終電後、白鳥に会った
終電のなくなった高架下で、白いものを見た。
最初はレジ袋だと思った。風にあおられて、街灯の光を反射しているだけの、どこにでもある都市の残骸。けれどそれは、ゆっくり首をもたげた。細く長い首だった。羽毛が光を吸い込んで、夜の底から浮かび上がるみたいに白かった。
白鳥だった。
東京で白鳥を見るのは初めてじゃない。公園の池に冬だけ降りてくるやつらを、子どものころ父に見せられた記憶がある。でも、こんな時間、こんな場所で、ひとりで立っている白鳥は見たことがなかった。
「君も帰れないの?」
声をかけてから、僕は少し後悔した。白鳥は答えなかった。ただ、黒い目でこちらを見た。その目は妙に乾いていて、ガラス玉みたいに感情がなかった。僕はポケットの中で終電を逃した切符を握りしめたまま、白鳥の隣に立った。
その夜、彼女は人間になった。
正確には、人間に見えた。まばたきをした瞬間、白い羽はコートに変わり、細い脚はヒールを履いた脚になり、くちばしは唇になった。彼女は最初からそこにいたみたいな顔で、静かに言った。
「あなた、王子じゃないのね」
「違うと思う」
「そう」
それだけ言って、彼女は高架のコンクリート壁にもたれた。街灯が彼女の横顔を平たく照らし、影だけがやけに深かった。
「王子を探してるの?」と僕は聞いた。
「ええ。でもたぶん、もういないわ。ここには」
電車の走らない線路は、巨大な楽器みたいに沈黙していた。遠くでパトカーのサイレンが鳴り、すぐ消えた。夜の東京は、水を抜かれた水槽みたいに静かだった。
「どうして白鳥に?」
「呪いよ。古いやつ。解ける条件も、いまどきじゃない」
彼女は笑った。笑い方だけが少し古風で、時間の外側から来た人みたいだった。
「キスとか?」
「似たようなもの。でも、もっと面倒。信じることが必要なの」
「何を?」
「わたしを。本物だって」
僕は頷きかけて、やめた。信じる、という言葉は重かった。最近の僕は、天気予報と電車の遅延情報くらいしか信じていない。
「無理そうね」と彼女は言った。「あなた、ちゃんと疑ってる顔してるもの」
「疑うのは癖なんだ。都会で生きるコツみたいなものだから」
「そう」
彼女は空を見上げた。高架の隙間から、切り取られた夜空が見えた。星はなかった。
「ねえ」と彼女が言った。「もし信じられたら、わたしは朝まで人でいられるの。信じられなかったら、また羽に戻る」
「朝って、何時?」
「最初の電車が走るころ」
腕時計を見ると、あと三時間あった。三時間、白鳥を信じればいい。それだけのことのはずだった。
でも僕は黙っていた。
彼女は責めなかった。ポケットから古い切符を一枚出して、指で折ったり伸ばしたりして遊んでいた。どこから持ってきたのか分からない、紙の切符だった。
「あなたはどうして帰れないの?」と彼女が聞いた。
「帰る理由がないから」
「家は?」
「あるよ。ベッドも、冷蔵庫も、未読のメールもある。でも、理由がない」
彼女は少し考えてから、頷いた。「それ、分かる気がする」
沈黙が落ちた。夜は均質で、時間の感触が薄かった。彼女の肩に、街灯の光が粉みたいに積もっていた。触れたら消えそうだった。
信じてみようか、と僕は思った。
根拠はなかった。ただ、ここで何も信じずに朝を迎えるより、何かひとつ勘違いを持ったまま夜を越えるほうが、少しだけましな気がした。
「君は本物だ」と僕は言った。
声は驚くほど小さくて、自分でも聞き返したくなるくらい頼りなかった。
彼女は僕を見た。その目のガラス質が、ほんのわずか柔らいだ気がした。
「ありがとう、王子じゃない人」
風が吹いた。
次の瞬間、彼女はいなかった。
白い羽だけが一枚、足元に落ちていた。触れると、それはただの湿った紙片だった。どこかのチラシの切れ端で、半分消えた文字が印刷されている。
始発電車の音が遠くから近づいてきた。レールが震え、空気が動き、夜が終わる準備を始める。
僕は紙片をポケットに入れた。信じた証拠としては、あまりに軽すぎた。
電車が通り過ぎたあと、高架下にはもう何もなかった。白鳥も、彼女も、呪いも、王子も。
それでも僕はしばらく動かなかった。もしかすると、信じるのが少し遅すぎたのかもしれないと思った。あるいは、最初から朝なんて来ていなかったのかもしれない。
ポケットの中で、紙がかすかに鳴った。
それだけが、夜の続きみたいだった。




