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環楽園の殺人  作者: 凛野冥
第一章:環楽園の殺人
5/40

1/1、1/2「我々は何処から来たのか」

  1/1


 目が覚めた。クリーム色の天井が見えている。そこに、ぬっと舞游の顔が現れた。

「やっと起きたかー」

「……ああ」

 寝起きの上手く働かない頭で、いまの状況を思い出す。環楽園に着いて簡単に中を案内された後、割り当てられた部屋のベッドで僕は眠ってしまったのだったか……。

「うなされてた。怖い夢見てたの?」

「よく憶えてないけど、そんな感じがするな」

 全身が不快にまとわりつくような汗で湿っている。暖房が効き過ぎているのだけが原因ではないだろう。

「あは、子供みたい」

 舞游はころころ笑った。彼女はベッドの(かたわ)らに置いた椅子に座っている。

「元気だな……そうか、お前は道中ずっと眠ってたもんな」

「え? ああ、そうだね」

 腕時計の表示を見ると22:04。そう長く眠っていたのではないようだ。中途半端に眠ったせいでむしろ疲労感が如実(にょじつ)に表れた重い身体を起こし、僕はベッドの上で胡坐(あぐら)をかいた。

「舞游、夕食をつくってたんじゃなかったか?」

「霧余さんったら酷いんだよ。私がちょっとミスしただけで、足引っ張るだけだから手伝わなくていいって」

「お前のちょっとが他の人からしてもちょっととは限らないぞ」

「なんだー? 觜也も私の敵かー?」

 長らく運転しっぱなしだった有寨さんが自室で休んでいる間に、女子三人が夕食を(こしら)える段取りになっていたのだ。僕は料理ができないので暇をもらったのだけれど、舞游も女の子らしい家事なんて得意なはずがなく、お役御免となったらしい。

「で、どうして僕の部屋にいるんだ」

 当然、僕と彼女に割り当てられた部屋は別々だ。客室は有り余っており、同室なのは有寨さんと霧余さんだけで、これは本人達の希望でそうなっている。

「退屈だから遊びに来たんだよ。そしたら寝てるんだもん。寝顔が間抜けで面白かったから起こさなかったけど」

 僕はこの滞在中に機会を見つけて舞游の寝顔を馬鹿にしてやろうと内心で誓った。

「夕食はそろそろできるのか?」

「そうだね。できたら霧余さんが呼びに来るはずだよ」

「寝汗かいたから、先にシャワー浴びたいんだけど」

「大丈夫じゃない? シャワーが済んだころにはできてると思うから、そのまま食堂に来るといいよ」

「そうする」

 この客室はホテルのそれを思わせるが、さすがにシャワールームが各々についていたりはしない。浴場の場所は聞いていたので、僕はキャリーバッグからタオルや着替え類を出して手提げのバッグに入れ、それを持って舞游と共に部屋を出た。彼女はまた調理室に行くつもりらしい。

 三階の廊下である。客室はこの南館の二階、三階に集まっていて、僕と舞游が三階、他の三人は二階の空き部屋を適当に使うことになっている。全員が二階でも良かったのだが、せっかく大きい屋敷なのだから贅沢に使ってしまおうという考えのもとだった。

 南館と云う以上、この屋敷にはもうひとつ、北館もある。来る前に霧余さんが説明してくれていたのを僕は聞き取れなかったが、この屋敷の形は上から見てカタカナの〈エ〉なのだ。正面が南館で、その奥にもうひとつ北館があり、両者を一階分の廊下(これは廊下館と呼ばれているらしい)が繋いでいる。

 南館だけでも大きすぎるくらいなのにそれでも半分に過ぎなかったとは驚いたけれど、北向きの窓から見た北館は南館より小さめだった。横幅はあまり変わらないが、二階建てだ。ただし北館はプライベート用の館らしく、今回僕らが自由に使えるのは南館だけとのことである。

「雪、どんどん激しくなるなあ」

 舞游が窓の外を見ながら興奮気味に云った。外は真っ暗闇なので、この廊下から洩れた明かりで照らされた範囲しか見られないが、その中で踊り狂う弾幕めいた白い結晶と不穏な風の音からも充分に判断はできる。

「わくわくするね、この閉鎖感」

 舞游はスキップでも始めそうな足取りだ。

「でもずっと激しいままでも詰まんないよね。ほら、雪で遊んだりしたいし」

「子供っぽいな」

「なに、觜也」

 ぴたりと足を止めて振り返ると、舞游は僕の肩を人差し指で小突いた。

「もしかしてお兄ちゃん達に感化されて、大人ぶりたくなっちゃったの? やめてよね、私達は子供(わく)なんだから、無邪気にやっちゃうべきなんだよ」

 つい先程悪夢で目覚めたのを『子供っぽい』と笑われた意趣返しのつもりだったのだが、彼女はそんなこと忘却しているらしかった。

「大人ぶるつもりなんてないよ。僕が他人にひょいひょい感化されたりするタイプに見えるか?」

「ならいいけど」

 南館の中央は一階のロビーから三階まで〈ロ〉の形に吹き抜けとなっており、真ん中を一階から二階への階段が、その両端から三階への階段がそれぞれ伸びている。よって客室が並んでいるのも二階では南側、三階では北側とおかしな食い違いがある。一階から二階への階段とロビーの床には豪奢(ごうしゃ)な赤い絨毯が敷かれているのだが、屋敷の装いが全体的に白を基調とした落ち着いたものであるために、これはいささか不似合いな感があった。もっとも僕の平凡なセンスで寸評しては怒られてしまうかも知れないけれど。

 二階の廊下の壁――一階から階段を上ってきた場合に真っ直ぐ対峙(たいじ)することになる位置――には一枚の絵画が飾ってある。描かれているのは服を着ている人だったり半裸の人だったり青い像だったり白い鳥だったり山羊だったり猫だったりと、取り留めがない感じだ。

「これ、何だっけか」

「ポール・ゴーギャンの『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』だね。左上にフランス語でタイトルが書いてあるでしょ。まあこれはもちろんレプリカだろうけど」

 舞游が博識なところを見せる。学校で教わる勉強の大半は毛嫌いしている彼女だが、読書家の一面もあるので、こういった場面では教養を発揮するのだ。

「アヴァンギャルドの前振りになった絵だよ。タイトルからも窺えるけど、宗教的な思想が背景にあってさ、私これ好きなんだよねー。ゴーギャンが反キリスト教的な人物なのも興味深いし」

 絵画にも宗教にも大して明るくない僕では気の利いた返しはできなかった。



 ロビーで舞游とは別れ、僕は玄関扉に向かって左方向――東へ伸びた廊下に這入った。廊下の左手に不規則な間隔をおいて扉が並んでおり、それぞれ『図書室』や『遊戯室』等と書かれたプレートが貼られている。『浴場』は奥から二番目だった。

 脱衣所といい、その奥の浴室といい、簡単な銭湯を思わせる造りだ。この南館は客室が多いところからも、別荘というよりは宿泊施設のような趣がある(洋館であるがゆえに靴を履いたままというのも、ひと役買っているだろう)。浮世から離れるのが目的だのなんだのと聞いていたけれど、どうもちぐはぐな感じがするのは僕だけだろうか。

 あるいは浮世から離れて一風変わった(もよお)しを楽しみたいと考えるような友人が相当数いるのかも知れない。ゆえの客用である南館とプライベート用である北館……そう考えるといくらか得心がいった。

 身体を洗っている間にも外の吹雪は刻一刻と激しさを増しているらしく、窓を殴る風の音が剣呑(けんのん)なふうに響くたび、心細い思いに駆られた。男の叫び声が聞こえたような気がして辺りをキョロキョロと見回してしまった際には、自分が思いの外臆病者と知って情けなくなったくらいである。

 湯船にも浸かろうかと思ったが、そろそろ夕食も始まるだろうと思い直してやめた。ひとりで浸かるには湯船が無駄に広いので、湯を張るのに時間もかかりそうだった。ただ聞くところによると、ひととおりの設備はすぐに使えるようになっているらしい。と云うのも、巻譲家の方で人を雇って、数日前にこの屋敷中の掃除なんかは済ませているとの話だ。至れり尽くせりとはこのことである。事情もよく分からないままに舞游に連れてこられただけの僕なので、少し申し訳なくなってしまう。


  1/2


 浴室を出て廊下を戻ろうとすると、ロビーの方から杏味ちゃんが歩いてくるところだった。もしかして僕を呼びに……? いや、それなら舞游が来そうなものだ。

 声を掛けようとしたが、杏味ちゃんは僕に気付いていないわけもないだろうに、構わず扉のひとつを開けて中に這入っていってしまった。『図書室』だ。もう夕食の時間ではないのだろうか……一体何の用があってこの中に……と不思議に思い、僕も半開きになった扉の隙間から内部に足を踏み入れた。

 多くの書物に占められた空間特有の匂いが立ち込めている。

 年中使われるのでもない別荘の図書室であるにも(かか)わらず、学校なんかのそれにも引けを取らないくらいに立派だった。広さは若干負けているものの、身の丈以上の本棚が(ひし)めいている様から鑑みるに、蔵書数は上回っているに違いない。図書室というよりも書蔵庫と呼ぶ方が適切で、少し窮屈でさえある。

「杏味ちゃん?」

 本棚の間を縫うように探していると、そう広大な室内でもないため、すぐになにやら目当ての本でも探している様子の彼女を発見することができた。

「どうしたの? まさかもう夕食は終わっちゃった?」

 杏味ちゃんはちらと僕を見たが、すぐに隙間なく並べられた本の背を指でなぞっていく作業に戻る。

「まだ終わっていませんわ。もうしばらく掛かるようです。よろしければ、此処(ここ)で少しお話しましょうか」

「それは良いけど……。もしかして杏味ちゃんも霧余さんに追い出されたの?」

「そう云っても差し支えはありませんわね」

 生粋のお嬢様であるところの杏味ちゃんが箸以上に重いものを持ったことがない類のそれなのか、はたまた女性の嗜みとされる諸々については英才教育でみっちりたたき込まれている類のそれなのか……礼儀作法がしっかりしているところから後者かと推測していたけれど、料理に関しては前者だったということか。霧余さんが想像以上に職人気質であるという可能性もあるが。

「私は彼女とは馬の合わないところがありますから」

 そう云えばそんな話もあった。ならば料理の技術云々(うんぬん)が問題というわけでもなかったのだろうか。……よく考えてみると、舞游、霧余さん、杏味ちゃんと、およそ協調性の見られない三人である。舞游以外は漠然としたイメージだけれど。

「どういうところが合わないの?」

「ここで正直に述べますと心象を害しそうです。なので自粛しますわ」

「ああ……僕もちょっと無遠慮な質問をしちゃったね」

「お気になさらず」

「有寨さんはどんな人なの? 僕は舞游の付き添いで来たから、他の人達については全然知らないんだけど」

「有寨先生は尊敬に足る人物です。あの人の生徒であることこそ、私が唯一誇れる事柄です」

「たしかに言動の端々から、大人だなって思わされるよ」

 杏味ちゃんはキッと僕を睨んだ。

「そんな月並みな言葉では追い付きませんわ。既存の言語で表し得るような人ではないんです」

 その高校一年生の女の子らしからぬ剣幕に、僕は身が竦んでしまった。そこまで凄まれるほどの失言だったか疑問だけれど、有寨さんに関してはお為ごかしのような返答はしない方が良さそうだ。

「ごめん」

「いえ、構いませんわ」

 杏味ちゃんは元の人形然とした顔つきに戻って、また本棚に仕舞われた書物の群れをなめ回すようにチェックしていく。

「有寨先生へは私の両親も共に厚い信頼を寄せてますのよ。そうでないと、私を単独で任せるはずがありませんから」

 なるほど、そのとおりである。富豪の娘が親の目の届かない場所――それも、舞游が云うところの〈吹雪の山荘〉に行くなんてことが許可されたのも、有寨さんの力によるものなのだろう。そこから彼がただの元家庭教師という枠に収まらないとは分かる。

「ですが有寨先生の捉え方として、それでも両親のそれは過小評価ですわ。私、その事実にほとほとうんざりしますの。そもそも有寨先生を俗人が下らぬ物差しで測ろうという行為自体、(はなは)だ傲慢ではなくて? 有寨先生はあのとおり自分の能力をひけらかすような品のない真似はしない人ですから、その(おご)りを正すことも為さらないのですが、それが私には歯痒くて仕方ありません」

 淡々と語る杏味ちゃんだが、僕は少し怖れを抱き始めていた。単なる尊敬と形容するには、彼女の様子はいささか異なる。まるで信者のような有様ではないか……。

 その時、杏味ちゃんが一冊の本を手に取った。探していたものが見つかったようだ。彼女はその表紙を僕に向けて示した。

『ナグ・ハマディ写本』と、そう銘打(めいう)たれている。聞いたこともない題名だ。

「グノーシス主義というものをご存知ですか」

「いや、知らないな」

 杏味ちゃんはさして残念そうでもなく、視線を本に落とすとページをパラパラとめくった。

「唯物的なこの世界、さらにはそれを創造した神を悪と見なし、排撃する考え方を主として据えています」

「反宗教的な思想ということ?」

「いえ、グノーシス主義が宗教のいち形態ですのよ。主だったものはキリスト教を基にしていたり、そうではなくてグノーシス主義こそがキリスト教の基盤となったのだと主張されたりもしています。ですが造物神を蔑視するグノーシス主義を、キリスト教は異端思想として排斥(はいせき)しましたの」

「……でも神を否定するのに、宗教として成り立つの?」

 突然キリスト教だのグノーシス主義だのと云われたところで僕は困るだけなのだが、黙っているのもまずいのでそう問うてみた。

「キリスト教正統派の教えでは、この世界を創造したのは旧約聖書の神です。グノーシス主義はこの神を否定しているに過ぎませんわ。彼らの信奉の対象は造物神とは別の、この世界の外、またはその上位世界であるプレーローマ、そしてそこにいる至高神なんですの」

 造物神と至高神が別にいる……つまり多神教なのだろうか。ならば一神教であるキリスト教と相容(あいい)れなさそうとは僕でも想像がつくが……。

「この世界は誤謬(ごびゅう)で満ちています。ですが神が万能であるならば、神の創造した世界がこんな醜悪なものになるはずがありませんわね。そこでグノーシス主義はその矛盾に、既存の諸宗教が伝えている神が偽物であるという答えを見出したのです。グノーシス主義は物質と、それを創造した造物神を悪とし、真実は物質や肉体に囚われないイデアの領域にこそあるとしました」

「……そのグノーシス主義に、杏味ちゃんは関心があるの?」

「ええ。だってこの世界は下らなくて堪らないんですもの。結鷺さん、そうは思いません?」

「うーん……そりゃあいくらか不満はあるけど、真剣に思い悩むほどじゃないかな」

 世界について語るなんて気恥ずかしい思いがして、僕はお茶を濁した。

「そうですのね。私はこの世界を心底軽蔑していますわ。十六年生きただけで、すっかり底が知れてしまいました。ですから充満世界――プレーローマに憧れます。そこには真理と、永遠がありますのよ」

 杏味ちゃんはわずかに微笑んだ後、腕時計を見て「そろそろ行きましょう」と云った。僕は呆気にとられていたので少し反応が遅れたが「ああ、そうだね」と無理に微笑んだ。

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