6. 太陽が沈む時
薄暗い廊下の奥から、平らな仮面をつけた大男が向かってくる。その手には大きな彫刻刀が握られ、危険な気配を放っていた。
俺は唾を飲み、片腕を広げて道を塞ぐ。
「待て」
「…………」
仮面の男は冷たい眼差しでこちらを見下ろし、彫刻刀を顔の前で動かした。
刃先になぞられた空間に亀裂のような光が生まれ、それがやがて文字を形作った。
『何用だ』
「今は城に客人がいるのだぞ。凶器になり得るものをそんな風にむき出しにして歩かれては困る」
「……」
男は何も言わずじっとこちらを見ていたが、やがて彫刻刀を懐にしまった。
彼は侵入者ではなく、れっきとした城の人間であった。ピルゴスニル――ホドス様の許可を得て城に住んでいる平民だ。
部屋に引きこもってばかりいる彼のことを俺はほとんどよく知らない。無機質な仮面のせいもあり、正直なところ不気味という印象しかない。
加えて彼は喉が潰れて喋れないらしく、いつも魔術で空中に文字を刻むことで会話する。そのため何を考えているのか分かりにくいのだ。彼と話をするとどうにも気まずくなってしまう。
『用は済んだか』
「あ、ああ。行っていいぞ」
文字を描いて尋ねるピルゴスに答えてやると、彼は頷きもせずにさっさと行ってしまった。
壁の窪みで炎が揺れた。それを見ながら肩をすくめる。不吉な予感など当てにならないな。
気を取り直し、城内の巡回をつづける。一部の召使を除き多くの者は既に寝室にいる。廊下は静かなものだった。
もう夜警以外と出くわすことはないだろう。そう思った矢先、王族の寝室がある通路まで来たところで再び人影を見た。扉の前に立ち、堂々と胸を張っている。
「む。ニケか」
エルピネス国王だった。大きなおでこをツヤツヤと輝かせ、ちんまりとした体格に似つかない威厳ある力強い声を発する。
「君と話がしたいと思っていたのだよ。夜警の最中にすまないが、少しだけ時間をくれたまえ」
「自分と……ですか?」
「時を改めた方が良いかね?」
「いえ、そのような! 王のお望みとあらば喜んで!」
答えながら俺は考えていた。これは……どちらだ?
真剣な話がしたいのか、それとも軽快なツッコミを待っておられるのか。
表情は至って真面目だ。しかしその頭にはハリネズミが刺さっていた。……もう一度言う、ハリネズミが刺さっていた。
エルピネス様が飼っているいわゆる愛玩動物なのだが、気まぐれな性格で、自分からすり寄って来たかと思えばいきなりハリを突き刺してくることもあるお茶目ちゃんである。
ハリは硬く、刺さると結構痛い。気づいていないことはないと思うのだが。
うん。やはりここはツッコミを入れて差し上げたほうが――。
「ニケ……今日、私は国王になった。これでようやく本格的に政策に臨めるというわけだ」
真面目な話か!
あ、危ない。あと少しでエルピネス様の胸に手の甲をぶち当てるところだった。
「そこで改めて、他でもない君に誓おうと思ったのだ。必ずこの国を守ってみせると」
「エルピネス様……」
いけません。いけませんエルピネス様。ハリネズミに刺されたままそのような真剣な眼差しを向けないでください。
「どうか見ていてくれたまえ。情けない姿を晒した時は容赦なく叱ってくれてよいのだよ」
「滅相もありません! 自分は常に王を信じ、ついて行くのみです!」
「ムフフ、そう言ってくれるかね。明日の演説では面白いものを披露する予定だ。我らの威光を示す最高の機会となるだろう。君もぜひ見に来てくれたまえよ」
エルピネス様は自信たっぷりに言い、俺の肩に手を乗せる。頭にハリネズミが刺さったまま。
「サクスムに光あれ」
新王はふっと笑うと身を翻し片手を振る。これはもう、頭のことは黙っておいた方がよさそうだ。
「ああ、ところで」
と、エルピネス様は当たり前のようにハリネズミを引き抜き呟いた。
「気付いておられたのですかっ?」
「む? いやそんなことよりも君の予定を聞きたいのだがね。君の母上に王になったことを報告したいのだ。明日から忙しくなるが、これだけはしておかなければ」
「は、はい。自分はいつでも問題ありません」
「おお、そうかねそうかね。では明後日の早朝、君の夜警が終わった頃にでも付き合ってくれたまえ」
では頼むよと頷き、エルピネス様はハリネズミを床に降ろした。
ふと、その顔にわずかばかりの陰が落ちる。
「君の母上に救われたこの命――それをようやく役立てられる時が来た。そう、これからだ。やっと……やっとこれから始められるのだよ」
ハリネズミの背中を見つめる王の瞳は、並々ならぬ思いに力強く閃いていた。
*
城の外――地上の街から微かに鐘の音が聞こえる。一日の始まりの鐘だ。翌日の第三刻、そろそろ人々が起き出す頃である。
今夜の仕事は残り一刻。無事に終わりそうだ。さすがに少しは気が緩む。眠気が来て、あくびが漏れる。
今は書庫の中を見回っているところだった。ずらりと大量に並んだ本棚には貴重な書物がいくつも収められている。仮に悪党に狙われるとしたら一番怪しいのはここであるため、棚の陰になっている部分も念入りに確認する。
異常なし。人影のみならず人の残すわずかな痕跡さえ見逃さないようにしているが、特におかしなところは見当たらなかった。
不安があるとすれば、寝室に関してはこうして中に入って検めることができない点だろうか。数人がかりで何度も廊下を巡回してはいるものの、室内を確認するタイミングには隙も生まれる。この間に廊下を通り抜けられ寝室に入られたら俺たちでは気づきようもなかった。
もっとも狙った場所に入るなら、城内の構造を熟知し、夜警の動きもある程度把握できなければならない。加えて全ての寝室の扉にはカギがかかっており、知らなければ一瞬の足止めにはなるだろう。侵入者にとってはあまりに不利な仕事のはずだった。
それにもう、早起きな人たちは起きているだろう。今さら侵入者に何かできるとも思えない。実質的に夜警の時間は終わっていた。
「あらあらニケ様ごきげんよう!」
書庫を出たところでさっそく甲高い声で挨拶された。頭に座布団を乗せたような印象的な髪型をした使用人、カストロニアだ。
「今朝も早いな、カストロ」
「夜警の皆様のおかげですわ~! ワタクシ、よそのお方が来ていてもぐ~っすりと眠れましたの! 感謝いたしますわね! オーホホホホ!」
笑い声がキンキンと耳に響く。夜も明けていないのによくもここまで元気になれるものだ。夜警としては見習うべきだろうか。
カストロのやかましさに半ば感心していた時、近くで扉の閉じる音が聞こえた。
こうして起床している者もいるのだからおかしなことではない。しかし俺は違和感を覚えた。
城の廊下は迷路のように入り組んでいるが、長く警備を務める俺には当然先に何があるのかなどすぐに分かる。音の方向には王族の寝室が並んでいる。
妙だと思うのは、この時間に彼らが起きてくることなど滅多にないからだった。
まずアガペーネ様だが、城下町の屋敷で寝ているため当然ここにはいない。ホドス様は朝に弱く、夜警中に顔を合わせることはまずないといって良い。エルピネス様に関しても同様だ。
第一王女のフィリアーネ様は、アガペーネ様と同じくそもそも寝室で眠ることが少なかった。本が大好きで、書庫に閉じこもったまま眠ってしまうことが多いのだ。
だが今日はまた事情が違う。彼女はとても酒に弱く、宴の時あっという間に酔いつぶれてしまい客人らと共に介抱されていたはずだ。
そういうわけで音の聞こえた方から誰かが起きてくるとは思えなかった。もっとも、王としての初演説を控えたエルピネス様がいつもより早く起きてくることは考えられたが。
何にせよ、見てみれば分かることだ。そう考えて足を向けた時、廊下の角を曲がって人影が現れた。
「え。あ――」
俺は目を見張る。隣でカストロが硬直する。
そこにいたのはウェントス人の兵士だった。特徴的な黒装束に身を包んだその青年は、だらだらと汗をかいて目を泳がせた。
「あ、あの、これは、違うんです」
「なんだお前は! 何をしている!」
俺はウェントス兵に飛びかかり、背後を取って壁に押さえつけた。
「ひぃぃ! ごめんなさいいい!」
「カストロ! 俺の帯にかけてある鎖を使え! 泡網でこの男を拘束しろ!」
「はっ、はは、はい!」
錆びた鎖があれば『漁師の泡網』という泡の中に敵を閉じ込める魔術が使える。訓練場でイェネオが俺に使った魔術だ。
カストロが鎖を兵士の手足と壁に触れさせる。そこから泡が生み出され、兵士の体を壁に拘束した。一度泡に入ってしまえば泡を壊さない限り外へは出られない。そして、こうして拘束された状態で魔術を使うのは至難の業だ。もう抵抗される心配はないだろう。
「助けて、本当に違うんですぅぅ」
もっとも最初から抵抗する気はないようだったが。まあ念のためだ。
「あの、なんか、起きたらいつの間にかここにいたんですっ。ほんと何も知らないんですっ。よ、酔っぱらってたので!」
「詳しい話は後でたっぷり聞いてやる」
俺は言い、懐から小さな法螺貝を取り出した。『昔語りの貝殻』だ。この魔術は貝の中に音を保存するというものだが、実は他の使い道もある。
法螺貝を地面に投げつける。貝が砕け散った瞬間、人の悲鳴にも似た高い音が耳をつんざいた。
音を保存した貝殻を割ると何十、いや何百倍にも膨れ上がった大音響が放たれるのである。これを耳にすればたちまち他の夜警たちが駆けつけてくるはずだ。
この男は嘘をついている。万が一本当にただの酔っぱらいが見張りに気づかれないままここまで来ていたのだとしても、何度も見回りをしていた俺たちが見つけていたはずだ。意図的に隠れでもしない限り、夜明け前まで見つからないなんて話は起こり得ない。
何が目的か、あるいは何をしたのか、徹底的に吐かせる必要がある。
どのように尋問すべきか悩んでいると、俺はふと、カストロがいなくなっていることに気づいた。
「坊ちゃま! お坊ちゃま! ご無事ですかっ? 坊ちゃま!」
寝室の方を見に行ったらしい。迷ったが、青年を置いてカストロを追いかける。
「一人で行くな! 仲間がいるかもしれない!」
彼女はまだ部屋には入れず、カギのかかった扉をガタガタと揺らしていた。やがてしびれを切らし、手のひらを押し当てて魔術を使う。
石の扉が波を打つようにうねり始め、どろどろに溶けて崩れた。足元に泥水が広がり、部屋の中が露わになる。『波打つ矛盾』という、触れたものを溶かす魔術を使ったようだ。
緊急事態だ、特に口は出さずにいっしょになって寝室を覗く。ほとんど家具のない殺風景な部屋のベッドで、エルピネス様が静かに眠っていた。
特に荒らされた様子はなく、エルピネス様もご無事のようだ。服も乱れていないし、怪我をした様子もない。
「ああ、良かった! お坊ちゃま、ご無事のようですわね!」
カストロがベッドへ駆け寄り、安堵のあまりか座り込む。
しかし。
「あ、あら? お坊ちゃま?」
カストロの顔が再び緊張でこわばる。慌てたように胸や口元を触り出し、鼻先に自身の耳を近づける。
「おいカストロ、何をしている」
「お、おかしいですわね。どうして、いえ、そんな、まさか――」
「なんだというのだ。いくらお前でもこれ以上は……」
「いえ、その。ああ! ニケ様は色々なお勉強をなされているのですわね! ニケ様に見ていただいた方がよろしいですわ!」
カストロの声は明らかに掠れ、震えていた。
「待て、俺に医学の知識はないぞ。さっきから何をそんなに慌てている」
「お、お黙り下さいまし! 慌ててなどいませんわ!」
悲鳴のような、叫び声といって差し支えのない声だった。いつもうるさい彼女だが、今のは普段のそれとは違う。耳を塞ぎ、現実から目を背けるように、声を荒げることで逃げている。
何から? その答えを探した時、俺の額から汗が流れた。
眠っているエルピネス様に駆け寄る。その頬に触れてすぐに気が付いてしまった。
異様なほどに冷たい。それに――。
「なんということだ……」
エルピネス様は息をしていなかった。