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終電後、白鳥に会った

作者: はまゆう
掲載日:2026/02/21

 終電のなくなった高架下で、白いものを見た。


 最初はレジ袋だと思った。風にあおられて、街灯の光を反射しているだけの、どこにでもある都市の残骸。けれどそれは、ゆっくり首をもたげた。細く長い首だった。羽毛が光を吸い込んで、夜の底から浮かび上がるみたいに白かった。


 白鳥だった。


 東京で白鳥を見るのは初めてじゃない。公園の池に冬だけ降りてくるやつらを、子どものころ父に見せられた記憶がある。でも、こんな時間、こんな場所で、ひとりで立っている白鳥は見たことがなかった。


「君も帰れないの?」


 声をかけてから、僕は少し後悔した。白鳥は答えなかった。ただ、黒い目でこちらを見た。その目は妙に乾いていて、ガラス玉みたいに感情がなかった。僕はポケットの中で終電を逃した切符を握りしめたまま、白鳥の隣に立った。


 その夜、彼女は人間になった。


 正確には、人間に見えた。まばたきをした瞬間、白い羽はコートに変わり、細い脚はヒールを履いた脚になり、くちばしは唇になった。彼女は最初からそこにいたみたいな顔で、静かに言った。


「あなた、王子じゃないのね」


「違うと思う」


「そう」


 それだけ言って、彼女は高架のコンクリート壁にもたれた。街灯が彼女の横顔を平たく照らし、影だけがやけに深かった。


「王子を探してるの?」と僕は聞いた。


「ええ。でもたぶん、もういないわ。ここには」


 電車の走らない線路は、巨大な楽器みたいに沈黙していた。遠くでパトカーのサイレンが鳴り、すぐ消えた。夜の東京は、水を抜かれた水槽みたいに静かだった。


「どうして白鳥に?」


「呪いよ。古いやつ。解ける条件も、いまどきじゃない」


 彼女は笑った。笑い方だけが少し古風で、時間の外側から来た人みたいだった。


「キスとか?」


「似たようなもの。でも、もっと面倒。信じることが必要なの」


「何を?」


「わたしを。本物だって」


 僕は頷きかけて、やめた。信じる、という言葉は重かった。最近の僕は、天気予報と電車の遅延情報くらいしか信じていない。


「無理そうね」と彼女は言った。「あなた、ちゃんと疑ってる顔してるもの」


「疑うのは癖なんだ。都会で生きるコツみたいなものだから」


「そう」


 彼女は空を見上げた。高架の隙間から、切り取られた夜空が見えた。星はなかった。


「ねえ」と彼女が言った。「もし信じられたら、わたしは朝まで人でいられるの。信じられなかったら、また羽に戻る」


「朝って、何時?」


「最初の電車が走るころ」


 腕時計を見ると、あと三時間あった。三時間、白鳥を信じればいい。それだけのことのはずだった。


 でも僕は黙っていた。


 彼女は責めなかった。ポケットから古い切符を一枚出して、指で折ったり伸ばしたりして遊んでいた。どこから持ってきたのか分からない、紙の切符だった。


「あなたはどうして帰れないの?」と彼女が聞いた。


「帰る理由がないから」


「家は?」


「あるよ。ベッドも、冷蔵庫も、未読のメールもある。でも、理由がない」


 彼女は少し考えてから、頷いた。「それ、分かる気がする」


 沈黙が落ちた。夜は均質で、時間の感触が薄かった。彼女の肩に、街灯の光が粉みたいに積もっていた。触れたら消えそうだった。


 信じてみようか、と僕は思った。


 根拠はなかった。ただ、ここで何も信じずに朝を迎えるより、何かひとつ勘違いを持ったまま夜を越えるほうが、少しだけましな気がした。


「君は本物だ」と僕は言った。


 声は驚くほど小さくて、自分でも聞き返したくなるくらい頼りなかった。


 彼女は僕を見た。その目のガラス質が、ほんのわずか柔らいだ気がした。


「ありがとう、王子じゃない人」


 風が吹いた。


 次の瞬間、彼女はいなかった。


 白い羽だけが一枚、足元に落ちていた。触れると、それはただの湿った紙片だった。どこかのチラシの切れ端で、半分消えた文字が印刷されている。


 始発電車の音が遠くから近づいてきた。レールが震え、空気が動き、夜が終わる準備を始める。


 僕は紙片をポケットに入れた。信じた証拠としては、あまりに軽すぎた。


 電車が通り過ぎたあと、高架下にはもう何もなかった。白鳥も、彼女も、呪いも、王子も。


 それでも僕はしばらく動かなかった。もしかすると、信じるのが少し遅すぎたのかもしれないと思った。あるいは、最初から朝なんて来ていなかったのかもしれない。


 ポケットの中で、紙がかすかに鳴った。


 それだけが、夜の続きみたいだった。

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