
肉花は紫陽花みたく球を成していた。
「カメラを操作してみましょう」
山岡が機械の計器を睨んだ。原子力発電所の危険域を調査するためのカメラだから、先端を動かすくらいの機能は備えているというわけだ。目盛りを調節すると、モニターの画像が目まぐるしく変わり、花園の全景が映し出された。
蔓草に枝垂れる見渡す限りの肉花と、肉萼と、肉葉。
それらが揺れ漂う。充血し、膿に似たものが吐き出される光景は痛々しい。体内に風が吹いているとも思えないが、赤く爛れた花弁の左右する様は、奇妙なほど心を波立たせた。
「これは、モザイクが必要ですねぇ」
山岡が俺を流し見る。俺たちは三人とも十八歳以上なのだから、別に構うことはない、と答えたかったものの、妻の微笑みに殺されてしまう。なぜ妻は、山岡のくだらない軽口にも一々反応するのだろう。俺のことはほとんど意に介さないのに。
肉花の一つ一つの大きさは優に一メートルを超えていた。集合体としては紫陽花を連想させたが、個体としてのそれは、遠い過去の記憶に繋がった。
「昔、青島の亜熱帯植物園でラフレシアを見たことがある」
「ラフレシア?」
「南米のジャングルに咲く世界最大の花だ。牛乳の腐ったような臭いがして蠅が集る。ガラス張りの温室はラフレシアの腐臭が充満して、三人に一人はゲロを吐いていた。そいつを思い出した」
「私との、二回目のデートの時よね」
ポツリと吐き出された妻の言葉に、俺は俯いてしまう。降り注ぐ紫外線は首筋を焼き、水分が消費されていくのを実感した。目を閉じると、地面の角度が捩れていくようだ。庭を我が物顔で歩くアリの行列を、踏みつぶし、通行税を払え通行税を、と思う。手を伸ばし、スポーツドリンクで、咽を潤す。
村田さんを相手にしたとき感じた目眩が強さを増していた。頭が熱を帯びて、足下がとても不安定に。
「大丈夫ですか?」
山岡が声を掛けてきた。
俺は頭を振る。
「……少し、疲れているんだ」
「あなたは休んでてもいいのよ」
「平気だよ」
「でも……」
「何度も言わせるな」
俺は語気を強めたが、妻の「場の空気を読め」的発言にむかついて、土を蹴った。お前らの都合通りにことが進んでたまるかよ。だが、山岡は顔を伏せ、妻は日傘を涼しげに回している。俺の怒りはかなりのものだったが、こうなっては空転するしかない。つまらない言い争いは止めましょう、と諭されているようで、疎外感から忸怩たる思いに駆られてしまう。
何なんだ、俺は。
くだらない。
ネガティブな思考ばかりが募るが、山岡がこの場を取り繕ってくれた。
「まあまあ、どうやら下にも空間が広がっているみたいですよ」
「じゃあ、先に進めよう」
俺は大口に唾を吐いた。ただ愛情を抱く妻とは違い、俺は複雑なのだ。
肉の花園は円錐状になっていて、中心には次の器官に繋がる穴が開いていた。ここまでくると俺や妻が与えた食物が、花弁の上にそのまま転がっていたりする。すぐに消化されると思っていたのだが、これは一度食物を蓄える部分であるということなのだろう。もちろん大口は口だけしかなく、素早く獲物を仕留める肉食獣とは対極の存在であるから、こういう貯蔵庫のような器官は必要不可欠なのかもしれない。
画面の隅に、村田さんの犬の死骸が転がっていた。
大口の歯に粉砕された肉塊は、一見しただけでは判別し難いものに変わり果てていたのだが。妻に小声で尋ねても、確かに村田さんの犬だという返事があった。
ああ、しかし、円錐の穴に向かうほどに、大口が食したものが映し出されていく。
「死骸、死骸、死骸……」
割れた頭蓋の内容物を嘗めるように、チューブカメラは横切った。切断された獣の足、腸の塊のようなもの、アフリカ象やバッファローの骨、生きたままの大蛇が這い回る場面にも出会した。枝垂れた肉花と肉壁から染み出す白濁液が雨となり、流れを作る。
「カメラをどこに向けても死骸ばかりだ」
「普通のことだろう。俺もお前も、死肉を毎日喰うのだから」
穴に近付くにつれて、画像は上部の肉花と下部の死骸に二極分解しつつあった。俺はモニターを熱心に見詰め、どこかに幼稚園児の死体がないか探した。酷暑の中で立ちすくむ、俺と小さな靴と微笑む妻。あれが白昼夢だったと納得しておきたかったのだ。妻に言えば鼻で笑われてしまうだろうが。
「この先には何があるのでしょうか?」
「きっと、ここよりも凄いはずよ」
溜息を吐く妻の頬が朱に染まっている。
俺は心配したり、嫉妬してばかりだ。
俺は宮崎県を支配する、絶対的な太陽を仰いだ糞野郎。背中に感じる熱風は生命の証である腐敗臭を運び、どこまでも高く上昇し続ける気温と共に、俺に嘔吐感を強いた。「ここ」より凄い場所が他にあるというのだろうか? 俺は狂おしいほど呼吸に意識を傾けていた。温かな空気を肺に溜め込み、山岡と妻を鈍器で殴り殺してしまいたい。
誰にも悟られず想像した。
露骨な映像で示されなくとも、世界が死骸だらけなのは常識だから。
モニターが五円玉を映しだしている。
旧石器時代の貨幣のように巨大な五円玉が、地面を覆い尽くし丘を形成していた。金色に輝く稲穂の文様が、優しい光の波を受けて、波打つようだ。それが果てしなく広がっている。肉の花園は確かに広大だったが、それはあくまでも空間の概念での話だ。大口に原発用の胃カメラを差し込んで、百メートルを経過していたが、モニターの映し出す映像は体内などではなく、全く異なる世界だった。
モニターを山岡が叩く。俺は小声で質問したが、この機械がテレビカメラの機能を有していて、その映像に切り替わったということではなかった。確かに大口に差し込んだカメラの映像だ。山岡は俺と妻に伝えたが、その表情は硬直していた。
五円玉の広がる丘を縫うように、乳白色の河が流れている。肉の花園の穴から降る雨が、河を汚しているのだ。カメラを操作すると、遠くから黒い点が広がっていくのが見えた。虫みたいなものが、五円玉の穴から大量に這い出しているようだ。
虫じゃない、と妻が言った。
カメラの精度を拡大していく。あるところから、俺にも黒い点の正体が分かった。それは走り、叫び、戦っていた。このような場所が存在するとは思えない、と俺は言ったが、妻と山岡も同じことを感じていたようだ。あまりのことに思考も麻痺して、戦慄することしかできない。かつて、トマス・ホッブズは法のない世界において人間は生きるために「万人の万人による闘争」を開始すると著した。五円玉の大地が黒い点の殺し合いによって、血に染まっていくのは『リヴァイアサン』の光景そのものだ。
見るだけでも罪深い、と俺は声を絞り出す。
錆びた凶器を振り回すのは、年端もいかないこどもたちだった。
全身に入れ墨を施された裸のこどもが、全方位的な戦争をしていた。乳白色の雨が開始の合図となり、濁った河が瞬く間に朱に染まる。目的も意味も理由もなく、五円玉の穴からこどもたちが続々と這い出して、思い思いの殺戮を繰り広げていた。カメラが偶然、少年Aが腸を露出させて、それでも手に持った包丁で少女Bの背中を突き刺していく場面を映しだし、急に立ち上がった山岡を庭の隅で嘔吐させた。
「ここはどこなのかしら?」
「五円玉があるってことは、日本だろう。あれだけの量があるとすると、どこかの銀行か、それとも造幣局か……」
「銀行や造幣局では、こどもは殺し合いをしないですよ」
顔を顰めたまま戻ってきた山岡が、俺の冗談を真面目に否定する。
「ここは地獄なんだ」
「落ち着けよ」
山岡は喉元のネクタイを緩めた。俺の言葉に余裕を取り戻したのではなく、妻の前で取り乱した姿を見せたくなかったのだろう。苦虫を噛み潰した表情の山岡に、妻がすっと麦茶を差し出した。もし仮に、ここで俺が奴の真似をしたとしても、妻は素知らぬふりをするくせに。
お前は大人気で、ハリーポッターみたいだな。
モニターで繰り広げられる大殺戮、血と肉が飛び交う映像などは現実感が無さすぎた。こういう光景も、アフガニスタンや中央アフリカでは割合普通なんだろうな、と思ったりするが、宮崎県にいて世界情勢に思いを馳せるのもナンセンスなことだった。
「なあ、山岡、もう良いじゃないか」
俺は自らの影に視線を落とした。
「こいつの口の中がどうなっているのかなんて、調べても無意味だと解ったよ」
「でもですね、これは大発見ですよ」
「だからなんだ。お前が中に入るのか?」
もう暑さに耐えるのも限界だった。早く、居間に戻ってビールでも飲みたかった。山岡の目に微少な敵意が宿る。俺は大口の調査にも飽いていたから、険悪になりかけた雰囲気も楽しく感じていたのだが、この状況を遮ったのも妻の一声だった。
「見て!」
モニターを指差す。
五円玉の丘の向こうで、何か巨大な影が蠢いていた。
「なにかしら」
「……あれは、怪獣だ」
興味もないのだが、俺は言った。禍々しい巨大な影は、殺し合いを演じるこどもたちを踏み潰しながら、その姿を明らかにしつつあった。ゴミみたいに潰れていくな、と俺は鼻で笑い、クーラーボックスから新しいアイスクリームを取り出した。他を圧倒する正方形の肉塊が、ごろごろと転がりながらこちらに向かってきている。人間の目と、鼻と、耳と、毛に覆われた生き物だ。腕と足は退化したのか、朧気な痕跡だけが残っていた。口だけがないみたいだったが、正方形の顔は苦しみに悶えるように泪を流し、震え、のたうち、モニターいっぱいに怪獣の肌色が広がると……
突然、モニターが何も映さなくなった。
「どうやら、潰されたみたいだな」
と、俺は呟く。
山岡は目を丸くして、呆けたような声を漏らしていた。安い物ではないのだろうが、奴が勝手に持ってきて、勝手に使ったのだから、俺の知ったことじゃない。後の処理を任せると、妻の手を取って居間へと戻った。蚊取り線香の臭いが、妙に涼しさを感じさせてくれたが、妻は極度に体力を消耗してしまったのか、俺の肩にもたれかかり、そのまま寝入ってしまう。
壊れた胃カメラを大口から引きずりだし、山岡が俺の元に来た。
「凄い光景でしたね」
「ああ、凄い光景だったな」
「長谷川さんは、眠っているのですか?」
「今日は無理しすぎたからな」
山岡が申し訳なさそうに目を伏せる。
「そんな表情をするなよ。妻が心配するだろうが」
「はあ、すいません」
俺は妻を後ろから抱きかかえ、濡れタオルで汗を拭ってやった。こうして俺の意のままになる妻は愛しいと思うのだが、目を覚ましたら俺の手を離れてしまう。昨今は、その距離も目に見えるようになって、歯痒いばかりだ。こんなに愛しているのに、なぜお前は応えてくれないんだ。居心地の悪そうにしている山岡の前で、俺は妻の胸を揉み、唇を首筋に這わせていった。
「山岡、こいつは俺のものだよなぁ?」
「先輩は長谷川さんと結婚していますよ」
「山岡、いいものを見せてやる」
妻の唇に、俺の唇を押し付けて、三十秒もそのままでいた。
それから俺は、
「帰れ」
と、言った。
村田さんが今日も家に来て、あの犬のことを尋ねてくるので、俺は正直辟易していた。
この大変な時期に暇人の相手をするのは、どうだろう、徒労の中の徒労だった。俺は妻に対応させておいて朝寝と洒落込む。耳を傾けると、身重の妻は村田さんに優しげな言葉を掛けていた。お前が主犯格だろう、と思ったのだが。畳の熱によって肌が痺れていくのを無気力に感じつつ、妻に欠伸をしてみせる。
「帰ったわ」
「村田さんが大口を見たら、厄介だな」
俺は身体を起こした。
「いなくなったほうがいいんじゃないか?」
「何を期待しているの?」
戯けて肩を竦めると、妻も柔らかく微笑んだ。悪ぶった言動のときだけ、妻は俺に注意を向けてくれる。例えば犬がいると伝えて、庭に誘い込むとか。あのバカ犬をBMWかダイアモンドみたいに大事にしていた村田さんのことだから、きっとこちらの思惑通りに動くだろう。庭の大口を見て、叫び声を上げるかもしれないが、うるさいときは犬と同様殴って黙らせてしまえばいい。
なぁ、お前もそう思うだろ?
「悪い人、殺しは犯罪よ」
非難するようでいて、実際は生き生きとした口調に俺は奥歯を噛み締めた。今まで間違いのない生き方をしてきたというのに、妻との会話が楽しくて仕方なかった。無職でいると、自分が要らない人間だという意識が強くなり、思考が極端な方向に進みがちになってしまうようだ。
妻が余所行きの服に着替えていた。
「何をしているんだ?」
「今日は、検診日よ」
「ああ、そうだったな」妻は市街の産婦人科医院に通っている。「送り迎えは?」
「いいわ、いつも市営バスを使っているから」
「そうか。まあ、気を付けて」
妻は俺を一瞥し、そのまま出掛けていった。一人で家にいるのは、余計なプレッシャーを感じないから大歓迎だ。とりあえず歯を磨き、髭を剃った。ふと洗面台の小さな窓から、車が垣間見えて、俺は小首を傾げる。啓示は時として路傍の花に宿る、とはカポーティによる格言だった。妻の表情が瞼に焼き付いて、煩わしくも反省した。そう、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。今日こそはハローワークにでも行ってみることにしよう。後、一時間してから。
俺は畳を転がり、大きな溜息を吐くと、ついに意を決した。
皺の入った背広に袖を通すのは何日ぶりだろう。靴を履き、家を出たところで寝癖が残っていることに気付き、手串で何とかする。
ここ宮崎県でも、ハローワークは「職安」と呼ばれていたかつてと違い、コンピューターを中心にした環境が整っていた。しかし何度か通えば気付くのだが、求人などは千差万別というわけではないのだ。検索件数が百あったとしても、まともなものは一つあるかないか。十五分もすれば椅子に座っていることにも飽きてきて、何もかもが無意味に思えてくる。
ここにいて悟りを開くことがあるとするなら、十年働いた俺に社会的な需要はなく、隣の席のおちゃらけたガキにはそれがあるという不条理だ。福岡にでもいれば状況は違うのかもしれないが、ハローワークは俺の宮崎県に対する退廃的なイメージを補強するだけだった。
こいつら、日本の将来を本気で考えてるのか?
忌々しい。
俺は求人票をプリントすることなく、ハローワークを出た。
歪む太陽に舗道は乾き、街路の椰子は枯れていた。分厚い熱を帯びた空気に、目的を持って行動するというモチベーションも風化してしまう。どこかで休憩したいと思った俺は、財布を覗いてみて、四百円しか手持ちがないことに愕然とした。銀行にはまだ金が残っているはずだが、無職になった日から通帳やカード類は妻の手に渡っていたので、今の俺は無一文に限りなく近かった。
……暑い。
久しぶりに街を歩いたので、雑踏に目眩がする。ベンチに腰掛けると、目の前を右翼の街宣車が猛々しい音楽を撒き散らしながら、通り過ぎ、ここには居てられないと動けば「高速道路は絶対建設しなければなりません」と演説する政治家がいた。高速道路、どんどん作ればいいじゃないか、気が済むまで。それで日本が破綻して、みんなが俺の位置まで落ちてしまえば万々歳だ。
当てもなく彷徨うのに疲れた俺は、学生時代を思い出し、非合法の血液銀行に足を向けた。繁華街の裏路地、パチンコ屋とキャバレーに挟まれた集合住宅。その地階に、民間療法に使うための血を売買している診療所がある。同じ境遇の人間が待合室には何人もいて、番号札を渡された俺は十五分後に三百ccの血を抜かれた。衛生面に問題はない、と最初に説明されるのだが、どうだか知れたものではない。
俺は三千円を受け取ると、地上に出て、パチンコ屋に入った。三十分ほどスロットを楽しんだが、勝ちも負けもせず、近くの定食屋で天ぷら御膳を食べた。あの大口は、今頃、俺の庭で何をしているのだろう。あれは食うことと昼寝しかできないのだから、そのどちらかであるのは自明の理なのだが。
妻は、何をしているのだろうか?
産婦人科の検診に行ったはずだが、それは俺の希望的解釈にすぎない。あの洗面台から見えた自動車は、山岡のものに似ていたが、そういう疑念にはきりがないと思いたかった。俺は自分のことにも、妻のことにも興味をなくしつつあるようだ。そういえば妻の腹には俺の子がいるらしい。山岡などは知ったことじゃない。どうでもいい、目の前の天ぷらの味に比べれば。
街を歩いていると、周りの人間が皆、刺激と反応だけで社会を生き抜く獣に見えた。思索的な行動をしているのかもしれないが、きっと、可能性は低いだろう。この俺だって同じなのだから。市場に行き、陸の動物ばかりでは健康に悪影響があると聞いていたので、残った金で鰹を買った。
もちろん、大口に食べさせるためだ。
「地方経済は日ごとに厳しくなっていて、聞こえてくるのは悪い話ばかりです」と山岡は言う。「昨日はどこどこの会社が潰れたとか、昨夜はあそこの社長が自殺したとか、構造改革だか規制緩和か知りませんが、ほとほとウンザリしてしまいますよ」
「仕方ないだろう、今のままじゃあ立ち行かないのだから」
「まあ、そうなんですけれどねぇ」
茶を啜りながら世間話をしていたが、俺と山岡の視線は大口に固定されていた。
山岡は仕事の愚痴を喋りに来たようだ。上司の無理な命令に苦労しているとか、取引先の誰々との反りが合わないとか。俺にしてみれば、そのような悩みは人並みの生活をしている人間の証のように思えるのだが、奴にとってはそうでないらしい。それは、無いものねだりというものだよ、と忠告した俺に、山岡がしおらしく頷く。
今日も気温は四十度を超えていた。瞼を閉じたときこそ太陽の力を如実に感じる。庭に出たところで体力を消耗してしまうだけなのだが、俺や妻は大口に魅了されて、食事の世話をしたり歯を綺麗にした。職を失ってしまった俺にとって、こいつは唯一確かなものだった。妻の愛も、山岡の台詞も、真夏の気温も、俺の再就職先も、全てが嘘偽りだとしても、大口は庭に佇み続ける。
俺はデッキブラシでこいつの歯を磨いた。
「毎日しているんですか?」
「ああ、働いているって気分になれるからな」
バケツの水を浴びせ、歯と歯茎の間の歯垢を取り除いていく。
「以前よりも歯茎が艶やかだろ? ブラシでマッサージしてやってるからな。歯周病対策だ。歯と歯の間も気を付けないと。後、舌も極力洗うようにしいる」
「口内炎とかは?」
「ないよ。俺の口よりも綺麗なもんだ」
山岡の視線はデッキブラシに向けられていた。
意地悪く微笑む。
「なんだ、お前もしてみたいのか?」
「あ、気付きましたか……ははは」
「リストラされた人間から、これまで奪おうとするなよ」
俺はデッキブラシを投げ捨てた。バケツは蛇口の下へ。ばつが悪そうに頭を掻く山岡に、何もかも得ようとすると何もかも失うものだ、と警句めいたことを言おうとして、やめた。
それにしても、妻がいないときに山岡が来るのは珍しい。
見込み違いだったのか、それとも目的があってのことなのか。この暑さにもかかわらずクーラーが壊れているので、妻は身体を労るために、近所の喫茶店で休んでいた。あと二時間は帰ってこないだろう、と山岡に教えたのだが、別段気にした風でもなかったので拍子抜けしてしまう。
まあ、それならそれで構わない。
「就職の方は、上手くいきそうですか?」
「いいや、本当は選ぶ余裕もないんだが、どうしてもな。妻に、俺の躊躇はスティグマだって言われたよ」
「先輩の卒論のテーマでしたね」
「俺は忘れていた」
そういえば、妻の卒論のテーマも記憶になかった。山岡に訊けばおそらく思い出すのだろうが、得意面した奴に「長谷川さんの卒論は『レニ・リーフェンシュタールに観るフェミニズムの変遷』ですよ」とか言われるのは不快だった。
かつて妻に、
「あなたは不器用なのよ」
と指摘されたことを思い出す。確かにそうだろう。俺は楽な生き方や選択ができない性分なのだ。学生時代はそれが俺の魅力でもあったが、今では重い足枷となっている。山岡のように世渡り上手な人間に敵意を感じ、バス停で肩を寄せ合う男女を見かけたら殴り殺したくなるほど、俺は自分自身に行き詰まっていた。ハローワークに行っても、ただ椅子に座っているだけの俺に。
労働力として社会に見限られ、妻とのコミュニケーションも図れず、将来の展望もない。背負うものは大きく、それは理解しているから、逆に現実から逃避することばかり目論んでしまう。俺には二本の足があるが、地面に張り付く大口よりも、束縛されているのだと今更ながらに思い知った。くだらないが強靱な鎖に。
「こいつ、なんで叫ばないんだろうな」
「え?」
「いや、俺がこいつの立場なら、四六時中叫んでいると思っただけだ」
山岡は腕を組み、大口の周りを歩いた。
「おそらく、存在を知られたくないからでは?」
「誰に知られたくないんだ?」
「私たち以外に、ですよ」
曰くありげな言葉の応酬に、俺と山岡は自嘲する。
確かにこれが世間に知れ渡るのは、大口にとっても俺たちにとっても非常に困るのだ。打算ではなく、大口を世話しているという自負が、他の者に邪魔されたくないという気持ちの根源だった。妻の執着は山岡も認めるところではあるが、俺のメンタリティだって勝るとも劣らない。
半開きの口に蠢く舌は扇情的だ。
俺は咽の渇きを覚え、冷蔵庫から缶ビールを出した。
「ほら、お前の分だ」
「いえ、運転してきていますので……」
「飲めよ。どうせ汗になる」
人が悪いとは認識していたのだが。
俺は咽を鳴らしてビールを飲み、濁った息を肺が空になるまで吐き出した。二酸化炭素が温暖化の原因だとすれば、俺はそれに一役買っているわけだ。山岡は一口飲んだだけだった。それから学生時代のことをつらつらと喋ったが、あまり話が弾まなかったので、山岡がカバンから書類の入った封筒を取り出した。
「それは?」
「クーラー、治したいでしょう? これから稼ぎも必要になるでしょうし」
日が傾きかけ、山岡は妻を待たずに帰った。いつも思うのだが、俺の家で時間を潰して、仕事などに支障はないのだろうか。そして封筒を手に玄関先まで奴を見送ると、そこには偶然にして村田さんの姿もあった。俺は最低限の礼儀を守って頭を下げたが、村田さんはフラフラと覚束ない足取りで通り過ぎていく。バットがあれば礼儀の大切さを教えてやったのに、残念だ。夏も四時を過ぎれば暑さも薄れ、庭に打ち水をした俺は団扇を片手に蝉の声を聴いた。風呂を沸かし、熱いお湯で汗を洗い流すことを想像したが、それは妻が帰ってからで良いだろう。
俺は封筒の中身を見た。
中身は不動産関係の書類だった。
宮崎電力が俺の家の土地を欲しがっている、というのは大口の活用法を山岡が見出したからなのだろう。書類に提示された金額は、俺が汗水垂らして得る生涯賃金以上のものを保証していた。俺をリストラした会社が、一ヶ月に稼ぐ純利益よりも多い。妻が近くの喫茶店から戻り、夕食の準備をしている間、金のことばかり考えていた。
金とは、つまり給与明細や小切手に書かれる数字だ。重要なのはその先にあるイメージだろう。一人では使い切れないほどの大金を手にして、何をするか、何を買うか。俺はオーソドックスに世界一周旅行などを思い浮かべたが、それよりも新しいクーラーを買うことのほうが魅力的な気がする。
しかし、自分の小市民的な発想に点数を付けるなら20点だ。
妻が作った肉じゃがと湯豆腐を、俺は久しぶりに味わった。
「なあ、金のことなんだが……」
「失業保険だけだから、余裕はないわ。でも、あなたが就職するまでは遣り繰りするから」
「食費が増えたからなぁ」
俺たちは苦笑した。子供が生まれる前に、ああいうものが現れるとは思わなかったから。
食卓を囲む雰囲気は和やかだった。
おそらく大口という秘密の存在が、俺と妻の気持ちを繋いでいるのだろう。あまり感じられなくなった、この空気は嫌いではない。蚊取り線香の臭いは、居間の静けさにシンクロしているようだった。肉じゃがを食べ終えた俺は「ごちそうさま」と言い、皿を自分で片付ける。妻は畳を撫でながら映画のテーマ曲を口ずさんでいた。
それは『未知との遭遇』だね。
今日、山岡が来たよ。俺は言った。
「そう……」
妻はこれといった反応を示さなかった。
暗闇の先で眠る大口は、俺と妻の関係をどう思うのだろう。あれに知能がないのは承知しているが、人はとかく身近なものを擬人化したがるのだ。
「村田さんにも会った」
「あの人、旅行に行くって言ってたわ」
ポツリと妻が呟く。
「へえ、犬を探すのは諦めたのかな」
「どうかしら。あまり深く詮索しなかったから」
蛍光灯に寄り集まる羽虫を見詰め、俺は山岡の提案を妻に打ち明けるか迷っていた。この家と土地の権利は俺の名義になっているから、勝手に決断しても良いのだが、せめて子供が生まれるまで保留すべきではないだろうか。いつまでも大口の世話をしているわけにもいかない。ただ、俺にとっては何が優先すべき事柄で、何が守るべきことなのか、その順番すらも曖昧になっていた。
妻の肩に手を伸ばすと、拒否されずに体重を預けてくれた。妊娠した妻の身体はとても繊細だった。膨らみかけた腹を撫でると、妻の頭が敏感に震え、声にならない息が鼻から漏れる。俺は家長で、この家と、妻と、生まれてくる子供を守らなければならない立場にあるのだ。耳を傾けると、妻の鼓動や呼吸が、そのことを教えてくれた。
愛しさを感じ、謝罪したいと思う。
「苦労かけたな」
「別に、辛くもないわ」
五分もこのままでいたら、俺は愚かさを極めただろう。
妻に、今日の出来事と、宮崎電力がこの土地に興味を示していることを告げた。山岡が持参した封筒を渡す。周囲に水田しかない我が家に付けられた法外な金額は、そのまま大口の価値だと言えた。俺は妻が望むのであれば家を売った金で宮崎県を離れ、福岡の百道辺りに新居を構えても良かったし、逆に大口が大切なら山岡の提案を蹴るつもりだった。
俺は決定権を委ねることで、妻に日頃の罪滅ぼしをしたいと思っていたのだが、
「どちらでもいいわ。あなたが決めて」
と言われてしまった。
決定権を譲るのではなく、妻の望む選択を俺がしてほしいということなのか。ビールを飲み、アルコールを含んだ視線で妻を見詰める。俺と妻の関係は、今や大口の上でしか成り立たないのだから、山岡の提案に応じたとして、これからも仲睦まじくやっていけるのだろうか。不安が芽生える。湯船に浸かり、天井から落ちる水滴の冷たさを数えつつ、そのことばかり思案した。
金、は咽から手が出るほどほしいのだが。
これは周到な罠だと俺の悪魔が警告した。実は妻と山岡が示し合わせていて、この土地を宮崎電力に売り払った直後に、離婚を持ち掛けられる。妻は慰謝料を手に入れ……そこから先は俺の不安が現実のものになるという寸法だ。何を馬鹿なことを、と笑って済ませられるものならそうしたいが、あながち荒唐無稽であるともいえない。
お前は俺を愛しているのか?
言葉は確認するための手段だが、これほど不確かなものも他にはない。信頼が失われたとき、言葉の真実もまた見失う。だから結論は先送りにするべきだと、俺は結論づけた。時間は腐るほどあるのだし、俺には冷静になるだけの余裕が必要なのだ。
電気を消して、眠りにつく。田舎の夜を騒がすのは、ウシガエルの唸るような鳴き声だ。
馬鹿野郎、ここで躊躇うな。
俺は何度も眠り、目を覚ました。書類に書かれた金額、俺が一生働いても手に入れることができない桁数、人生を一新するチャンスは、これっきりかもしれない。迷うことはない。札束を抱え、何もかも忘れ、妻ともう一度全て遣り直し……
クスクスと、笑い声が聞こえた。
手を伸ばすと、そこにいたはずの妻は布団の温もりだけになっていた。
ウシガエルの鳴き声に紛れて、微かだが妻の声が聞こえる。トイレに行ったにしては奇妙な胸騒ぎがして、俺は起き上がった。
なぜか目覚めたことを悟られたくなかったので、物音を立てないよう畳を這う。妻の息遣いや声は、寝室の外から聞こえていた。襖は開いたままだ。そのまま通り抜け、廊下をつたい居間を目差す。
これはいつかの夢の続きなのか、それとも再現か。
俺は妻がどこにいるのか、ある程度は予想が付いていた。もちろん居間などに一人でいるわけがない。トイレにいないことを確認して、顔を洗い、深呼吸をする。暗所に目を慣らし、気配を殺して向かうのは大口のいる庭だった。
身を伏せて、暗闇を伺う。
わずかな風が、ガラス戸の隙間から俺の頬に当たる。日中は一つもなかった群雲が、今夜に限って空を覆っていた。妻の笑い声は、聞こえるようで聞こえず、もどかしさを感じてしまう。あの大口がいる場所を、俺は凝視したが、月明かりもないため朧気な影しか確認できない。
何をしているんだ。
俺は息を飲んだ。あそこにいる影が妻であると分かっていながら、彼女の行為を見たいという気持ちと、絶対に見たくないという気持ちが拮抗していた。
感情の高まりを押し殺した声が、乱高下して俺の鼓膜を刺激する。雲の隙間から月が現れ、光が大口と妻のいる庭に差し込んだ。舌を伸ばした大口の上に、妻が跨っている。俺は反射的に顔を背け、だが瞼に焼き付いた光景に我慢できず、再び妻の姿を見た。巨大な舌を椅子代わりにして、腰を沈めた妻の顔は紅く火照り、吐息や視線や背骨の仰け反る様が、俺の心臓に鋭く突き刺さる。そして、動けない。何をしているんだと糾弾すれば、全てを失ってしまうと耐え忍ぶ。必死に理性を働かせ、理性を失っている妻を覗き見る俺は、醜く情けない男だった。妻の嬌声に、一つ一つ肩を震わせた。分かりたくもなかったが、妻は大口に排泄し、その後始末を舌にさせていたのだ。
死にさらせ、なにもかも。
俺はもう、これが夢であることを願い、寝室に戻ることにした。あのような光景など望んでいなかった。明日になって、酷い悪夢を見たものだと欠伸をし、自己の変態的な劣情を反省する、それで丸く収めようじゃないか。俺は目を閉じて眠ることを努力した。いつまでも意識は醒めたままだったが、やがて妻の足音が聞こえ、俺の横に寄り添った。心臓の鼓動や、汗が、気付かれでもしたら、俺はお前の首をへし折るかもしれない。
「あなた、ごめんなさい」
妻は唇を寄せた。
「あなた、愛してる」
彼女の舌の甘美な味が、俺の唇に遊び、接吻がいつまでも続く。暗闇の中で。そして、俺は意識を失うまで妻を感じた。最後には妻の全てを受け入れ、妻は俺を少しだけ受け入れると、これが「混沌」の一言で表現できると思い知り、夢に繋がる穴に落下する。
そこは子宮だった。
俺がいる場所を二つの言葉で表現すれば、まずは「太陽」次に「血」だ。語るべき事柄は沢山あるが、妻の指示に従う方が優先されるので、午前中は思考らしきこともしなかった。旅立った村田さんの代わりに俺が家の片付けをして、都合が悪いものは全て捨てた。勝手すぎるかとも思うものの、まあ、時には利己に徹する必要だってあるはずだ。
とりあえず庭の大口を見下ろして「御機嫌よう」と呟いた。旅先で、飼い犬に巡り会う幸運を願って。
俺は大口の側から離れることができない。この舌が妻を犯したのだ。
湧き上がる嫌悪の情は、やがて心を癒す親近感になる類のものだった。核戦争が起きたとしても、そんなことはどうでもいいんだ、どうでも。日課である朝の歯磨きを済ませ、ただ佇む俺に、山岡が軽薄な視線を向けている。馬鹿のふりをするのも、馬鹿さ加減を認識するのも、今日までだ。
終わりに向けて、俺は山岡に結論を告げるつもりだった。
「あの書類には目を通したよ」
「そうですか。悪い話じゃないでしょう」
「だが、高すぎないか?」
「気にすることじゃないですよ。こいつは……」山岡が大口に飲みかけのコーラを注ぐ。「こいつのおかげで、我が社が長年悩んできた問題が解決できるできるかもしれないのですから。先輩には、電力会社が抱える悩みは理解できるでしょう?」
「核の、ゴミか」
「御名答」
山岡が満足げに頷く。
日本では原子力発電所で使用された核燃料は、プルトニウムやウランを抽出した後で高レベル放射性廃棄物として、地下深くに保管することになっていた。核燃料をリサイクルして普通の原発に再使用するのはプルサーマル計画と言い、再処理は青森県の六ヶ所村で行い、核のゴミである高レベル放射性廃棄物についても、その最終処分場には幾つかの候補地が取り沙汰されていた。だが、高速増殖炉「もんじゅ」の事故や、プルサーマル計画の検査データ捏造などの問題によって、原子力行政に対する信頼が低下してしまい、現在は事実上の凍結状態にあった。
「つまり、我々は処分したくてもできないゴミを、いつまでも後生大事に抱えているんです」
その解決策が、我が家に出現した大口だった。
確かに異世界へと通じる大口なら、核のゴミの処分も困らないだろう。あの胃カメラで調査した限りでは、そういうものを永久に捨てられるほどのキャパシティーがあった。宮崎電力の技術で大口を世界の核処分場にする、と山岡は壮大な計画を語った。やがては放射性廃棄物だけでなく、兵器や処分に困るゴミなども捨てる。そうなれば、宮崎電力は巨万の利益を得ることができるのだ。
俺も宮崎電力の孫会社に勤めていた手前、その程度は思いつく。
「悪い話ではないでしょう。提示した金額が不満なら、幾らでも交渉の余地はありますよ。もし土地を手放すことに抵抗があるのなら、賃貸契約してもいい。一生生活には困らないはずです」
俺は山岡の熱弁を黙って聴いていた。
金、それで全てを解決しようという思惑は、分からないでもない。奴はサラリーマンだし、サラリーマンの考え方には俺も長年慣れ親しんできた。だがここは、太陽が支配する国、宮崎だ。会社にリストラされ、血に親しみ、妻の背徳をこの目に刻みつけた今となっては、日本銀行券など便所の紙にも等しいクズだった。金の魅力など問題にもならない主義思想に、俺も妻も染まっていた。
奴には理解しがたいだろうが。
俺は微笑んだ。
「なあ、話は変わるが……」
わざと視線を逸らしたまま、山岡に対峙する。
奴の目に、俺の姿はちゃんと「まぬけ」に映っているだろうか?
「お前、あいつと寝ただろ?」
「はい?」
「言えよ。今更、白を切っても、つまらない」
肌着のままだと暑さの隙間に思いもかけない冷たさを感じる。冷たさは、俺の心に巣食う何かだった。その正体を俺は知らないし、山岡では見当も付かないだろうから、笑う。俺の予想通り、奴は狼狽や怒りといった反応は示さなかった。
これは俺の忍耐を計る試練であり、一種の賭なのだ。
山岡が悪びれたように「なんだ気付いていたのですか、なら話が早いや」と舌を出す。俺を人生の敗北者と侮蔑し、嘲るのに奴の顔面はなんと適していることか。不倫という行為に及び、それが亭主の知るところとなっても、瑣事でしかありえない。俺はそういう宮崎電力の営業マンが語る主張を、一度で良いから拝聴したいと思っていた。
二度や三度はゴメンだが。
「先輩、そろそろ現実を見てくださいよ」
奴はそう切り出した。
「……ああ?」
「強がったって、先輩、あなたは結婚相手一人養うことができない男なんですよ。これ以上、情けない身の上で滑稽な真似をしないでください。どうせ、宮崎県にいてまともな再就職なんてできやしないんだ。汗水垂らして道路工事でもする覚悟がないのなら、少しは家庭や生まれてくるお子さんのことを考えて、保険金でも残す算段をつけたらどうですか」
俺は自分の下唇を噛んだ。立ち竦み。
鼻で笑う山岡の手には、スーパーで買った肉が握られていた。大口に与え、その旺盛な食欲に何度も頷く。自らの絶対的な優位を確信した山岡は、もはや妻との情事を話すことを躊躇しなかった。むしろ積極的に、事細かな描写を織り交ぜていく。妻が左肩を嘗められると喜ぶことを、楽しそうに喋り、俺を相手にするときは演技が大変みたいですよ、と指摘した。
「長谷川さんは、あなたの愚痴ばかり話すんですよ、枕元で」
山岡の言葉は、格下の人間を嬲り殺すためのものだ。
覚悟していたとはいえ、込み上げる負け犬の感情に膝が震える。
「妻は、妊娠して……」
「ああ、そんなこと、当然知ってますよ」
「それを知ってて!」
「先輩、先輩、先輩。僕はちゃんと先輩のことを考えてあげてるじゃないですか」
山岡が耳元で囁く。
「ほら、この土地を売り払った金で一生幸せに暮らしてくださいよ。でも、長谷川さんとは離婚してください。あなたはもう終わった人なんですよ。会社からも、長谷川さんからも見捨てられて、まぁ、それでも運が良かったじゃないですか。庭にこんなものが現れた御陰で金持ちになれるのだから。長谷川さんは僕が幸せにします。あなたのお子さんも、僕が立派に育ててあげますよ。そのために『洗礼』までしてやったのですから」
良い比喩表現でしょう洗礼って。長谷川さんも、それを望んでいましたよ。
奴は最後に付け加えた。
俺は拳を握りしめ、山岡を激しく睨んだが、殴るような真似はしなかった。一瞬強ばった奴の顔が、すぐに緩み、笑い声が庭中に響く。だからあんたはダメなんだ、とでも言いたげな表情。俺は今日も雲一つない青空を仰いだ。自然の美しさ、月明かりに浮かぶ妻の顔、大口はあらゆるものを飲み込み、ここにいる。
器用な生き方ができない。
だから俺は苦しむ必要がある。
この俺は、こういう男だが、だからどうした。世渡り上手な人間は、得意の絶頂で叩き潰すと面白い。俺はしゃばいが、それくらいは知っている。
「妻は」
「長谷川さんは、僕の言いなりですよ」
「妻は、流産した」
「え?」
山岡が振り向く。
俺は奴を蹴った。バランスを崩し、山岡が頭から大口に落ちる。その前歯が勢いよく閉じられたが、惨劇などはドラマ性もなく進行していくものなのだ、大抵は。吹っ飛ぶ右足、叫び声が響いた。ああ、月並みなリアクションをしてくれるなよ、なんてな。血の飛沫が俺に降り注ぎ、小便がしたくなる。大口にとっては満足のゆく食事だったのだろう、咽が鳴り、俺は微笑んだ。
山岡、悪いが消えてくれ。
それにしても、
「……お前は本当に好き嫌いのない奴だなぁ」
宙を舞い、はるか後ろに落下した山岡の右足を広うと、大口に投げ捨てる。先程は丸飲みに近い状態だったが、今度は咀嚼を繰り返して嚥下した。血を浴びるのは初めてだが、悪くはなかった。山岡の血であるならなおさらだ。奴の傲慢な態度を思い返し、俺は自然と愉快な気持ちになることができた。猿が得意になって樹から落ちる、それはコメディーだろう?
俺は自らのスティグマを超越し、全ての問題を解決しようとしている。
今日ほど良い日が他にあるとも思えない。
宮崎県は素晴らしい場所だった。
「あなた」
妻の声。血まみれの俺は両手を広げ、彼女に向き直る。身軽になった妻は手にシャベルを持っていた。
「次は、俺の番か?」
答えは簡潔。
「それは、自殺願望というものよ」
<了>