2. 涙なきホドスネス
「う~ん、う~ん……」
薄暗い廊下の端で、カリダ様が一生懸命に背伸びをしている。天井近くの壁に向かって手を伸ばしているようだ。平らな壁をよじ登ろうとしたりぴょんぴょんと飛び跳ねたりしているが、一向に届く様子はない。
「ごめんニケくん、肩車して~」
「はい喜んで!」
エルピネス様の寝室を後にした俺たちは、犯人の逃走経路を探っていた。そして部屋を出た直後、カリダ様があるものに気づいた。
『霧の城』の廊下はあらゆる面が黒い石材で作られている。けれど全ての部分が同じ色というわけではない。
廊下の壁には等間隔に壁とほぼ見分けのつかない黒い石がはめこまれていた。
「すごい。よく気づいた」
フィリアーネ様が素直な褒め言葉を送る。そう、カリダ様は廊下の壁にはめられた謎の石の存在に気づいていたのだ。
「えへへ、照れちゃうな~」
やがて肩車されたカリダ様の手が石に触れる。その指先が石の中にするりと入り込んだ。
魔術で生み出されたその黒い石は『影石』といい、その名の通り実体のない影であった。石のように見えているだけで、本当はそこには何もないのである。
当然俺たちは知っていたし、逃走経路の話が出た時点で話そうとしたが、その前にカリダ様が見つけてしまった。
「わあ、風が気持ちいいね~。やっぱり通気口だったんだ~」
「はい。心臓室という部屋で新鮮な空気を作って、そこから通気口を通して城全体に送っているのです。……っと、カリダ様?」
「よい……しょっと!」
カリダ様が通気口に手をかけ、中へ身を乗り出す。そのまま入っていった。
『影石』の奥から声だけが響いてくる。
「う~ん、何も見えない……でもすっごく広いね~! これなら大きな体の人でも簡単に入れちゃいそう!」
しばらくしてカリダ様が顔を出した。下に下ろして差し上げると、あっと小さく声を漏らす。ローブが汚れて黒ずんでいた。
「申し訳ありません! 中がそんなに汚れていたとは!」
「いいよいいよ~、これはこれで大事な情報になるしね~。それよりこの感じだと、通気口のことさえ知ってればニケくんたち夜警の目を潜り抜けるのは難しくなかったみたいだね」
「ええ、そうですね……客人には『影石』を使って気づかれにくくしてあったのですが」
こうしてカリダ様には見抜かれている上に、城内の者には当然利用されてしまう。内部の警備体制は見直す必要があるらしい。
「逃走経路はこんなところで良いかなぁ。うん、それじゃあ次はホドスくんとお話してみよー!」
調べ終わった瞬間には次の場所へ向かい始めている。その早さからしてカリダ様の中で調査の順番は既に決まっているに違いない。
廊下を歩いていた召使に尋ねると、ホドス様は国王の間に向かわれたと教えてくれた。本来ならば今ごろエルピネス様のものとなっていたはずの部屋だ。
他に比べて大きく造られた石の扉を開け、真っ白な部屋へ足を踏み入れる。ホールと同じような神聖さを感じさせる場所であったが、今はどこか空虚な雰囲気が漂う。
それは玉座の前に立ちすくむホドス様が、ひどく寂し気な背中をしていたためだろう。
彼は俺たちが来たことにも気づかず、ただじっと項垂れていた。
「お父様、聞き込みしに来た」
「む。そうか」
フィリアーネ様に声をかけられ、ホドス様が振り返る。すっかり枯れ果てたようになったその顔はホールで見た時よりさらに老け込んで見え、今にも倒れてしまわないかと心配になるほどであった。
「余は昨晩ずっと眠っていただけだ。特に話せるようなことはないぞ」
先手を打って宣言した彼に、カリダ様がにこにこと笑いかける。
「大丈夫だよ~。他にも聞きたいことはあるから」
ホドス様の眉がぴくりと動く。顔を逸らし、白い天井を見上げた。
「なんだ。言ってみよ」
「例の体質の話だよ。ホドスくんはさっき、王様の体質を知ってる人は七人しかいないって言ってたけど、本当にそうなのか確認がしたいの。王様自身がホドスくんの知らないところで他の人に打ち明けた可能性はないかな~って」
「そのことか。ふむ、もう少し詳しく話しておくべきであったな。結論から言えば、エルが黙って他の者に秘密を明かすことはない。体質について隠すよう言い出したのは余だが、エル自身強く同意していたのでな。基本的に隠し事を好む性分ではなかったが、身の安全に関わることばかりは別だ。あやつは身内の者を愛したが、善人と信じて疑わぬほど純粋でもない」
「うんうん」
一瞬ホドス様は遠い目をしたが、頷くカリダ様に促されるように続けた。
「もし誰かに話すのであれば、事前に余やカストロに相談をもちかけたであろう。情報共有も兼ねてな。スキアに打ち明けたのはエルからの提案だったのだが、あの時も相談してくれた」
「そっかぁ、やっぱりそうだよね~。王様は自分の弱点を重く見ていたみたいだし」
エルピネス様は『開かれた隣室』という魔術まで使って身の安全を確保していた。危機意識が高かったことは間違いない。
「そういうわけだ。我々七人のうちの誰かが漏らさない限り、余たち以外にエルの体質を知る者はおらぬ。もし話してしまったとしても、悪意がないのなら、エルが死んだ今も黙り続けているはずがない。犯人確保の重要な手掛かりになると皆分かっておるはずだからな」
勝手に人の弱点を打ち明けておいて黙っている時点で悪意はあるように思えるが、暗殺に関わっていないのであれば未だに沈黙を貫くとは俺にも思えない。殺人の罪を疑われるよりはずっと良いはずだ。
それに今は、ホドス様の完全なる潔白を証明できなければサクスムが滅んでしまう状況だ。話したことを隠したくて怯えていたとしても、もっと恐ろしい現状の前ではあっという間に白状したことだろう。
「やはり犯人候補は余とフィリー、アーネ、カストロ、ソポス、スキア、アスピダ――この七名以外にはあり得ぬ。考えたくないことではあるがな」
ホドス様が瞳に濃い陰を落として断言した。
「ふんふん、なるほどねぇ……あ、そうだぁ」
重たい空気になりかけたが、カリダ様のほわほわした声で多少なり緊張が和らぐ。彼女は人差し指を立て、言った。
「もう一つ確認してもいいかなぁ? 王様って、誰かと一緒に寝たりする人~?」
「なっ……! げほっ、ごほっ! カリダ様っ? 何を……?」
唐突に床事情について聞き始めたのかと思い、俺は驚きのあまり思いきりむせた。
「ニケ、焦りすぎ。別に寝るとしか言ってない」
「はっ……! 確かに!」
ただ添い寝するというだけの意味だったのか!
「どっちの意味でもいいよ~」
「カリダ様っ?」
「誰かと一緒にいても、王様は目の前で堂々と眠れるのか――どうしてもそれが知りたいんだ~」
ああ、そうかなるほど。これも犯人調査の一環か。本当にビックリした。
エルピネス様は昨晩、『開かれた隣室』の中で眠っているところを襲われた。当時『隣室』は外から絶対に入れないようになっていたはずで、つまり犯人がいる目の前で、それを気にせず寝入った可能性が高い。
「む、むぅ……」
ホドス様は言いにくそうにして、こほんと咳払いした。
「エルは、老若男女問わず、誰でも受け入れられるやつじゃった……」
俺は額を手で押さえた。エルピネス様は素晴らしい王の素質を持っていたが、肉体関係だけは問題があった。少年と寝たこともあるし、年上の男女両方と寝たこともある。挙句の果てには老人すれすれのような人とも……もうこの話はよそう。
「老若男女問わずって、すっごいね~! そんなの初めて聴いたよ~!」
カリダ様は拍手でもせんばかりに目を見張る。子どものような見た目だが、こういう話にも一切怯まないようだ。
「なら、誰と一緒に寝てもおかしくはなかったんだね」
「否定は……できぬ。ただ、夜を共にしても、体質を知らぬ者の目の前で寝入ることだけはしないだろう。あやつは自身の寝室に他人を一切寄せ付けないようにしており、他人に寝姿を見られることを避けておった」
俺は頷く。
「夜警の最中、顔を真っ赤にした召使がエルピネス様の部屋から出てくるのを見たことがあります。何度も」
「何度も!」
繰り返したカリダ様に俺は咳払いし、気まずさで目を逸らした。
「ただしいずれも寝室ではありませんでした。寝るとき以外に過ごされているお部屋にて、その……こほん、楽しまれていたようです」
「うむ。余も知っている通りだ」
俺は頬が熱くて仕方がなかったが、ホドス様は暗い面持ちに戻っていた。苦しげに呻き、俯いた。
「其方は犯人が寝室に招き入れられた可能性を考えておるのであろう? それならば今言ったように、体質を知る七人に限って言えばありえたということになる。余たちの前でなら、いくら眠ろうと新たに秘密がばれる心配はないからだ」
話を聞きながら興奮せずにはいられなかった。この情報はかなり大きいのではなかろうか。エルピネス様が犯人の前で堂々と寝入ったと仮定するなら、犯人は刺客を送らず自ら犯行に至ったことになる。それならば七名の誰が実行犯になり得るかのみ調べれば犯人が特定できるはず。
これは本当に大きな進展だ。犯人の特定が現実的になった。
「なるほど~、よく分かったよ~」
「そうか。では、引き続き頼むぞ」
にこりと頷くカリダ様。俺は敬礼し、フィリアーネ様は黙って踵を返す。
そして去り際、国王の間を出ようとしていたカリダ様が振り返る。
沈痛そうに黙り込むホドス様に駆け寄っていく。何をするのかと思ったら、その顔にそっと手を伸ばし、頬を包み込んだ。
唖然とする。いくら英雄と言えど、王族相手に簡単にやっていいことではない。
「座って、ホドスくん」
ホドス様は目を見張り、しかしされるがままに玉座に座り込んだ。その頭に小さな手がのせられる。
「よしよし。辛いことがあったときはね、誰かがこうしてあげなきゃいけないの。ホドスくんだって同じだよ」
「よせ。余には慰めなど……」
そう言いながらも、やはり抵抗はしなかった。そのまま黙り込み、手を払おうとしていた腕をだらりと垂らす。
「うん。いい子だね。とってもいい子。そう、疲れた時はちょっとくらい休んでもいいんだよ」
ホドス様の瞳から涙がこぼれ落ちることはない。生気を失った顔にも変わりはない。
けれど彼を包む重たい空気がゆっくり溶けていくような感じがした。