8. 滅亡に向けた一声
エルピネス様の死は暗殺によるものだった。
殺人であることが確定したことで、ホール内の空気はさらに張り詰める。
息をすることも躊躇われるような緊張感の中、ホドス様が足元に倒れたウェントス兵を指さす。この愚かな兵士は先ほど首を絞められた時に気を失ったままだった。
「これで決まりだ。この者を処刑する」
「ちょっ、待ってください! まだウチの兵士がやったとは限らんでしょう!」
訛りのある声で止めに入ったのはウェントスの監視官ロギオス・ピスティス。いかにも気弱そうで発言することも少ない彼だが、今回ばかりはたまらずに人々の中から飛び出してきた。
「こやつがエルピネスの寝室の傍にいたのは事実。その他の客人は全て我が兵により監視されていた。他の犯人などありえぬ」
「ほなら、アンタらの身内が殺したんとちゃいますか!」
「貴様……」
かっと目を剥いて睨むホドス様に、ロギオス監視官は一瞬声を詰まらせる。しかし彼は引かなかった。
「そ、そもそもです! その医者の話が真実という証拠がないでしょう! 拷問用の毒を飲んだなんてとても信じられない。あなた方が言ったんですよ、王の死に顔は安らかなものであったと」
「おお! なんということでしょう!」
エン医師は弾かれるように背筋をピンと伸ばし、助けを求めるように人々へ声を上げた。
「事件と無関係のはずのこちらまでもが疑われるとは! 我々医者は死因を調べるたびに疑われなければならないのでありましょうか!」
「アンタの見解だけが他の医師と違うからや! 毒の検出法を見つけたなんて言いはりますけども、まだ証明されてないものを信じられるわけがないでしょう!」
するとエン医師は得意げにあごをあげ、傍に仕えるそばかすの少女に目配せした。
「『泥水の悪魔』に関する研究成果は公に発表される予定です。その論文も用意しております」
少女が床に置いたカゴから紙の束を取り出す。それが今言った論文なのだろう。
「見る方が見れば真偽はすぐお分かりになるはず! さあ、さあ! どなたかいかがですかな!」
「ロギオス監視官」
そこで、アスピダ様が口を開いた。ぎょろぎょろと目を動かし、不気味な無表情で続ける。
「あなたならばお分かりになるはずだ。監視官になるまでは魔術研究に携わっておられたのだから」
「な……なして、それを」
「城へ来る客人の身分は例外なく調べております。そして吾輩の頭には、その全ての情報が入っているのであります。――あなたが特に力を入れていたのは『魔術によって生まれる物質』の研究でしたかな? 研究の真偽を確かめる目は十二分にお持ちのようですな」
「わ……分かりました」
ロギオス監視官はぎこちない足取りでエン医師の傍まで歩き、そばかすの少女から震える手で紙の束を受け取った。
静まり返った空間で、頁をめくる音が聞こえてくる。
時間のかかりそうな様子を見て、ホドス様が咳払いした。
「監視官殿が読み進めている間に、もう一つの疑念を解消しておこう。拷問用の毒を飲んだはずのエルピネスが安らかな顔をしていた理由についてだ。毒を飲んだ証拠さえあれば話す必要もないとは思うが、念のため補足させてもらいたい」
それはロギオス監視官ではなく他の皆へ利かせるための言葉であった。ウェントス人を処罰するなら他の同盟国にも納得してもらわなければならない。
ホドス様は目を閉じ、深く息を吐いた。
「エルピネスには、呪いでもかけられたかのような特殊な体質があった」
語られたのは今より二十年前――エルピネス様が赤子であった頃のこと。
ある日の夜、エルピネス様が目を覚まさないと騒ぎになった。頬を叩いても水をかけても眠ったまま目を開けない。よく眠っているという表現では済まされないほどの深い眠りに王妃様はひどく焦り、ホドス様に助けを求めた。
寝ていた医者を叩き起こして様子を見させたが、告げられたのは「原因不明でどうすれば起こせるかも分からない。このまま一生眠ったままかもしれない」という恐ろしい診察結果であった。
これは何かの呪いに違いないと王妃様は青ざめた。ホドス様は何者かが魔術で襲ったのだと主張した。
深夜に起こった突然の悲劇に城中の人間が恐れおののき、悲しんだ。
「だが……翌朝、エルピネスは何事もなかったかのように目覚めたのだ。一切の不調もなく、いつものエルピネスそのものであった」
その時はただ医者の目が節穴だったのだと思われた。城の皆も人騒がせな王子様だと安堵しながら笑っていた。
「しかしその夜、再びエルピネスは深い眠りに落ちた。死んでしまったかのように、何をされても目を覚まさなくなった。翌朝になるとやはり何事もなかったかのように目を覚まし、よく食べ、よく笑い――そしてまた死んだように眠った。信じがたい事だが、元々そういう『体質』だったのだ」
ひとたび眠ると何をされても起きない特異体質――だから拷問用の毒を飲まされても目を覚まさなかった。
「そんな話、聞いたことが……」
サクスム兵の一人が呟いた。俺も同じだった。一度だって聞かされて事がない。ホドス様は頷く。
「無論だ。これはエルピネスの明確な弱点。軽々しく吹聴できるものではない。ごく一部の限られた者にしか話してはおらぬ」
証拠こそないが、これで少なくとも説明はなされた。あくまで疑念を解消するためだけの話であるから、これに関してはもう十分だろう。俺や他の兵士、召使などはまだ驚きを隠せずにいたが、やがてロギオス監視官が顔を上げたことで皆の視線は彼へと戻った。
「ロギオスよ。エンの言葉は真であったか? 偽りなく答えよ」
監視官が嘘を言う恐れはあったが、ここで言い逃れても後々他の学者によって確かめられる。だから監視官は真実を述べるしかない。
やがて彼は震える唇で答えを口にした。
「ここに載っている記録が間違いないと確かめられれば、確かにこれは、立派な証拠になります……」
まるで自身の罪を認めるような重い口調だった。まだ完璧な証拠と確定したわけではなく、先ほど『類呼びの杯』に入れた粉も本物とは決まっていなかった。しかしこれ以上は無意味と思ったのだろう。ロギオス監視官は反論をやめ、今度は焦ったように話題を変えた。
「け、けども、話が振り出しに戻っただけや! 王が暗殺されたんは確かかもしれませんけども、ウチの兵士がやったなんて分からんはずです!」
「分かるに決まってんじゃない。頭に虫でもわいてるの?」
痛烈な言葉を返したのはホドス様ではなく、サクスム第二王女のアガペーネ様だった。
階段の下に並び立つ人々の中から歩み出ると、真っ白な髪をさらりと揺らし、真っ赤な瞳を激しく光らせ、灼熱のごとき苛烈さで監視官を睨んだ。
「いつまでこんな悪あがきを続けるつもり? 寝室の前にいたのは偶然だとか、証拠はないとか、そんなんでここにいる全員を納得させられるとでも思ってんの?」
「しょ、証拠がないのは事実やないですか!」
アガペーネ様は大きく舌を鳴らす。顔を背けてホドス様に言った。
「お父様、これ以上の茶番は見てられないわ。さっさと殺しちゃいましょうよ」
「いや。まだ確認せねばならぬことがある」
意外にもホドス様は首を振った。アガペーネ様も予想外だったようで、目を丸くする。
「はあっ? まさかここまで追い詰めといてやっぱりソイツは犯人じゃないかも、とでも言うつもり?」
「そうではない」
ホドス様は低い声で答え、視線の先を変えた。
アガペーネ様の西側、集められた客人たちのいる方向へ。
「この者はウェントスの兵士だ。それが王族を手にかけた。この意味が分かるな?」
ホドス様の瞳が、一瞬、赤く光ったように見えた。
自分が窮地に陥ったわけでもないのに、首を絞められたような気分だった。重たい空気が全身にのしかかり、呼吸を忘れて肺が痛む。
「ヌハハ!」
野太い笑い声が上がった。巨大な団子のようにぶくぶくと太ったその男はカコパイーニ――昨日の宴でイェネオと喧嘩していた、ラクスの監視官だ。
「その兵士がウェントスの命令で王を殺したと、そういうわけですなァ! 最初からそれ以外考えられぬと思っておりましたわ!」
「その通りだ。余はウェントスが同盟を破り、エルピネスを暗殺――つまり、我が国に攻撃をしかけてきたのだと見ておる」
声が出なかった。五国同盟を破ることは前代未聞の大事件だ。普段ならばありえないと一笑に付されるような世迷言である。しかし現状においては簡単に否定できるような話ではなかった。
「な、何を言い出すんですか。そないなこと……!」
ロギオス監視官の声はもはやホドス様には届かない。ホドス様はウェントス人以外の人々へ向けて語り続ける。
「実は、刺客を送るのはウェントスの常套手段なのだ。八年前のサクスムとウェントスの戦においても、彼らは王都に刺客を差し向けた。余を暗殺するためにな。結果、余の妻ランプロティターネが命を絶たれ、傍にいた英雄フルリオダンまでもが殺された。余が生き残ったのは奇跡のようなものであった」
「それとこれとは話が……」
「奴らの所業はこれだけに留まらぬ。かつての刺客はエルピネスの命をも狙っておったのだ。その魔の手から守るためにまた一人、サクスムの戦士が命を落としておる」
「おお! なんと卑劣でありましょう! それこそが風の国ウェントスの悪しき本性でありましたか!」
エン医師が煽るように声を上げる。皆がざわつき、ロギオス監視官は後ずさった。
「待ちぃや! 関係ないやろ、その話は……それは戦争の時の話で……!」
「加えてウェントス人はサクスムとの戦に負けた恨みがある。同盟に入れられたのも無理矢理だ。昨日エルピネスが言っておったが、どこかで五国同盟を壊そうとする動きもみられるらしいではないか。そんなことを、ウェントス以外のどこがする? 他の全ての同盟国は、自ら同盟に加入したのだというのに!」
「ちょっ、話を……」
「ウェントスは同盟を壊したかった。しかしエルピネスはそれを止めることを宣言した。ウェントスにとっての障害となっていたのだ」
「ホンマに待ってくださいよ! さっきからおかしいでしょう! 事件とは関係のない事ばかり! 皆さん、聞く耳持っちゃあきませんよ! こんなんは全部ただの妄想です!」
「否! 全て貴様らが犯人であることを示す重要な事実である!」
ロギオスを無視し続けていたホドス様が、ここぞとばかりに睨み返し、言い放った。
「ウェントスにはサクスムの王を殺める動悸があり、優秀な刺客という切り札があった! 手段を選ばぬ非道さもあった! 極めつけは王の寝室のそばにいたウェントス兵の存在――これでも根拠に欠けると申すか? 否! 十分だ! この暗殺はウェントスの陰謀によるものと断定できる! そうであろう、監視官たちよ!」
ラクス、フロース、フランマの監視官たちに語りかける。
「異議なし!」
カコ監視官が一切の迷いもなく答えた。残りも二人も少し悩んではいたようだが、やがて頷いた。
「そんな……嘘やろ?」
ロギオス監視官はついに膝から崩れ落ちた。直後、ホドス様が手を前に出し、血走った目で叫んだ。
「同盟を破ればその国は滅ぶ! これより四国の力を結集し、ウェントスを滅亡させる!」
その言葉に俺は息を飲んだ。
犯人が断定されたとあれば当然の結論ではある。しかし大国の滅亡とは並大抵のことではない。急すぎる王の訃報を受け止め切れていない状況で、さらに前代未聞の話をぶつけられ、サクスム側の人間であるのに呆然としてしまった。
もはやロギオスは抵抗しない。ウェントス兵も泡を吹いたままで、他のウェントス人も青ざめるばかりだった。
「なんで……なんでこうなんねん……」
「そうだ。絶望に呑まれよ。余は貴様らウェントス人が苦しみに溺れる様を望む。それだけが貴様らにできる唯一の償いだ」
誰も反論を唱えない。判決は下り、裁きを止められる者はいない。
俺も納得していた。この状況でウェントス兵以外の犯人などありえないし、兵士が犯人であるならば国を疑うのも道理であろうと。
ついさっきまでは、納得できていた。
今この場でホドス様の話を聞いて、俺は何か違和感を覚えた。何かがおかしい、そんな漠然とした思いが頭の中に生まれた。
「ウェントスを滅ぼせ!」
ホドス様が叫び、火が付いたようにサクスムの人々が答える。滅ぼせ、滅ぼせ、ウェントスを滅ぼせ。
エルピネス様は多くの者に愛されていた。だから今、人々は怒りに支配されている。彼らの目は血走って、復讐の高揚感の中に囚われた。
止めなければ。その思いだけが胸にあった。
だが何を言えばいい? そもそもこの違和感は正しいのか? 何に引っかかり、どの話を否定したいのか。そんなことすら分かっていないのに怒りに燃える人々を止められるわけがない。
考えろ。数えきれないほどの人の命がかかっている。どうにかもう一度話し合わなければ。
英雄になりたい。親父のような大英雄になりたい。ずっとそう願ってきたではないか。自身の違和感を伝えるくらいのことが何故できない。
言え。言え! 俺は心の中で自身を鼓舞する。
止めてみせろ! この状況が間違っているのなら、お前の言葉で止めてみせろ!
息を吸う。このホールに来て初めて、その実感があった。
「お、お待ちを――」
「はーい、ちょっと待ってね~」
なんとか初めの一声を絞り出した、その時。
「兵士くんは犯人じゃないと思うなぁ。ウェントスも無関係だよ」
緊張感の欠片もない、あくびでもしているかのようにのんびりとした声。
ぽかぽかとした日なたのような、まどろみを誘う空気をまとった女の子が、人々の中からひょっこりと出てきた。たくさんの花飾りが散りばめられたとんがり帽子に、ふわふわと波打つ金色の長い髪。一目で花の国の者と分かる風貌だ。
何故かは分からないが俺はほっとしていた。自然と肩の力が抜ける。こんな状況なのに不思議な空気に引き込まれ、見入っていた。
十歳かそこらの小さな少女が皆の注目を集める。人々が彼女の次の言葉に耳を傾けようとする中、ずしりと重たい足音が響いた。
「なんだ貴様は」
少女とは対照的な、地獄の底から響くような、憎悪と怒りに満ちた重々しい声。ホドス様が少女の前に立ち、今にも踏みつぶさんばかりに見下ろした。
まずい、いくら子どもと言えど、今の彼は容赦などしない。
そんなホドス様に少女は、力の抜けるようなほわほわとした笑顔を返した。
「面と向かって話すのは初めて、だよね? わたしは『花国探偵』。カリダって呼んでくれると嬉しいなあ~」
「……なに?」
ホドス様は大きく目を見張る。
ふわふわと波打つ金色の髪の少女が告げた言葉は、衝撃で皆の時間を止めた。
花国探偵。それはかつて花の国フロースを救ったという英雄の二つ名。その者にはもう一つ別の呼び方があった。
魔力を持たない英雄――曰く、花国探偵はその知恵だけで国を救ったのだと。
つまるところ彼女は、俺の未来の英雄像そのものだった。