3. 告発の儀
魔術の力とは恐ろしいものだ。『岩の巨神』の件でそれを再確認されられた。圧倒的な力を前に、魔力を持たない人間は恐れおののくしかない。
けれどカリダ様は怯まない。それどころか今、自身よりはるかに強いであろう者たちを見下ろし、一国を救おうとしている。
時として人の知恵は魔術をも凌駕する――親父の言葉を思い出す。どれほど魔力が強くても、どれほど戦士として優れていても、この事件は解決できない。頂上に立つのは子どものように小さくか弱い彼女でなければならない。今この時、サクスムを守れるのはカリダ様ただおひとりだった。
天から降り注ぐがごとき眩い光を受け、探偵を見上げる犯人候補は七人。ホドスネス様、フィリアーネ様、アガペーネ様、スキアダン様、アスピダダン様、ソポスファーナ先生、カストロニアーーこの中に必ず、国王暗殺に深く関わる人物がいる。
「ここから先はむやみに喋らんようにお願いしますよ」
ロギオス監視官が言った。
「カコ元監視官の事件の時みたく、皆で喋って話がゴチャゴチャしたらあきまへんからなあ」
俺たちがマムニカから命を狙われたあの事件の事だろう。城に戻ってから広間で皆と話し合ったが、確かにあの時は四方八方から意見が飛んでくるものだから大変だった。
「うんうん! そうしてくれるととっても助かるよ~。ロギオスくん、ありがとね~」
優しい声で礼を言い、カリダ様は改めて皆の方を見る。
「さてと。そろそろわたしの推理を話したいところなんだけど、その前に事件のことを振り返ってみよっか~」
彼女はあくまでもいつもの調子を崩さずにこにこしていた。最初は戸惑ったものだが、今となってはどれほど緊迫した場面で笑みを浮かべていようと驚きはない。
彼女はすらすらと国王暗殺事件の詳細を語る。始まりは昨日の早朝、第三刻のことだ。城内で見回りをしていた俺が不審なウェントス兵を見つけ、捕らえた。そこはエルピネス様の寝室付近であったため、彼の安否を確認に向かう。同行したカストロニアと共に鍵のかかった扉を破壊し中へ入ったところ、エルピネス様の死亡が判明した。ただ眠っているかのようなきれいな状態で亡くなっていた。
それからすぐに城を封鎖し、人の出入りを禁じた。例外として医者や監視官、アガペーネ様たちが渡し守によって連れて来られている。
その後エン医師たちによりエルピネス様の死因が調べられた。遺体に外傷はなく、表情も安らか、毒の痕跡などもないとして一度は自然死と片付けられそうになったが、エン医師により『泥水の悪魔』の検査がされたことで事態は急変。エルピネス様が毒殺されていたことが発覚した。
『泥水の悪魔』とは肉体から魂を引きはがす毒薬である。魔術によって作られるそれは、魔力を流すと無毒化され、痕跡を残すことがない――とされてきた。
しかしながらかなりの量を飲ませる必要がある上に、飲んでいる間も苦痛を与えてしまうためにとてもではないが暗殺に使える代物ではないはずだった。
「ちょうどこの子一匹分くらいかな~」
「キュー、キュー」
いつの間に取ったのか、ファルマコに抱きかかえられて寝ていたはずのハリネズミーーハリトメノがカリダ様のローブの中から出てきた。このハリネズミ一匹分、おおよそ小さめの水筒一つ分程度が致死量となるそうだ。
飲ませたことに確実に気づかれるということは抵抗されることも必至で、拘束したとしても確実に傷跡が残る。普通に使えば痕跡を残さないことなど不可能なのだ。そんな、拷問のためにしか役立たない毒を、犯人は暗殺に利用した。
そこが大きな問題だ。今回の事件にはもう一つ無視できない要素がある。それは、被害者であるエルピネス様の特異体質だ。
彼は一度眠ると何をされても起きず、赤子の頃からホドス様たちに心配されていた。それは寝起きが悪いといった程度のものではなく、診察した医者にいつ目を覚ますか分からないと言わせるほどだった。
その深い眠りは紛れもない弱点だ。犯人はそこを突き、拘束することなく『泥水の悪魔』を飲ませることに成功した。そうすれば暗殺の痕跡は残らず、エルピネス様の本当の死因は隠される――それが犯人の計画だったのだろう。偶然にもファルマコが毒の検出方法を発見していたため、結果的には見破られたわけだが。
むしろ犯人は墓穴を掘っている。この計画はエルピネス様の体質を知らなければ立てられないものであり、体質のことは重大な秘密として一部の者の中でのみ守られ続けてきた。
犯人候補とはすなわち、深い眠りの秘密を知る七人のことである。直接犯行に至ったか刺客を送り込んだかは不明だが、彼らの誰かが犯行に深く関わっていることは間違いなかった。
「ここまでが皆も知ってる事件のあらましだね~。犯人は自分の手か仲間の手を使って、寝室で眠っていた王様に毒を飲ませた――わたしが今から話す推理は、その犯行が不可能だった子たちを一人ずつ除外していくっていうものだよ。七人のうち六人が除外された時、最後に残った一人が犯人になるの」
なるほど。七人の中に犯人がいるのなら、他の全員が犯人でなかった時自ずと答えが出るわけだ。
「そんなこと可能なわけ?」
アガペーネ様が横やりを入れた。ロギオス監視官が咳払いしたが、お構いなしに続ける。
「犯人が直接殺したって分かってるならともかく、仲間にやらせてるかもしれないんでしょ? じゃあ事件の時本人が何してたって、犯人の可能性を潰せないことになるじゃない。それでもアンタには一人一人の疑いが晴らせるっていうわけ?」
「もちろん!」
カリダ様は即答した。
「自分で手を下した可能性も、仲間を使った可能性も、必要な情報さえあれば否定できるんだよ~。エルピネスくんが遺してくれた仕掛けのおかげで、その調査もとっても簡単になったの」
彼が遺した仕掛けと言えばあれしかないだろう。俺はすぐに察した。
「皆は『開かれた隣室』っていう魔術を知ってるかなぁ? 四角形のお部屋の隣に、全く同じ形の部屋を作り出す魔術なんだけど~」
カリダ様が解説を始める。
『開かれた隣室』――あまり広くは知られていないマイナーな魔術の一つで、今言ったように四角形の部屋の隣に同じような部屋を複製できる。手順は簡単だ。部屋の床に魔術文字を刻み、壁際に扉を設置する。扉の奥は石壁で埋めて、扉が開かないようにしておく。その状態で魔術を使い、奥へ向かって扉を開くと本来ないはずの部屋が現れる。『霧覆いし世界』や『深き水面』のように、空間を生み出せる希少な魔術だった。
「でもね~、エルピネスくんがこの魔術を使ったのは単に部屋を増やすためじゃないんだぁ。『開かれた隣室』にはもっと細かい仕様があるの」
カリダ様はそう言って、人差し指を立てる。
「一つは『隣室』を生み出すと、部屋だけじゃなくて床の魔術文字も複製されること」
さらに中指を立てる。
「二つ目は、魔術文字を消すと『隣室』も消えてしまうこと。複製された部屋にある文字を消しても『隣室』はなくなっちゃうんだぁ。でもこれは扉を開け放した状態での話。重要なのはここからだよ」
彼女は三本目、薬指を立てた。
「扉を閉めた状態で魔術文字を消すと、面白いことが起きるの。『隣室』が残ったまま魔術の効果が消えちゃうんだぁ。つまりね~、二つの部屋を繋いでる扉を開けられなくなっちゃうんだよ~。どっちの扉の奥にも石壁しかない状態になって、元の部屋と『隣室』にあった繋がりが完全に断たれちゃうんだぁ」
そして四本目、小指を立てる。これが最後の、最も肝心な仕様だ。
「そうして扉が開かなくなった後、こっち側――元々あった方の部屋から扉や壁に穴を開けても、絶対に『隣室』に行くことはできないの。他のどんな魔術を使っても、元の部屋を丸ごと破壊し尽くしても、絶対の絶対に『隣室』は現れない。だけど逆に、『隣室』の方で魔術文字を直すか扉を壊すと簡単に元の部屋と繋がれるんだ~。これが第四の仕様、『施錠』だよ! 一度閉まったら外からじゃどうやっても開けられない絶対的な『施錠』。それを利用してエルピネスくんは寝ている時の無防備な自分を守ってたんだよ~」
「お、お待ちくださいまし!」
カストロニアが挙手する。皆の視線が集まった。
「なあに?」
「カリダ様のお話はおかしいザマス! ワタクシがご遺体を見た時、『隣室』などにはありませんでしたわ!」
その意見にホドス様やスキア様も同意するように頷いた。彼女の言ったように、俺たちが遺体を見つけた時は『隣室』ではなく元の部屋にあった。だが既にその理由も判明している。
「うんうん、そうだったよね~。それは犯人が動かしたからなんだよ~」
「どうして断言できるのザマスか?」
「扉が壊されてたからだよ」
カリダ様は素早く答える。
「エルピネスくんの寝室には出入り口とは別に、石壁に阻まれた木製の扉があるんだぁ。さっきは言ってなかったけど、扉を木で作ることも魔術を扱う条件の一つなの。だから、『開かれた隣室』が使われたことは間違いないと思うよ~。しかもその扉に穴があけられてたんだぁ。奥の方、つまり石壁側から壊された形でね~。めくれた木の皮を撫でつけることで目立たないようにされてたけど、あの扉はもう役目を果たせなくなってた。つまりね、『隣室』を維持できない状態になってたの」
それが何を意味するか、頭の回転の早い者なら察したことだろう。カリダ様は説明を続ける。
「これって変だよねぇ? 自分の身を守るために『隣室』を作ったエルピネスくんが、扉を壊したまま放置するはずないから。だからこれは犯人の仕業だと思うの」
「犯人が? どうしてそんなことをするんだい?」
今度はスキア様が口を開く。ロギオス監視官がまた咳払いした。カリダ様は気にした風もなく頷いた。
「そうだよねぇ。犯行現場の寝室を壊したら、そこで事件があったっていう痕跡を残すようなものだから、絶対に避けたいところだったはず。『泥水の悪魔』を使って完全犯罪を企んでいたくらいだからそれは間違いない。でも犯人以外に扉を壊した人がいるとも思えない。なら答えはこうじゃないかなぁ? ――犯人は扉を壊さざるを得なかった」
カリダ様の言葉に、皆が各々の反応をします。考え込む者、首を傾げる者、あくびする者――表情や仕草から犯人らしき人物を探ろうと試みたが、ソポス先生が余裕そうにしていること以外は何も分からなかった。
「『開かれた隣室』の仕様は覚えてるかなぁ? 『施錠』された『隣室』から出るには、魔術文字を刻み直すか、扉を壊すしかないって。犯人はエルピネスくんを毒殺するため、部屋に侵入するところまでは成功した。でも毒を飲ませて外へ出ようとした時に、初めて扉が開かないことに気づいたんだよ~。だから慌てて扉を壊して、何とか部屋を出たんじゃないかなぁ。無理矢理抜け出したから『隣室』もなくなっちゃって、外にはじき出されたエルピネスくんをベッドに寝かせるしかなくなった。そうやって現場の状況が作られたんだと思うよ~。本当は魔術文字を書き直すだけで外には出られたはずなんだけど、犯人は仕様を知らなかったんだろうね~。だから強引な手段で脱出するしかなかったんだよ」
犯人は知識がなかったために、現場に痕跡を残してしまった。木の皮を撫でつけた跡からしても、犯人が扉に穴を開けたくなかったことは明らかだ。
「これで犯行現場が『隣室』だったことは納得してくれたかなぁ? この手掛かりは本当に大きかったんだ~。『隣室』に入る方法は限られてるからね~。エルピネスくんより先に部屋に入って待ち伏せするか、一緒に部屋に入るか。『施錠』された後で入ることはできないから、この二つしか方法はないでしょう? しかもね~、遺体の状態から考えればもっと条件を絞れるの! エルピネスくんは眠っている時に毒薬を飲まされたんだよねぇ? つまりエルピネスくんは犯人の目の前で眠ったっていうことになると思うの。こんなこと、犯人に気づいていなかったか、犯人に心を許してないとありえないよね?」
そうか、そういうことになるのか。しかし後者は分かるが前者はありえるのだろうか。寝室の殺風景さから見るに『隣室』にも隠れる場所などなさそうに思えるが。
「まとめると、犯人が実際に取り得た侵入方法は三つになるね。
一、犯人はエルピネスくんに招き入れられた。
二、犯人はあらかじめ『隣室』に侵入して、エルピネスくんが眠るまで気づかれずに潜んでいた。
三、犯人はエルピネスくんと同じタイミングで気づかれることなく『隣室』に入り、そのままエルピネスくんが眠るまで潜んでいた。
この三つの方法の中で、一人一人の可能性を丁寧に見ていけば、いずれ必ず犯人にたどり着ける。そう考えて、わたしはこれまで情報を集めてきたんだ~」
やはりカリダ様には最初から答えにたどり着くための道筋が見えていたのか。闇雲に真相をつかもうとしていた俺とは根本的に違っていた。
彼女の推理を余さず聞いて、頭に焼き付けなければならない。俺もいずれ、彼女のような力を身に着けねばならないのだから。
カリダ様は一度言葉を切り、ふぅと息を吐いた。ようやく前置きが終わったといったところだろうか。
犯人候補の七名から一人一人を除外していく――その段階に突入したのだ。
「それじゃあまずは、エルピネスくん本人に部屋に招き入れてもらった可能性から考えてみよっか~」
*
「エルピネスくんが自ら進んで犯人を部屋へ招き入れた……これは言い方を変えると、犯人の前で進んで眠りについたっていうことになるよね」
カリダ様は
「エルピネスくんにとって、そんな風に無防備を晒せる相手は限られていたはずだよ。立場もあるけど、何より深すぎる眠りの体質があるからね~。わざわざ魔術まで使って隠していたんだから、秘密を守る意味でも迂闊に人前で寝たりはしないはずなの。でも逆に、既に秘密を知る七人に関しては隠す必要がない。エルピネスくんは老若男女問わず誰でも受け入れる子だったみたいだし、密室の中で誰と寝ても不思議じゃないんだよ~。相手が男の子とか家族であってもね」
「はああっ?」
アガペーネ様がたまらず声を上げる。ロギオス監視官もさすがに驚いたのか、彼女らを咎めるどころではないようだった。しかしすぐに冷静さを取り戻し、挙手する。
カリダ様に許可されるのを待ち、彼は質問した。
「趣味のことはまあ、ええとして……エルピネスはんがこっそり誰かに秘密を漏らしていた可能性は?」
「それはないみたいだね~。スキアくんと秘密を共有したのが二年前くらいらしいけど、その直前にエルピネスくんからホドスくんたちに相談してたみたいだからね~。親密になりたい人がいたとしても、必ずこの七人の耳には入ってたはずなんだぁ。八人目の存在を誰も言い出さないなら、存在しないってことになるんだよ~。この七人が全員グルでもない限りはね~。でもその可能性は後々否定できるから心配しなくていいよ~」
七人全員が犯人……そんなデタラメみたいな真相が待つ可能性もあったのか。
「だからね~、『隣室』に招き入れられたのは犯人候補の七人でしかありえないの。この方法を選ぶなら刺客を送りつけることはできないんだ~。つまり、エルピネスくんのお部屋に直接侵入できない人――例えば事件当時お城の外にいたアーネちゃんとかは、この方法を使った可能性から除外できるんだよ」
アガペーネ様がふうと胸をなでおろす。ホドス様もほっとした様子を見せる。
「……」
その時、スキア様が顎に手を当てて何かを考え込んだ。カリダ様を睨み、その表情を探っているようだった。
その様子に違和感を覚えたが、カリダ様がまた話し始めたので意識をそちらに戻した。
「フィリーちゃんも事件当時は酔いつぶれて介抱されてたから寝室には行ってないよね~。わたしも酔っ払っちゃったんだけど、フィリーちゃんも同じ部屋にいたから間違いないよ~」
これは大勢から証言が取れることだろう。異論は出ない。
「次にホドスくんだけど……」
カリダ様がホドス様に目を向ける。彼は項垂れたまま視線を返さない。その隣でアガペーネ様とフィリアーネ様が目を大きくした。
俺も気づいた。ホドス様が『隣室』に足を運ばなかった事実を示すには、彼が当時外にいた証拠が必要だ。
王妃様の件を明かす時が来たのである。
「ホドスくんは事件当時、お城の外にいたの。ピルゴスくんになりすます形でね~」
瞬間、ゴンッと鈍い音がした。平らな鉄の仮面を付けた大男――ピルゴスニルが尻もちをついていた。表情は見えないが、驚きに動けなくなっているのは一目瞭然だ。
事実を知らない人々は皆一様に怪訝な色を顔に浮かべる。
「……余から話そう。いや、話させてほしい」
暗く沈んだ声で彼は言う。カリダ様に許可され、先を続けた。
「余には妻がいた。皆も知る、ランプロティターネのことだ。八年前の戦争中ウェントス兵によって襲撃され、遺体も残さず殺された――そのように説明していたが、事実は異なる。ランプは確かに死んだが、遺体は残っていたのだ」
人々がざわついた。どういうことだと互いに顔を合わせて首を傾げる。けれどサクスムの人々は黙っていた。何を言われたのか分からず戸惑っている様子だった。ピルゴスニルだけが全てを理解しがたがたと震えていた。
ホドス様は皆が静まるのを待ち、階段の上で膝をついた。頭を深く下げ、絞り出すような声で詫びた。
「余はランプと離れたくないばかりに、遺体を隠し、自分だけで何度も会いに行っていた。自身の心を慰めるために、民を騙し、サクスムの法を犯し、あろうことか娘たちまでをも悲しませ続けてきたのだ」
皆、唖然としている。いきなり事実を告げられてもとっさには信じられないようだった。
「証拠はあるぜ」
東側の扉が勢いよく開き、イェネオが入って来た。傍らには荷車に載せられた巨大な何かがあり、布を被って正体を隠していた。
彼は真実を知る者の一人だ。だからカリダ様に頼まれ、この時のために待機していた。
イェネオが布を剝ぐ。その下から現れたのは、王妃ランプロティターネ様のご遺体と、それを包む巨大な琥珀――『永劫の石』であった。
息を飲む者、声を上げる者、様々な反応で場がまた騒がしくなる。イェネオはお構いなしに話を続ける。見覚えのある首飾りを手に持ち、高く掲げた。
「コイツはホドス様が事件の前日までお着けになっていた首飾りだ。事件の翌日、王妃様のご遺体の傍――つまりは城外でこれが見つかった。ホドス様が外出されていた証拠だろう。――何か反論はあるか? ピルゴスニル」
皆の視線がピルゴスニルに移り、彼はゆらゆらと首を振った。次の瞬間、手足をばたつかせて立ち上がり、逃げ出した。
「にゃあ、質問に答えろよ」
「っ!」
しかし即座にイェネオに追いつかれ、足払いで転倒する。必死に暴れても的確に受け流され、首に『蛍花』を突き刺されて魔力まで奪われた。
「事件当日、夜に城を出て夜明け前に戻ってきたのはお前だけだって聞いたぜ。ホドス様が外に出る機会なんて、お前を利用する以外には考えられねえんだよ」
イェネオは彼の髪をわしづかみにして、追い込むように囁く。ピルゴスニルはこらえきれなくなったように、掠れた声で叫んだ。
「お、おいホドス! 俺を助けろ! 貴様のために俺がどれだけ献身してやったと思っている!」
「なんだお前、喋れるんじゃねえか。喉が潰れた振りをしてたのは声を出さなくても不自然にならないためか? そうすりゃホドス様が変装された時に声でばれずに済むからにゃあ? ……なんて、問いただす必要はもうねえか。今の発言、自分が協力者だと認めたってことだよな?」
「ホドス! ホドス! ホドスゥゥ!」
ピルゴスニルは狂ったように繰り返し、ホドス様のほうへ手を伸ばす。けれど届くはずもなく、返ってきたのはため息のみだった。
「ピルゴスよ。最初に言っておいたはずだ。この罪が知れ渡った時、滅びるのは余だけではないと。余も其方も、地獄に落ちる時だ」
「ふざけるな! 呪うぞ、呪い殺してやる! そうだ、呪いだ、はは、ふははは! 貴様の息子のように呪いで命をすり潰してくれるぞ!」
「馬鹿かお前は」
イェネオに頭を強く踏みつけられ、ピルゴスニルは白目を剥いて意識を失った。
「ちゃんと話聞いてりゃ分かるだろうが。あれは呪いじゃなく人による殺人だ」
イェネオの後ろから兵士たちがやって来て、愚かな小悪党を外へ運んで行く。しばしの間、奇妙な沈黙が流れた。
ホドス様はその場に座ったまま何も言わない。フルリオダンとの件についてだけは、黙っておこうとはっきり決めてある。あの殺人でホドス様が咎められる理由はなく、ならば話す必要はないと判断したのだ。これ以上人々を混乱させたくないという理由もあった。
「これで分かってもらえたよね~? ホドスくんも『隣室』に行くことはできなかったの」
カリダ様が話を戻す。そう、まだ告発の途中だ。アガペーネ様、フィリアーネ様、ホドス様の三名の容疑が晴れたことになる。もっとも、刺客を使わなかった場合に限った話だが。
「じゃあ次は、カストロちゃんについてだね~」
皆、今の騒ぎに驚いて話を聞くどころではない様子だったが、カリダ様の声が耳に入った瞬間、まるで正気を取り戻したかのように聞く体勢に戻る。のんびりとして眠くなりそうな声のはずなのに、自然と視線が吸い寄せられ、耳を傾けてしまうのだ。
しかし、彼女はどうやってカストロニアを除外するつもりだろう。はっきりと犯人でないと分かるような情報はなかったように思う。今までの三名のように、事件当時どこにいたか確実に示せる証言がなかったからだ。
あるいは、候補から除外しないつもりだろうか。
カストロの顔を見やると、汗をだらだらと流しながら青ざめていた。怪しい。
「カストロちゃんが『隣室』に行ってないことを説明するには、まずニケくんの体質について話さないといけないんだ~」
と、カリダ様は予想外の言葉を口にした。事前に聞かされていないのだが。
「皆はカストロちゃんが火だるまになった事件は知ってるかなぁ? サクスム兵の子が爆ぜ石を落っことしたんだけどねぇ、それをニケくんが拾ってカストロちゃんに渡したら爆発しちゃったんだぁ。でも悪意があったわけじゃないの。ニケくんは体に魔力を溜め込めなくて、常に魔力が漏れてるから」
魔力漏れの体質。これは昔『無力の導き』を使われ魔力を失った際、同時に負った怪我のようなものだ。分かる人ならばすぐに事情を察するだろう。まさかその禁じられた魔術を使ったのがフィリアーネ様だとは思わないだろうが。
「ほら、見て~。光ってるでしょ~?」
「ん?」
カリダ様が俺の腕に何かを当てていた。石が光っている。じわじわと明るさが増していき、ぞくりと背筋が凍った。
「ちょ、ちょっとおおおっ? なんてことをするのですか!」
当てられていたのは爆ぜ石だ。魔力を与えられると爆発する石である。つまりこのまま放っておけば俺もカリダ様もひどい目に遭う。
「は、離れてくださいっ。正気なのですかっ?」
「まあまあ落ち着いて~。爆発しないから~」
「へ?」
どういうことだろう。爆ぜ石ではないのだろうか。いや、石の鑑定眼には自負がある。これは紛れもなく本物の爆ぜ石に違いない。
「カストロちゃんを火だるまにしちゃった爆ぜ石なんだけどね、実は緑色の草に包まれてて、最初は正体が分からなかったんだ~。だからニケくんは危険に気づかずしばらく持ち歩いてたんだけど、その時は爆発しなかったんだよね~。なのに、カストロちゃんに渡した瞬間にちょうどよく爆発したの。それも、急激に光を増してね~。さすがにちょっと不自然でしょう?」
確かに不運だったとは思ったが……何が言いたいのだろうか。まさか緑の玉によからぬ仕掛けでもあったか?
しかして彼女の結論は、もっと単純なものであった。
「だから思ったの。爆ぜ石を爆発させちゃったのは、カストロちゃん自身なんじゃないかなあってね~」
瞠目する。ありえないことだ。何故ならそれは、カストロにも魔力漏れの体質があることを意味しているから。
「あ、ありえませんわ! ワタクシ、昔から至って健康な体でしたし、ニケ様のように『無力の導き』を受けたことも……あっ」
カストロが固まる。はっきりと魔術名を口にしてしまったため慌てて黙り込んだのかと思ったが、一点を見つめ、手を震わせる様子から違うと分かった。何か心当たりがあるらしい。
「そ、そうですわ……ニケ様が『無力の導き』をかけられていたとき、ワタクシが飛び込んで……」
俺も思い出す。そういえばカストロも、本当にわずかな時間ではあったがあの魔術の範囲内に足を踏み入れていた。
「うん、わたしもその話を聞いて確信したんだ~。ちゃんと証拠品も用意してあるよ~」
カリダ様がローブの内から小瓶を取り出す。蜂蜜のようなどろりとした液体が入っている。
「これは『永劫の石』が溶けたものだよ~」
そうだ、彼女はこれを城下町で購入していた。単なるお土産だと思っていたが、ここで出てくるとは。
「琥珀の状態の時に魔力を流すと溶けるんだけどね~、魔力をくれたのはカストロちゃんなんだぁ」
「ワタクシですかっ?」
カストロが声を裏返す。カリダ様はにこにこと頷いた。
「そうだよ~。実は今朝、魔獣の騒ぎが起こる前にカストロちゃんと会ってたんだけど、その時こっそり『永劫の石』を近づけてみたんだ~。そうしたらこの通り! 勝手に溶けたんだよ~。気づかれないように近づけたし、わたしがこれを持ってるなんて知らなかっただろうから、本人も知らない間に魔力を放ってたっていう証拠になるんじゃないかな~」
「それとね、ニケくんだけじゃ爆ぜ石を爆発させられないっていう根拠もあるよ~。さっきイェネオくんが持ってきてくれた王妃様の遺体――実は『永劫の石』に包まれてるんだけど、ニケくんが近づいても溶けなかったんだ~。爆ぜ石を爆発させるには『永劫の石』を溶かす以上の魔力が必要なのに、ニケくんにはそれがなかった。だから緑の玉をずっと持ち歩いてたのに無事でいられたんだね~」
情報は俺の視界の中に転がっていたのか。なのに何も気づけなかった。この話を何故今しているのかということさえ、俺には分かっていない。
「あ、ああああの、カリダ様? それより、それよりもワタクシは無実ですよねっ? そうですわよねっ?」
彼女が怯えているように、今のところ『隣室』に行っていない証拠は出ていない。魔力漏れの体質がどう関わってくると言うのだろう。
「大丈夫だよ~、今の話が証拠になるから~。事件に使われた毒薬のことを思い出して欲しいの。『泥水の悪魔』は、魔力を流すと無毒化できるでしょ~? ファルマコちゃんから聞いたことだけど、『蛍花』を光らせられるくらいの魔力――つまりニケくんくらいの本当に微弱な魔力でも無毒化できちゃうんだって~。なら、常にそれよりたくさんの魔力を出してるカストロちゃんにも同じことがいえるよね~?」
俺が溶かせなかった『永劫の石』を彼女は溶かした。ならそれは断言しても良いことだろう。
「魔力漏れは制御できないし、蛍花を光らせる程度の魔力ならすぐに戻る。だからカストロちゃんが『泥水の悪魔』を手に取った時点で、本人の意思に関係なく無毒化しちゃうの。でもエルピネスくんはこの毒によって命を奪われてる。だからカストロちゃんは、少なくとも自分自身の手では毒を飲ませてないってことになるんだ~」
「そ、そうザマスそうザマス! ワタクシは無実ですわ! 大体、今回の事件でワタクシがどれだけ胸を痛めたことか! 今すぐ犯人の首を絞めあげてぶっ殺してやりたいところですわぁ~!」
ほっとしたあまりか物騒なことを言い出したが、これで一旦彼女も候補から除外された。
「『断絶の布』で毒を入れた容器を包めば持ち歩けるのでは?」
と、ロギオス監視官が問うたが、毒を容器に入れる時やエルピネス様の口に含ませる時にどうしても魔力に晒されるとして否定された。毒を飲ませた後で無毒化できてしまうように、魔力はあらゆるものを平気ですり抜けてしまうのだ。
「エルピネスくんの全身を覆えるくらいおっきな『布』があれば何とかなるかもしれないけど、そんなに大きいと隠し持てないし、犯人は犯行を終えるまで外に出てないから、外から『布』を持ってくることもできないからね~」
これ以外に反論の声は上がらず、カリダ様の推理が是とされた。
残るは三名。固い唾を飲み彼女に耳を傾ける。
「次はソポスちゃんだね~。とっても単純な理由で除外できるよ~。犯人は『隣室』から出る時、魔術の仕組みが分からなくて扉を壊したよね? でも魔術に詳しいソポスちゃんならそうはならなかったはずでしょ~? ニケくんに『開かれた隣室』について教えてくれたこともあるみたいだしね~」
そうか。魔術の研究者であるソポス先生なら、『隣室』の魔術文字を書き直して外へ去ることくらい容易にできたはず。扉に要らぬ痕跡を残すこともなかっただろう。
当然これに異を唱える者はいなかった。
「次はアスピダくんだね~。この子については、実行犯だけじゃなくて、犯人である可能性自体を同時に否定できるの」
刺客を使った可能性もない、ということか? そう聞くまで俺は、優秀な手足を持つ彼こそが一番怪しいと踏んでいた。
「アスピダくんは『影』っていう諜報組織のトップなんだけどね~、今回の国王就任式に足を運んだ子たちはみ~んな『影』によって身辺調査を受けてるの。その中の一人には名医のエンくん、それに従者のファルちゃんも含まれてるんだ~」
「ひょっ?」
突然名を呼ばれ動揺したか、エン医師が素っ頓狂な声を出す。ファルマコはついにこの時が来たかという顔をして、覚悟を決めた眼差しになった。
「アスピダくんはファルちゃんの生活や研究について知り尽くしてる。ファルちゃんはね、本当は従者じゃなくて研究者なんだって~。無毒化した『泥水の悪魔』から特殊な物質を生まれる――誰も気づかなかった毒の痕跡を、世界で初めて発見したと~ってもすごい子なの! エルピネスくんの死因解明ができたのは、ファルちゃんのおかげだったんだ~!」
「なああっ? なっ、なっ、なあああっ? 何を仰るのですかぁ!」
「エン殿。否定しても無駄ですぞ。既に吾輩の『影』により調べはついております」
「あ、あわわわわ……!」
ツルツルの禿げ頭から大量の汗が噴き出し、エン医師は目を白黒させる。ファルマコは倒れそうになった彼を支え、頭を下げた。
「み、皆さん、誤解しないでください。わたしはエン様から無理やり研究成果を奪われたわけじゃないんです。そ、それよりも! 事件のことのほうが大事……ですよねっ?」
本当に健気な子だ。何故こんな情けない男を助けるのか甚だ疑問だが、彼女の言うとおり今はエン医師の罪を問う時間ではない。
「と、とにかく! アスピダ様はわたしたちの研究のことを知っていたんです! 重要なのはそこだけ、だと……思い……ます……。た、多分……」
次第に声をしぼませる彼女に、カリダ様はこくこくと頷いた。
「うんうん、そういうこと! アスピダくんは『泥水の悪魔』の研究を知ってたの。『影』の調査が研究の内容にまで及ぶことは、既に皆知ってるはずだよ~。まさにこのホールで、この毒の研究について話していた時に、アスピダくんがその情報網を発揮してたから! 『ロギオスくんならば論文の内容を理解できるはず。元学者で、分野も近いから』ってね~」
ああ、そんなことがあったような気もする。昨日の朝のことなのによく思い出せなかった。
「『魔術によって生まれる物質』……」
ロギオス監視官が呟いた。
「アスピダはんは、確かにウチの研究を知っとりました。随分昔のことなのによう調べたモンですわ」
言ってもいない情報をいつの間にか握られているのは、本人にとっては鳥肌が立つような思いだろう。よく覚えていたらしい。
カリダ様は頷き、続ける。
「このことから分かるのは、アスピダくんは『泥水の悪魔』を使っても、完全犯罪になり得ないことを知っていたってこと。そんな毒を犯行に使うかなぁ? これまでの前例からエンくんが死因の解明に加わることは分かり切ってたのに。エンくんなら研究成果を使って毒を検出しようとすることも分かってたはずなの。なら、毒を使った計画を立てるのはおかしい。仮に使うなら、エンくんがお城に来られないように妨害したはずだよねぇ? そうしないと却って犯人候補を絞らせる結果になっちゃうから。『隣室』の扉の傷を隠そうとした痕跡があることから考えて、犯人はあえて自分を追い込むような真似はしないはず。だからアスピダくんは犯人じゃないと思うんだぁ」
話し終え、カリダ様は一度息をつく。異を唱える者はない。アスピダ様は真顔のままで、特に反応は示さなかった。
とうとう六人目の犯人候補が除外された。残すは一人。皆の注目が自然とスキア様に集まる。
彼はと言えば、片方の拳を腰に当て、冷めた目つきでカリダ様を睨んでいた。眼差しの中にわずかながら敵意を感じた気がして、背筋が凍る。思わず身構えてしまった。
最強の騎士スキア様が犯人なら、一体誰に捕まえられるだろうか。不安に駆られる皆の気配を察知し、彼は頬を緩めて両手を上げた。
「いやいや、落ち着いてよ皆。まだ僕が犯人と決まったわけじゃないだろう? それに、僕から一つ言いたいこともあるんだ」
「なあに~?」
きょとんとするカリダ様に、スキア様は手をあげたままで答える。
「花国探偵。君の推理は概ね正しいけれど、一つ見落としがある」
「ふん、見苦しいわよ」
アガペーネ様が割って入る。
「アンタ、自分が犯人ってばれたくないから苦し紛れを言ってるんじゃないの?」
「はははっ、手厳しいなぁ。ですがこの可能性には気を配るべきだと思いますよ」
スキア様は余裕そうに笑い、カリダ様をまっすぐに見据える。
「ハリトメノが魔獣なら、犯行も不可能じゃない。そうは思わないかい?」
「……キュ?」
カリダ様のトンガリ帽子の上にひょっこりと顔を出し、ハリトメノが小首をかしげた。
魔獣と聞けばこの場の誰もが巨神の事件を思い出すだろう。次いで目に浮かんだのは今朝国門へ攻め込んできた魔獣の大軍勢だ。俺が見た時には血と死骸の海と化していたが、今考えるべきは彼らが軍を為せるほどの知能を有していたことだろう。
「種類にもよるけど、時に魔獣の知能は人間並みに高くなる。普段の様子からハリトメノは人の言葉を理解していそうだし、自分で扉を開け閉めする器用さも持ち合わせている。彼が例えば――猿の魔獣のような仲間に『泥水の悪魔』を仕入れてもらえたなら、犯行は実に容易いはずさ。何しろ、彼は既にエルピネス様と何度も一緒に眠ってるんだからね。眠りの体質のことだって自力で気づいてもおかしくない」
突飛な意見にも聞こえるが、魔獣の恐ろしさは身に染みている。ハリトメノが魔獣であったなら、計画殺人ができても不思議ではない。
皆がざわつき始めた。ロギオス監視官が静まらせ、カリダ様に視線を向ける。どうなのかと問うような目だった。
「さすがだね~」
カリダ様はあっさりと認める。やはりハリトメノも犯人候補となり得るのか?
「その可能性については後で補足しておくつもりだったんだ~。分かりやすい順番で話したかったから、さっきは言及しなかったの。ごめんね~」
スキア様がぱちぱちと瞬きする。
「まさか、彼が犯人じゃない根拠でもあるのかい?」
「うん! だってこの子は事前に『施錠』のことを知ってたはずだから!」
「……ああ、そうか!」
スキア様が目を見張る。残念ながら俺はまだピンと来ていない。
「ハリトメノくんはお城の色んな所に現れて、色んな人と寝たことがあるって聞いたよ~。でも大抵、目覚めた時にはどこかに行っちゃってるって。なら、エルピネスくんのお部屋で寝た時も自分で扉を開けて出て行こうとしたはずだよね~? でもそうすると、必ず『施錠』に阻まれたはずなの。何度もお部屋に行ってるなら毎回魔術文字を消したり書き直したりしてる姿も目にするだろうし、計画殺人ができるくらい頭が良かったら、『施錠』の仕組みにも気づけるはずだよね~。だから計画を立てる時点で既に、『施錠』のことを考慮してないとおかしいの」
間抜けな小悪党なら「失念していた」の一言で済まされそうなものだが、自分で造れない魔術毒をわざわざ仕入れてきてまで完全犯罪を為そうとした用意周到な犯人が、これほど重大なことを忘れるとも思えなかった。
「アスピダくんが毒殺を選ばないのと同じように、ハリトメノくんも『施錠』で逃げ道を失うような真似はしないはず。刺客を送るとしても、『施錠』を突破できるような計画を練ると思うんだ~」
カリダ様は帽子の上からハリトメノを下ろし、頭を撫でた。
「それに、この子の体は小さいから、『泥水の悪魔』を隠し持つこともできないんだよね~。堂々と自分の体くらいおっきな水筒を背負わないといけなくなっちゃう。普段から似たようなことをしてたら不自然じゃないけど、いつもは何も持たず裸でしょ~? 犯行の時だけ背負ってたらエルピネスくんに気づかれちゃうよ~」
怪しく思われ水筒を開けられれば、確実に異臭が漏れるだろう。ソポス先生の研究所で嗅いだことがあるが、『泥水の悪魔』は特有の、甘いような苦いような臭いを放つ。
スキア様はそこまで聞いて、降参するように首を振った。
「分かった、認めるよ。ハリトメノは犯人じゃない。僕でもないけどね!」
「キュー!」
やはり言葉を理解しているのか、ハリトメノは非難するように激しく鳴いた。よくも疑ってくれたなと言わんばかりだ。
さて。今度こそスキア様の番だ。再びホールの中に緊張感が満ちるが、カリダ様はあっさりと首を縦に振った。
「うん! スキアくんも『隣室』には入ってないはずだよ~! スキアくんなら扉に穴をあけたままになんかしないからね~」
俺は納得した。ソポス先生の時と同じパターンだ。スキア様が犯人ならあんな未熟な真似はしない。
「スキアくんは三つの魔術を同時に仕えるくらい器用で、『波打つ矛盾』と『揺るがぬ矛盾』を組み合わせることで大抵のものはきれいに直せるの。わたしの前でも一度、歪んだ弓を元通りにしてくれたんだ~。その腕があるなら、木の皮を撫でつけるなんてことはせずに、穴を完全に塞いじゃうほうが手っ取り早いし確実だよね~? だからスキアくんは『隣室』には入ってないの」
カリダ様は断言した。これで犯人候補の全員が除外された形だ。
無論、犯人がいないという結論に達したわけではない。あくまでも部屋に招き入れられた可能性が潰されただけだ。
「少し長くなったけど、一個目の可能性は除外できたね~。それから一応、エルピネスくんが自殺した可能性もないってことも話したいの。これも扉にあいた穴が理由になるんだけど、エルピネスくん自身で何かの仕掛けで毒を飲むにしても、誰かに協力してもらったにしても、あんな中途半端な痕跡を残すことはしなかったはず。だからこの説も除外するね~」
考えもしなかったことだが、全ての可能性を潰していく推理ならばこの説明も必要だったのだろう。嫌そうな顔をする者もいたが、意に介した風もなくカリダ様は続ける。
「そうしたら今度は、二個目の可能性について考えてみよっか~。犯人があらかじめ『隣室』に侵入して、エルピネスくんが眠るまで気づかれずに潜んでいた――っていう可能性をね~」
*
エルピネス様よりも先に部屋に忍び込み待ち伏せする方法――彼が眠るまで待っていたということは、入っていきなり襲ったわけでもない。どこかに息を潜めて隠れていたということになるが、ベッドの陰くらいしか身を隠せる場所などなかったはずだ。上手く行けば成功するかもしれないが、犯人の心理的にそのような危険を冒せるだろうか。
だがカリダ様が語ったのは、もっと別のことだった。
「『隣室』に侵入して、どうやって隠れたのか……それについてはもう、幾つか方法を考えられたんだ~。でもね、この可能性を考える上でもっと重要なことがあるの。犯人が先に部屋に忍び込む理由はあるのか、ってこと」
それほど重要なことだろうか。実際に犯人がそうしたとすれば、理由など後から聞けばいいだけにも思える。
しかしすぐに自身の思考の浅さに気づかされることとなった。
「犯人の立場で考えると、忍び込むのはおかしいの。エルピネスくんは一度眠ったら目覚めない。それが分かってるなら、眠るのを待ってから部屋に入った方がいいでしょ~? でも犯人はそうしなかった。『隣室』の扉は『施錠』されるから結果的には正しかったんだけど、犯人はそのことも知らないはずだよねぇ? 潜んでいることがばれる危険を冒してまで待ち伏せする理由なんてないの」
それもそうだ。それでも犯人は待ち伏せか、あるいは同時に侵入する方法を選んでいる。これには一体何の意味があるのだろう。
「『施錠』の存在を知らない犯人が、『施錠』を突破するための策を練るはずがない。きっと犯人には後からじゃお部屋に入れない理由があったんじゃないかなぁ? それは多分、もう一つの施錠のせい――本来の寝室の扉にかかった鍵を突破するために、策を講じるしかなかったんだよ~」
魔術によるものではない、ただの鍵……そんなもの足止めにしか使えないと思っていた。基本的にはカストロがしたように、魔術を扱える者になら簡単に壊せる無意味なものだ。
「もちろん、鍵を壊すのは簡単だと思うよ~。でも痕跡を残さないっていう条件が付くと、できる人は限られると思うの。誰もが『魔術全書』に載ってる全部の魔術を使えるわけじゃないからね~」
人によっては魔力があっても複雑な手順を踏む魔術は使えなかったりもする。鍵の付いた扉は俺が想像していたよりはまともな役割を果たしていたようだ。
「犯人は痕跡を残さず鍵を開けることができなかった。つまり、鍵がかかってない時に入る必要があったってことだね~。エルピネスくんはどんな時も常に鍵をかけてたみたいだから、鍵の開くタイミングはエルピネスくんがお部屋に入る時だけっていうことになる。だからね、部屋にあらかじめ侵入したっていう可能性は否定されるの!」
二個目の可能性が思いのほか呆気なく除外され、少し拍子抜けに感じた。けれど今の話は最後の可能性を確信へと変えるものでもあった。
先ほどカリダ様が挙げた、三個目の可能性である。
「犯人は『施錠』の後に侵入したわけでも、エルピネスくんより先に侵入したわけでも無くて……同じタイミングでお部屋に入った。でも、招き入れられたわけでもないから、エルピネスくんの目に入らず、気づかれない方法を取ったはずなんだ~。『隣室』に入ってからもずっと、まるでそこにいないかのように振舞っていたの」
人々から戸惑いの声が上がる。ロギオス監視官も眉を上げ、困惑した顔をしていた。
他の説が否定されてきた以上、これしかないことは認めるべきだ。けれど実際、可能なのだろうか。『魔術全書』には自身の姿を書き換える魔術も、霧のように姿をかき消す魔術も存在しない。今後そのような魔術が生まれることもないだろうと、ソポス先生や数多くの学者が断言している。
ならばどうやって自身の姿を隠したというのか。それとも姿を隠さなくともエルピネス様に見咎められず同行する方法があったというのか?
「アンタ、自分がどんだけ無茶苦茶なこと言ってるか分かってんの? 気づかれずに一緒に部屋に入るなんて、そんなのできるわけないに決まってるじゃない」
アガペーネ様が呆れた声で言い、わざとらしくため息をついた。彼女だけではない。傍聴者たちも不信感を露わにしていた。
だが俺は信じる。カリダ様の推理を聞いてきて、彼女がいかに論理的かは分かっているのだから。
カリダ様は怯まない。堂々とホールの頂上に立ったまま、笑顔で答えた。
「犯人は隠れたんだよ~。エルピネスくんが持ち込んだ荷物の中にね~」
一見、至極真っ当な意見に思える。なるほど、と納得したように頷く者も多かった。けれど俺は知っている。エルピネス様の寝室に、人が隠れられるほど大きなものはベッドくらいしかない。防災用品を入れた箱も頑張れば入れるかもしれないが、中に人が入っていれば重さや音で気づかれるだろう。
何より、あれらは埃をかぶっていた。カリダ様が念入りに観察し、ずらして床の埃の跡まで見ていたのを覚えている。何やら得心いったように頷いていたから気になっていたのだ。
「寝室は調べてるから、近ごろ持ち込まれた物があることも分かってるの。それはね~」
もちろん俺も知っている。最近エルピネス様ご自身によって部屋に持ち帰られたものだ。それは――。
「『テクネーの矢』っていう武器の絵が入った額縁だよ~」
耳を疑った。鉄の分厚い額縁――けれどもそれは人が入ると想定すればあまりに薄っぺらい。
「額……縁?」
フィリアーネ様が首を傾げる。
「まさか……そんなものの中に……?」
力なく座っていたホドス様も、話は聞いていたらしい。何をバカなと言いだけな反応だった。
何度目か分からないほどの戸惑いの色を見せる人々に、カリダ様は優しく頷いた。
「もちろん、魔術がないとそんなことできないよ~。『深き水面』――額縁の中に薄い水槽を入れて、中に張った水にこの魔術を使えば、人が入れるだけの空間を作れると思うの!」
「水槽……」
思わず反芻する。そんな方法、いつ思いついたのだろう。無論、水槽が使われた痕跡などは目にしていない。
「呼吸の問題は『漁師の泡網』とか『邪除け草』で解決できるし、あとは水槽に入ってくれる仲間さえいれば不可能な方法じゃないでしょ~? 額縁の中を調べられたら困っちゃうけど、『テクネーの矢』は『紙上の夢』で実体化させるための絵だから、折れ目がつかないように慎重に扱わなきゃいけなかったの。だから調べられる心配はほとんどなかったはずだよ~」
驚きはしたが、無理のない方法ではあった。『波打つ矛盾』さえ使えれば額縁を出るのは容易で、『揺るがぬ矛盾』も駆使すれば水が外にこぼれて痕跡を残す心配もない。『深き水面』に入っている間、額縁は重くならないはずだからエルピネス様に気づかれる心配もさらに少なくなる。
加えてテクネーの家は無用心で、額縁に細工する機会はいくらでもあった。第一印象と比べ、現実的な方法だった。
「でも、この方法を使うには一つだけ条件があるんだ~。それは、『テクネーの矢』がいつ運び込まれるかを知ってるっていうこと。そうじゃないと、ず~っと額縁の中に隠れ続けなきゃいけなくなっちゃうから~」
カリダ様は変わらぬペースですらすらと語り続ける。俺は何故だか次第に心臓の音が大きくなるのを感じていた。
「その絵を描いたテクネーくんによると、額縁を渡す約束をする直前、『テクネーの矢』を試し撃ちしたみたいなの。三日月山を作った魔力災害――あれはテクネーくんたちの仕業だったんだぁ。犯人が約束のことを知ってるなら、その現場も見てるはずなの。だから『テクネーの矢』の存在自体知らなかった子たちは、犯人候補から除外されるってことになるよね~」
頬が紅潮し、手足に勝手に力が入る。気持ちが高ぶっている。俺は感じていたのだ。終わりが近づいていることを。
何故ならば、もう他の説はない。額縁を利用した方法のみが、『隣室』に侵入した可能性として残っている。
これが最後の推理となるだろう。今から再び犯人候補の除外が始まる。一人ひとり外れていき、最後に残った人物こそが、エルピネス様を暗殺した犯人だ。
*
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
ひどく乱れた呼吸音が聞こえる。
その者は、恐怖に顔を歪め、後ずさり、階段から足を踏み外す。一段下の床に背中を打った。
その様子を見れば、もはや推理の必要もなくその者が犯人であることは分かる。犯人は既に、己の罪を隠せないことを悟っていた。
それでもカリダ様は、推理劇を止めない。
「そういえば、『テクネーの矢』についてまだちゃんと説明してなかったね~。『岩の巨神』を倒す時、アーネちゃんが武器を使ったのは皆も聞いてるよねぇ? その武器が『テクネーの矢』なんだ~」
びくりと犯人の肩が震える。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「虹の霧みたいな絵を『紙上の夢』で実体化させると爆ぜ石のついた矢が出てくるんだけどね~、それがすごい威力なの! でも皆、話だけ聞いても信じられないんじゃないかなぁ。『紙上の夢』で『岩の巨神』を倒すなんて、都合のいい夢みたいなお話だからね~。その夢を現実にしたテクネーくんは、本当にすごい職人さんだと思う」
カリダ様は犯人の方には見向きもせず、遠い目で天井を見上げる。どこまでも深く青い瞳は、深い水底のように静かで、穏やかだ。
「でも、テクネーくんの仕事は現実離れしすぎていたの。『岩の巨神』が王都に迫った時、わたしとニケくんは『テクネーの矢』を、十分な魔力を持った人に託そうとした。その絵が一つの山を消滅させた実績を聞いてたし、ニケくんくらいの魔力でもちゃんと威力が出せるって知ってたから。でもね~、いきなりそれを聞かされた子たちは信じられなかったんだ~。ソポスちゃんも、カストロちゃんも、スキアくんも、フィリーちゃんも、ホドスくんも、ニケくんがどれだけ必死に食い下がっても耳を貸さなかった。他に巨神を止める手立てがなくて、切羽詰まった状況でも、試してみようとも言い出さなかった。もしも『テクネーの矢』のことを知ってたら迷わず使ったはずだよ~。暗殺事件に繋がるものだからって、知らんぷりをした可能性もないと思う。ニケくんは『矢』がどういうものかちゃんと説明してたから、あの場で『矢』を使ったとしても、その時初めて知ったっていう風に振舞うのは簡単だったの」
逃げ道を丁寧に塞ぐように、カリダ様は些細な可能性をも潰していく。どのような言い逃れも許さず、弁明の余地など与えない。犯人は動揺で瞳を激しく揺らし、化け物にでも遭ったような表情で探偵を見上げていた。
「エルピネスくんを襲った犯人はね~、サクスムに滅んで欲しいとは思ってないの。犯人は犯行現場にあった『助言書』を持ち去った後、人目に付くところに戻していたから。『助言書』っていうはエルピネスくんが遺した、サクスムを守るための色んな考えが書かれたものだよ~。『助言書』は全く同じように書かれたものが二冊あって、犯人は一切それを書き換えてなかったことが分かったんだ~。犯人は『助言書』の内容に目を通して、それがサクスムに必要なものだったから手を加えずに戻した。これが犯人がサクスムをどうでもいいものと見ていなかった証拠なの。何が言いたいかって言うとねぇ、犯人があえて『テクネーの矢』を無視して、サクスムの滅亡を受け入れた可能性もないってことなの。だから、ホドスくんを含めた五人は本当に『矢』のことを知らなかった。暗殺事件とは無関係だったんだよ~」
ロギオス監視官が眉を上げる。ホドス様はやはり事件とは関係がなかった。ついでと言わんばかりのあっさりとした告げ方で、たった今、五国同盟によるサクスムへの攻撃が防がれた。俺たちは救われたのだ。
けれどもやはり、犯人がそのことに安堵するような様子はない。己の身に忍び寄る結末の気配に青ざめ震えるばかりだ。
「アスピダくんとハリトメノくんも、さっき犯人じゃないってことが分かったよね~。犯人候補の七人、それと一匹――六人と一匹が除外されて、残ったのは一人だね」
深く穏やかな青い瞳が、ゆっくりと視線を下ろす。
カリダ様のやわらかな眼差しが、犯人を捉えた。
『テクネーの矢』を手渡され、迷うことなく『岩の巨神』を打ち倒したサクスムの新たな大英雄。ホドス様に認められ、女王となることも決まっていたサクスムの次なる希望。
息ができなくなった。空気が張り詰め、雑音が消える。自身の心臓の音と、犯人の呼吸の音、そしてカリダ様の声だけが聞こえる。
神に最も愛され、祝福されて生まれた少女――桁外れに大きな魔力を持ち、誰よりも熱く美しい彼女は、かつて世界で最も優れた女王になることを望まれた。今の世界において、膨大な魔力こそが揺るがぬ価値を持っていたから。
しかし彼女は今、追い詰められている。完全犯罪のため策を弄し、それが裏目となって犯人候補を絞られた。魔術を活用し額縁の刺客を潜ませるという細工も見破られ、あげく彼女以外に犯人はいないというところまで推理された。もはや彼女に逃げ場などない。
それを成したのは魔力を持たない英雄。魔術の力のみでは、決してここまでたどり着けなかっただろう。彼女なしに国を救うことなどできなかった。
ふいに、親父の言葉を思い出す。
――時として、人の知恵は魔術をも凌駕する。
これで終幕だ。花国探偵が指を差す。
「エルピネスくんを暗殺した犯人は、あなただよ。アーネちゃん」
*
階段の上にいる者、下にいる者、あるいは彼女の隣にいる者。
真っ白なホールの中で、本人以外の全ての視線が彼女一人に集中していた。
アガペーネ様――サクスムの次期女王である彼女が、事件の犯人だったのだ。
「ち、違う! 違うわ!」
恐怖に目を見開き、何度も首を振って否定する。尻もちをついた姿勢からようやく立ち上がり、震える声で反論した。
「あ、アンタ、犯人がサクスムを守ろうとしたとか断言してたけど、そんなの分かんないじゃない! 『助言書』を戻したのなんてただの気まぐれよ! そうに決まってるわ! そ、そうよ、そうだわ! アンタの推理は間違ってる!」
「そうかもしれないね〜。だから最後に、はっきりさせておきたいことがあるの」
いつもと変わらないカリダ様の笑顔が、今のアガペーネ様にどう映っただろう。正直に言えば、俺は少しぞっとした。
「スキアくん、聞いてい~い? エルピネスくんの遺体が見つかったあと、あなたは監視官やお医者さんたちと一緒にアーネちゃんをお城に呼んだよね~。その時――クリュくんはいたのかなぁ?」
クリュ……クリューソス? いつもボロボロの服を着た、アガペーネ様の従者であるあの少年――まさか彼が協力者なのか?
「見てない……見てないです」
ぼそりと、誰かが呟いた。スキア様ではない。皆の視線が動き、声の主が分かる。
答えたのは、ファルマコだった。
「わたし、見てないです。覚えてます。だってクリューソスさん、耳がなくて怖いから……一緒の船にならなくてほっとしたんです」
確かに彼は右耳を失っている。アガペーネ様の仕業と噂されているが、ともかく、その外見がファルマコの証言に繋がってくれた。
「クリューソスは事件の夜、アガペーネ様の屋敷にいたと言っていたはず……あれは嘘だったのか」
俺の言葉に、カリダ様が頷いた。
「そんな嘘、事件に関わってないと付かないよね~。アーネちゃんが犯人って分かってから、そうじゃないかと思ってたの。クリュくんのことを事件の日に一度も見てないし、アーネちゃんが一番頼りにしそうなのはクリュくんだからね~」
そうか。刺客として額縁に入れられていたなら、国王就任式や宴の最中はずっとエルピネス様の部屋に潜み続けていたことになる。見かけられなくて当然だ。
「フム。アガペーネ様がいかに屁理屈をこねられようとも、刺客と確認したクリューソス殿を尋問すれば自ずと答えは出るわけでありますな。カリダ殿の推理の順序とは逆になりますが」
アスピダ様が目をぎょろぎょろとさせ、周囲を見回す。彼の目はすぐにクリューソスを捉えた。
彼は階段に足をかけ、アガペーネ様の元まで上がってくるところだった。
「アーネ様、申し訳ございません。私のミスのせいです」
アガペーネ様に頭を下げる。すると、ずっと響き続けていた彼女の乱れた呼吸の音が落ち着き始める。
「そ、そうよ。アンタが扉に傷なんか残さなければこんなことにはならなかったのに」
「はい。申し訳ございません」
アガペーネ様はため息をつき普段のような調子を取り戻すと、カリダ様を睨み、大きく舌を鳴らした。
「こんなことならあの時、アンタのこと殺しとけばよかった」
いつのことだろう。城の廊下でカリダ様を殴った時だろうか。何であれ、これは自身の罪を認めたに等しい発言だった。
「アーネ……」
アガペーネ様がびくりと固まる。ホドス様が顔を上げ、愛娘を見ていた。
その時の彼の表情をどう形容すればいいのか、俺には分からない。強いて言うならばその姿は、唯一信じられる母親に助けを求める幼い子どものようだった。けれどその眼差しの中には娘に対する失望の色もあり――アガペーネ様はそれを見逃さなかった。
「そんな目でアタシを見ないで!」
半狂乱の人間が上げる悲鳴のような、痛ましいとすら感じる叫び声で、ホドス様の視線を拒絶する。
「アタシは……! アタシは悪くない! 全部お兄様が悪いの! だって、だってアタシは……お兄様に殺されかけたんだから!」
アガペーネ様は叫び、主張した。予想だにしなかった言葉に、臨戦態勢を取っていた兵士たちが武器を下ろす。
「……何を、言っておるのだ?」
ホドス様の問いは、この場のほとんどの者の疑問を代弁していた。
この事件はエルピネス様の方から仕掛けたことだったのか? だが、眠っているところを毒殺しているのだから反撃したら殺害してしまった、といった事件とは明らかに違う。
「いいわ、話してあげる。そうしたらお父様も、きっとアタシのしたことを理解してくれるから」
アガペーネ様は自身の胸に手を当て、つばを飲み込む。クリューソスの、ボロボロの服の袖を掴み、震える声で語り始めた。




