鉄をくれる男(モンゴル、13世紀初頭)
山並みを背に、ヘルレン川沿いを進む荷車がある。
ギィギィ。ギチギチ。
車輪が回るたび車軸が軋む音が響く。
──車軸が歪んでいる。車轄が右と左で食い違うせいだ。
荷車のわきを馬に乗って進む男は思う。なぜそうなったかはわかっている。車轄の片方が古くなって割れたとき、二つで一揃いではなく割れた方だけ新しくしたせいだ。その方が羊三頭分、安かった。
次の市では揃いの車轄と交換しよう。これまで何度もした決意をまたも新たにする。
ふいに強い風が吹いた。荷車の側面にたてた二本の旗印の馬の毛が揺れる。
一本の旗印は男の氏族をあらわす。メルキトの旗印だ。
荷車の上で手綱を握る若者がいう。
「ねえ叔父上……じゃなくて長。俺たち、このまま進んでも大丈夫なんすか」
男はメルキト族の長のひとりだ。名をゾンガルという。モンゴルに大敗し剥落した身だが今も千あまりのメルキトの民をまとめ、百の戦士を率いる。
若者の名はランガル。ゾンガルの従甥で百の戦士のひとりだ。弓の速射を得意とする。兎が跳ねたその瞬間に射抜く腕の持ち主だ。本人曰く空中の兎は動きが単調で地面にいるより狙いやすい。
「何をいまさら。モンゴルのヤツらがいくら血に飢えていようが、この旗をたてた荷車をわざわざ襲うものかよ」
ゾンガルはもう一本の旗印に目をむける。
荷車が贈り物や貢物を運んでいることを示す旗印だ。
「そりゃ、モンゴルの季節宿営地につくまでは見過ごしてくれますって。でも到着したら荷の中身をあらためられるんですよ?」
「いいから進め」
荷車は車軸の軋む音を響かせてノロノロと進む。
道の先には幾本もの太い煙が空へとたなびいている。
ヘルレン川宿営地。後に大オルドやアウラガと呼ばれる地はすぐそこだ。
「なんだこりゃ。これが貢物か」
はたして荷をあらためた警護兵は呆れた口調でいった。
荷車に積まれていたのは木炭の束だ。
「負けに負けて山に逃げたメルキトの貢物だ。絹や金は期待してなかったが、せめて毛皮くらい用意できなかったのか。我らモンゴルをバカにしてのことならただでは帰れんと思え」
「なんだとコラ。喧嘩なら買うぞオラ」
「よさんか」
御者のランガルを抑え、ゾンガルは警護兵にいった。
「巫覡を呼べ。この荷を粗略に扱えば呪いがふりかかるぞ」
「なに、この炭が? ……わかった。あの天幕だ」
ゾンガルの静かな所作に気圧され、警護兵は素直に応じた。
おさまりがつかない御者を宥め、ゾンガルは指示された天幕へ向かう。
出てきたのは初老の巫覡だった。
ゾンガルは馬をおりた。ランガルが手を貸そうとするのを断り、木炭の束のひとつを巫覡の前に置く。
「や。これは」
木炭の束をみた巫覡の顔色がかわった。
「これはメルキトの祖霊樹ではありませんか」
「さすが巫覡殿。ひと目でおわかりいただけたか」
「これほどに貴重なものを氏の長みずからお伐りなさったのか」
「われらが覚悟を示すためです」
敵対部族の旗をみて集まった野次馬たちが巫覡とゾンガルのやり取りに首をひねる。
彼らにみえているのは紐でくくった木炭だ。貴重なものとはとても思えない。
ざわつく野次馬に天幕から出てきた巫女見習いの娘が説明する。
「あれはメルキト族の祖先の霊を宿した祖霊樹です。北の山には祖霊を宿す樹齢が数百年になる大木があります。かれらは自分たちの祖霊樹を切り倒して木炭を作ったのです」
野次馬たちのざわつきが大きくなる。
「マジか。自分らの祖霊の樹を伐ったのか」
「それ洒落にならないじゃん」
「ヤベえ。俺らまで祟りに巻き込まれるぞ」
「死なばもろともの自爆攻撃かよ」
巫覡は木炭の束に手をあて、結び目を慎重に指で探った。
ほぅ、と安堵のため息をつく。
「この炭に心悪しき霊は憑いておりませぬ。よき継承をなされましたな」
「一族の者が交代で三日三晩、儀式を行いました。ですが一族の巫覡であった大爺が亡くなったので正しく祓えてるか心配だったのです」
「問題ありませぬ。祖霊はすでに若木にうつっております。この炭を炉にくべても祟りはありますまい」
ゾンガルと巫覡はなおも話を続けつつ大天幕の方へ向かった。
巫覡とゾンガルの会話を理解できない野次馬たちが見習い娘に目をむける。
娘は野次馬たちを一列に並ばせ、穢れを祓う清めの動作をしながら説明する。
「祖霊樹を伐れば災いがあります。なので伐る前に新たな依代となる若木を植え祖霊をそこにうつすのです。かれらが運んできた木炭は祖霊を抜いた老木で作ったものです」
「なるほど」
「そいつはわかったけど、俺らはなんで清められてんの」
「呪的安全保証のためです。木炭を焚べる前にもう一度祓えを行います。皆さんは荷車に積んである木炭を私の指示する場所まで運んでください」
「俺らにも働けってことか」
「はいはい」
「祓えが終わったら、炉まで運んでもらいますからね」
「えええ」
「それ重労働じゃん」
「作業の途中で帰ったら腫れ物ができる祟りがあります。あ、そこのメルキトの人」
見習いの娘が、野次馬の行列から少し離れたところに立つランガルに呼びかけた。
「え? あいつメルキトなの?」
「知らん顔がいるなぁと思ってたらメルキトかよ」
「それ敵じゃん」
「囲んでボコるか」
「いいな。やろうぜ」
野次馬たちが向ける敵意にランガルより先に見習い娘の方がキレた。
「おい。なに勝手なこと言ってる。腫れ物がケツ穴にできる祟りくらいたいか」
「やめて」
「鞍の上で痔とか勘弁して」
「それ死ぬやつじゃん」
「嫁入り前の娘がケツ穴いうなし」
見習い娘に連れられたランガルは小高い丘の上まできた。
見習い娘は従卒の少年に篝火台をたてさせ、火をつける。
野次馬の男たちはぶつくさ文句をいいながらキビキビ動いて丘の上に木炭を積み上げた。
「おまたせしました、メルキトの人」
「ランガルだ」
「私はオルカです。ランガル、あなたには儀式を手伝ってもらいます」
「俺は巫覡じゃない」
「ですがメルキトの人です。私が儀式をする間あなたは家族や友人らのことを思い、できれば名前も呼んであげてください。あなたの親しい人をとおして私がメルキトの祖霊に語りかけます」
「わかった。それなら」
オルカが鼓を鳴らして儀式を行う間、ランガルは目を閉じて故郷の人々を思った。彼らの多くが亡くなっていることをあらためて思い出し、ひどく動揺した。
今も続く寒さが原因だ。家畜は草が足りず、人も栄養が足りず、弱いものから病や寒さに耐えきれず死んだ。牧草地を求めて争いが起き、さらに人が死んだ。
秋に産まれた末の妹が春がくる前に死んだことを思い出したときは涙が流れた。寒さしか知らない一生だった。この世には春も夏もあるのだと教えてやりたかった。
「終わりました」
気づけばすぐ目の前にオルカがいた。
オルカは指でランガルの涙を拭った。
「ランガル。あなたは優しい人ですね」
ランガルは気恥ずかしくなって目をそらした。
野次馬たちと一緒に木炭を抱えて炉へ向かう。
ここに来るまでの道すがらも空へ幾本もの煙が上がっているのが見えた。
煙の太さと色から鍛冶の火だとは思っていたが、想像以上の規模だった。
そもそも鞴からして違う。はなから人が手で押す大きさではない。馬が車輪を回し送風する仕組みだ。風は干乾し煉瓦を積んだ火床の高い炉に送られる。
炉のそばに黒い塊が積まれていた。小さな棒状で形がそろっている。
「あれはなんだ?」
ランガルの言葉を耳にはさみ、一緒に木炭を運んだ野次馬たちが得意そうに答える。
「鋼の鋳塊だ」
「金からの貢物なんだぜ」
「溶かして叩いて鏃にするんだ」
野次馬たちはモンゴル族なので言葉には誇張が混じっている。
鋳塊が金国からもたらされたのは事実だ。だが金の視点では貢物ではない。むしろ逆でモンゴル族からの朝貢に対する返礼品である。
一一九六年。オルズ川の戦いでモンゴル族を率いるテムジンはケレイト族とともに金側にたって参戦した。戦場での活躍を評価し金国右丞相の完顔襄はテムジンを国境外守備隊長に任じた。何しろオルズ川の戦いとはそれまで金の国境を守っていた遊牧のタタル部の反乱鎮圧作戦であり、勝利と引き換えに金は北の国境を守る遊牧戦力を失ったのだから代替はどうしても必要だった。
報酬としてテムジンが求めたのが鉄だった。鉄は軍事力に直結する戦略資源で禁輸対象だ。テムジンは国境外守備隊長の仕事にどうしても鉄が必要であると訴えた。モンゴルをしょせんは戦場でしか役に立たない傭兵集団と甘くみた金は貴重な鋳造脱炭鋼の鋳塊を輸出したのである。
「あれが全部、鏃になるのか」
ランガルは自分の腰の箙に手をあてた。
箙には三〇本の矢がはいっている。族長の護衛としての戦闘に備え鏃はすべて鋼だ。しかし、荷車に置いてある予備の箙と矢は骨の鏃だ。狩りであれば骨鏃でも十分だからだ。
ランガルはモンゴルの戦士をうらやましいと思った。
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ゾンガルは巫覡とともに自分たちの貢物について書記官に申告した。木炭の由来については巫覡が保証した。書記はウイグル人で遊牧諸部族の骨肉の争いとは無縁の人間である。モンゴルと敵対するメルキトを前にしても感情を揺らすことなく淡々と記録をとって立ち去った。
巫覡と別れ、ゾンガルは左足を少し引きずるようにして天幕をでた。
──できればモンゴル族の高官かテムジンの妻の誰かと面会したいのだが、今日はどうもかなわぬ様子だな。
幾晩か泊まって顔つなぎが必要だろうか、誰か知った顔はいないかとゾンガルは天幕が並ぶ草原を見回す。天幕の数。家畜の数。その多さにはため息しかでない。
そして思う。自分の決断の正しさを。
──テムジン誕生時には消滅の危機にすらあった弱小氏族が一代もたたずこれほどの興隆をみせたのはなぜか。
家畜と違い人は生まれ育つのに時間がかかる。
ここにいる全員が生まれたときからテムジン配下であったはずがない。かれらは人生のどこかのタイミングでテムジンの下についたのだ。モンゴル族以外に生まれ、故郷を捨ててもテムジンを選んだ者も多いはず。ではそれはなぜか。
貴種だからか。
戦に強いからか。
いずれも理由のひとつにはなるだろう。
──だが。それでは足りない。
ゾンガルがそこまで考えたとき、背後からざわめきが聞こえた。
振り返る。大天幕から飛び出した男がゾンガルに向かって駆けてきた。止めようとしている男たち。呆れて笑ってる女たち。
顔に見覚えはないが、誰かはすぐわかった。
ゾンガルは地面に膝をつき、両手を広げて礼をした。
「お目にかかれて光栄です。テムジンさま」
まるで古くからの友人にするように自分を抱きしめるテムジンにゾンガルは唇をほころばせてしまう。
テムジンのあけっぴろげで陽気な人柄を前にしては仇敵であっても絆されるだろう。この人間的魅力ももちろん、テムジンを選ぶ理由になる。
──だが。それでは足りない。
感激して涙を流しながら、ゾンガルは頭の芯でそう考える。
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数日後。
メルキトの旗印をつけた荷車が宿営地を去っていくのを、オルカは遠くからみていた。
御者の若者がこちらに手をふった。
オルカはぷい、とそっぽをむいてから小さく手をふりかえした。
師匠の巫覡と天幕でした会話を思い出す。
「オルカ。お前はどこまで読み取れた?」
「はい。これがメルキト族のもの。そして祖霊由来の品であることまではわかりました」
ふたりの前には、ゾンガルが持ち込んだ木炭を結んでいた紐があった。
師匠は紐を手にすると手近な薪を使って結び目を器用に再現してみせた。
「そこまで読み取れれば上等といいたいが、まだまだ未熟だ。巫覡は結び目の形や数も使って縁起を伝える。たとえばこれは“継承”を意味する結び目だ。薪や木炭にこれがあるということは、祖霊をすでに他に移してあるという意味になる」
「なるほど」
「とはいえ私もメルキト族固有の約束まではわからん。彼らは森の民だ。木の種類を含意する結び目もあるはずだ。今後のこともある。我らはそういう細かいところまで学ばねばならない」
「では」
「オルカ。次の移営にあわせてお前をゾンガルの氏族に派遣する。紹介状を書くので学んできなさい」
「はいっ」
いつも無表情な弟子が嬉しそうに手をふる仕草に師匠は目を細めた。
普段会うことのない遠方の若者との会話がよい刺激になったのだろう。
師匠も宴でゾンガルからメルキト族の話を聞くことができた。実りある会話だった。
──祖霊の継承はモンゴルを広げるよい手法になる。
テムジンが大天幕を飛び出してゾンガルを抱擁した逸話はすでに噂となっている。
あれをテムジンが計算づくで行ったかは不明だが、最善手に近いと師匠は思う。
──これからはメルキトもモンゴルだ。将来はもっと遠方までモンゴルは広がる。自らが望み先祖の祝福も受けてモンゴルとなった事例があれば、同化はスピーディーに進もう。
いずれは定住の民も含め大地のすべてがモンゴルになる。巫覡の目には輝かしい未来が見えていた。
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宿営地で会った娘に手をふる従甥をゾンガルは好ましい目でみた。
左膝をそっと撫でる。三年前の戦いで矢を受けてからこわばるようになった膝だ。馬上では特に気にならないが、地におりればどうしても足を引きずるようになる。
昨夜の宴でその膝はどうしたのかと問われた。説明すると宴にいた何人かがそれは自分の矢だと主張した。本当のところはわからなかったが全員と互いに連絡を取ることを約束して別れた。
ゾンガルは思い出す。あの戦ではメルキトの方がモンゴルよりも数が多かった。三倍とはいわないが二倍はいた。どちらも同じ馬の民だ。弓の腕も劣るものではない。二倍の戦力差は圧倒的なはずで、序盤はたしかにメルキトが押しまくっていた。
だが、戦況はしだいに劣勢になり、最後には敗走してしまう。
ゾンガルも膝に受けた矢の痛みに耐えながら逃げ、逃げながら考えた。何が戦況を逆転させたのかと。
ゴトン。
荷車が石を踏んで揺れた。積んだ箱がゴトリと揺れる。
「おっと」
「気をつけろよ、ランガル。まだ宿営地から見える距離だぞ」
「わかってますよ。貴重な品をいただいたんだ。ひっくり返ったりはしませんて。それにしても気前がいいっスよね」
貢物の木炭をおろした荷車には返礼の品として鏃が積み込まれている。ゾンガルの率いる百の兵ひとりにつき鏃が六〇本。六〇〇〇の鏃の重量は四五〇kgだ。
「俺はモンゴルを誤解してたかもしれません」
「調子のいいことをいう」
「これ、戦のたびに支給されるって本当ですか? もし逃げ帰ることになって矢を回収できなくても次の戦ではちゃんとひとりあたり六〇本の矢と鏃を用意してくれるってのは……いや、俺は冗談だと思ってます。でもあいつらみんな──あ、あいつらってのは宿営地にいたモンゴルの若衆のことです。木炭を運ぶのを手伝ってくれたんで、宴のときには一緒に飲んで。そこでそういう話がでまして」
「本当だ」
「マジっすか。モンゴルやべえ」
モンゴル軍の強さは、兵站の強さだ。
同じ馬の民。同じ弓の腕だからこそ鉄の鏃のあるなしは戦力に大きく影響する。
三年前のあの日。戦いが長引くにつれ自分の心に広がった不安をゾンガルは覚えている。
──ここで射た矢は、回収できるか?
あの戦いでゾンガルの手持ちの矢は六〇本すべてが鉄の鏃だった。
しかしそれは戦いの後で回収できることが前提の奮発だった。敵の倍いるから味方の勝利は間違いない。戦が終わったあとで回収できる。そのはずだった。
しかし戦いは長引いた。
腰の箙が空になり馬につけた予備の箙と替えてからは一射ごとに不安が大きくなった。この矢は回収できないのではないかと。
──まさか。いや、ひょっとして。
及び腰になったのはゾンガルだけではない。戦の終盤ではメルキトの兵の全員が矢を射るたび躊躇うようになった。これではいくら敵の倍いても勝てるはずがない。
「ゾンガルさま。俺、モンゴルがなんで強いかわかった気がしますよ」
「今さらか……いや、そうだな。私も今になってわかったようなものだ。本当なら三年前にわかっておくべきことだった」
テムジンを選ぶ理由はたくさんある。
貴種だ。
戦に強い。
人間としての魅力がある。
だが、それまでの人生で積み重ねたものを捨ててでも選ぶ本当の理由は別にある。
──テムジンは、鉄をくれる男だ。
鉄は力だ。
裏切り者とそしられても、ねじ伏せる力をくれる男、それがテムジンだ。
「それにこれからは我らもモンゴルだ。祖霊もそれをお許しになった。胸をはってモンゴルの一員となるのだ」
「はい。この二本の旗印に誓って」
ふたりは荷車につけたメルキトとモンゴルの旗印を見上げた。
宿営地で車轄と一緒に交換した車軸が滑らかに回って荷車を前に進ませる。




