2. 誇り高き役目
白く晴れた空を船が優雅に泳いでいる。
『空泳船』と呼ばれる、船で空を飛ぶ魔術だ。
そよ風の中を鳥たちと優雅に旅する。なんと穏やかな光景だろうか。
彼らの眼下には濃淡に富んだ灰色の街が広がり、石の敷き詰められた通りをたくさんの人が行き交っている。
ここは俺が生まれ、育ち、そしてこれから守り続けていく愛国、岩の国サクスムだ。
その名の通り岩の資源に恵まれ、国土の大半を鉱山が占める。岩を愛し岩に愛されるサクスム人は、街のあらゆるものを岩で作る。
道も、建物も、椅子やテーブルも、飾りや看板や橋も、全てが石造りだ。石の皿でスープを飲み、石のベッドで眠りにつく。それが我らの生活だ。もちろん綿入りのシーツは敷くが。
そんなサクスムの風景は、まるで繊細なタッチで描かれた水墨画のようだと表現される。
外の国の者が白黒の世界を歩いていると、夢の世界にでも紛れ込んだような心地になるらしい。
悪くない感性だ。サクスムの街は確かに絵画のように美しい。
この美しく穏やかな風景を守るためには、やはり次なる英雄の存在が必要だ。
「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」
起きがけの軽い鍛錬を終え屋敷に戻ってきた俺に、じいやが柔らかい布を差し出してくる。それで汗を拭き、屋内に入る。
じいやは屋敷内の一切を取り仕切る使用人で、そして家族だ。今の俺に残されたたった一人の家族である。
鮮やかな赤を基調とした玄関ホールを抜け、螺旋階段を上がって自室に向かう。大英雄フルリオダンの屋敷だけあり、とても広い。しかしそれが却って寂しいと感じることもある。
それはきっと親父たちがいないからだろう。両親は八年前、風の国との戦で亡くなった。だから今は俺とじいやの二人だけなのだ。
「紅茶をご用意いたしました」
「ありがとう」
俺が自室で書物を読みだすと、すかさずじいやが茶を持ってきてくれた。彼は本当に熱心に身の回りの世話をしてくれる。
「今日も魔術のお勉強を?」
「ああ。いつものことだろう?」
「は、はい……」
俺は日課として、毎朝『魔術全書』に目を通す。この世のありとあらゆる魔術が記載された知恵の宝庫だ。その内容を全て頭に叩き込んだ俺に、知らない魔術は存在しない。
問題はそれら魔術にどのように対抗するかだ。だからこうして日々復習しつつ、頭の中で策を練るのだ。
「ああ、おいたわしい……まだ英雄の夢を諦めきれぬのですね……」
本をめくる手を止める。じいやがはっとした。
「も、申し訳ございません! 失礼なことを!」
「気にするな。百度目までは許す。ちなみにこれが九十七度目だ」
「はぁっ、失礼いたしました!」
深々と頭を下げてから、じいやは恐る恐るといった様子でこちらを見た。
「ですが、その……魔術の勉強がお好きなら、いっそ学者様になられては」
思わずため息が漏れた。
「イェネオと同じことを言うのだな。学者は容易い仕事ではないぞ」
「それは、ええ、はい……」
分かっている。英雄よりはずっと現実的だと言いたいのだろう。散々言われてきたことだ。
昨日のイェネオは優しい方で、とある姫様などは税泥棒だのフルリオダン唯一の汚点だのと言いたい放題だ。まあ俺は気にしていないが。
「ああ、お坊ちゃま! お涙が!」
「ぐすっ……な、泣いてない! うっ、ううっ……!」
その時、外で鐘が鳴った。日暮れの鐘――第十八刻だ。
「おっと、行かなくては」
「さすがお坊ちゃま! 切り替えがお早い!」
一体どこにしまっていたのか、じいやが布に包んだ箱をくれる。夜食が入っていた。
城に泊まり込むためだ。兵士としての仕事をする。現国王ホドスネス様が住まわれる王城にて、夜警を務めるのだ。
*
円状に築かれた高い岩の壁、その内側にサクスムの王都はある。その中心には湖があり、その真上――つまり上空に城はあった。
サクスム特有の色のない空に浮かぶ巨大な雲、もとい霧に向かい、『空泳船』が飛行する。空を飛ぶ船の魔術のみが、城に入る唯一の手段なのだ。
「開門! 開門!」
渡し守が叫ぶと、巨大な霧の塊に船が通れる程度の穴が開く。穴を抜けると巨大な霧の壁に囲まれた黒岩の城が姿を現した。
百年以上も前、王族たちが我が身を案じて作らせたそれは『霧の城』と呼ばれる。この危険に満ちた魔術社会において、ただの一度も暗殺者の侵入を許していない、世界で唯一の城だった。
「ご苦労。代わるぞ」
「ふぅ、やっと交代かい」
第二十刻。王族の寝室がある廊下に立っていた兵士と交代し、夜の番を始める。俺は自らの頬を叩き気合を入れる。今日も責任をもって城内を守らなくては。
はるか昔、人類は魔術を発見したことで急速に文明を発展させた。生活の質は大きく向上し、しかして同時に他者を効率的に傷つける手段も身につけた。
人々は常に死の危険に晒されている。俺たちのような兵士が善良な市民を守らなければならない。
国の頂点である王族であれば尚更だ。サクスムを導く王の身に何かあれば一大事である。王城における夜警は、最も重大で、最も誇り高き仕事の一つであるはずだった。
そのはず、なのだが……。
「ふあ~あ」
大きなあくびをしながら夜警仲間が歩いてくる。
「あ、どうもニケ様。今夜もよろしくお願いします」
へらへらと笑う青年兵士は夜警の中では最も若く、ここに来てからやっと一年が経った程度だ。
一年前は彼も城の警備だからと張り切り、緊張して、常におどおどしていた。それが今では毎刻のように大あくびをする気の抜けよう。由々しき事態である。
「おい。油断しすぎではないのか」
「は、はあ。すいません」
謝りはするが、姿勢を正す様子はない。ため息が漏れた。
気持ちは分からないでもない。街の夜警は危険だらけで気を抜く暇などないというが、この城はいつだって平和そのもの。昔は問題児の第二王女様が連日騒ぎを起こしていたらしいが、今では喧嘩の一つも起きやしない。
それでも気は引き締めるべきだ。何か起きてから焦ったのでは遅い。
「いいか。お前たちは平和すぎてやることがないというが、その平和を維持するのが俺たちの仕事だ。そうでなくては俺たちの存在意義が……」
「あー、はい! もちろんです! 重々承知しておりますよ! いやあ、本当にニケ様は真面目な方ですねぇ!」
「ん? 当然だ。俺は努力家だからな」
なんだか誤魔化された気もするが、褒められたから良しとするか。
「それにニケ様が心配せずとも、明日に向けて皆緊張感が高まっているみたいです。何せ、三十年以上ぶりに城にたくさんの人が来るんですからね!」
その通りだった。明日はこの城にて国王就任式が行われる。サクスムの次の王が生まれる重大な日だ。その様子を見るべく各国から貴族王族が集まることになっていた。
「悪党が紛れ込むにはこれ以上とない絶好の機会、というわけだな。最も警戒すべき時だ。……しかし、それ以上に」
俺は視線を上げ、少し笑った。
「ついにあのお方の就任式か。楽しみだな」
その時だった。
爆発にも似た大きな破壊音が響き、同時に背後から凄まじい風が巻き起こる。
「人の部屋の前で喋ってんじゃないわよ、無能ども」
強烈な光がそこにあった。
灼熱の空に燦然と輝く太陽のような、熱く激しく、暴力的な光。
サクスムの第二王女アガペーネ様が、寝室のドアを蹴り飛ばして現れた。傍らには従者の少年を従えている。
「あ、アガペーネ様! こここ、今夜は、泊まられていたのですか?」
「悪い?」
「いえっ、そのようなことは!」
慌てる青年兵士を睨みつけ、アガペーネ様は廊下に響くくらいに大きく舌を鳴らした。
背丈はそれほど高くなく、体つきも華奢で、か弱い少女そのもの。しかしその姿を一目見た瞬間には圧倒される。捧げる言葉を一言でも間違えれば、たちまち彼女の放つ灼熱の炎に吞まれかねない……などと恐れてしまうほどのプレッシャー。
しかし、美しい。それこそ世界を照らす神様のように美しい。
身にまとう空気だけではない。実際彼女は特別だ。アガペーネ様の衣装――白衣に紅色の袴を合わせたものは、国で最も多くの魔力を持つお方だけが着ることを許されている。彼女だけに与えられた神聖な装束なのだ。
魔術を使えない俺とは真逆の、魔術の神に最も愛されたお方だった。
余にも珍しい純白の髪をさらりと揺らし、アガペーネ様がこちらを見る。
鮮血のごとき赤い瞳は閃く炎のように熱い。ただ視線を向けられるだけで胃が縮むような思いがした。
「何張り切ってんのか知らないけど、アンタらみたいな雑魚がいくら頑張っても役に立ちやしないわよ。せいぜい自分の身の安全だけ考えて震えていることね」
「がーん!」
俺は遠慮なくぶつけられた言葉に大いにショックを受け、その場に崩れ落ちた。
「自分は……自分は……!」
何に苛立っているのか、アガペーネ様はまた舌を鳴らし、カツカツと足音を立てながら足早に去っていく。従者の少年は無言で頭を下げ、澄ました顔で主人の後についていった。
二人の姿が完全に見えなくなると、青年兵士が床を強く踏みつけた。
「ひどい、ひどすぎる! なんであんなこと言われなきゃいけないんだ!」
「まあ落ち着け。いつものことだ」
「無理です! あんな風に言われてニケ様は悔しくないんですかっ?」
「これが悔しがっていない者の姿に見えるか?」
床に崩れ落ち涙を流したままの状態で俺は言った。
「み、見えませんね」
「しかしこれも仕方がないこと。俺には努力によって裏打ちされた確かな実力があるが、実績がない。無能と誤解……そう、『誤解』されても無理ないだろうさ」
「その自信はどこから……」
そろそろその辺の凶悪犯でも捕えてみたいものだが、今は就任式後の警備に注力するとしよう。
誰に何と言われようと、城の夜警は俺たちに課せられた大事なお役目だ。新しき国王様の記念すべき日を血で汚されるなどあってはならない。
我らが王子エルピネス様のために――サクスムの未来を希望で照らす次期国王のために、俺たちはひたすらに力を尽くすだけだ。