3. 水流騎士スキアダン
黒く堅固な岩で作られた人型の怪物が、王都の方角へ向け悠然と歩く。
怪物が一歩進むたびに世界が震えた。巨人の頭は空の薄い雲を貫き、サクスムの険しい山々が小さな子どものように見える。
『岩の巨神』はもはや兵士たちに興味がないとでも言うように、払い飛ばした船の群れに背中を向けていた。
『空泳船』で空から攻撃を仕掛けようとしたフィリアーネ様たちの軍は、巨神の巻き起こした暴風により壊滅状態にあった。しかしその全てがやられたわけではない。何隻かが再び、巨神の背後から突っ込んでいく。彼らは首筋を狙っていた。
あの巨神を動かしているのが誰なのかは分からない。しかし『満たされた器』で操っていることだけは確かだ。であれば必ず近くに本体がいる。そして巨神には人が入れる空間があった。口から入って喉のあたりまで降りれば、魔術を使っている間動けない本体を守ることができるのだ。
裏を返せばそこに本体がいる可能性が高い。そこ以外に入れる場所はなく、頭や肩に本体を乗せるような危険な真似をさせているとも思えないからだ。巨神から本体が離れてもいけないから、山に隠れていることもありえない。
なんとか首元だけ破壊するか、あるいは口から中に入って本体を叩くか。それができれば巨神を倒せる。
――はずだった。
船が首の後ろまで近づいた瞬間、巨神が振り返った。その巨体からは想像もつかないような素早い反応で腕を広げ、羽虫でも潰すように両手で船を叩く。
岩の手と岩の手がぶつかる轟音を聞きながら、俺はその光景を見ていることしかできなかった。
「フィリアーネ様!」
国門から巨神までの距離は遠く、船は小さな粒のような影にしか見えない。だから今潰されたのが彼女の乗ったものであるかは分からなかった。だが違うとも言い切れず、叫ばずにはいられなかった。
「助けに行かなければ!」
「お待ちを」
思わず駆けだそうとする俺の腕をアスピダ様が掴む。その力は強く、振り払おうにも微動だにしない。
「分かっていますっ、自分に巨神を倒せないことくらい! ですが、フィリアーネ様を救出することくらいなら……」
「無意味であります。今潰された船にいたのならばもはや手遅れ。他の船に乗っていたとしても、今から間に合うのは彼のみでしょう」
アスピダ様の目はぎょろぎょろと泳いでいたが、その顔は一つの方向へ向けられていた。彼――すなわち、先ほどこの場を飛び出していったスキア様の方へと。
彼は巨神を壊すと言った。天を貫く怪物を前にして一切怯むことなく、涼しい顔で飛び出していった。確かに今は、下手なことをせずスキア様の戦いを見守るべきなのかもしれない。
水流騎士スキアダン。彼はサクスムにおいて最強の騎士と謳われる。
『岩の巨神』が使えないと分かってもその評価は揺るがなかった。
それは単に巨神を扱えないのがスキア様だけに限らないから、ということではない。エルピネス様が巨神を動かし『希望の王』と呼ばれるようになってからも、やはりスキア様は最強だった。
「フム、少し見にくいですな」
アスピダ様が呟き、国門の端にできた丸い凹みに近づく。それは魔術のために作られたもので、中に水が張ってあった。
水面に巨神の姿が映っていた。空から俯瞰するように頭の上から見下ろしている。戦場ではこうして魔術を使い、周囲の状況を探るのである。
水面に映った影は変化し、もう少し地上の景色に近づく。巨神に踏み荒らされた地面の上をスキア様が泳いでいた。
彼は『見えざる川』を愛用している。空中に川のような力の流れを作り、泳ぐように素早く移動する魔術だ。
その精度は他の者が使った時とは比べ物にならない。速さや動きの正確さはもちろん、一瞬一瞬の状況に応じて流れを変化させる対応力も段違いであった。
目にも留まらぬ速さで宙を泳ぎ続ける彼のことを、いつしか人々は『水流騎士』と呼ぶようになった。彼が一度動き出せば、何者であれ捕まえることはかなわない。
けれどそれは水流騎士の名の由来であり、彼を最強にした要因ではない。
スキア様の動きが速くなり、見えなくなる。だがその跡を追うことができた。天へと続く塔のごとき巨大な脚に線が刻まれていた。よく見ると削られたというよりは溶けている。きっと『波打つ矛盾』で攻撃しているのだ。あれならば確かに、巨神の体がどれだけ硬くとも問答無用で傷を与えられる。
先ほどスキア様は巨神を倒す方法として、大量の兵士を使って足元を崩すという案を挙げていた。それは彼自身により却下されている。巨神にすぐ蹴散らされると踏んだからだ。
『岩の巨神』を操っている者は当然ながら相当な手練れだ。『満たされた器』は極めると肉体のいかなる場所からでもものを見ることができ、死角をなくせる。加えて視力も良く、動きも尋常ではなく速い。本来であれば近づいただけで先ほどの船のように粉々にされるはずなのだ。
だがスキア様ならば――誰よりも速く宙を駆け、いかなる攻撃も避けられる彼であれば話は別だ。彼は一人で一軍隊分の働きをして、巨神の脚を壊すつもりのようだ。
「複数の魔術を同時に使う――話には聞いてたけど、本当だったんだね~」
カリダ様が水面を見下ろしながら言った。
その通り。スキア様は宙を泳ぎながら、さらにもう二つの魔術を同時に扱える。そのような芸当ができる者は彼の他にただの一人も存在しなかった。大英雄フルリオダンでさえできなかったことだ。
類まれなる魔力量と常人離れした器用さがスキア様の最大の武器であった。目にも留まらぬ速さで移動し続けながら一方的に敵を蹂躙する。それこそがサクスム最強の騎士の戦い方だった。
巨神は足を振り回し抵抗するが、スキア様には一切通じなかった。動こうとした瞬間には遠くへ回避し、暴れるのをやめた次の瞬間には攻撃を再開している。巨神の脚を削り切るのにどれほど時間がかかるかは分からないが、今の状況が続けば間違いなく、スキア様が勝つ。
『見えざる川』は、残念ながら空高くへ飛べる魔術ではない。だから直接首筋を狙って本体を叩くことはできないが、巨神が片足を破壊され上手く立てなくなれば、いずれ首元に迫る機会も訪れるだろう。
「おお! スキア様! やはりスキア様なら勝てるぞ!」
後ろから水面を覗いていた兵士がその顔に希望の色を取り戻し、歓声を上げる。スキア様が出陣してほんのわずかな時間で状況が引っくり返っていた。
俺の心にも一瞬、油断があった。スキア様こそ最強なのだと信じて疑わなかった。
だが忘れていた。巨神を最後に見たのは八年も前のことだから、俺以外の者たちも記憶が薄れていたのかもしれない。
巨神の真の恐ろしさはその大きな体のみにあるのではない。
突如、巨神が大きく膝を曲げて跳びあがった。瞬きをした一瞬に起きたことだ。巨神の動きはとてつもなく速い。先ほど船を潰そうと振り返った時もそうだった。巨神はその大きすぎる体にもかかわらず、生身の人間と変わりない速度で動けるのだ。いや、正確にはそう見えるというべきか。実際には、体が大きい分人の何百倍も速いはずだ。
それに身軽だ。険しい山よりも重たい体で自身の腰の高さまで軽々と跳びあがり、そして――巨神は脚を伸ばした。
足が大地に突き刺さり、まるで星が墜ちてきたような大爆発が起きる。遠く離れた俺たちまでをも震えと突風が襲った。
「ぐっ……! す、スキア様!」
あれは実質的な爆撃だ。超巨大な爆ぜ石を破裂させたようなものであろう。その破壊力は他のどんな魔術でも比較にならない。巨神の体は煙に包まれ何も見えなくなっていた。
血の気が引いた。絶望感でひざの力が抜けそうになる。巨神が強いことは分かっていた。だが、あのスキア様がこんなにもあっさりと――。
「ははっ、大丈夫だよ」
「な……!」
おかしい。俺はぽんと肩を叩かれ、絶句した。ありえない。いくらなんでも速すぎる。
「悪いけど、アレを壊すまではもうしばらくかかりそうかな。辛抱強く待っててよ」
そばにいたのはスキア様だった。余裕の笑みを浮かべて俺たちに手を振ると、風が吹き、また彼の姿が消えた。
「あ、あの一瞬で……ここまで回避したのか?」
「フム。むしろ心配なのはホドス様たちのほうですな」
アスピダ様の言葉にはっとする。そうだ、彼らは俺たちよりずっと近くにいたはずだ。スキア様が向かってから飛んでいる様子は見えなかったから、避難してくれているかもしれないが……。
長い時間をかけ、ようやく煙が晴れる。地面はすり鉢状に大きく凹んでおり、まさしく隕石が墜ちた跡のようだ。
だが威力がどれほど大きかろうと当たらなければ関係ない。スキア様は無傷のままだ。
勝てるかもしれない。だが同時に、これで終わるはずがないとも思った。魔獣たちは、そしてマムニカは、この日のために長い時間をかけ計画を練ってきたはずだ。そう簡単に諦めてくれるとは思えなかった。
次はどう出る――?
注意深く様子を観察していると、巨神があらぬほうへ指を差した。そこには森が広がっているだけだ。
アスピダ様が魔術を使い、足元の凹みに張った水に森の様子を映し出す。
息を飲んだ。森の上を小舟で逃げるフィリアーネ様とホドス様の姿があったからだ。いや、向かっているのは王都の方角だった。万一のために王都の守りを固めるつもりだったのだろう。ここで無理に加勢するよりは正しい判断だった。
だが最悪なことに、最悪の存在に見つかってしまった。
「おい、待て」
俺は震える声で呟く。巨神が跳躍する。
巨塔のごとき岩の体がフィリアーネ様たちのいる森の方へと向かっていった。
「何をする気だ。やめろ……!」
跳びあがった巨体はもう止まらない。
「やめろォ!」
森の上に巨神が落下する。再び大爆発のような衝撃が広がった。
「スキア、殿……」
眼前の光景に思考が止まってしまった俺の横で、アスピダ様が呟く。
「アスピダくんも見えたんだね。気のせいじゃなかったんだ」
カリダ様が反応する。アスピダ様は頷いた。
「はい。巨神が森に落ちる直前、スキア殿が小舟を運んだのをはっきりと見ました。本当に直前の事であります。おそらくあれでは爆発に巻き込まれて――」
「何を言うのですか!」
縁起でもないことを言い出したアスピダ様に、俺は食ってかかった。
「スキア様なら大丈夫です! あれほど遠い場所からここまで一瞬で来られるような規格外のお方ですよっ? きっと逃げ切れているはずです!」
俺の言葉に反論する者はいなかった。静寂が国門を包む。
しかし、土煙が晴れるまでの間、戦場に動きはなかった。
巨神も警戒しているのか、じっと動かず周囲の様子を窺っている。おそらくは全身を使ってあらゆる方向を観察しているのだろう。
しかしそれでもスキア様は現れなかった。
皆、固唾を飲んで周囲の様子を見て、音に耳を傾ける。けれどもやはり、動きはない。
やがて巨神が歩き出した。今度こそ王都へ向かおうとしている。にもかかわらずスキア様が足止めに戻ってくることはない。
「まさか、本当に――」
「いやあ、危なかった危なかった」
最悪の予感を信じかけた頃、スキア様が国門裏の階段をあがってひょっこりと現れた。両腕に気を失ったフィリアーネ様とホドス様を抱えている。
「スキア様! ご無事だったのですね!」
「まあね。もちろんお二人も無事だよ。気を失ってるけど命に別状はない。すぐに目覚めると思うよ」
兵士たちの顔に安堵と喜びの色が浮かぶ。やはりスキア様こそ最強の騎士だ。
「じゃ、もう一度行ってくるよ。これ以上変なことされたらたまらないからね!」
笑顔で言って身を翻す。その時俺たちは、自身の目を疑った。
彼の背中にいくつもの木の破片が突き刺さり、服を真っ赤に染めていた。
「す、スキア様、そのお怪我は……」
「ん? ああ、大丈夫大丈夫。この程度の傷なら、戦いに支障はない、さ……」
言葉の途中、スキア様の体がふらりと揺れた。そのまま足元に倒れ込み、動かなくなる。
「スキア様?」
返事がない。浅い呼吸音だけが耳に響く。
兵士の一人が膝から崩れ落ちた。瞬時に状況を察した彼から、波紋のようにして絶望が広まる。あるいは立ち尽くし、あるいはスキア様に呼びかけ、互いに焦燥感を強め合う。
「終わりだ……」
誰かの呟きに俺は目を剥き、胸ぐらをつかもうと視線を走らせる。見つからず、仕方なく俺はその場で吠えた。
「まだだ! まだ終わってなどいない! スキア様はまだ治療できる、俺たち自身も戦える! 諦める時ではないぞ!」
兵士たちは俺の言葉を否定しなかったが、同意もしなかった。アスピダ様はこちらに背を向け、じっと黙り込んでいた。
俺がもう一度声を上げようとしたその時、カリダ様が手を掴んでくれた。
「そうだね〜、わたしたちにはまだ手が残ってるんだし」
彼女はのんびりとした声で言って、俺の背中に視線を向ける。俺はずっと、ここに来る前から大きな鉄の額縁を背中にくくりつけていた。
中にはとある絵が入っている。虹色の霧が描かれたそれは、『テクネーの矢』。世界最強の武器である。
魔獣の軍勢と聞いて、万が一のためにエルピネス様の寝室から持ってきておいたのだ。あまりいい行いではないが、緊急事態のため無許可のまま持ち出した。
これに全ての魔力を注ぎ込めば、戦闘を続けられなくなる。最強の武器ではあるが、倒せなかった時のリスクも大きい。だから善戦していたスキア様には渡せなかった。だが今はこれを使うのが最善の手だ。
この場で最も適任なのはアスピダ様であろう。『テクネーの矢』と名付けられてはいるが、要するに爆ぜ石である。いかに多くの魔力を注げるかが何よりも重要なのだ。その点彼なら不足はない。
「アスピダ様、ご提案があります」
俺は背中の額縁を下ろし、ガラスを引き抜いて抽象画のような絵を見せる。
「ほう。提案とは、巨神を止める策のことでありますか? その絵が何か関係するのですかな?」
「はい。これこそ、エルピネス様がとある職人と共に遺された最強の――」
俺は絵について説明しようとして、途中で止めた。
突然のことだった。上空から黒い影がまっすぐに落ちてくるのを見た。向かう先は倒れたホドス様とフィリアーネ様のいる場所だ。
真っ黒なカラスの魔獣が鋭いくちばしを槍のように構え、二人を狙っていた。
考える暇もなかった。俺は地面を蹴り、カラスの真下に滑り込む。
「カァァァ!」
「これ以上好き勝手させるものか、獣風情が!」
額縁を足元に放り、剣を抜く。それでもまっすぐ向かってくるカラスを、問答無用で斬り伏せた。その身は真っ二つになり、赤い血が飛び散る。
俺は剣を振り、血を払い飛ばした。魔獣側からすれば勝利は必定に見えるだろうに、それでも命をかけて王族の首を取りに来るとは……それほどまでに憎悪が深いということなのか。
三年前の魔獣駆除は彼らが都市を襲おうとしたことが原因であり、それを憎むのは逆恨みも甚だしい。だが彼らからすれば仲間を殺された事実だけが重要なのだろう。恨みや憎しみに理屈は必要ない。
無論、憎まれているからといって彼らの重いようにさせはしない。守るべき人たちを守るだけだ。
カラスは無駄死にだ。鼻を鳴らし、剣を収める。その直後、俺は瞠目した。
「あ……」
カリダ様も気づいたようだ。小さな声で呟いた。
鉄の額縁に守られた『テクネーの矢』は、多少雑に地面に放っても傷ついたりはしない。中の紙さえ無事なら武器として使えなくなることはなかった。
だが油断すべきではなかった。いや、あの場面で絵のことを気にかける余裕などなかったが、それでもこれは大失態だ。
「俺は……なんということを」
『テクネーの矢』に、カラスの返り血がべったりと染み込んでいた。




