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推理は魔術を凌駕する!  作者: 白沼俊
第五章『魔獣戦線』
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4. とある小さな老いぼれの夢

『紙上のソムニア』。紙に描いた絵を実体化させる魔術で、その絵が現実に近いものであればあるほどその強度を増すという、扱いにくい魔術の代表例でもある。


 武器職人テクネーニルのように、使う者が使えばその本領を発揮できるが、彼の技量をもってしても庇い切れない弱点があった。


 それは、絵にしわや汚れが付いただけで魔術そのものが使えなくなることだ。多少であれば誤魔化しも利くが、くっきりと紙の折り目がついたり、果実酒でもこぼしたりしようものならその絵は絶対に使えない。もしも紙全体が血で汚れるようなことがあれば……結果は言うまでもないだろう。


 ――今、俺の足元で、『テクネーの矢』が血に汚れている。魔獣の返り血をべったりと浴びて使い物にならなくなっていた。


 俺はゆっくりとしゃがみ込み、絵に触れる。手から伝わる感触も、血だまりに触れたような不快なものだった。


 終わった。最後にして最大の希望が、こんなつまらない形で。


 自身の愚かさに唇を噛み、俯く。そして立ち上がった。


 まだだ。希望はある。


 カリダ様が袖を握ってきた。青い瞳でこちらを見上げ、頷く。


「まだ希望はあるって、ニケくんも思ってるんだよね?」


「もちろんです。城へ向かいましょう。もう一度『テクネーの矢』を取りに行きます」


 エルピネス様の寝室には『テクネーの矢』が二つあった。あと一つ残っているのだ。正真正銘、最後の希望が。


「ああ、まずい! 巨神が!」


 兵士の一人が声をあげる。『岩の巨神』が王都へ向かって早足で進んでいた。


 あの速度、馬ではとても追い越せない。それどころか全速力でも引き離されてしまうだろう。


 それが問題だった。このままでは『矢』を取る前に王都が破壊されてしまう。こうして考えている時間すら惜しい。追いつけなくても今すぐ馬を出すべきか――?


「城へ行くのでありますか?」


 俺とカリダ様の会話を聞いていたアスピダ様が、大きな顔をぶつかりそうなくらいに近づけてきた。


「それが、巨神を討つ策に必要なことなのでありますか?」


「は、はい。絶対に必要です」


「ならば時間が惜しいですな。……ニケ殿、死なないよう注意してください」


「はいっ?」


 アスピダ様は俺とカリダ様を両腕で抱えると、国門から飛び降りた。


「ぎゃああああああっ?」


 唐突すぎる空中落下に我を忘れて悲鳴を上げた次の瞬間、重い衝撃が来る。アスピダ様の足が船の甲板を踏みしめていた。


『空泳船』が飛んでいたのだ。そこにはただならぬ気配のする屈強な兵士が幾人も立っていた。


「『霧の城』へ」


「はっ!」


 アスピダ様の命令に兵士が応える。彼がここにいる以上船が残されているのは当然のことだった。しかしもっと安全な乗り方があったのではないだろうか。


 船が出る。大弓から放たれた矢のごとき勢いで急加速した。馬の全速力よりはるかに速い。


「ニケ殿、カリダ殿。振り落とされてはなりませぬぞ。投げ出されればほぼ確実に死にます」


「ちょっ、待っ……!」


 俺が捕まるより先に兵士の一人が魔術を使う。水の中に飛び込んだかのように周囲の音がぼんやりとして、俺たちの体がわずかに浮き上がる。直後、強い力に引っ張られて体の自由が利かなくなった。まるで激しく流れる川の中に巻き込まれたような感覚――『見えざるフルーメン』に違いない。


 スキア様が使うものほど素早くは動けないようだが、それでも船の速度はかなり上がった。とっさに帆柱にしがみつかなければ空中で置いてけぼりにされていたところだ。


 その時初めて気づいたが、この船には帆がある。『空泳船』は風で動くものではないため帆を付ける必要はないはずだった。


 いぶかしみ帆を凝視した次の瞬間、後ろから突風が吹きつけ、船をさらに前進させた。それはただ背中を押してくれるのみならず、壁となっていた前からの風を圧倒的な力で蹴散らしていった。


 この強風も魔術だろう。使い手は相当な実力者に違いないが、船員たちの顔を見たことがなかった。精悍な青年兵士も、鋭い眼差しの老兵も、一見ぼんやりして見える女兵士も、少なくとも王都で会った記憶がない。


 もしや彼らはアスピダ様の部下、つまりは『影』の者たちなのだろうか。


 だが余計なことを考える余裕はなかった。『川』の流れが激しくなり、強風も勢いを増し、船が嵐に巻き込まれたように震えた。


 速い、速すぎる。周囲の景色が目で追えないほど早く流れていく。風のせいか息ができず、激しい揺れのために身動きが取れなかった。少しでも油断すれば振り落とされてしまいそうだ。『巨神』の方を見る余裕すらない。


「か、カリダ様! ご無事ですか!」


 目を閉じて柱にしがみつき、俺は叫ぶように言った。


「大丈夫~! アスピダくんが助けてくれたから~!」


 声が返ってきた。よかった。できれば俺も助けて欲しかったが!


「くぅ……! う、腕が痺れて……!」


 だがこの速さならきっと『巨神』だって追い越せる。どこを飛んでいるかも分からないが、今は落ちないことにだけ集中した。


「まだであります」


 アスピダ様が平常時と変わらぬ無感情な声で言った。横目で様子を窺うと、彼はカリダ様を抱え、微動だにせず甲板に立っていた。よく見ると膝から下が突き刺さっている。


 どんな捕まり方だとツッコミたくなったが、アスピダ様とは元々こういうお方だった。


 彼は何か小さな玉を後ろへ放り投げる。間を置かず船全体に衝撃が来た。後ろへ飛んで行った玉が巨大化し、船にぶつかったのだ。バキンと耳が痛くなるほど大きな音がしたが、船はさらに加速した。


 無論今のも魔術だ。ただ物を大きくするだけだが、一瞬で巨大化するため巻き込まれると大蛇の体当たりなど比にならないほどの衝撃を受ける。扱いを間違えた多くの市民を死亡させた危険な魔術であった。


 当然この船も無事では済んでいない。魔術で保護はしていたようだが、後ろ側が砕け散っている。だが――。


『巨神』を目で探す余裕もなかった俺が後ろの様子を振り返れたのは、船が減速を始めたからであった。


「着きました」


 アスピダ様が甲板から脚を引っこ抜きながら言う。眼前には空に浮かぶ霧の塊――『霧の城』があった。


 大地が震える低い音はするが、『巨神』の姿はまだ見えない。俺たちはあれをとっくに追い越していたのだ。


「では、吾輩はこれにて。王都の防衛に向かわねばなりませんので。ニケ殿の策、期待しておりますぞ」


「えっ? お、お待ちくださいっ、まだアスピダ様のお力が必要で……!」


 止めようとしたが遅かった。俺が手を伸ばした時には既にアスピダ様は船から飛び降りていて、下の様子を見ようにも足元がぐらぐら揺れるせいで姿勢を保つので精一杯だ。他の兵士たちも次々に落ちていく。


「皆ありがとね~」


 カリダ様が下に向かって手を振っている。よくこれほど揺れている中で端に立てるものだ。


 いやそんなことはどうでもいい。面倒なことになった。『テクネーの矢』を手にしてもアスピダ様がいなくては意味がない。あれは高い魔力を持った者が扱って初めて最強の武器になるというのに。


「しょうがないね~。まずは『矢』だけ取って、使い手を探すのは後にしよ~」


 カリダ様の言うようにするしかないだろう。『巨神』はすぐそこまで来ている。悠長にはしていられない。


 それにこの船はもう壊れて操縦できない。飛んできた勢いのまま城へ向かってまっすぐ進むしかない状態だ。一度城に入る以外に選択肢はなかった。


 開門を呼びかけ霧の壁に穴を開けてもらう。俺たちの船はそのまま穴を通り抜け、中の城に突っ込んだ。


「う、うわあっ? 何してるんだ!」


 霧番たちに叫ばれるが、船は止まらず城門に突き刺さった。計算されていたのか、俺たちは見事に城内の廊下に投げ出され、盛大に転がされた。なんとかカリダ様を抱え守ることはできたが、痛みで息ができなくなる。


「ニケくん大丈夫?」


「ぬ、ぐぅぅ! ……何の、これしき! 時間がありません、早く行きましょう」


 痺れる体に無理矢理力を入れ、立ち上がる。まだ息苦しいが、構わず駆けだした。


「お、おい! 待て! 貴様らは……って、ニケ様っ?」


 霧番の声には答えられなかった。振り向かず、先を急いだ。


 城内は静かだった。まだ異変には気づいていないらしい。


「わたし、『矢』を撃てそうな人がいないか探してくる~!」


 カリダ様はそう言って、俺とは別の方向へ向かった。『テクネーの矢』を撃つのは何も戦士じゃなくてもいい。魔力さえ十分にあれば武器は完成するはずだった。だから地上に降りたアスピダ様を探すより、新たな候補を探した方が早いと判断したのだろう。無論そのやり方に賛成だった。


 エルピネス様の寝室にはすぐに着いた。壁際に立てかけられた鉄の額縁を手に取り、虹色の霧が描かれた絵を確認する。


「よし、これだ」


 これこそあの小さな老いぼれが遺した最後の『矢』――彼の家にあったものは昨日の事件で全て燃えてしまった。この一枚が最後の希望だ。


 俺はすぐに城門へ向かった。『巨神』のことを伝えて避難させるべきかとも思ったが、王都を壊される前にヤツを止めたかった。


 入口に突き刺さった船の傍で待っていると、遅れてカリダ様も走ってきた。ただし誰も連れていない。


「ごめんね~、アーネちゃんを連れていけたらいいなって思ったんだけど、外に行っちゃったみたいなの」


「仕方ありません。やはりアスピダ様を探しましょう」


 俺たちは城門の外に出て、混乱している霧番に頼み込んで新しい舟を借りる。悪いとは思ったが説明は省いて城を飛び出した。


 その時。


「待って待ってー!」


「お待ちくださいましぃ!」


『空泳船』が城を出ようとしたのと同じ瞬間、ソポス先生とカストロニアが勝手に乗り込んできた。


「なっ……! 降りてくださいっ、急いでるんです!」


「そうはいきませんわ! ワタクシ聞きましたのよ! ホドス様とフィリアーネ様が戦場へ行かれたのでしょう? ムキーッ、客人の前で王族にそのような行動はさせられませんわ! 早く連れ戻さなければなりません!」


「いつの情報だ! 今はそれどころじゃない!」


「あ、ウチは研究所に取りに行きたいものがあるんでついて来ただけッス」


「だったら他の舟を使ってください!」


「いいじゃないッスかぁ~、どうせニケだって戦場じゃ戦えないでしょ? ゆっくり行こうよー」


 ソポス先生は呑気に肩を揉んでくる。今がどれだけ大変な状況かも知らないで!


「ニケくん、もうこのまま行っちゃお~」


「……そ、そうですね。引き返す暇はありません」


 余分な二人を乗せたまま舟を発進させる。彼女たちのことは一度忘れることにした。ガタガタと舟を揺らしながら出せる限りの速度で進み、『霧』の外に出る。


「まだ来ていないでくれよ、『巨神』……」


「巨神? 何言ってンスか?」


 恐る恐る王都を見下ろす。幸いなことに『岩の巨神』の姿は見えず、まだ何も壊されてはいなかった。


 ほっと胸をなでおろし、直後――背筋が凍った。


 王都周囲に広がる大地の地平線から、巨大な山がせり上がるのを見た。それは頭だった。徐々にそれは全身を露わにする。人間のような形をしながら、雲をも貫く巨大な岩の塊――『岩の巨神』がついに姿を現した。


「に、ニケ様? これはどういう状況ザマスか?」


「う、ウチも聞きたいなぁ。なんで『巨神』があんなところに……もしかして魔獣の群れがこの近くまで来てるンスか?」


 戸惑う二人にカリダ様が首を振る。穏やかな笑みを浮かべ、絶望的な事実を告げた。


「違うよ~。敵に『巨神』を乗っ取られちゃったんだぁ~」


 二人は絶句する。『巨神』の全身が見え、俺の体からも汗が噴き出した。


「全員、しっかり掴まっていてください」


 俺は言った。直後舟を急降下させる。ほぼ墜落するような勢いだ。もちろんこんなことをしたら舟から落ちたり、地面に激突したりするかもしれない。それは承知の上だ。命がけの無茶をしなければならないほど状況は切迫していた。


 そんな時なのに、カストロが背中に頭突きをしてきた。


「お、おいっ、何を考えている!」


「こっちの台詞ザマス! あっちへ! あっちへ行くザマス!」


 歯で服を噛んで揺さぶって来る。前を見ているためカストロの様子は見えないが、舟に掴まりながら精一杯の抵抗をしているようだった。「あっち」というのがどちらを指しているかも分からないが、少なくとも『巨神』から離れたがっていることだけは分かった。


「お前、ホドス様を連れ戻すんじゃなかったのか! だったら四の五の言わずについてこい!」


 ホドス様たちは王都にいないが、カストロを黙らせるためにあえて言わなかった。しかし彼女は止まらない。


「冗談じゃありませんわ! 魔獣駆除と聞いていたから行こうとしただけザマス! こんな状況で戦場に近づくなんて頭がおかしいですわよ!」


「わ、分かった! 置いていく! お前のことは置いていくから! これ以上揺らすな!」


「何を仰います! ニケ様もお逃げくださいまし! あなた様に何ができるとお考えでっ?」


「そ、そうッス!」


 面倒なことに、ソポス先生もカストロに加勢する。


「いつものショボイ戦いならまだしも、アレに向かっていくなんてダメッスよ! 先生として、ニケを無駄死にさせるわけにはいかないッス!」


 嬉しい言葉だが今は止めないで欲しかった。それに今回は俺自身の功績のために動いているわけでもない。


「あまり喋ると舌を噛みますよ!」


 さらに舟を加速させ、舟の揺れで強引に二人を黙らせる。人々が逃げ惑う大通りに降り、地面のぶつかる直前無理やり減速した。


「な、なんて乱暴な運転ですの……」


 カストロとソポス先生が目を回しているうちに俺は舟を降りる。カリダ様も平然とついてきた。


 墨で描かれた絵のような白黒の街を駆ける。顔を恐怖の色で染めて逃げ行く人々に逆行し、アスピダ様を目で探す。


 断続的に激しい地震が続いているにもかかわらず、王都の建物は倒れていなかった。サクスムの特別な石材で造られた頑丈な家々は、それこそ巨神の足で踏みつぶされでもしない限り崩れたりはしないだろう。しかし揺れの被害がないわけではない。逃げ惑う人々の多くは転倒による怪我を負い、頭から血を流したり服がボロボロになったりしていた、


「『巨神』だぁ! 『巨神』が来る!」


「なんでっ、なんでなのっ? ここが戦場になるのっ?」


「ここは安全じゃなかったのっ? イヤ、助けて!」


 本来『巨神』とはサクスム最後の砦であり、人々を安心させる存在だ。しかし魔獣の大軍による奇襲の話と絶えず震撼し続ける大地が彼らの不安を煽り、何よりこの場が戦場になるという予感が急速に動揺を広めていた。


 王都の兵士たちも状況を掴めず混乱しているようだった。このままでは彼ら自身で事故を起こして怪我人を出しかねない。


 だが振り返る暇などなかった。足に伝わる大地に震えがどんどん大きくなっている。今は使命を全うするのみだ。


 石畳の道を駆けながら前方を見上げる。王都の周囲には高い壁が築かれている。アスピダ様はきっとそこにいる。走ればすぐに着くはずだ。壁の上にいるであろうことを考えると、舟で直接行けばよかったかもしれない。だがもういい、付近の兵士の手でも借りて上に連れて行ってもらえばいいだけのことだ。


 とにかく早く、ほんの少しでも早く『矢』をアスピダ様に届けるのだ。『巨神』が王都にたどり着いたらどれだけの被害が出るか分からない。それに『矢』を使う前にアスピダ様がやられたら完全におしまいだ。せっかく『矢』を手に入れたというのに、希望を潰されるわけにはいかなかった。


「待てぇーい!」


「なっ?」


 逃げまどう人々の姿がなくなった頃、背中に衝撃があった。思いきり転倒する。追ってきたソポス先生に蹴られたのだ。


「せ、先生……」


「行かせないッスよ! 戦いは戦士に任せればいいンス!」


「聞いてください! 自分はただ、武器をアスピダ様に届けるために」


「武器ぃ?」


「これです!」


 背負っていた鉄の額縁を見せつける。抽象画のような絵を見て先生は怪訝そうに首を傾げる。


「は……? これが?」


「そうですっ、これこそテクネーという武器職人が遺した最強の武器で……」


「そォォォい!」


「あああああっ!」


 先生はいきなり絵を奪い取り、放り捨てた。慌てて拾いに行こうとすると足を引っかけてきた。見事に転ばされてしまう。


「な、何をするんですかっ」


「ニケがトチ狂ったこと言い出すからッスよ! 巨神が怖すぎて頭おかしくなっちゃったンスかっ?」


「拷問用の毒を飲んで実験するような狂人に言われたくないですよ! いや、そうではなく……! あれは本当に武器なんです! ほら、『紙上のソムニア』で実体化させると虹色の霧の中から矢が出てくるんですよ! その威力が本当に……」


「うわぁ馬鹿だ! ここに馬鹿がいるッスよ! あの魔術で巨神をどうにかできるわけないでしょうが!」


 必死に説明しようとするが、先生は聞く耳を持ってくれない。それでも納得させるしかなかった。


「それができるんです! 実際、自分たちはこれを使って……」


「ニケ様!」


 先生についてきていたカストロが甲高い声で叫んだ。平手で頬を叩かれる。


「お、お前……」


「あなた様が戦場で役に立とうとしているのは知っていますわ。そうして何度も戦場へ赴かれたことも聞き及んでおります。ですが今回は事態の深刻さが違いますのよ! ハッキリ申しますが、あなた様では何の力にもなれません! むしろ足手まといになりかねません! 今は出しゃばらず大人しくしていてくださいまし!」


「このっ……! お前は話を聞いていなかったのか! 何も俺は、自分が活躍したくて動いているわけじゃない。テクネーニルという武器職人の力を信じて、それを託すためにアスピダ様に会わなければならないんだ!」


「だからさぁ、ニケ。こんな絵で巨神を倒すなんて絶対無理ッスよ。魔術の先生であるウチの言葉が信じられないンスか?」


 信じて欲しいのはこっちだというのに……!


「ニケくーん、こっちこっち~!」


「まあっ、いつの間にあんなところにっ?」


 言い争いに一切参加していなかったカリダ様が、道をかなり進んだ場所にいた。手を振って呼びかけている。


「カリダ様……! 先へ行ってください!」


「うん、分かった~!」


 忘れていたが、彼女の足を止めることは難しいのだ。手品のようにこちらの手をすり抜け、素早く目的地にたどり着いてしまう。


 説得も彼女の方が上手いだろう。カリダ様がアスピダ様と会えれば、俺たちの目的は達成できるはずだ。


 ……だが、今の俺たちに安堵など、そう易々とは与えられなかった。


 王都の壁で爆発が起きた。正確には、爆発したと錯覚するほどに激しく砕かれた。


 神の元にまで届きそうな巨大な柱が――『岩の巨神』の脚が、王都の壁を蹴ったのだ。


 砕け散った壁の破片が飛んでくる。近づくにつれてその大きさに気づく。民家よりもはるかに大きな岩の塊がカリダ様に落ちようとしていた。


 一瞬のことだ。走って守りに行くことも、呼びかけることすらできない。だが逃げろと言えても間に合わないだろう。それほどに短い時間の出来事だった。


 ――柔らかな風が頬を撫でる。


 カリダ様の前に人影が現れた。彼は一瞬で地面を溶かし波のように巻き上げると、それを固めて大きな盾を作った。


 盾と瓦礫がぶつかり、互いに砕ける。しかし砕けた盾はすぐに再生した。魔術で溶かされ、一瞬のうちに固め直されたのだ。


 触れたものを溶かす魔術『波打つ矛盾』、溶けたものを固体に変える魔術『揺るがぬ矛盾』。この二つの魔術を組み合わせることで、物の形を自在に変える、全く別の技術をみ出していた。


 そのような芸当、普通はできない。複数の魔術を同時に扱える天才だからこそ為せる技だった。


 サクスム最強の騎士スキアダン様が盾の後ろで振り返り、爽やかに笑った。


「やあ、君たち。一人ずつ殴っても良いかな?」


「え?」


 俺が目をしばたたかせると、彼はすっ飛んできて本当に顔面に拳を入れた。


「いっ、痛い!」


「君たちさ、こんなところで何をもたもたしていたんだいっ? 危うく死ぬとこだったじゃないか! ああ、もういいや! 今説教したら僕まで危機感ゼロのウスノロになっちゃうからね!」


 スキア様はそう言って俺の首根っこをつかむ。『見えざるフルーメン』で浮き上がった彼に、俺は慌てて言った。


「お、お待ちください! スキア様、あの絵を使ってくださいませんか」


「絵?」


 スキア様がきょとんとして動きを止める。だが『巨神』が壁の内側に踏み入ったのを見て俺を放り投げた。


「う、うわあっ」


「悪いね、話は後だ」


 宙を回る俺の元へ舟が飛んでくる。そこには二つ人影があった。


「ニケ!」


「フィリアーネ様!」


 俺の体が舟に落ちる。先に乗っていたのはフィリアーネ様とホドス様であった。


「ご無事だったのですね」


「ん。私たちは気を失ってただけ」


「うむ。むしろ危ういのは……」


 ホドス様が視線を流す。舟に次々と人を放り投げるスキア様を見ていた。


「魔術で傷はふさいだが、血を失い、体力もかなり削られておるはずだ。それなのに無茶をしてここまで来たのだ」


 そうだ、彼は背中に大きな傷を負い倒れていたはず。この場に現れるなど本来はありえないことだった。


「へぶっ、背中打ったンスけど!」


「ギャーッ! 痛いザマス! もっと丁寧に入れてくださいまし!」


「わ~っ、ナイスキャッチ、ありがと~」


 さ、騒がしい……。


 スキア様は全員を無事舟に投げ入れ、自身も乗り込んでくる。その行動に違和感を覚える。彼が舟に乗る必要はないはずだ。


 やはりというべきか、息が上がっていた。


「スキアよ、やはり其方……」


「ははっ。どうしたんです、そんな心配そうな顔して? まあ実を言うとちょっと疲れてますけどね! なに、戦場っていうのはいつだって疲れとの戦いですから! あははっ」


 彼が駆けつけてくれた時、もしかしたら『矢』がなくても何とかなるのではないかと思ったが……今の彼は万全ではない。それにホドス様たちに指を差されたあの時のような卑劣な攻撃をされたら、次は助からないかもしれない。


 俺は拳を握りしめ、深呼吸をした。おそらく今から始める説得が、サクスムの命運を分ける。


「スキア様……いえ、ホドス様やフィリアーネ様にも聞いていただきたいことがあります」


 真剣な眼差しで伝えると、スキア様たちは頷いてくれた。『巨神』は足を止めている。王都軍の船が飛んで行って足止めしてくれているようだ。無論長くはもたない。早くも振り払われ風に飛ばされてしまった。だが足元でも兵士たちが攻撃している。アスピダ様の指揮だろう。


 彼らが稼ぐ時間を無駄にしないよう、俺は『テクネーの矢』について説明した。この絵を実体化すると武器になること、そしてこれが強力な爆ぜ石であり、十分な魔力を込めれば『巨神』でさえ倒せるかもしれないことを話した。


 ソポス先生やカストロが口を挟もうとしたがカリダ様が止めてくれた。しかし当然、スキア様たちもこの絵が最強の武器であるとはとても信じられないようだった。


「えっと、そうだね……うん、これが爆ぜ石の絵だってことまでは信じるよ。でも、爆ぜ石で巨神を倒すって言うのはさすがに非現実的なんじゃないかな」


「ん。それに、物は試しで打てるものじゃない。使ったら魔力が根こそぎ持ってかれる」


 予想通りの反応だ。もちろん俺も諦めない。


「十日ほど前に起きた魔力災害、覚えていらっしゃいませんか。山を三日月のように抉った大きな爆発があったはずです。あれはこの絵によって起きたもので、そしてそれを放ったのはテクネーニル……つまり、膨大な魔力を持っているわけでもない普通の人間だったのです。もしこれをスキア様やフィリアーネ様が使えば、魔力災害の比ではない絶大な威力を発揮できるはずです!」


 これは切り札とも言える、最も重要な情報だった。この事実を聞けば彼らも『矢』の価値を分かってくれるはずだ。


 けれどカリダ様以外の全員が微妙そうな表情をしていた。その時点で説得の失敗を察する。


「ん……山を吹き飛ばすのは確かにすごい。それが事実なら」


「うん、ありえないね! 君、騙されたんだよ」


「そうッスねぇ。ニケはよく変な商人に変なモノ買わされてるからなぁ。今回もきっとそれッス」


「う、うむ……そうだな、どうにも信じがたい」


「はぁ、時間の無駄でしたわね! そんなことより早くワタクシたちを逃がしてくださいまし!」


 愕然がくぜんとした。これが日頃の行いというやつなのか。笑えない、まったく笑えなかった。


 いや、まだだ。諦めるには早すぎる。


「待ってくださいっ。これはカリダ様もご存じのことです! 花国探偵のお墨付きでも信じられませんか? それに昨日、自分は実際にこの『矢』を使って……」


「もういい、十分だ!」


 またしても言葉を遮られた。だが今までとは訳が違う。カストロやソポス先生に否定されるのはまだいい。しかし今手で制してきたのはスキア様だった。一番話を聞いてくれそうだった彼に拒絶されてしまったのだ。


「悪いね、これ以上耳を貸す余裕はないよ。ほら、見なよ。今も兵士たちが命がけで戦ってる。『巨神』も既に王都に足を踏み入れた。こんなところでぐだぐだやってるわけにはいかないんだ」


「スキア様!」


「しつこいな君は! 君のせいで王都が壊滅したら責任取れるのかいっ?」


「ですがスキア様! この『矢』以外に『巨神』を破る策がありますか! あなたはもう万全ではない! 先ほどのようには戦えないはずだ!」


「それでもやるさ! そんなオモチャに頼るよりは現実的だろうね!」


 スキア様は迫る俺を払いのけ、舟から飛び出そうとする。誰も止めようとしなかった。


「……は?」


 しかし、彼の足は止まった。本人が、自らの意思で動きを止めた。


 彼は俺の後ろを見ていた。小さな舟の一番後ろ――カリダ様の方を。


 彼女は立ち上がり、下を見ていた。その足は舟の縁にかかり、今にも落っこちてしまいそうだ。強風にあおられて、長く波打つ金色の髪が暴れていた。


「カリダ様……?」


 俺が声をかけた瞬間、彼女の小さな背中がふわりと消える。――舟から飛び降りていた。


「ちょっ、何してんのさ!」


 皆が短い悲鳴のような声をあげる中、スキア様だけが素早く動いた。彼もまた舟から降り、空中を目にも留まらぬ速さで泳ぐ。


 カリダ様は地面に落ちる前にスキア様に受け止められ、抱きかかえられたまま下に向かって手を振った。


「おーい、アーネちゃ~ん!」


 後になって気づいたことだが、彼女は既に、スキア様たちへの説得を諦めていた。


 そして彼女は地上に見つけたのだ。大いなる魔術の神にこの世界で最も愛され、最も大きな魔力を持つ存在を。その髪は白く、その瞳は激しい炎のように赤い。時に『灼熱の姫君』と呼ばれる少女の名は、アガペーネ。


 武器職人テクネーニルは最強の武器を作りたいと願った。子どものような夢は彼自身の努力とエルピネス様の支援によって実り、『テクネーの矢』を作り出した。


 けれどもまだ完成ではない。爆ぜ石は膨大な魔力を注ぎ込まれて初めてその真価を発揮する。


 この世で最も高い魔力を持ったアガペーネ様が手にした時こそ、『テクネーの矢』は最強となる。


 俺は目を凝らし、ようやく見つけた。アガペーネ様がいたのは地上ではない。彼女もまた舟に乗り飛んでいた。クリューソスが操縦し、彼女は堂々と立っている。


「どいつもこいつも世話が焼けるわね! アンタらが不甲斐ないから、このアタシが来てやったわよ!」


 アガペーネ様は言い放ち、金色に輝く宝剣を抜いて天に掲げた。










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