1. 開かれた隣室
外の世界と隔絶されたような、陽の光の入らない薄暗い廊下を歩く。
ずっとお会いしたいと願っていたあの花国探偵、カリダ様がすぐ横にいる。どんな人なのだろう。今はまだほわほわとした雰囲気の優しい女性という印象しかないが、冷静に状況を観察し風の国を救ってみせた実力は本物だった。
「ニーケーダンくん、だよね。ニケくんって呼んでいい?」
「はっ! どうぞお好きなように及びください!」
「わあ、元気な返事だね~。これからよろしくね、ニケくん」
「はい!」
とても常識的で会話のしやすいお方だ。英雄には変わり者が多いと聞くが、カリダ様に関しては例外な気がする。
「フィリアーネちゃんのことはフィリーちゃんって呼びたいなあ」
「好きに呼んで」
「やったぁ~! よろしくね、フィリーちゃん」
「ん」
カリダ様はフィリアーネ様をぎゅっと抱きしめる。
王族に対して少々物怖じしないところは見受けられるが、立場を思えば当然とも言えた。
「ニケも、よろしく」
名を呼ばれ、どきりとする。
フィリアーネ様の冷たい灰色の瞳がこちらを見ていた。一瞬、かつてのフィリー様の慈愛に満ちた温かな眼差しが頭をよぎった。
「はい。――フィリアーネ様」
「フィリーでいい」
「い、いえ。そういうわけにはいきません」
一瞬、彼女の眉がわずかに下がったように見えた。俺が距離を置いたことに対し悲しんだような素振りに見えたが、それはない。フィリアーネ様は人の些細な言動を気にかけるような性格ではないからだ。
「ニケ、真面目すぎ」
「申し訳ありません」
怒られても呼び方を変えることはできなかった。とても気まずい。
フィリアーネ様が同行することになるとは思っていなかった。ホドス様はどれだけ厳格に振舞おうとしても、やはり娘に甘いのだ。おかげでこちらはとばっちりだ。正直言って彼女と一緒に調査するのは気が重かった。
「あ、そういえば」
カリダ様が気まずい空気を察してか、わざとらしく手を叩いて言った。
「お城ってちゃんと封鎖されてるんだよね? そのあたり確認してから来ればよかったよ~」
俺は頷く。
「スキア様が渡し守たちに命じて、誰であれ城を出入りすることはできなくなっています」
「エルピネス様のご遺体が見つかった直後からね」
俺の説明を引き継ぐように誰かが言った。
振り向くとスキア様がついてきていて、軽く手を挙げて爽やかに笑った。
「やあ」
彼が首を傾けてキラキラと亜麻色の髪を揺らすと、大抵の女性は心を射抜かれてメロメロになってしまう。しかしカリダ様は相も変わらず小さな子でも相手にするような優しい笑みを返すだけだった。
「スキアくんだ~。どうしたのぉ?」
「ははっ、ちょっと君と話がしたくてね。でもちょうどいいからもう少し今の説明を続けようか」
城の出入りを禁じたことについてだろう。スキア様は人差し指を立てた。
「城を封鎖したとは言ったけど、出入りした人が全くいないわけじゃないんだ。当時外にいた監視官とアガペーネ様、それから医者たちをお呼びするために渡し守を向かわせていてね。まあ事件とは関係ないだろうけど、一応覚えておいてほしい。ああ、ちなみにその渡し守は、夜明け前にピルゴスニルっていう男を連れてきたばかりで、夜はずっと外にいたんだ。刺客であることはありえないよ」
スキア様の説明で俺は大事なことを思い出した。主犯候補は七名に絞られたが、それ以外の人間についても刺客である疑いは残っているのだ。昨晩城内にいた者を完全に信用することはできない。
「一つよろしいでしょうか」
それとは別にもう一つ気がかりがあった。俺はスキア様に尋ねてみる。
「なんだい?」
「調査とは関係ないのですが……エルピネス様が亡くなられたことについて、サクスムの民には伝えなくてよろしいのでしょうか」
彼らは国王演説を待っているはずだ。このまま何も言わずに放っておくわけにもいくまい。
スキア様は首を振った。
「いやいや。話すなら事件を解決した後の方がいいと僕は思うよ。王が殺された上にその犯人も分からないとなったら、国中パニック間違いなしだろう?」
「それは……そうですね。軽率でした」
「あはは、謝らなくてもいいよ。もちろん、国王演説を中止することは伝えたけどね。実はさっき言った渡し守に言伝も頼んでおいたんだ」
王都周辺の魔獣たちに不穏な動きがあったため、その対処を優先する――国民にはそう伝えたらしい。
「これなら皆変だとは思わないんじゃないかな。何しろ最近本当に魔獣たちの動きが怪しいからね。よく人里を襲っていた獣たちが妙に大人しくなって、不穏な感じらしいんだ。ま、王の死に比べたら全くもって取るに足らない話さ」
カリダ様が解決された三年前の事件でも知られているように、魔獣というものは想像以上に知能が高い。人のように何かを企み大きな事件を起こしても不思議ではないほどだった。演説を延期してでも対処することは確かに不自然ではない。
スキア様は肩をすくめた。
「もちろんこんなのは時間稼ぎに過ぎない。誤魔化すにも長くて数日が限界だよ。お客人たちをいつまでも軟禁するわけにもいかないしね」
「うんうん、そうだね~。できれば今日か明日には犯人を見つけたいところだよね~」
見つけること自体は提のようだ。頼もしいことこの上ない。
それにしても、王の死という衝撃的な事件が起きた直後によくぞそこまで的確な行動ができたものだ。さすがはスキア様と言わざるを得ない。この国で最も優秀な騎士という評価は間違いないだろう。いずれ最強の戦士になるのは俺だが。
しかし同時に――俺は考えてしまった。
その彼が犯人だったら、カリダ様でさえ打ち破れないかもしれない。彼ならば城内の人間全てを相手取ってさえ生き延びてしまう恐れがあった。
密かにスキア様の顔色を窺う。爽やかな笑みの裏で、彼は一体何を考えているのだろう。
「それで、わたしとお話がしたかったんだよね?」
カリダ様に尋ねられ、スキア様は何故か困ったように笑って頭の後ろに手をやった。
「いやぁ、話というかさ、何か調査に協力できないかと思ってね! 必要なことがあったら何でも言って欲しいなあ、って言いに来ただけなんだ。本当に何だってするよ! たとえ汚れ仕事をする羽目になったとしても、僕は全力で君のサポートをするつもりさ!」
犯人調査で汚れ仕事などする機会はないと思うのだが……。
「わあ、ありがとね~! 何か困ったら相談するよ~」
「本当かい? ははっ、嬉しいよ。正直さ、他人に任せっきりっていうのもスッキリしなかったんだ。ちょっとくらい貢献しなきゃ、エルピネス様の騎士としてあまりにも立つ瀬がないからね」
笑みを浮かべたまま軽い口調で言っているが、瞳には影が差していた。
主を失ったか悲しみか、あるいは犯人調査を妨害するための邪念か――そんなことを考えてしまう自分にわずかな嫌悪感を覚えた。
だが疑うことはやめない。恥ずべきこととも思わない。国を救うために必要な道ならば迷わず進むのが英雄というものだ。
「おっと、これ以上引き留めたら却って邪魔になるかな。それじゃあ頼むよ、花国探偵。君には心から期待しているんだ」
「うん! 気を張らずに待っててね~」
お日様のような笑顔を浮かべ、カリダ様は手を振った。
*
今度こそ犯人調査が始まった。
スキア様と別れ、事件現場であるエルピネス様の寝室に向かう。
部屋の前に到着すると、扉は溶けて崩れたままになっていた。俺はその様子についてカリダ様に説明する。
「エルピネス様のご遺体を発見する前、自分は使用人のカストロニアと一緒にいました。扉を溶かしたのも彼女です」
「溶かしたっていうことは、扉には鍵がかかっていたの?」
「はい。魔術の前に鍵など無力ですが、状況によっては多少の足止めになります。エルピネス様はマメな方なので、部屋にいらっしゃらない時も常に鍵をかけられていました」
カストロのやったように壊せば一瞬だろうが、痕跡を残さず扉を越えるのなら多少の時間がかかるのだ。そこでもたつけば夜警に見つかる可能性が少しは高まる。気休め程度のものだが。
「殺風景」
一足先に部屋に入っていたフィリアーネ様が呟いた。その言葉の通り、寝室にはまともな家具がほとんどなかった。
赤い絨毯、黒い石壁、黒い天井――それにベッドとほんの少しの物と、隣室へ続く扉が一つ。まさに寝るためだけの部屋といった風情だ。窓がなく置かれた灯りも少ないため、廊下と同じく薄暗く、陰気な雰囲気さえ感じる。
ここで王が……エルピネス様が亡くなった。傷一つない安らかな顔をした遺体を思い出す。ベッドの上で眠っていた彼は、平和の日常の中で休息を取っているようにしか見えなかった。
彼の死にはまるで現実感がない。今まさに部屋に戻ってきて、何をやっているのかと尋ねてきそうな気さえした。
俺はベッドに敷かれたシーツに手を触れる。当然だが、既にエルピネス様の温もりは消えていた。
「ねえねえ。これなあに?」
カリダ様がベッドの傍に置かれた木箱を指さす。隣には額縁に入れられた絵画が六つほど並んで立てかけられていた。
フィリアーネ様が答える。
「その箱は皆の部屋にある。保存食とか魔術用具とか、ただそういうのを入れてるだけ。『魔力災害』に備えて」
人の多いところでは数年に一度、大気中に溜まった魔力が爆発現象を引き起こすことがある。それがいわゆる『魔力災害』だ。
「正直、こんな備えが必要なのか疑問だった。でも十日前のアレを見て、警戒すべきなのはよく分かった」
「アレってぇ?」
「ご存じありませんか? 十日前、大きな魔力災害があって王都付近の山が消し飛んだのです」
俺が説明を引き継ぐ。
「付近といってもここまで爆発が届くようなことはありませんでしたが、あの日は大騒ぎになりました。敵襲があったのかと早とちりして軍が編成されたほどです」
それまで魔力災害と言えば大きくても屋敷が一つ吹き飛ぶ程度のもので、それも、家屋などが直接爆発に当たるようなことはごく稀だった。
しかし十日前の災害が常識を塗り替えた。「山が消し飛んだ」というのは少々言い過ぎたが、大きな山の半分以上が抉れたのは事実だ。王都の付近では今も、三日月のように変形した山が爆発の威力を知らしめ、人々を恐れさせている。
もしあんな爆発がもう一度起きたら、城が崩れたり、部屋に閉じ込められたりするかもしれない。そんな時、魔術に利用できるものが部屋にあれば何とかなる。保存食もあれば言うことはないだろう。
カリダ様は木箱の上を指でなぞる。上には埃がたっぷりとたまっていて、触れた指先が黒くなった。
さらに彼女は箱をずらし、床の様子にも目を向ける。箱の下だけ埃がなく、埃のたまった部分との境目がハッキリ見て分かるほどだった。
「こっちの絵画は?」
「知らない」
カリダ様が手に取った石の額縁は、ピカピカとしていて新しい品のようだった。中身の絵画はもやもやとした虹色の霧が全体を埋め尽くした、抽象的な作品だ。
「テクネーニルという画家が描いたものでしょう。エルピネス様が親しくされていた方です。画家と言っても芸術家ではないのですが」
「画家なのに芸術家じゃないの?」
「テクネーニルの絵は魔術用なのです。『紙上の夢』で実体化させることを前提として、爆発する石や剣といった武器を描くんですよ。サクスム兵には彼の絵を愛用する者も多くいます。要するに武器職人ですね」
「もしかしてこれも武器なのかなぁ?」
「そんなことより」
俺たちの会話を遮り、フィリアーネ様が別の方向を指さした。
「あの扉、変」
彼女が言ったのは溶かされた扉のことではなく、隣室へ続く扉の方だった。黒く塗られた木の扉だ。
「確かに妙ですね。何故この扉だけ木でできているのでしょう」
しかしフィリアーネ様はそういうことではない、という風に首を振った。
「もっとよく見て」
「うん。黒い布が貼られてるね」
近づいてよく観察したら俺にも分かった。扉の色とよく似た黒い布が貼られ、見事に溶け込んでいた。
布を剝がしてみると、扉に穴が開いていた。扉を引いて裏側も確認すると、やはり布が貼られている。
「穴の形からして奥から壊されたみたい。王様が空けた穴なら、きっとこんな風に隠さないで修理するんじゃないかなあ」
「待って」
犯人のしわざだろうかと首をかしげた時、フィリアーネ様が再び遮った。
「隣の部屋。扉よりも、もっと変」
彼女の視線を追うように隣室に目を向ける。そこはもはや、部屋というよりは壁だった。石壁によって完全に埋もれている。
「これは……」
「四角形の部屋、壁に埋もれた隣室――それに絨毯」
カリダ様は何かに気づいたようだ。足元の赤い絨毯をめくり、その下の床を露わにさせる。
「うん、間違いなさそう!」
床にはびっしりと魔術文字が書かれていた。ここまで来れば俺にも分かる。
「『開かれた隣室』ですか」
「わあ! ニケくん大正解! よく勉強してるんだね~」
「ええ、まあ。自分は努力家ですから」
「うんうん、えらいね~」
カリダ様が小さな手で頭を撫でてくれる。こんな素直に褒められたのはいつ以来だろうか。ああ、目頭が熱い。
「ねえ。『開かれた隣室』って、何」
「部屋を生み出す魔術だよ~。今いる部屋と全く同じ大きさの部屋をお隣に作れるの!」
「もちろん魔術全書にも載っていますよ。――四角形の部屋の床に魔術文字を刻み、壁際に扉を設置する。扉の奥は石壁で埋めて、扉が開かないようにしておく。その状態で魔術を使い扉を奥へ向かって開くと、本来ないはずの部屋が現れる――簡単に言えばこのような魔術です」
「そんな魔術、勉強した覚えもない。なんで知ってるの」
「自分は全ての魔術を学んでいるので」
「わたしもだよ~」
フィリアーネ様は俺たち二人を見比べて、何故かそっぽを向いた。
「普通、全部の魔術なんて覚えない。二人がおかしい」
一瞬プライドを傷つけたかと焦ったが、彼女は人にどう思われているかなど気にする方ではない。この言葉には別の意味があるだろう。俺は少し考えて、ぽんと手を叩いた。
「そうですね。皆にもこの魔術のことは説明しておいた方がいい。皆が魔術のことを分かっておかないとせっかくカリダ様が推理を披露しても納得させられませんからね」
「そ……そう。それが言いたかった」
フィリアーネ様はぼそぼそと言って、視線をあらぬ方へ彷徨わせた。
「でも、やっぱり変。部屋を作るだけの魔術なんて使って、何の意味があるの」
貧乏な庶民が聞いたらきっと開いた口が塞がらないどころか顎が外れそうな勢いだが、実際エルピネス様もたくさんの部屋を持っている。単に自分の空間を増やしたいという理由でこんな魔術を使ったりはしないだろう。
カリダ様はぽかんと口を半開きにして、上の空になる。わずかな間を置いて、人差し指を立てた。
「安全に寝るためだと思う」
首をかしげる俺たちに、カリダ様が説明する。
「順を追って話すね~。まず、『開かれた隣室』には細かい仕様があるんだ~。一つは『隣室』を生み出すと、部屋だけじゃなくて床の魔術文字も複製されること。それから、魔術文字を消すと『隣室』も消えてしまうこと。複製された方の文字を消しても部屋は消えてしまうの。でもこれは扉を開け放した状態での話。重要なのはここからだよ」
カリダ様は扉を閉じ、床の魔術文字を足で擦ってみせた。
「こうやって、扉を閉めた状態で魔術文字を消すと、『隣室』が消えないんだよねぇ。代わりにどっちの扉の奥にも石壁しかない状態になって、元の部屋と『隣室』にあった繋がりが断たれちゃうんだぁ。まるでお互いが本物は自分だって譲らないみたいに、どっちの部屋も残り続けるの」
魔術全書にもそういう記載があった。魔術の仕様を思い返してみて、だんだん俺にも彼女の言いたいことが分かってきた。
「そして一番大事な仕様があるんだけどね。二つの部屋の繋がりを断った後でこっち側の扉を壊したり、扉の奥の壁を掘ってみたりしても、魔術で作られた『隣室』には絶対にたどり着けないの! 絶対に、絶対にだよ! わたしの世界とは違うところに作られた異空間だからね~。つまりこの仕様を使えば、外からはどうやっても入ることのできない絶対的な『施錠』ができるっていうこと!」
仕様はいくつかあるが、今回大事なのはまさにそこだろう。
「つまり、エルピネス様は本当は『隣室』の中で安全に眠っていて、その間外からは絶対に侵入できなかった――ということですよね? しかし刺客はどういうわけか、『隣室』の中に入れていたと」
「わぁ、すごいすごい! 大正解だよ~!」
「す、すごいですか? まあそうですね、すごいですよね!」
拍手されてまんざらでもない気持ちになっていると、まだ首をかしげていたフィリアーネ様が扉に手をかけた。
「でもそれじゃあ、エルも刺客も『隣室』からも帰ってこれない」
「大丈夫だよ~。戻ってくる方法もちゃんとあるからねぇ」
エルピネス様が安全のために『隣室』で眠っていたのだとすれば、自分を永劫の檻に閉じ込めたりはしないだろう。脱出方法は当然用意されていた。
「一つは魔術文字を書き直す方法。とっても簡単な話で、もう一度同じ魔術を使えば繋がりが戻るんだ~。ただしこれはどっちかの部屋の魔術文字が消えてるとできないの。もう一つは『隣室』の方から扉に穴を開けること。そうすれば魔術文字が消えていようと強制的にこっちの世界と繋がって、同時に『隣室』が消えちゃうの。中にあったものは皆こっちに放り出されちゃうんだ~」
「扉に穴を? それ……」
フィリアーネ様が触れていた扉を見やる。そう、扉には穴が開いていた。
「うん。それと同じだね」
「じゃあ、この傷は……」
「身の安全のためにわざわざこんな魔術まで使ってるのに、王様が扉を壊したまま放置するとは思えない。布をかけて誤魔化してるのも変だよねぇ。だからこれは犯人の仕業なんだと思う。『隣室』で眠っていた王様を暗殺した犯人が、外に出るために扉を壊したんだよ」
フィリアーネ様はようやく納得したように頷く。しかしその直後、話を終えようとするカリダ様を手で制した。
「待って。でもそれ、おかしい。出たいだけなら、魔術文字を書き直せば済む話」
「魔術の仕様を知らなかったんじゃないかなぁ。だから強引な方法で出るしかなかったんだよ。犯人にとっては予期せぬ事態で、こんな証拠を残さざるを得なかった。そういうことだと思うよ~」
傷の残らない毒薬を使った犯人は、間違いなく完全犯罪を目指していた。できることなら痕跡を残さずその場を離れたかったはずだ。それができなかったということは、カリダ様の推理は正しいということだろう。
「どんな方法かは知らないけど、犯人は『隣室』に入るところまでは成功したんだねぇ。でも、毒を飲ませて部屋を後にしようとしたところで、扉が開かなくなってることに気づいた。焦って扉を壊して、何とか部屋を出ることには成功したけど、『隣室』が消えて中にいた王様も吐き出されてしまったから、そのベッドに寝かせることにした――うん、間違いなさそうかなぁ」
「……やっと分かった」
エルピネス様は魔術で作られた部屋の中で殺された。その事実には納得した。
しかし、扉の謎が解けたことに浮かれたのも束の間、俺はすぐ行き詰った。
ここが現場じゃなかったらどうなるというのだろう。犯人への手掛かりをつかんだと思ったが、何か進展したのだろうか。
「すっご~く大きな収穫だね~!」
カリダ様が顔いっぱいに晴れやかな笑みを浮かべて喜んでいる。トンガリ帽子に咲いた花々も、心なしかほんわりと光って見える。日向ぼっこでもしているかのようだ。
「犯人が『施錠』された『隣室』に入っていたのなら、犯人は王様を待ち伏せするか、王様と一緒に『隣室』に入らなきゃいけなかったはずだよね? っていうことは、王様が寝室に入った頃に他の場所にいた人は刺客じゃないって言えるはずだね!」
それは俺にも分かる。一度施錠された部屋に入れないのなら、やはり施錠される前に入ったとしか考えられない。
だが、犯人への手がかりとするには圧倒的に足りない。犯人が自分自身で暗殺を行ったとは限らないからだ。例えばアガペーネ様は昨晩城の外にいたわけだが、それで犯人である可能性がなくなったわけではないのだ。
逆に、刺客となり得た者は城中にたくさんいる。兵士や召使、例のウェントス兵のように、監視下になかった人間全てが疑いの対象となってしまう。どちらから探るにしても道は険しく途方もないものに感じられた。
舐めていたわけではないが、犯人調査というものがこれほど難しいものだとは……いや、舐めていたと言えるのかもしれない。潰すべき可能性の膨大さを知って、初めて眼前の壁の高さを痛感した。
「ねえねえ。王様ってこういうベッドみたいな大きな物をよく部屋に持ち込んだりしてた~?」
「いえ、そのようなことはなかったと思います。少なくとも自分は、そのようなものを運ぶお姿は見たことがありません」
「私も見たことない」
「そっかぁ。ありがと~」
カリダ様はさらに詳しく寝室を調べ始めている。ベッドを押してずらし床を覗く。木箱と同じようにうっすら埃をかぶり、床の状態から見てこちらもしばらく動かされた形跡はない。彼女は一人で頷いているが、これが何を意味するのだろうか。
次に、壁にぺたぺたと手を触れて仕掛けなどがないか確かめる。
「窓も通気口もないんだね~」
「空気の問題はありませんから」
天井に取りつけられたランプの周囲にサボテンのような植物が逆さになって生えている。邪除け草という、人の好むきれいな空気を作ってくれる特殊な植物だ。濁った空気を食べてもくれる。
「ふんふん、なるほどね~」
また意味ありげに頷いている。カリダ様には何がどこまで見えているのだろう。もう既に真実へたどり着くための道に足を踏み入れているのだろうか。
「よ~し。それじゃあ次は、犯人の脱出経路を辿ってみよっか~!」
子どものように小さな拳を掲げてカリダ様が寝室を出ていく。金色の長い髪を揺らす、その華奢な後ろ姿は、いつか見た大英雄の背中のように頼もしかった。