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環楽園の殺人  作者: 凛野冥
第二章:結鷺觜也の黙示録
28/40

6/2「王なき世代に充満を」

  6/2


 僕がバーに戻ると有寨さんは先程と同じソファーに腰掛けていたが、もうひとりは霧余さんではなく杏味ちゃんに代わっていた。彼女はソファーではなく床に座っていて、有寨さんの腰に抱きつくような格好だった。僕が這入ってくるのを見ても立ち上がろうとはせず、有寨さんの腰に回していた腕は解いたものの、その膝の上にしな垂れかかったままでいる。

 奇妙な様子だったが構う気力もなく、僕はやはり先程と同じソファーに座った。テーブルの上に置かれたままだったグラスに自分で白ワインを注ぎ、一気に飲み干す。有寨さんと杏味ちゃんはやはり余裕そうな面持ちで僕を見ている。

「僕は頭が狂っていて、皆それに付き合ってくれてるだけじゃないんですか」

 革張りのソファーに深く沈み込んで、僕は縋るように言葉を発した。

「ねえ、そうなんでしょう? それならお願いです、もうやめてください。僕はおかしくなってしまってるんだって、教えてください。世界のすべてが狂ってしまったなんて、とても耐えられない……。僕ひとりが狂ってるんだと知れた方がずっとマシです……」

「どうやらまだ受け入れられていないようだね」

「当たり前ですよ……。こんなの、酷い悪夢だ。夢に決まってます」

「また思ってもないことを云う。觜也くん、君には自分の認識を蔑ろにするきらいがあるね。褒められたことじゃないよ」

 有寨さんが云うと、その膝の上で杏味ちゃんがくすくすと笑った。

「だけれど、自分が狂ったのだという可能性と悪夢を見ているのだという可能性を觜也くんが並べて述べたのは面白いことだ。なぜなら狂気と夢との間には多くの一致が見られ、これに関する研究は昔から続けられている」

 杏味ちゃんが「――乱心する者は覚醒中に夢見る者である」と口を挟んだ。

「それはカントの言だね。クラウスは『狂気とは感覚が目覚めている間の夢である』と述べ、ショーペンハウアーは夢を短期の狂気と呼んで狂気を長期の夢と呼んだ。シュピッタによれば狂気と夢との共通点とは一に自己意識が停止、そこまでいかなくとも鈍化すること……これによって状況そのものが認識できなくなり、驚くことが不可能になり、道徳意識の欠如が生じる。二に感覚器官の知覚に変化が起きること……すなわち夢においては知覚が低下し、狂気においては一般にそれが大変高まる。三に単に連想や再現の法則のみによって表象が互いに繋がること……自動的な表象系列が形成され、表象間の関係が不均等となり、そしてそこからあらゆる事柄が帰結するようになる。四に人格、そして時には性格的特異性の変化、場合によってはその逆転……倒錯が起こることだ。また、夢における素早い表象の流れは精神病における観念奔逸(ほんいつ)と呼応する。両者において時間の尺度はまったく欠如し――」

「分かりましたっ」

 僕は強引に有寨さんの言葉を中断させた。これ以上聞いていたら、本当におかしくなってしまいそうだった……つまりそれは……。

「僕は、狂ってなんていません。狂気に支配されてなんていないし、これが夢じゃないことだって分かってます……」

 いくら非現実的なことが起こっていようとも、僕のこの実感は紛れもない現実だ。舞游に乱暴を働いてしまったことも、それで彼女を傷付けてしまったことも、それを僕が堪らなく悔いていることも、これ以上ない本当の出来事。それを認めないわけにはいかない。

「……貴方達はどうして、こんなことをしているんですか。殺人リレーによって〈ウロボロスの蛇〉的に〈メビウスの帯〉をつくり出し、センターラインを切断することでひとつの環にし、プレーローマとするなんてことを」

 訊ねている最中に、いま自分がしていたことが僕の思い付きを喚起した。

「現実逃避ですか? 僕もグノーシス主義について少し勉強しましたが、その内容は大変に厭世的なものでした。なにせ物質と肉体、それらが構成するこの世界を悪と見なして排撃し、ここではない上位世界に帰還することを救いと捉え、本懐(ほんかい)とするんですから。なら貴方達もこの人間社会に嫌気が差して、逃避したいと考えているんじゃないですか?」

 杏味ちゃんがこの世界を軽蔑しているとは、以前に彼女自身の口から聞いた。上流階級の家に生まれたからこその厳しい教育が苦痛だったのか、あるいはなんでも与えられる生活だからこそ張り合いがなくなってしまったり自らの存在意義に疑いが兆してしまったりしたのか、あるいはもっと別の理由があるのか……それは分からないが、きっと僕には想像のつかない苦悩があるのだろう。他者から見て恵まれているからといって当人がそれを幸福に感じているとは限らないし、そういった貧富に関する以外でも、誰がなにに苦しんでいるのかなんて容易に計り知れるものではない。それでも各々にとって各々の苦悩は切実で、逃げられるものなら逃げたいとは万人が抱く望みだろう。

「貴方達がやったことは、云ってしまえば集団自殺だ。殺し殺される順番を定めて、それに則った殺人リレーをやるなんて心中と変わらない。そもそも肉体を蔑視し、それを脱ぎ去るときにこそ真実を得られるなんてグノーシス主義の考え方が甚だ自殺願望的で病質的な――」

「待つんだ、觜也くん。そうやって物事の見方を一義的に決定するのは、冴えたやり方じゃないよ。どうやら君は誤解をしているようだ。グノーシス主義はそんな精神的に不健康な思想とは違う」

 有寨さんはまた淡々と語り始める。僕の考えなんて取るに足らない子供のそれとでも云わばんばかりに。

「前にも説明したとおり、あらゆる宗教、哲学、思想から派生したグノーシス主義はそれゆえ、柔軟性に富んでいる。だから君の見方がひとつの側面として正しいことは否定しないよ。たしかに反世界的、反宇宙的な思想内容は社会批判として機能し得る。けれどそれを短絡的に本質と結び付けるのは誤りだ。グノーシス主義が最盛を迎えた二世紀は〈人類史上最も幸福な時代〉だったと話しただろう? この中で〈逃避〉が目的とされていたとは考えにくい。グノーシス主義は純粋に知的な運動だったのさ」

 思い上がりだ、と僕は内心で毒づいた。

「分かりませんね。世界を蔑視するなんていう病んだ思想に純粋性なんてものがあるとは、とても思えません。グノーシス主義に憑りつかれた人間は皆、反社会的な姿勢に酔いしれ、自分達が高度に知的な人間であると思い込んでいるだけじゃないですか」

「そうかな? グノーシス主義は社会的に見ると農村部よりは都市部の現象だった。ヘレニズム時代の地中海とオリエント世界では哲学と宗教の混合は当たり前だったとも前に説明したけれど、これも都市部において顕著だった。強大なローマ帝国の支配の中に合併されて政治的な禁治産宣言を下された東方地中海世界……その都市部の知識層が社会的方向性と自己同一性の喪失の危機に直面していたのは想像に難くない。グノーシス主義とは、そんな彼らを主要な担い手とする政治的、社会的なプロテクトだったんだよ」

 雪崩のように押し寄せてくる有寨さんの言葉が僕の脳内を埋め尽くしていく。こんな人に僕が太刀打ちできるわけないと、脳に物理的に教え込まれているみたいに。

「で、ですが――」

「だからグノーシス主義者の自己呼称のひとつは〈王なき世代〉だった。分かるかい? これは〈逃避〉なんてものではなく、むしろ〈叛逆(はんぎゃく)〉の性質と云うべきだ。社会が豊かであるときこそ、人は思想や哲学、宗教といった文化的な事柄を必要とする。世の中が乱れ、戦争が絶えないような悲惨な時代の方が、人々は命を繋ぎ止めるのに精一杯で思索に浸ることなんてしないものさ。さて、じゃあ現代はどっちだい? 俺達がいま生きているのは、どちらの時代だい? 分かるよね。〈王なき世代〉とは現代のこの国で生活する俺達を指し示すのに実に絶妙だ。俺達は恵まれている。それゆえに、決して満たされていない」

 いつだって淡々と話すのみの有寨さんだが、いま、彼の喋り方は徐々に熱を帯びてきていた。明らかな変化があるわけではないのだが、感覚的にそう分かるのだ。彼の本心というようなものが、初めて垣間見えようとしているかのような……。

「俺は都会に出て、その認識をさらに強めたよ。群としてしか処理されない社会のなかで個の獲得に苦しむ人々、あるいは既に個を喪失してしまった人々……その全員が憐れで仕方なかった。人間は退廃(たいはい)している、そう確信した。俺もまた廃れ、渇いた。自らの存在が不確かになっていくのを感じながら、満たされることのない日々のなかで緩やかに死んでいった。けれどそんなの、耐えられるか? 耐えられないに決まっている。俺は死んで堪るものかと切に思い、そしてなにもかもが満たされた充満世界……〈人間の真実〉に至ることを決意した。真実を獲得しようとするこの姿勢こそ、グノーシス主義の本質だ。俺はグノーシス主義……特にキリスト教グノーシス主義ウァレンティノス派の内容を基盤としつつ、この姿勢で以て自らの思想、哲学、理論を練り上げた。グノーシス主義とは元々あらゆる宗教、哲学、思想を母体としてそこに寄生するものだ。ならば逆も然りだろう。グノーシス主義は俺の思想に取り入れるにあたって誂え向きな性質を持っていたのさ。だから〈環楽園理論〉とは、現代に甦ったグノーシス主義と云える。あらゆる思想を包括したグノーシス主義をさらに取り込んだそれによって、俺達はついに真理に到達したんだよ。これまで誰にも成し遂げられなかった救済を俺達は成したんだ」

 ……つまりグノーシス主義馘杜有寨派……いや、もはやグノーシス主義の枠内に収まらない、真の理論……それがこの環楽園理論……?

「少し、話しすぎてしまったね」

 有寨さんはそう云って肩をすくめ、ウイスキーを飲んだ。

 ……僕は彼の弁舌(べんぜつ)を聞かされた余韻めいたもののせいで、身動きひとつ取れなくなっていた。反抗意識は消え去っていた。だってそうだろう。こんな途方もない話を聞かされて、しかもその実現を目の当たりにさせられて、僕になにができるというのだ。僕にはなにも人に語って聞かせられるような主義も思想も哲学も持ち合わせがない。有寨さんはあまりにも、あまりにも遠く離れている……それこそ現世と上位世界(プレーローマ)との隔たりのように。

 見ると、杏味ちゃんは恍惚とした表情で有寨さんを見上げていた。そう、彼女は有寨さんに心酔して、彼に付き従っているのだ。いや、心酔なんて言葉では足りない。彼女は有寨さんを崇拝している。プレーローマにおいて、オグドアスの一員であるプロパトールこそが原父であり至高神だが、それがまさに有寨さんなのだ。彼は神なのである。杏味ちゃんが身も心も彼に捧げるのは、なんらおかしいことではなかった。彼のためなら彼女は喜んで誰でも殺すし誰にでも殺されるだろう。それで彼のつくる楽園の一員――アイオーンになれるというのなら尚更だ。彼女にとってそんな光栄なことはない。

 怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。舞游が云っていたとおりだ。僕はいまこそ、有寨さんという人の本当の恐ろしさを知った。こんな絶対的な人の前では、他の有象無象に為すすべなんてひとつもない。舞游が彼の命令に背くことができずに殺し殺されることを受け入れるしかなかったのも当然であった。この人に逆らう以上に恐ろしいことなんて、この世のどこを探したって見つけられないだろう。

「先生、じゃあ私はそろそろお(いとま)させていただきますわ」

 杏味ちゃんはそう云って立ち上がると、有寨さんに接吻した。舌を絡ませ、僕がいるのなんてお構いなしにいやらしい音を立てたけれど、なぜか気品は失われていなかった。しばらくして長いそれを終えた彼女は、僕になんて一瞥もくれずに部屋を出ていった。

「俺達も今晩はここまでとしようか」

 有寨さんはグラスに残っていたウイスキーを飲み干す。僕もこれ以上こんな異常な〈授業〉を続けられたくはなかったけれど、ひとつだけ問うことにした。

「僕の役割は、一体なんですか? 貴方はなぜ、僕なんかを環楽園に迎えたんですか?」

「觜也くん、君はまだ環楽園理論の全貌を把握してはいない。環を、まだ半分しか辿っていない」

 半分……つまり〈八〉で構成される環を〈四〉までしか来ていない……それは単に日数のことだけを云っているのではないようだった。

「環楽園理論を完成させるんだ、觜也くん。そのときには、なにもかもが自明となるだろう」

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